必殺の地
――まだ月が空に浮かんでいる。
朝といっても、あまりにも早すぎて、まるで夜と変わらない暗さだった。白い道に、自分たちの影が黒々と映っているのが、どこか不思議に感じられた。
「案外だなあ」
「そうだな。思ったより人数が少ない。百五十人は集まると思っていたんだが」
「この様子だと、半分ってところか」
「もうすぐ壬生源左衛門殿や、その御子息、そしてあの親類の方々が来るだろう。それを加えても、六、七十人が精一杯か」
「吉岡家も衰えたものだ。やはり、清十郎様と伝七郎様、あの二人の柱が抜けてしまったからか。大廈の覆るとはこのことだな」
誰かが影の中で、ひそひそと囁いていると、少し離れた場所から別の一団が声を上げた。
「気弱なことを言うな! 盛衰は世の常だ」
また、別のグループが応じる。
「来ない奴は来ないでいいさ。道場を閉じた以上、これからどう生きるかを考える奴もいるだろうし、将来のことを見据えて動く者もいる。全然おかしくないことだ。――その中で、あくまで義を重んじて集まったのが、ここにいる我々だ」
「人数が多ければいいってものじゃない。討つ相手は、たった一人だろ?」
「アハハハ! そう強がるなよ。蓮華王院の時はどうだった? あの時、ここにいる連中は、武蔵を目の前にしながら手も出さず、見送っただけじゃないか」
周囲は静かだが、叡山、一乗寺山、そして如意ヶ岳が背後にそびえ、山々は深い雲に覆われ、まだ眠っているようだった。
ここは俗に「藪之郷下り松」と呼ばれる場所。一乗寺の廃墟へと続く田舎道と山道の分岐点だ。辻が三つに分かれているため、道の選び方一つで進むべき方向が変わる。
朝の月がその松の上に高く昇り、一本の松の木が、かさばった枝を広げていた。この場所は一乗寺山の裾野に位置しており、道は斜めに傾斜している上、石ころが多く、雨が降ると水が道を流れる場所だった。
吉岡道場の面々は、その「下り松」を中心に集まり、月明かりに照らされて蟹のように動き回っていた。
「三方向に道が分かれているから、武蔵がどこから来るか考えものだな。同勢を三つに分けて、それぞれの道に伏せ、下り松には名目人の源次郎様に、壬生の源左衛門殿や、御池十郎左、植田良平殿など、古参が十名ほど控えていた方が良いだろう」
誰かが地形を考えて提案すると、別の人物が反論する。
「いや、ここは狭い。人数を一箇所に集めすぎると不利になる。もっと距離を取り、武蔵が通った後に前と後ろから一気に襲いかかれば、逃がすことはないだろう」
集まった人数の多さから自然にわき起こる意気は、天を突き抜けるほどの勢いに見えた。刀の鐺が長く影を引き、槍の影も地面に串刺しにするように映っている。彼らの中には、臆病者など一人もいないように見えた。
「――来た、来た!」
まだ時刻が早いことは分かっていながらも、一人が遠くから叫んだ瞬間、その場にいた全員が緊張し、全身に寒気が走るような静けさに包まれた。
「源次郎様だ」
「駕籠でいらっしゃったな」
「まだお若いからな」
人々が目を向けた先には、提灯の灯がちらちらと揺れながら、月の下、風に吹かれて近づいてきたのだった。
「やあ、皆集まったな」
駕籠から降りたのは、年老いた男性だった。そして次に降りてきたのは、まだ十三、四歳ほどの少年。二人とも白い鉢巻を巻き、高々と股立を掲げていた。彼らは壬生源左衛門とその息子、源次郎だった。
「これ、源次郎」
父親である源左衛門が、息子に優しく言い聞かせた。
「お前はこの『下り松』のところに立っていればいい。松の根元からは決して動くんじゃないぞ」
源次郎は無言でうなずいた。父は息子の頭を撫でながら続けた。
「今日はお前が名目人だが、戦うのは他の門弟たちだ。まだお前は幼いから、ここでじっと待っているだけでいい」
源次郎は、再び静かにうなずき、言われた通りに松の根元へ向かって行き、五月人形のように凛々しく立った。
「まだ早い、夜明けまでにはだいぶ時間があるな」
源左衛門は腰から太閤張の大きな煙管を取り出し、周りを見回しながら言った。
「火はないか?」
その余裕を見せつけるかのように、彼は仲間に向けて声をかけた。
「壬生の御老台、火打石ならありますが、その前に、人数を手分けして配置してはどうでしょうか」
御池十郎左衛門が前に出て提案した。
「それも一理あるな」
源左衛門は考え込んだ後、うなずいた。幼い息子を果し合いの名目人にすることを惜しまない、実に武士らしい老人であった。彼はすぐに他者の意見に従い、指示を出した。
「――では早速、準備を整えて敵を待つとしよう。しかし、この人数をどうやって分けるのか?」
「この下り松を中心に、三方向に分かれた街道の両脇に、二十間(約36メートル)ほどの距離を置いて、皆を潜ませましょう」
「それで、この場にはどうする?」
「源次郎様のそばには、私と御老台、そして他の十名ほどが控え、彼を守りつつ、武蔵がどの道から来てもすぐに合体して一気に彼を討つ、というわけです」
源左衛門は少し考え込んだ。そして、静かに言葉をつないだ。
「――だが、もし人数を分けすぎてしまった場合、最初に武蔵にぶつかる人数は二十名程度にしかならない」
「その程度の人数でも、包囲してしまえば――」
「いや、そうとは限らないぞ。武蔵はきっと助太刀を連れて来るだろう。それに、あいつは剣が鋭いだけじゃなく、退却も上手い。いわゆる"逃げ上手"というやつだ。もし、少人数で囲んでしまったら、数人を傷つけてさっと逃げるかもしれん。そして後で、一乗寺址で吉岡の門弟七十余名を一人で倒した、と世間に言い触らすことも考えられる」
「それは、絶対に許さない」
御池十郎左衛門が力強く応じた。
「――つまり、今度こそ武蔵を絶対に逃がしてはならない、ということですね?」
「その通りだ」
「万が一にも武蔵を逃がせば、我々は後世に汚名を残すことになる。だからこそ、今朝は武蔵を討つためには手段を選ばない覚悟です。死人に口なし、武蔵を討ち取った後は、我々が語ることが真実として世に伝わるでしょう」
御池十郎左衛門は、周囲を見回し、群れている者たちの中から数名の名前を呼び上げた。
弓を持った門弟が三人、そして鉄砲を持った門弟が一人、前に進み出た。
「お呼びでしょうか?」
御池十郎左衛門は「うむ」とうなずくだけで、源左衛門老人に向かって言った。
「御老台、実はここまで準備を整えております。これでご心配もなくなったでしょう」
「やれやれ、飛び道具まで用意したか」
「はい、適当な高台や木の上に伏せて待たせております」
「醜い手段だと言われないか? 世間の評判はうるさいぞ」
「世評よりも、まずは武蔵を倒すことが最優先です。勝てば世評などどうにでもなる。負けたら、たとえ真実を語っても世間は泣き言としか受け取らんでしょう」
「うむ、そこまで覚悟を決めているのなら異存はない。たとえ武蔵に数名の加勢がついてきたとしても、飛び道具があれば討ち漏らすことはあるまい……。ただ、評議に時間をかけている間に、不意をつかれてもならんぞ。采配は任せる。すぐに配備せよ」
老人が納得すると、御池十郎左衛門はすぐに指示を飛ばした。
「潜伏せよ!」
三方に分かれた街道は、敵を挟撃するために潜伏させた前衛であり、『下り松』は本陣として、十人ほどの中堅が残る形となった。門弟たちは次々と藪に潜り、木陰に隠れ、田の畦に腹這いになった。
高い木の上に弓を背負いながらスルスルと登っていく者もいれば、鉄砲を持った者は下り松の梢によじ登り、月明かりを警戒しながら自分の影を隠すのに苦心していた。
木の皮や枯れ葉がパラパラと落ちてきた。下にいた源次郎は、首元を手で押さえて、思わず身震いした。
「なんじゃ、震えておるのか。臆病者めが」
源左衛門老人がそう言うと、源次郎は慌てて答えた。
「背中に松葉が入ったんです。怖くなんかありません!」
「そうか、それならよいが、これもよい経験だ。やがて斬り合いが始まる。よく見ておけよ」
そう言った直後、三方の街道のうち、東の修学院道の方から突然、
「馬鹿っ!」
という大きな声が響いた。同時に、藪がざわざわと鳴り響き、人々が潜んでいる様子が明らかになった。源次郎は驚いて、
「怖いっ!」
と叫び、源左衛門老人の腰にしがみついた。
「来たか!」
御池十郎左衛門は気配を察し、すぐに声のした方へ駆け出した――が、走りながら何かが違うと感じた。
案の定、そこにいたのは敵ではなく、六条柳町で一度対面した、佐々木小次郎だった。小次郎はその場に突っ立って、周囲の吉岡門人たちを叱りつけていた。
「おいおい、何してるんだ? 眼が節穴か? 戦う前にそんなふらついていてどうする。わしを武蔵と勘違いして突っかかるなんて、浮ついた腰じゃ心もとないぞ。今日は試合の立会人として来たんだ。そんな藪から槍を突き出すような真似をして、何を考えているんだ?」
彼は例の大人びた高慢な顔つきで、門弟たちに向かって怒鳴りつけていた。
しかし、吉岡方も気が立っている時期で、小次郎の態度には疑念を抱く者もいた。
(こいつ、怪しいぞ)
(武蔵に助太刀を頼まれて、様子を見に来たんじゃないか?)
吉岡方の者たちは囁き合い、ひとまず手出しは控えたが、彼を囲んだまま解こうとはしなかった。
そこへ、十郎左衛門が駆けつけて来た。小次郎はすぐに群れから目を逸らし、十郎左衛門に向かって喰ってかかった。
「立会人として今朝ここまで来たのに、吉岡衆は私を敵と見なしてきた。これは貴殿の指示なのか? そうならば、不肖ながら、佐々木小次郎として、長らく愛用の物干竿に血の錆を落としていなかったところだ。武蔵に助太刀するつもりはないが、面目上、相手になってもいいぞ。どうするつもりか、答えを聞こう!」
彼の威勢の良い言葉には、まるで獅子が吠えるような勢いがあった。こうした高飛車な態度は、小次郎の常套的な手口だ。
しかし、彼の優雅な見た目や前髪に惑わされた者は、その威勢に少し驚いていた。
だが、十郎左衛門は動じない顔で、 「ハハハハ、これはまた随分とご立腹だな。しかし、今日の試合に貴殿を立会人として、誰が頼んだのか? 吉岡一門としては、依頼した覚えはないぞ。それとも武蔵が頼んだのか?」 と冷静に返した。
「黙れ! 六条の往来で高札を立てた時に、私が双方に伝えただろう!」
小次郎は激昂したが、十郎左衛門は冷静に続けた。
「あの時、貴殿が立会人になるとか言っていたな。しかし、武蔵も頼んだ覚えはないし、我々もお願いしたつもりはない。貴殿が勝手に出てきたのだろう。そういうおせっかい者はよくあるものだ」
「言ったな!」と小次郎は怒りを露わにした。
「帰れ!」と、十郎左衛門はさらに言葉を重ね、 「見世物ではない!」と吐き捨てるように言った。
「……ウム」 小次郎はその言葉を飲み込み、青ざめた顔で一度頷くと、静かに身を翻して立ち去ろうとした。
「――見ていろ、貴様ら!」
彼が去ろうとしたその時、壬生の源左老人が、遅れて駆けつけてきた。
「お若いの、小次郎殿、待ちたまえ!」 と、後ろから声をかけた。
「私に用はないだろう。今の言葉、後で覚えていろ」と小次郎は言ったが、老人は慌てて彼を引き止めた。
「まあ、そう言わずに、しばし待ってくれ」
老人は息巻きながら立ち去ろうとする小次郎の前に回り込み、 「私は清十郎の叔父にあたる者でございます。貴殿のことは、清十郎からも頼もしき御仁と伺っておりました。どうか、門弟どもの無礼を許していただけますよう」
「そのように言われると恐縮だ。四条道場には清十郎殿との縁もあるので、助太刀とまではいかずとも、好意は持っていた。しかし、あまりに酷い口汚さだ」 小次郎は少し冷静さを取り戻した。
「ごもっともです、ご立腹はもっともです。しかし、今のことはどうかお聞き流しになり、清十郎と伝七郎のために、ご協力いただけますようお願い申し上げます」 と、源左老人は巧みに小次郎を宥め、気を静めることに成功した。
これだけの備えがある以上、小次郎一人の助太刀など頼るにも当たらない。
しかし、この若者の口から、自分たちの卑怯な戦法が世間に吹聴されることを、源左老人は恐れていたに違いない。
「何卒、水に流していただきたい」と、懇ろに謝る源左老人の態度に、小次郎も前の怒りとは打って変わって、 「いや、御老人、そんなに何度も頭を下げられると、若輩の私としてはどうしてよいか分からなくなります。まずは頭をお上げください」 と、あっさり機嫌を直した。
そして、吉岡方の者たちに向け、例の流暢な弁舌で激励を始めると同時に、武蔵のことを口を極めて罵り出した。
「私はもともと、清十郎殿とはご懇意でしたし、武蔵とは何の縁もゆかりもない人間です。――そうなれば、人情としても、無縁な武蔵よりは、御縁のある吉岡衆に勝ってもらいたいと思うのが当然でしょう。――それにしても、なんたる不覚、二度までの敗北とは。四条道場は離散、吉岡家は瓦解。……ああ、これほどの悲劇は見たことがない。名門である吉岡家が、一介の田舎剣士のために、このような運命に至るとは」
小次郎は語気を強め、まるで耳が赤くなるほどの熱弁を振るった。
源左老人をはじめ、周囲の者たちは彼の言葉に魅せられ、しばし黙り込んでしまった。
これほどまでに好意を持っている小次郎に対して、なぜあんな暴言を吐いたのかと、十郎左衛門も後悔の念を浮かべていた。
その空気を感じ取った小次郎は、自分の独壇場であることを確信し、さらに熱を込めて話を続けた。
「私も兵法者として一家を成そうとしている身なので、単なる好奇心ではなく、試合や真剣勝負の場には必ず足を運びます。傍観者としてでも、学ぶことは多いです。しかし、これまでに見てきた試合の中で、貴所方と武蔵の試合ほど、見ていて苛立つものはありませんでした。――蓮華王院でも、蓮台寺野でも、なぜ武蔵を逃がしてしまったのですか? 師を討たれながら、武蔵を洛内で横行させていることが、どうにも理解できません」
小次郎は乾いた唇を舐めながら続けた。
「たしかに、渡り者の兵法者として、武蔵は驚くべき強さを持っています。彼の剣は確かに天性のもので、野獣のような強さがあります。しかし、だからこそ、正攻法では勝てない。猛獣を罠にかけて捕らえるように、奇策を使わなければ、またしても武蔵に敗れるでしょう。その点について、十分にご考慮なさっているのか」
源左老人が、既にその点は抜かりなく策を練っていると説明すると、小次郎は頷き、さらに続けた。
「それであれば万が一の討ち洩らしもないでしょう。しかし、念のために、もう一度突っ込んだ策があってもいいと思います」
「――策、ですか?」
源左衛門老人は、佐々木小次郎の賢そうな顔つきをじっと見つめた。
「いやいや、これ以上の策も準備も必要ないでしょう。ありがたいご好意ですがね」
そう返すと、小次郎は少し食い下がるように続けた。
「いえいえ、そうではありませんよ、御老人。もし武蔵が正直にここまでやってきたとして、それは皆さんの罠にかかったも同然です。ですが、万が一、ここに備えがあると知ったらどうでしょう?道を変えられてしまったら、それで終わりではないですか?」
「ふん、それならそれでいいさ。京の辻々に『武蔵、逃亡!』と高札を立てて、天下の笑い者にしてやればいい」
「確かに名分は立ちますが、それで本当に満足できますか?武蔵もまた、皆さんの卑劣さを大げさに吹聴するでしょう。そして、師の仇を討ったとはとても言えません。――ここで確実に武蔵を仕留めない限り、意味がないのです。武蔵が必ずこの必殺の地に来るように仕向ける策が、必要だと私は思いますが」
「策……そんなものがあるのか?」
源左衛門老人が疑わしそうに言うと、小次郎は自信に満ちた口調で答えた。
「ありますよ。策なら、いくらでも……」
そう言って、小次郎は声を落とし、普段の傲慢な態度とは打って変わって親しげな目つきで、源左衛門老人の耳元に口を寄せた。
「……こうすれば、どうです?」
小次郎が囁いた内容に、源左衛門老人は何度も頷いた。そして今度は、そのまま御池十郎左衛門にも同じ話を耳打ちしていった。
一方で、おとといの真夜中、久しぶりに木賃宿に現れた宮本武蔵は、宿の老爺を驚かせた。
その夜、彼は一夜を明かし、翌朝には「鞍馬寺へ行ってくる」と告げて宿を出たが、その日一日姿を見せなかった。
(晩には戻るだろう)
老爺は雑炊を温め、待っていたが、結局その晩も帰らなかった。翌日の黄昏近くになって、ようやく武蔵は戻ってきた。
「鞍馬のお土産だ」
そう言って、長芋が包まれた苞を老爺に手渡した。
さらに、武蔵はもう一つ、近所の店で買った奈良晒布を差し出し、「これで肌着と腹巻、それに下紐を縫ってもらいたい」と頼んだ。
老爺はすぐに近所の娘に縫い物を頼みに行き、その帰りには酒屋から酒を買ってきた。
武蔵と一緒に山芋汁を肴にして世間話に興じていると、頼んでいた肌着や腹巻ができ上がってきた。
武蔵はそれを枕元に置いて眠りについた。
ところが、老爺が真夜中にふと目を覚ますと、裏手の井戸で水浴びをする音が聞こえた。
何気なく覗いてみると、武蔵はもう寝床を抜け出し、月明かりの下で沐浴を終えていた。そして、宵に仕立ててもらった真っ白な肌着と腹巻を身につけ、いつもの衣服を纏っていた。
月はまだ高く、西には傾いていない。
「こんな時間に、どこへ行くんだ?」と老爺が尋ねると、武蔵は答えた。
「この数日、京都の町を見て回り、鞍馬にも登った。だが、もうこの京都には少し飽きた。今から月の光を浴びながら叡山に登り、志賀の湖で日の出を拝む。そして、それを鹿島立ち(旅立ち)のきっかけに、江戸へ向かうつもりだ。……そう決めたら、すっかり目が冴えてしまってな。お前を起こすのも悪いから、宿代と酒代は枕元に置いておいた。少ないが、それで勘弁してくれ。また三年後か四年後か、京都に戻ってきたら、お前の宿に泊まるとしよう」
そう言い残し、武蔵は立ち去った。
「おやじ、後を閉めておいてくれよ」
武蔵はそのまま歩き出し、畑道を抜け、北野の通りへと出ていった。老爺は名残惜しそうに小さな窓から武蔵を見送った。武蔵は十歩ほど歩くと、草鞋の緒を締め直していた。




