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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
風の巻
74/165

木魂

 ――遠く遠く、小さくなっていく佐々木小次郎の背中を見送る武蔵は、思わず笑みを浮かべた。


 ほんの少し前まで小次郎が立っていた場所に、今は武蔵が立っている。


 あれほど捜しても見つけられなかったのは、小次郎が自分の居場所を離れ、他を捜し回っている間に、武蔵がそのすぐ背後の木陰に隠れていたからだ。


「まあ、これで良かった」と武蔵は思った。


 人の命に興味を持ち、誰かが命懸けで繰り広げる勝負をただ見物するだけで満足する――それを「後学のため」とか言い訳しつつ、良い顔をしていようとする卑怯者もいる。


 だが、そんな手には乗らない。


 武蔵はおかしさを感じた。

 小次郎がこちらを侮れない敵だと認め、助太刀を頼むかどうか尋ねてきたのは、もしかしたら「情けをかけて武士の助けを貸してくれないか」と考えていたのかもしれないが、武蔵はそんな甘い言葉には乗らなかった。


「生き延びる、そして勝つ」


 そう考えれば助太刀を望むこともあるかもしれないが、武蔵には勝てる自信もなければ、明日を迎えることさえ期待していなかった。


 いや、正直に言えば、そんな自信は持てなかった。


 密かに調べたところによると、今回の敵は百名を超える大軍らしい。


 いかなる手を尽くしてでも、自分を討ち取ろうとする状況にあるのは間違いない。――そんな中で生き延びる策を考える余裕などあるはずもなかった。


 それでも、武蔵の心にはかつて沢庵和尚が言った言葉が深く刻まれていた。


「真に命を愛する者こそ、真の勇者である」


「この命を――」


 そう思いながら、武蔵は五体のすべてで今も命を感じ取っていた。


「二度と手に入らないこの人生を――」


 しかし、命を愛するというのは、ただ長生きしようとすることとは違う。


 無為に過ごすことではない。


 この二度と得られない命との別れにどう価値を持たせるか――捨てるにしても、堂々とこの世に光を放つ命であるべきなのだ。


 問題はそこにある。


 何千年、何万年と続く時間の中で、人間の一生の七十年や八十年はほんの一瞬にすぎない。


 たとえ二十歳で命を落としても、人類の歴史に永遠の光を残すような命こそが真の長命であり、命を真に愛した者といえるだろう。


 人生におけるあらゆる事業は、創める時が重要で難しいとされているが、命に関しては終わる時、捨てる時が最も難しい。


 それによってその生涯全体が決まり、命の長さや意味も決まるからだ。


 だが、命の愛し方も人それぞれだ。


 町人には町人なりの命の持ち方があり、侍には侍なりの命の持ち方がある。


 今の武蔵にとっては、侍としていかにしてこの命を潔く捨てるかが問われていた。



 さて――


 これから一乗寺下り松を目指そうとするならば、武蔵の前には三つの道があった。


 ひとつは、佐々木小次郎が駆け抜けていった雲母きらら越えの叡山道。この道が最も近く、一乗寺村までの道は平坦で、ほぼ本道と言っていいだろう。


 もうひとつは少し遠回りになるが、田中の里を経由して高野川に沿い、大宮大原道を進んで修学院を抜けて下り松に至る道。


 そして最後の道は、今立っている場所から東に真っ直ぐ進み、志賀山を越えて裏道を通り、白河の上流から瓜生山のふもとを歩いて薬師堂あたりを目指す道取りである。


 どの道を選んでも、下り松の追分はちょうど谷川が合流するような場所にあるため、距離に大きな差はない。


 しかし――いずれの道を選んでも、大軍にぶつかる可能性が高い状況で、少人数での戦いを挑む武蔵にとっては、その選択は生死を分ける重要なものだった。


 ――道は三つ。

 ――どう行くべきか。


 慎重に考えそうな場面だが、武蔵はやがて身軽に動き出した。彼の影には迷いの色がない。


 ひらり――ひらり――と木々の間や小川を越え、崖や畑を軽快に跳び越えながら、月の下を足早に進んでいく。


 その選んだ道は、一乗寺とはまったく反対の方向へ向かっていた。


 三つの道のどれも選ばず、狭い小道を抜け、畑を横切り、どこに向かっているのかさえ分からない。


 武蔵はわざわざ神楽ヶ岡のすそを越え、後一条帝の御陵の裏手に出た。


 そこは深い竹藪が広がり、竹の密林を抜けると山気をまとった川が月光を裂いて流れている。


 すぐ近くに大文字山の北の肩が迫ってきていた。


「……」


 黙々と、武蔵は山のふところへ登っていく。


 振り返ると、さっき通り過ぎた樹立の向こうに銀閣寺の屋根が見えた。


 さらに山道を登り続けると、東山殿の泉が足元の木陰に隠れ、加茂川の白い流れがはるか眼下に見えてきた。


 下京から上京まで、両手を広げて抱えきれるような展望が広がっている。


 この場所から、一乗寺下り松はあのあたりだと、遠く指し示すことができた。


 大文字山、志賀山、瓜生山、一乗寺山――と三十六峰を横切り、叡山の方へ進めば、ここからそう時間をかけずに目的地を山の上から望むことができるだろう。


 武蔵の戦略は、すでに胸の中で決まっていたようだ。


 彼は桶狭間での信長や鵯越の戦法を参考にして、あえて選ばれがちな三つの道を捨て、歩くのも困難なこの山道を登ってきたのだ。


「……やっ、お武家さん」


 突然の人声に驚いた。


 道の上から人の足音が聞こえたかと思うと、狩衣かりぎぬをまくり上げ、松明たいまつを手にした男が現れた。


 彼は公家屋敷の奉公人らしく、武蔵の顔を松明の火で照らし出そうとしていた。



 烏丸家の侍の顔は、自分が持っている松明たいまつの油煙で黒く煤けていて、鼻の穴まで汚れていた。


 狩衣かりぎぬも夜露や泥でひどく汚れている。


「や? ……」


 出会い頭に驚いたような声をあげたので、不審に思った武蔵は、その顔をじっと見つめた。


 すると、相手は急に少し恐怖を感じたようで、低く頭を下げて言った。


「あの、あなた様は……もしかして、宮本武蔵殿ではございませんか?」


 武蔵の目が、松明の赤い光の中で鋭く光った。警戒するのは当然だった。


「宮本殿でございましょうな?」


 男は重ねて尋ねたが、武蔵の黙っている険しい表情に圧倒されたのか、腰が浮ついていた。


「誰だ? お前は」


「はい」


「何者だ?」


「はい……烏丸家に仕える者です」


「何? 烏丸家の者が、こんな夜遅くに山道を歩いているとは何事だ?」


「ア……では、やはり宮本殿でございますな」


 そう言うと、男は振り返ることなく山を駆け下りていった。


 松明の火が赤い尾を引きながら、あっという間に麓へと沈んでいった。


 武蔵は何かに気づいたように足を速め、山伝いに志賀山街道を横切り、山の中腹を横へ横へと急いで進んだ。


 一方、先ほどの侍は銀閣寺のそばまで駆け降りると、片手を口に当てて叫んだ。


「おおい、内蔵殿くらどの、内蔵殿!」


 呼びかける声に応じたのは、同僚ではなく、烏丸家に長らく滞在していた少年の城太郎だった。


 遠く、西方寺の門前あたりから声が返ってくる。


「なんだい――おじさん――」


「城太郎か?」


「そうだよ」


「早く来い!」


 すると、再び遠くから声が返ってきた。

「行けないよー。お通さんがここまで来たけど、もう歩けないって言って倒れちゃったから、行けないんだ!」


 烏丸家の侍は舌打ちしつつ、さらに大きな声で叫んだ。

「早く来ないと、武蔵殿が遠くへ行ってしまうぞ! たった今そこで武蔵殿を見かけたんだ!」


 しかし、今度は返事がなかった。しばらくすると、彼方から二つの人影が寄り添うようにして急いでこちらへ向かってくるのが見えた。病人のお通を支えながら城太郎がやってきたのだ。


「おお」

 松明を振って急かす侍。しかし、病人のお通はすでに息が荒く、遠くからでもそれが聞こえるほどだった。


 近づくにつれ、お通の顔は月よりも青白く、痩せた手足に旅装があまりにも不自然に見えた。しかし、松明のそばまで来ると、その頬は急に紅潮していた。


「ほ、本当ですか……今おっしゃったのは?」

「本当だとも。たった今だ」

 男は力を込めて言い、

「早く追いかければ会える。急げ、早く!」


 城太郎は困惑し、

「どっちへ行けばいいんだ? ただ急げって言われてもわからないじゃないか!」

 病人と慌て者の間で一人苛立ちながら、どうしたらいいのか考えあぐねていた。



 お通の体が急に快方に向かうはずもなく、ここまで歩いてきたのは、彼女の悲壮な覚悟があってこそのことだった。恐らく、あの晩、館の病床に伏してから、城太郎から武蔵の話を詳しく聞き、

「武蔵様が死を覚悟しているなら、私が病を抱えてこうして生き長らえる意味もない」

 と決意したのが始まりだったのだろう。そして、ついには、

「死ぬ前に一目でも会いたい」

 という強い思いに駆られて、頭に当てていた水手拭みずてぬぐいを外し、痩せた足に草鞋わらじを履かせ、誰が止めようと耳を貸さず、ついに烏丸家の門をよろよろと這い出たのだろう。


 そこまでの一心を見ては、止めようとした烏丸家の人々も、

「放っておけない」

 と、この病人の最後の望みを叶えさせるために尽力したのは容易に想像できる。また、もしかすると光広卿の耳にも届き、この儚い恋の行く末に対して、館から何らかの指示があったのかもしれない。


 いずれにせよ、お通がここまでたどり着くには、烏丸家の人々が武蔵の行方を追って、あらゆる方角に手分けして捜索していたようだった。果たし合いの場所が一乗寺であることは分かっていたが、広い一乗寺村のどの辺りかは明確ではなかった。そのため、武蔵が現場に到着してからでは手遅れになることを恐れ、捜索者たちはそれぞれ一乗寺方面に向かう道で奔走していたのだろう。


 しかし、その努力が実を結び、ついに武蔵の姿を見つけたのだ。あとはお通の一心にかかっていた。


「大丈夫? お通さん、大丈夫かい?」

 城太郎が心配そうに声をかけても、お通は口を開かなかった。いや、開けなかったのだ。死を覚悟して無理やりに歩き続ける病身は、口の渇きに苦しみ、荒い呼吸で鼻腔が痛む。蒼白な額には、冷たい汗が流れていた。


「お通さん、この道だよ。この道から山の腹を横に進んでいけば、自然と叡山えいざんの方へ出る。もう登りはないから楽になるよ。少し休んだらどう?」

「……」

 お通は無言で首を横に振った。一本の杖の両端を二人で持ち合い、長い人生の苦難をこの瞬間に凝縮するような息切れと戦いながら、必死に山道を二十町ほども進んだ。


「お師匠様……武蔵様……」

 時折、城太郎が精一杯の声を絞り出して前方に呼びかける。それが、お通にとっては何よりの励ましだった。しかし、ついにその力も尽きたようで、お通は

「城……城太さん……」

 と言いかけると、杖を放し、沢の石や草むらの中に力なく崩れ落ちた。


 細い指が口と鼻を押さえたまま肩が震えている。

「やっ! 血を吐いたんじゃないか……お通さん! お通さん……」

 城太郎は泣きそうになりながら、彼女の薄い胸を抱き起こした。



 お通は地面に俯せたまま、かすかに首を振った。


「どうしたの? どうしたんだい?」

 城太郎はおろおろしながら彼女の背中を撫で、

「苦しいの?」

 と尋ねたが、お通は答えなかった。

「そうだ、水が欲しいのかい?」

 彼女がかすかにうなずくのを見て、城太郎は

「待ってて!」

 と言い残し、辺りを見回した。ここは山と山の間のゆるやかな沢道で、水の音が草や木を潜り抜けて彼に「ここにある」と教えているかのようだった。


 遠くまで駆ける必要もなく、すぐ近くに草の根や石の下から湧き出る泉があった。城太郎はしゃがみ込んで両手で水を掬おうとした。澄んだ水には沢蟹の影も見えるほどで、月は傾いていたものの、水に映る空は実際に空を仰ぐよりも美しく見えた。


 病人に持って行くよりも、城太郎はふと自分が先に飲みたくなったのだろう。少し位置を移し、水際に膝をついて家鴨のように首を伸ばして水面に口を近づけた。しかし――

「……あッ?」


 大声をあげたまま、彼の目は何かに釘付けになり、体は栗の実のように縮こまった。水の向こう岸から数本の木の影が縞模様のように映っており、その端に人影が見えたのだ。水に映っていたのは武蔵の影だった。


 びっくりしたことは間違いないが、それは現実に対する驚きではなく、心に抱いていた武蔵の姿が突然水面に現れたような感覚だった。恐る恐る目を水面から向こうの木陰に移すと、今度は本当に驚いた。そこには実際に武蔵が立っていたのだ。


「おっ、お師匠様っ!」


 静かな水面に映っていた月雲の空は、一瞬にして黒く乱れた。水の縁を通って行けばいいものを、城太郎は突然飛び込んで水の中を駆け渡り、ばしゃばしゃと水をかき分けながら武蔵に飛びついた。


「いた、いた!」

 捕まえた武蔵の手を夢中で引っ張りながら、

「待て」

 と武蔵は言い、顔をそむけて指で瞼に触れた。

「あぶない、あぶない。少し待て、城太郎」

「いやだ、もう離さない!」

「安心しろ。お前の声が遠くから聞こえたので待っていたのだ。それより早くお通さんに水を持って行ってやれ」

「ア、濁ってしまった……」

「向こうにもきれいな水が流れている。これを持って行け」


 武蔵は腰に下げていた竹筒を渡すと、城太郎はその手を引っ込め、じっと武蔵の顔を見て言った。

「お師匠様……お師匠様の手で汲んで行っておやりよ」



「……そうか」

 武蔵は城太郎の言葉に素直に頷き、自分で竹筒に水を汲み、お通のもとへ持っていった。彼女の背を抱え、手ずから水を飲ませてやると、城太郎が傍らで言った。

「お通さん、武蔵様だよ、武蔵様がいるんだよ。……分かる? 分かる?」


 お通は喉に水を通すと、少し胸が楽になったようで、ほっと息をついたが、体はまだ武蔵の腕に凭れたまま、うっとりと遠くを見つめていた。


「おいらじゃないんだ、お通さん。お通さんを抱いているのは、お師匠様なんだよ」


 城太郎が繰り返すと、お通の目には湯のような涙がたぎり、その眼差しはだんだんと曇り、やがて頬を伝ってふたすじの涙が白い珠のようにこぼれ落ちた。

(……分かっています)

 とでも言うかのように、お通は小さく頷いた。


「ああ、よかった」

 城太郎は無性に嬉しくなり、わけもなく満足感に包まれた。

「お通さん、これでいいだろう。もう、これで気が済んだだろう? ……お師匠様、お通さんはあれからどうしても、もう一度武蔵様に会いたいって言って聞かなくて、病人のくせに、無理ばかりしてしまうんだ。こんなことを度々やってたら、本当に死んでしまうよ。お師匠様からよく言っておくれよ。おいらの言うことなんか聞かないんだから」


「そうか」

 武蔵はお通を抱えたまま、

「みんなわしが悪いんだ。わしのせいで、お通さんに無理をさせてしまった。これから、お通さんにもよく話して、体を丈夫にするように説得するから……城太郎」


「何?」

「ちょっとの間、どこかへ離れていてくれないか」


 城太郎は不満そうに口を尖らせ、

「どうして? どうしておいらがここにいちゃいけないんだ?」

 と反発したが、お通が頼むように言った。


「城太郎さん……そんなこと言わないで、ちょっとあちらへ行っていてください。お願いですから」


 お通の頼みを受けると、城太郎は抵抗する気力をなくし、

「じゃあ……仕方がないから、この上に登っているよ。用が済んだら呼んでおくれ」

 と、崖の杣道そまみちを見上げてがさがさとよじ登っていった。


 少し元気を取り戻したお通は立ち上がり、鹿のように登っていく城太郎の影を見送りながら、

「――城太さん、そんなに遠くへ行かなくてもいいんですよ」

 と声をかけたが、城太郎は聞こえたのかどうか返事をしなかった。


 お通も今さらそんな心にもないことを口にし、武蔵に背を向けている必要もなかったのだが、城太郎が離れて二人きりになると急に胸が詰まり、何を話し出せばよいのか分からなくなった。自分の体さえ持て余してしまうのだった。


 羞恥心は、健康な時よりも病んでいる時の方が、生理的に強く感じられるのかもしれない。



 いや、羞恥を感じていたのはお通だけではなかった。武蔵もまた横を向いていた。一方は背を向けて俯き、もう一方は空を仰いで――これが幾年も会おうとしては会えなかった二人の、偶然に許された一瞬の寄り添いであった。


「…………」

 どう言えばいいのか。

 武蔵には、その言葉が見つからなかった。どんな言葉を使っても、自分の心を正確に表すには足りないように感じられた。


 千年杉が風にすさぶ暗い夜明けのことが、瞬時に胸に蘇る。あれから五年以上の歳月が過ぎ、お通が歩んできた道のり――その純粋な思いを、武蔵は心で感じ取っていた。彼女の複雑な生活と、純愛の炎が燃え上がっている一方で、武蔵自身の感情は灰のように冷たく、人に見せることなく、ただ心の奥底で埋もれていた。


 その埋もれた情熱を思うと、武蔵はいつも自分自身の苦しみこそが最も重いと感じていた。そして今もまた、同じ思いが胸に去来した。


 ――しかし、それ以上に、彼女の可憐さと強さが武蔵の心を打つ。男でも重すぎる悩みを抱え、生活の中でそれを乗り越え、恋ひとつを命として生き抜いてきた、その健気さが痛ましかった。


(もう……一瞬だけでも)

 武蔵は西に傾いた月を見上げていた。夜明けが近づく残月の光は白く、冷たくなっていた。その月と共に、自分もまた死へと向かっている。今こそお通に対して、たった一言でも真実を伝えたい――それが自分にできる最大の誠意であり、この女に対する報いなのだと武蔵は思った。


 だが、その真実を言うことはできなかった。

 心には確かに真実があったが、それを言葉にしようとするほど、声にならず、ただ空を見つめるばかりであった。


「…………」

 同じように、お通も地面を見つめ、涙を静かに零していた。ここへ来るまでは、恋以外には何もない、燃え上がるような熱情を胸に秘めていた。男の世界で言うところの意地も外聞もなく、ただ武蔵と共に浮世を離れて生きることさえできるのではないかと信じていたのだ。


 しかし、いざ対面すると、何も言えなかった。恋の激しさも、離れていた間の辛さも、武蔵への不満も、一つとして口に出すことができなかった。心の中で突き上げる感情があふれ出そうになるたび、唇は震えるばかりで、涙が目を覆い、もしここに武蔵がいなかったなら、桜月夜の下で大声を上げて、赤ん坊のように泣き転び、せめてこの世にいない母にでも心の内を訴えたかったほどであった。


「…………」

 どうすればいいのか。お通も武蔵も何も言わず、ただ時間だけがいたずらに過ぎていった。


 暁が近いためか、間の抜けた鳴き声をあげて、六、七羽の帰る雁が山の背を越えて飛んでいった。



「雁が……」

 武蔵はつぶやいた。この場にはふさわしくない、唐突な言葉だと分かっていながらも、

「お通さん、帰る雁が啼いているな」

 と言った。それがきっかけとなり、

「武蔵さま……」

 とお通も口を開いた。ふたりのひとみが初めてお互いを見つめ合った瞬間、秋や春に渡る雁の故郷の山々が、ふたりの心に甦った。


 あの頃は単純だった。

 お通がいつも仲良くしていたのは又八で、武蔵のことは「乱暴だから嫌い」と言っていた。武蔵が悪態をつけば、お通も負けずに言い返した――そんな幼い頃の七宝寺の山や、吉野川の河原がまぶたに浮かぶ。しかし、思い出に浸っていると、この二度とない貴重な瞬間を、ただの沈黙で無駄にしてしまいそうだった。


 やがて武蔵は言った。

「お通さん。今、体が悪いと聞いているが、調子はどうだね?」

「なんでもありません」

「もう快方に向かっているのか?」

「それよりも、あなたはこれから、一乗寺の址で死ぬ覚悟なのでしょう?」

「……う、む」

「もしもあなたが斬り死にされたら、わたくしも生きているつもりはありません。そのせいか、体の悪さなど忘れたようで、何もありません」


 武蔵はお通の毅然とした表情を見て、彼女の覚悟が自分のそれを凌いでいるように感じた。自分は長い間、生死の問題に苦悩し、武士としての鍛錬を重ねてようやくこの覚悟に至った。しかし、お通は何の迷いもなく、

「わたくしも生きているつもりはありません」

 と静かに言うのだ。武蔵がじっとその目を見つめていると、彼女の言葉が一瞬の感情でも嘘でもないことが分かった。むしろ、彼女は喜びすら感じているように、自分の死に従い、共に逝こうとしているのだ。まるでどんな覚悟の武士でも到達できないほどの静かな目で、死を見つめていた。


 武蔵は恥じ、そして疑問を抱いた。

(どうして女はこうもなれるのだろうか)

 同時に、彼は困惑し、お通のために恐れ、自分までもが心乱れた。


「ばっ、ばかなっ!」

 突然、武蔵は自分の口から出た激しい声に驚くほど、感情が高ぶっていた。

「わしの死には意味がある。剣に生きる者が剣で死ぬのは本望であり、乱れた武士道を正すために進んで卑怯な敵を迎えて死ぬのだ。その後におまえが共に死ぬ――その気持ちはうれしいが、それが何の役に立つというのか。虫のように儚く生き、虫のように儚く死ぬだけだ」


 ――見ると、お通は再び地面に伏して泣いていた。武蔵は、自分の言葉があまりにも激しすぎたことに気づき、膝を折って声を落とした。

「だが、お通さん……考えてみると、わしは知らず知らずのうちに、おまえに嘘をついてきた。千年杉の時も、花田橋の時も、欺くつもりはなくても、結果としてそうなってしまった。そして冷たい態度を取り続けてきた。しかし、今言うことは嘘ではない。わしはおまえが好きだ。一日として思わない日はなかったほどに好きだった。……すべてを捨てて共に暮らし終わりたいと、どれほど思い悩んだことか。もし、剣というものがなかったら――おまえ以上に好きなものはなかった」



 武蔵は一息つき、さらに感情を込めて言葉を続けた。

「お通さん!」

 普段は無口で無表情な彼が、感情に没頭しているのは珍しいことだった。

「まさに死のうとしているこの武蔵だ。お通さん、わしの今言う言葉には微塵の嘘もないことを信じてくれ。――恥も見栄も捨てて言う。これまでお通さんを思うと、昼間でも心ここにあらずな日があった。夜は寝苦しくて、熱い夢ばかりに悩まされ、狂いそうな晩もあった。お寺に寝ても野に伏しても、お通さんの夢がつきまとい、しまいには薄い藁布団をお通さんのつもりで抱きしめ、歯がみして夜を明かしたことすらある。それほどわしはお通さんに囚われていた。無性に恋していた。――だが、そういう時でも剣を握ると、血の熱さも冷めて、まるで水のように澄んでしまい、お通さんの姿も霧のように脳裏から消えていく……」


 お通は何かを言おうとした。蔓草の白い花のように嗚咽していた顔を上げたが、武蔵の真剣な熱情に満ちた顔を見ると、再び地面に顔を伏せてしまった。


「――それでまた、わしは剣の道へ戻っていったのだ。お通さん、この境界こそが武蔵の本心だ。つまり、恋と精進のふた筋に足をかけ、迷いに迷い、悩みながらも、結局は剣の道を選んでここまで来たのだ。――わしは偉い男でも天才でもない。ただ、お通さんよりも、剣が少しだけ好きだった。それだけなのだ。恋には死ねないが、剣の道ならば、いつ死んでもいいと思えるだけなのだ」


 武蔵は本心を正直に伝えようとしていたが、感情が高まり、言葉に飾りがつきすぎてしまい、まだ胸につかえたものがあるようで、思い切って言いきれない部分が残っていた。


「だから、人は知らないが、武蔵という男は、そんな男なのだ。もっと露骨に言えば、お通さんのことを考えると五体が焦がれるような気がするが、心が剣に向かうと、お通さんのことはすぐ頭の隅に追いやられる。いや、完全に消えてしまうこともある。――そしてその時こそ、わしは一番生きがいを感じているのだ。……わかるだろう、お通さん。そんなわしに対して、心も体もすべてを賭けて苦しんできたお通さんには、すまないと思っている。しかし、それが自分の本当の姿なのだ」


 不意に、お通の細い手が武蔵の逞しい手首を掴んだ。彼女の目は涙で濡れていなかった。

「……知っています! そ、そんなことくらい……あなたがそういう人だということくらい……知らずに恋をしてはおりませぬ」


「ならば、わしが言うまでもなく、この武蔵と共に死のうなどという考えは無駄なことだと分かるだろう。わしという人間は、こうしている今だけは、そなたに心も身も預けているが――一歩離れれば、そなたのことなど頭の片隅にすら残らない。そんな男に縋って死ぬのは、鈴虫のように儚いだけではないか。女には女の生きる道がある。――これがわしの最後の言葉だ。……では、もう時間もないから――」


 武蔵はお通の手をそっと解いて立ち上がった。



 解かれたお通の手は再び武蔵の袂を掴んで、

「武蔵様、待って」

 とかたく縋りついた。さっきから彼女も、言いたいことが胸にいっぱい詰まっていた。武蔵が言った「虫のように生きて、虫のように死ぬ女の恋には、死の意義がない」とか、「一歩おまえから離れれば、わしはおまえのことなど、頭の隅にも置いていない男だ」という言葉に対して、自分の愛がそんなふうに武蔵を誤解しているわけではないことを伝えたかった。しかし、迫りくる別れの予感に飲み込まれ、それ以外のことを冷静に話す余裕がなかった。


「……待って」

 お通は再び引き留めたが、結局、ただ泣き続けるしかなかった。しかし、彼女の言葉にならない訴えには、弱さの中にある美しさ、単純に見える複雑な感情があった。武蔵も心を乱されずにはいられなかった。彼は自分の性格の中で恐れている最も大きな弱点――心の揺らぎを感じていた。それは暴風に揺らぐ根の弱い木のようで、ここまで保ち続けてきた「道への節操」も、お通の涙とともに崩れ落ちそうな気がして、恐怖を感じていた。


「わかったか」

 武蔵は言葉をかけるためだけにそう言ったが、

「わかりました」

 とお通は微かに返し、そして続けた。

「けれど、わたくしはやはり、あなたがお死にになれば、後から死にます。男のあなたが喜んで死ぬのと同じように、女のわたくしにも死の意味があるのです。けっして虫のように、悲しみに溺れて死ぬのではございません。それだけは、わたくしの心におまかせくださいませ」


 その声は乱れず、静かだった。

 さらにもう一言、彼女は言った。

「あなたは、わたくしのような者でも、心の中でだけでも妻として許してくださいますでしょうか。それだけで、わたくしはすべての望みが満たされました。この気持ち、大きな歓びは、わたくしだけの幸福です。あなたがわたくしを不幸にしたくないとおっしゃいましたが、わたくしは決して不幸に敗れて死ぬのではありません。世の人が皆わたくしを不幸だと言っても、わたくし自身は少しも不幸ではありません――むしろ、死の夜明けが楽しみで待ち遠しく、まるで花嫁のように心躍るのです」


 長く話すと息が苦しくなるのか、お通は自分の胸を抱きしめ、幸福に満ちた瞳で夢見るように武蔵を見上げた。残月はまだ白く輝き、木々には霧が立ち始めていたが、夜明けまではまだ少し時間があった。


 ――すると、不意に、彼女が目を上げた崖の上の方から、

「キャーッ!」

 突然、樹々の静寂を破るような女の鋭い悲鳴が響いた。たしかに女性の絶叫だった。さっき城太郎がその崖の道を登って行ったはずだが、その声は決して城太郎のものではなかった。



 これはただ事ではない。

 誰の叫びだったのか、何が起こったのか。お通はわれに返り、霧がかかった峰の頂を見上げた。するとその瞬間、武蔵はお通の側を離れ、何も言わずに大股で彼方の死地へ向かって急ぎ出した。


「あっ、もう……」

 お通が十歩追うと、武蔵も十歩駆けて、そのまま振り返った。

「お通さん、よくわかった。――だが犬死にはするな。不幸に追い詰められ、死の谷間に滑り落ちるような、弱い死に方をしてはいけない。もう一度体を健康に戻してから、健康な心でよく考えるのだ。わしだって無駄に命を捨てるわけじゃない。永遠の生をつかむために一時的に死の形を取るだけだ。――わしのあとに従って死ぬよりも、お通さん、生き残って長い目で見てくれ。武蔵の体が土になっても、武蔵は必ず生きているから!」


 言葉を続けたまま、さらにもう一言、武蔵は声を張り上げた。

「いいか、お通さん! わしの後を追うつもりで、見当違いな場所へ一人で行ってしまうなよ。わしが死んだ形を見て、冥途に武蔵を探しても、武蔵は冥途にはいない。わしがいるのは、百年後でも千年後でも、この国の人々の中、この国の剣の中だ。他にはいない。」


 そう言い残して、武蔵はもうお通の声が届かないほど遠ざかっていた。


「…………」

 お通は茫然と立ち尽くしていた。遠く去っていく武蔵の影は、自分の胸から抜け出た自分自身であるような気がした。別れの悲しみは通常、二つのものが離散することで生じる感情だが、お通の今の気持ちには、そんな別々の意識の悲しみはなかった。大きな生死の波に飲み込まれそうな自分と彼、ひとつの魂の戦慄に目を閉じるだけだった。


 ――ざ、ざ、ざ、ざ。

 その時、崖の上から土が崩れ、お通の足元まで転がってきた。そしてその音を追うように、

「――わあっ!」

 城太郎が木や草を掻き分けて飛び降りてきた。


「まあっ!」

 お通でさえ驚いた。なぜなら、城太郎は奈良の観世の後家からもらった鬼女の笑仮面をふところに持ってきており、今その仮面を顔にかぶっていたからである。彼は突然お通の前に現れ、

「ああ、驚いた!」

 と言って両手を挙げた。


「なんですか、城太さん?」

 お通が問うと、

「なんだかおいらもよく分からないけど、お通さんにも聞こえたろ。キャーッって言った女の声がさ」

「城太さん、それをかぶってどこにいたの?」

「この崖をずっと登っていったら、そこに道があってね、その道のもっと上にちょうど座りやすい大きな岩があったから、そこに腰かけて、お月様が落ちていくのを見ていたんだ」

「それをかぶって?」

「うん、だって、あたりでやたらに狐が鳴いたり、狸か狢か分からない奴がごそごそしてたから、仮面をかぶって威張っていれば近寄ってこないと思ったからさ。――するとね、どこかから突然キャーッという声がしたんだ。あれは一体なんだろう。まるで針の山から聞こえた木魂のような声だったぜ。」

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