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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
風の巻
73/165

月一つ

 しばらくの間だが、ぐっすりと眠ったようだ。


 頭の中は、今夜の空のように冴えわたり、まるで澄みきった空気と自分自身が一体となったかのように感じる。


 武蔵むさしは、一歩一歩を進めるたびに、身体が何かへ溶け込んでいくような感覚を覚えた。


「ゆるりと歩こう」


 自分にそう言い聞かせながら、意識的に大股で歩く癖を抑えた。まるで、この世の終わりを見届けるかのように、今夜が人間の世界を眺める最後の時間であるかのように思えた。しかし、その言葉には特別な感慨や悲しみは込められていない。ただ、心の底からふと浮かんだ独り言だった。


 まだ、一乗寺いちじょうじの下りさがりまつまでは距離があり、時刻も夜半を過ぎたばかり。死というものが、まだ切実に感じられないのだろうか。昨日は鞍馬寺くらまでらの奥の院まで登り、風にそよぐ松の音に耳を澄ませ、黙って座禅をしていた。その時は、無我の境地に達しようと努めていたが、なぜか死という考えから逃れられず、結局、何のために山へ登ったのか、自分の浅ましささえ感じた。


 しかし、今夜の心地よさは一体何なのだろうと、武蔵は自問する。宿の主人と少し酒を飲み、心地よく酔いが回ってからぐっすりと眠り、目覚めた後、冷たい井戸水を浴びた。新しい晒布さらしの肌着を身にまとい、身体が引き締まる感覚。この状態が死に向かっているとはどうしても思えない。


(そういえば、伊勢の宮の裏山を腫れた足を引きずりながら登ったあの夜、星もきれいだった。あの時は真冬で寒かったが、今頃ならば、山桜のつぼみが膨らんでいるころだろうか)


 そんな思いがふと浮かび、今の状況を真剣に考えようとはしていない自分に気づいた。行く先には必死の戦いが待っているというのに、知性は何も働かず、ただ覚悟を決めてしまったのかもしれない。死の意義や苦痛、死後のことなど考えたところで、解決するものではないと悟ったのだろう。


 夜の静寂の中、どこからかしょう篳篥ひちりきの音が冷たく響いてきた。近くの公卿くぎょうの屋敷から聞こえてくるその音は、酒宴の賑わいではなく、通夜の厳かな調べのように感じられた。そこから浮かんでくるのは、白い灯火に照らされたさかきの前で故人を弔う人々の姿だった。


「自分より先に死んだ者がいるのか…」


 明日には、自分もあの世で彼らと知り合うのではないかという思いがふと湧き、微笑んだ。歩いている間、笙や篳篥の音はずっと耳に届いていたのかもしれない。ふと、武蔵は自分の爽やかな心地を疑い始めた。もしかすると、これは死地に向かう極度の恐怖の中にある自分の感覚なのではないかと。


 自分にそう問いかけた時、武蔵はふと足を止めた。道は既に相国寺しょうこくじの大路の端に差し掛かり、半町はんちょうほど先には、広い川面が銀色の光を放ち、水面近くの館の築地ついじまで明るい光を反射していた。


 その築地の角に、一つの人影がじっとこちらを見つめて立っていた。



 武蔵は立ち止まった。先ほど見えた人影は、こちらに向かって歩いてくる。影の後ろに、もう一つ小さな影が月明かりの道を転がってきた。近づいてみると、それはその男が連れている犬だと分かった。


「……」


 武蔵は体に込めていた緊張を解き、無言ですれ違おうとした。犬を連れた男は、武蔵を通り過ぎた後、急に振り返り声をかけた。


「お武家さま。お武家さま!」


「……わしのことか?」


 武蔵は四、五間(約7~9メートル)ほど離れたところで振り返った。声をかけたのは腰の低い職人風の男だった。職人袴に烏帽子えぼしをかぶっている。


「何か用か?」


「ひょんなことをお尋ねいたしますが、この辺りに、明るく灯りが点いていた屋敷はございませんでしたか?」


「さあ、特には気づかなかったが、なかったように思う」


「そうですか、それではこの道筋ではないかもしれませんね」


「何を探しているのだ?」


「人の亡くなった家を探しているのです」


「そういうことならあった。夜も遅いが、しょう篳篥ひちりきの音が聞こえていた。そこではないか、半町はんちょうほど先だった」


「それです。先に神官が通夜に参っているはずです」


「通夜に向かうのか」


「はい、私は鳥部山とりべやまの棺桶職人です。吉田山の松尾様だと思っていたので吉田山へ向かったのですが、どうやら二ヶ月ほど前にこちらへ移られたそうで…夜も遅いですし、辺りもよく分からず困っておりました」


「松尾? 元は吉田山にいて、この辺りに移ってきた家か?」


「ええ、そうです。何も知らずに無駄足を踏んでしまいました。ご親切にありがとうございます」


「待て」


 武蔵は二、三歩前に出て言った。


「近衛家の用人を務めていた松尾要人かなめの家に行くのか?」


「その通りです。松尾様が十日ほど前に病でお亡くなりになりました」


「主人が…」


「はい」


 武蔵はそれ以上の言葉を発さず、そのまま歩き出した。棺桶職人も反対方向に向かって歩き出し、遅れてついていく小犬が慌ててその後を追っていった。


「…死んだのか」


 武蔵は小さく呟いた。しかし、それ以上の感傷は抱かなかった。自身の死でさえも特に感じることがないのだから、他人の死に関してはなおさらだ。生涯、爪に灯をともすように小金を貯め続け、冷淡に生きてきた叔母の夫――その死は彼にとって特別な意味を持たなかった。


 むしろ、武蔵の心にふとよみがえったのは、飢えと寒さに震えた元旦の朝、凍った加茂川かもがわのほとりで焼いて食べた餅の味だった。


(美味かったな)


 と、心の中で思った。叔母のことを思い出しつつ、武蔵の足はいつの間にか上加茂かみがもの流れの岸に立っていた。川を隔てた向こうには、三十六峰の山々が黒々と広がり、夜空に迫るように聳えている。その一つ一つの山が、まるで武蔵に敵意を示しているかのように見えた。


 しばらくじっと立ち尽くした後、武蔵は一つ頷き、川原へと堤から降りていった。そこには、鎖のように小舟を繋いだ舟橋が架かっていた。



 武蔵は影を落としながら加茂川かもがわの舟橋の中央付近を渡っていた。そのとき、遠くから声が聞こえた。


「おーい!」


 淙々(そうそう)と水が流れる音が、月明かりの中、冷ややかな夜気に乗って響く。周囲は広々としていて、誰がどこで声を上げているのかはっきりとは分からなかった。


「おーい!」


 再び声が響く。武蔵は一度立ち止まったが、気にせず再び歩き出し、ただすの森の中にある中洲を越えて対岸へと跳び移った。


 すると、一条白河の方角から、手を振りながら河原づたいに走ってくる人影が見えた。その姿には見覚えがあった。佐々木小次郎だった。


「やあ」


 小次郎は親しげな声をかけながら近づき、武蔵の姿を確認すると舟橋の方も見渡してから言った。


「お一人ですか?」


 武蔵はうなずきながら、当たり前のように答えた。


「一人だ」


 挨拶は多少順序が前後していたが、小次郎は改めて礼を述べた。


「先日の夜は失礼しました。不手際な対応を大目に見てくださり、感謝しております」


「いや、そのことは気にしていない」


「ところで…これから約束の場所へ向かわれるのですか?」


「その通りだ」


「お一人で?」


 小次郎はあえてもう一度尋ねた。武蔵の返事は先ほどと同じであったが、その冷静さがかえって小次郎の心に響いた。


「ふむ…そうですか。しかし、武蔵殿、ひとつ確認しておきたいのですが、六条に掲げたあの公約の高札こうさつを、何か勘違いしてはいませんか?」


「特に誤解しているつもりはない」


「しかし、あの高札には、以前の清十郎との一騎打ちのように、一対一の決闘だとは書かれていませんでしたよ」


「それは分かっている」


「吉岡方の名目人は幼い者にすぎません。その他に一門の遺弟たちがいる。遺弟といえば十人や百人、いや千人いるかもしれませんが、その点は考慮されていますか?」


「なぜ、そう思うのです?」


「吉岡の遺弟の中でも腰が引けている者は逃げたり、来ない者もいるようですが、覚悟のある門人たちは皆、藪之郷やぶのごう付近に配置されており、下り松で貴殿を待ち伏せているようです」


「小次郎殿はすでにその様子を確認されたのですね」


「念のためです。そして今、この情報が貴殿にとって重大であると思い、急いで一乗寺址いちじょうじあとから引き返してきました。この舟橋が貴殿の通る道だろうと考え、ここで待っていた次第です。高札に名を記した立会人の務めとして」


「ご苦労に思います」


「そう言っていただけるのは嬉しい限りです。しかし、それでもなお貴殿は一人で向かうつもりですか?それとも、他の助っ人は別の道を通っているのでしょうか?」


「私以外にはもう一人、共に歩んできた者がいます」


「どこに?」


 武蔵は地面に映る自分の影を指し示し、静かに答えた。


「ここに」


 そのとき、彼の笑みが月明かりに白く輝いていた。



 冗談を言いそうもない武蔵が、ニコッと笑って不意にそんな戯れを言ったので、小次郎は少し戸惑いながら言った。


「いや、冗談ではありませんぞ、武蔵どの」


 それを聞いて武蔵も真面目な顔を崩さずに答えた。


「拙者も冗談ではありません」


「しかし、影法師と二人連れだなんて、人を小馬鹿にしたような言葉ではないか」


「それでは――」


 武蔵は小次郎以上に真剣な表情で言葉を続けた。


親鸞聖人しんらんしょうにんが言われたことばに『念仏行者は常に二人連れなり、弥陀みだと二人連れなり』というのがあったと覚えているが、あれも冗談ごとなのでしょうか」


 小次郎は黙り込んだ。


「何にしても、ただ外見だけを見れば、吉岡衆は大勢であろうし、こちらは一人。小次郎殿がご心配くださるのももっともだが、どうぞご心配には及びません」


 武蔵の言葉には確固たる信念が感じられた。そして彼は続けた。


「彼らが十人の兵を擁するならば、こちらも十人で応じようとすれば、彼らは二十人の備えを立ててくるでしょう。もし彼らが二十人で来るのなら、こちらが二十人で迎えようとすれば、彼らは三十人、四十人を集めるはずです。そうなれば、無益な戦いで世間を騒がせるばかりか、剣の道にも何の益もありません。百害あって一益なしです」


「なるほど、だが武蔵どの、明らかに負けると分かっている戦をするのは兵法に反するのではないか」


「場合によっては、そうすることもあるでしょう」


「いや、それでは兵法ではない。無謀というものだ」


「では、兵法にはないとしても、拙者の場合にはあるとしましょう」


「それは道を外れた考えだ」


「……ハハハハ」


 武蔵はそれ以上は答えなかった。しかし小次郎は止まらない。


「そんな無謀な戦い方をなぜするのか。なぜもっと活路を見つけようとしないのだ」


「今、歩いているこの道こそ、拙者にとっての活路です」


「冥途への道ではないことを祈りますが」


「あるいは、さっき越えた川が三途の川であり、今踏んでいるこの道が一里塚で、行く先の丘が針の山かもしれません。――しかし、自分を生かす活路はこの一筋しかないと思っています」


「まるで死神に取り憑かれたようなことを言う」


「何であろうと構いません。生きながら死ぬ者もいれば、死んでなお生きる者もいるのです」


「不憫なことだ……」


 小次郎が独り言のように嘲笑すると、武蔵は立ち止まり、小次郎に向かって尋ねた。


「小次郎どの、この街道はどこへ通じますか」


「花ノ木村を抜けて、一乗寺藪之郷いちじょうじやぶのごう、つまり貴殿の死場所である下り松を経て、その先は叡山えいざん雲母坂きららざかへと続いております。ですから、この道は裏街道と呼ばれています」


「下り松までは、どのくらいの距離ですか」


「ここからは半里余り、ゆっくり歩いても時刻にはまだ十分な余裕があります」


「では、後ほど」


 そう言って武蔵が突然、横道へ曲がりかけたので、小次郎は慌てて声を上げた。


「や、道が違うぞ、武蔵どの!その方向では目的地と逆だ!」



 武蔵は小次郎の注意に対して、素直にうなずいた。しかし、見ているとそのまま曲がった道を進んでいく様子だったので、小次郎は再び声をかけた。


「道が違いますぞ!」


 しかし、武蔵は「はあ」とだけ返し、まるで分かっているかのような返答だった。そのまま茅葺きの屋根が見える低い方へ降りていき、雑木の隙間から武蔵の後ろ姿が見えた。武蔵は月を仰いでぽつねんと立っていた。


 小次郎は一人で苦笑しながら呟いた。


「……なんだ、小用でも足しているのか?」


 そして彼も月を見上げた。月はだいぶ西へ傾いている。


「この月が沈む頃には、何人かの命も消えているだろうな」


 彼の頭には好奇心が沸き、様々な予想が浮かんでいた。武蔵がなぶり殺しにされるのは確実だが、彼が倒れるまでに何人の敵を斬るのか、それが見ものだと思った。


「そこが見ものだ」


 今からそれを予想するだけでも、ぞくぞくと興奮が高まり、肌は総毛立ち、血は全身を駆け巡って待ち遠しくてたまらなかった。


「滅多にお目にかかれないものに遭遇したな。蓮台寺野のときも、その次の時も実見できなかったが、今夜こそは目撃できる……。だが、武蔵はまだか?」


 小次郎は少し低地の道を覗いてみたが、武蔵の姿は見当たらなかった。立っているのもつまらなくなり、彼は木の根に腰をおろして密かに空想を楽しんだ。


「あの落ち着き払った様子では、まるで死を覚悟しているようだ。きっと最後まで戦うだろう。できるだけ斬りまくってくれた方が見ごたえがあるが……。そういえば、吉岡の方は飛び道具の準備までしていると言っていたな。飛び道具で一発やられてしまったら面白くないぞ……。そうだ、それだけは武蔵に耳打ちしておいてやろう」


 しばらく待ったが、夜霧が腰に冷たく染みてきた。小次郎は身を起こし、武蔵の名を呼んだ。


「武蔵どの!」


 だが、おかしい。今になって何かが違うと感じた彼の胸には不安と焦りが込み上げてきた。小次郎は急いで低地へ降りていった。


「武蔵どの!」


 崖下の農家は暗闇に包まれた竹林に囲まれており、どこかで水車の音が響いていたが、その流れさえも見えなかった。


「しまった!」


 水を飛び越えて、反対側の崖の上に素早く出てみたが、人影は見当たらなかった。白河の寺院の屋根、森、大文字山、如意ヶ岳、一乗寺山、叡山――広がる大根畑。


 そして空には月が一つ。


「しまった!卑怯者め!」


 小次郎は直感的に武蔵が逃げたと感じた。あの落ち着いた様子も、そのためだったのかと今になって思い返した。道理で言動があまりにも自然だった。


「そうだ、急がねば!」


 小次郎は身を翻して元の道に戻ったが、そこにも武蔵の影はなかった。彼の足は宙を駆けるように一乗寺下り松へと向かった。

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