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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
風の巻
72/165

必殺の地

 ――まだ月が空に浮かんでいる。


 朝といっても、あまりにも早すぎて、まるで夜と変わらない暗さだった。白い道に、自分たちの影が黒々と映っているのが、どこか不思議に感じられた。


「案外だなあ」


「そうだな。思ったより人数が少ない。百五十人は集まると思っていたんだが」


「この様子だと、半分ってところか」


「もうすぐ壬生源左衛門殿や、その御子息、そしてあの親類の方々が来るだろう。それを加えても、六、七十人が精一杯か」


「吉岡家も衰えたものだ。やはり、清十郎様と伝七郎様、あの二人の柱が抜けてしまったからか。大廈たいかの覆るとはこのことだな」


 誰かが影の中で、ひそひそと囁いていると、少し離れた場所から別の一団が声を上げた。


「気弱なことを言うな! 盛衰は世の常だ」


 また、別のグループが応じる。


「来ない奴は来ないでいいさ。道場を閉じた以上、これからどう生きるかを考える奴もいるだろうし、将来のことを見据えて動く者もいる。全然おかしくないことだ。――その中で、あくまで義を重んじて集まったのが、ここにいる我々だ」


「人数が多ければいいってものじゃない。討つ相手は、たった一人だろ?」


「アハハハ! そう強がるなよ。蓮華王院の時はどうだった? あの時、ここにいる連中は、武蔵を目の前にしながら手も出さず、見送っただけじゃないか」


 周囲は静かだが、叡山えいざん一乗寺山いちじょうじやま、そして如意ヶにょいがたけが背後にそびえ、山々は深い雲に覆われ、まだ眠っているようだった。


 ここは俗に「藪之郷やぶのごう下りさがりまつ」と呼ばれる場所。一乗寺の廃墟へと続く田舎道と山道の分岐点だ。辻が三つに分かれているため、道の選び方一つで進むべき方向が変わる。


 朝の月がその松の上に高く昇り、一本の松の木が、かさばった枝を広げていた。この場所は一乗寺山の裾野に位置しており、道は斜めに傾斜している上、石ころが多く、雨が降ると水が道を流れる場所だった。


 吉岡道場の面々は、その「下り松」を中心に集まり、月明かりに照らされて蟹のように動き回っていた。


「三方向に道が分かれているから、武蔵がどこから来るか考えものだな。同勢を三つに分けて、それぞれの道に伏せ、下り松には名目人の源次郎様に、壬生の源左衛門殿や、御池十郎左、植田良平殿など、古参が十名ほど控えていた方が良いだろう」


 誰かが地形を考えて提案すると、別の人物が反論する。


「いや、ここは狭い。人数を一箇所に集めすぎると不利になる。もっと距離を取り、武蔵が通った後に前と後ろから一気に襲いかかれば、逃がすことはないだろう」


 集まった人数の多さから自然にわき起こる意気は、天を突き抜けるほどの勢いに見えた。刀のこじりが長く影を引き、槍の影も地面に串刺しにするように映っている。彼らの中には、臆病者など一人もいないように見えた。


「――来た、来た!」


 まだ時刻が早いことは分かっていながらも、一人が遠くから叫んだ瞬間、その場にいた全員が緊張し、全身に寒気が走るような静けさに包まれた。


「源次郎様だ」


駕籠かごでいらっしゃったな」


「まだお若いからな」


 人々が目を向けた先には、提灯の灯がちらちらと揺れながら、月の下、風に吹かれて近づいてきたのだった。



「やあ、皆集まったな」


 駕籠かごから降りたのは、年老いた男性だった。そして次に降りてきたのは、まだ十三、四歳ほどの少年。二人とも白い鉢巻を巻き、高々と股立ももだちを掲げていた。彼らは壬生源左衛門みぶのげんざえもんとその息子、源次郎げんじろうだった。


「これ、源次郎」


 父親である源左衛門が、息子に優しく言い聞かせた。


「お前はこの『下りさがりまつ』のところに立っていればいい。松の根元からは決して動くんじゃないぞ」


 源次郎は無言でうなずいた。父は息子の頭を撫でながら続けた。


「今日はお前が名目人だが、戦うのは他の門弟たちだ。まだお前は幼いから、ここでじっと待っているだけでいい」


 源次郎は、再び静かにうなずき、言われた通りに松の根元へ向かって行き、五月人形のように凛々しく立った。


「まだ早い、夜明けまでにはだいぶ時間があるな」


 源左衛門は腰から太閤張たいこうばりの大きな煙管きせるを取り出し、周りを見回しながら言った。


「火はないか?」


 その余裕を見せつけるかのように、彼は仲間に向けて声をかけた。


「壬生の御老台みぶのごろうだい、火打石ならありますが、その前に、人数を手分けして配置してはどうでしょうか」


 御池十郎左衛門みいけじゅうろうざえもんが前に出て提案した。


「それも一理あるな」


 源左衛門は考え込んだ後、うなずいた。幼い息子を果し合いの名目人にすることを惜しまない、実に武士らしい老人であった。彼はすぐに他者の意見に従い、指示を出した。


「――では早速、準備を整えて敵を待つとしよう。しかし、この人数をどうやって分けるのか?」


「この下り松を中心に、三方向に分かれた街道の両脇に、二十間(約36メートル)ほどの距離を置いて、皆を潜ませましょう」


「それで、この場にはどうする?」


「源次郎様のそばには、私と御老台、そして他の十名ほどが控え、彼を守りつつ、武蔵がどの道から来てもすぐに合体して一気に彼を討つ、というわけです」


 源左衛門は少し考え込んだ。そして、静かに言葉をつないだ。


「――だが、もし人数を分けすぎてしまった場合、最初に武蔵にぶつかる人数は二十名程度にしかならない」


「その程度の人数でも、包囲してしまえば――」


「いや、そうとは限らないぞ。武蔵はきっと助太刀を連れて来るだろう。それに、あいつは剣が鋭いだけじゃなく、退却も上手い。いわゆる"逃げ上手"というやつだ。もし、少人数で囲んでしまったら、数人を傷つけてさっと逃げるかもしれん。そして後で、一乗寺址いちじょうじあとで吉岡の門弟七十余名を一人で倒した、と世間に言い触らすことも考えられる」


「それは、絶対に許さない」


 御池十郎左衛門が力強く応じた。


「――つまり、今度こそ武蔵を絶対に逃がしてはならない、ということですね?」


「その通りだ」


「万が一にも武蔵を逃がせば、我々は後世に汚名を残すことになる。だからこそ、今朝は武蔵を討つためには手段を選ばない覚悟です。死人に口なし、武蔵を討ち取った後は、我々が語ることが真実として世に伝わるでしょう」


 御池十郎左衛門は、周囲を見回し、群れている者たちの中から数名の名前を呼び上げた。



 弓を持った門弟が三人、そして鉄砲を持った門弟が一人、前に進み出た。


「お呼びでしょうか?」


 御池十郎左衛門みいけじゅうろうざえもんは「うむ」とうなずくだけで、源左衛門老人に向かって言った。


御老台ごろうだい、実はここまで準備を整えております。これでご心配もなくなったでしょう」


「やれやれ、飛び道具まで用意したか」


「はい、適当な高台や木の上に伏せて待たせております」


「醜い手段だと言われないか? 世間の評判はうるさいぞ」


世評せひょうよりも、まずは武蔵を倒すことが最優先です。勝てば世評などどうにでもなる。負けたら、たとえ真実を語っても世間は泣き言としか受け取らんでしょう」


「うむ、そこまで覚悟を決めているのなら異存はない。たとえ武蔵に数名の加勢がついてきたとしても、飛び道具があれば討ち漏らすことはあるまい……。ただ、評議に時間をかけている間に、不意をつかれてもならんぞ。采配は任せる。すぐに配備せよ」


 老人が納得すると、御池十郎左衛門はすぐに指示を飛ばした。


「潜伏せよ!」


 三方に分かれた街道は、敵を挟撃するために潜伏させた前衛であり、『下りさがりまつ』は本陣として、十人ほどの中堅が残る形となった。門弟たちは次々とやぶに潜り、木陰に隠れ、田のあぜに腹這いになった。


 高い木の上に弓を背負いながらスルスルと登っていく者もいれば、鉄砲を持った者は下り松のこずえによじ登り、月明かりを警戒しながら自分の影を隠すのに苦心していた。


 木の皮や枯れ葉がパラパラと落ちてきた。下にいた源次郎は、首元を手で押さえて、思わず身震いした。


「なんじゃ、震えておるのか。臆病者めが」


 源左衛門老人がそう言うと、源次郎は慌てて答えた。


「背中に松葉が入ったんです。怖くなんかありません!」


「そうか、それならよいが、これもよい経験だ。やがて斬り合いが始まる。よく見ておけよ」


 そう言った直後、三方の街道のうち、東の修学院道の方から突然、


「馬鹿っ!」


 という大きな声が響いた。同時に、藪がざわざわと鳴り響き、人々が潜んでいる様子が明らかになった。源次郎は驚いて、


「怖いっ!」


 と叫び、源左衛門老人の腰にしがみついた。


「来たか!」


 御池十郎左衛門は気配を察し、すぐに声のした方へ駆け出した――が、走りながら何かが違うと感じた。


 案の定、そこにいたのは敵ではなく、六条柳町で一度対面した、佐々木小次郎ささきこじろうだった。小次郎はその場に突っ立って、周囲の吉岡門人たちを叱りつけていた。


「おいおい、何してるんだ? 眼が節穴か? 戦う前にそんなふらついていてどうする。わしを武蔵と勘違いして突っかかるなんて、浮ついた腰じゃ心もとないぞ。今日は試合の立会人として来たんだ。そんな藪から槍を突き出すような真似をして、何を考えているんだ?」


 彼は例の大人びた高慢な顔つきで、門弟たちに向かって怒鳴りつけていた。



 しかし、吉岡方も気が立っている時期で、小次郎の態度には疑念を抱く者もいた。

(こいつ、怪しいぞ)

  (武蔵に助太刀を頼まれて、様子を見に来たんじゃないか?)

  吉岡方の者たちは囁き合い、ひとまず手出しは控えたが、彼を囲んだまま解こうとはしなかった。


 そこへ、十郎左衛門が駆けつけて来た。小次郎はすぐに群れから目を逸らし、十郎左衛門に向かって喰ってかかった。


  「立会人として今朝ここまで来たのに、吉岡衆は私を敵と見なしてきた。これは貴殿の指示なのか? そうならば、不肖ながら、佐々木小次郎として、長らく愛用の物干竿ものほしざおに血のさびを落としていなかったところだ。武蔵に助太刀するつもりはないが、面目上、相手になってもいいぞ。どうするつもりか、答えを聞こう!」


 彼の威勢の良い言葉には、まるで獅子が吠えるような勢いがあった。こうした高飛車な態度は、小次郎の常套的な手口だ。


 しかし、彼の優雅な見た目や前髪に惑わされた者は、その威勢に少し驚いていた。


 だが、十郎左衛門は動じない顔で、 「ハハハハ、これはまた随分とご立腹だな。しかし、今日の試合に貴殿を立会人として、誰が頼んだのか? 吉岡一門としては、依頼した覚えはないぞ。それとも武蔵が頼んだのか?」 と冷静に返した。


「黙れ! 六条の往来で高札を立てた時に、私が双方に伝えただろう!」


  小次郎は激昂したが、十郎左衛門は冷静に続けた。


  「あの時、貴殿が立会人になるとか言っていたな。しかし、武蔵も頼んだ覚えはないし、我々もお願いしたつもりはない。貴殿が勝手に出てきたのだろう。そういうおせっかい者はよくあるものだ」


「言ったな!」と小次郎は怒りを露わにした。

  「帰れ!」と、十郎左衛門はさらに言葉を重ね、 「見世物ではない!」と吐き捨てるように言った。


「……ウム」 小次郎はその言葉を飲み込み、青ざめた顔で一度頷くと、静かに身を翻して立ち去ろうとした。

「――見ていろ、貴様ら!」


 彼が去ろうとしたその時、壬生の源左老人が、遅れて駆けつけてきた。


「お若いの、小次郎殿、待ちたまえ!」 と、後ろから声をかけた。


「私に用はないだろう。今の言葉、後で覚えていろ」と小次郎は言ったが、老人は慌てて彼を引き止めた。

「まあ、そう言わずに、しばし待ってくれ」


 老人は息巻きながら立ち去ろうとする小次郎の前に回り込み、 「私は清十郎の叔父にあたる者でございます。貴殿のことは、清十郎からも頼もしき御仁ごじんと伺っておりました。どうか、門弟どもの無礼を許していただけますよう」


「そのように言われると恐縮だ。四条道場には清十郎殿との縁もあるので、助太刀とまではいかずとも、好意は持っていた。しかし、あまりに酷い口汚さだ」 小次郎は少し冷静さを取り戻した。


「ごもっともです、ご立腹はもっともです。しかし、今のことはどうかお聞き流しになり、清十郎と伝七郎のために、ご協力いただけますようお願い申し上げます」 と、源左老人は巧みに小次郎を宥め、気を静めることに成功した。



 これだけの備えがある以上、小次郎一人の助太刀など頼るにも当たらない。


 しかし、この若者の口から、自分たちの卑怯な戦法が世間に吹聴されることを、源左老人は恐れていたに違いない。


「何卒、水に流していただきたい」と、懇ろに謝る源左老人の態度に、小次郎も前の怒りとは打って変わって、 「いや、御老人、そんなに何度も頭を下げられると、若輩の私としてはどうしてよいか分からなくなります。まずは頭をお上げください」 と、あっさり機嫌を直した。


 そして、吉岡方の者たちに向け、例の流暢な弁舌で激励を始めると同時に、武蔵のことを口を極めて罵り出した。


「私はもともと、清十郎殿とはご懇意でしたし、武蔵とは何の縁もゆかりもない人間です。――そうなれば、人情としても、無縁な武蔵よりは、御縁のある吉岡衆に勝ってもらいたいと思うのが当然でしょう。――それにしても、なんたる不覚、二度までの敗北とは。四条道場は離散、吉岡家は瓦解。……ああ、これほどの悲劇は見たことがない。名門である吉岡家が、一介の田舎剣士のために、このような運命に至るとは」


 小次郎は語気を強め、まるで耳が赤くなるほどの熱弁を振るった。

 源左老人をはじめ、周囲の者たちは彼の言葉に魅せられ、しばし黙り込んでしまった。

 これほどまでに好意を持っている小次郎に対して、なぜあんな暴言を吐いたのかと、十郎左衛門も後悔の念を浮かべていた。


 その空気を感じ取った小次郎は、自分の独壇場であることを確信し、さらに熱を込めて話を続けた。


「私も兵法者として一家を成そうとしている身なので、単なる好奇心ではなく、試合や真剣勝負の場には必ず足を運びます。傍観者としてでも、学ぶことは多いです。しかし、これまでに見てきた試合の中で、貴所方と武蔵の試合ほど、見ていて苛立つものはありませんでした。――蓮華王院でも、蓮台寺野でも、なぜ武蔵を逃がしてしまったのですか? 師を討たれながら、武蔵を洛内で横行させていることが、どうにも理解できません」


 小次郎は乾いた唇を舐めながら続けた。


「たしかに、渡り者の兵法者として、武蔵は驚くべき強さを持っています。彼の剣は確かに天性のもので、野獣のような強さがあります。しかし、だからこそ、正攻法では勝てない。猛獣を罠にかけて捕らえるように、奇策を使わなければ、またしても武蔵に敗れるでしょう。その点について、十分にご考慮なさっているのか」


 源左老人が、既にその点は抜かりなく策を練っていると説明すると、小次郎は頷き、さらに続けた。


「それであれば万が一の討ち洩らしもないでしょう。しかし、念のために、もう一度突っ込んだ策があってもいいと思います」



「――策、ですか?」


 源左衛門老人は、佐々木小次郎の賢そうな顔つきをじっと見つめた。


「いやいや、これ以上の策も準備も必要ないでしょう。ありがたいご好意ですがね」


 そう返すと、小次郎は少し食い下がるように続けた。


「いえいえ、そうではありませんよ、御老人。もし武蔵が正直にここまでやってきたとして、それは皆さんの罠にかかったも同然です。ですが、万が一、ここに備えがあると知ったらどうでしょう?道を変えられてしまったら、それで終わりではないですか?」


「ふん、それならそれでいいさ。京の辻々に『武蔵、逃亡!』と高札を立てて、天下の笑い者にしてやればいい」


「確かに名分は立ちますが、それで本当に満足できますか?武蔵もまた、皆さんの卑劣さを大げさに吹聴するでしょう。そして、師の仇を討ったとはとても言えません。――ここで確実に武蔵を仕留めない限り、意味がないのです。武蔵が必ずこの必殺の地に来るように仕向ける策が、必要だと私は思いますが」


「策……そんなものがあるのか?」


 源左衛門老人が疑わしそうに言うと、小次郎は自信に満ちた口調で答えた。


「ありますよ。策なら、いくらでも……」


 そう言って、小次郎は声を落とし、普段の傲慢な態度とは打って変わって親しげな目つきで、源左衛門老人の耳元に口を寄せた。


「……こうすれば、どうです?」


 小次郎が囁いた内容に、源左衛門老人は何度も頷いた。そして今度は、そのまま御池十郎左衛門にも同じ話を耳打ちしていった。



 一方で、おとといの真夜中、久しぶりに木賃宿きちんやどに現れた宮本武蔵は、宿の老爺おやじを驚かせた。

 その夜、彼は一夜を明かし、翌朝には「鞍馬寺くらまでらへ行ってくる」と告げて宿を出たが、その日一日姿を見せなかった。


(晩には戻るだろう)


 老爺は雑炊を温め、待っていたが、結局その晩も帰らなかった。翌日の黄昏近くになって、ようやく武蔵は戻ってきた。


「鞍馬のお土産だ」


 そう言って、長芋ながいもが包まれたつとを老爺に手渡した。


 さらに、武蔵はもう一つ、近所の店で買った奈良晒布ならざらしを差し出し、「これで肌着と腹巻、それに下紐を縫ってもらいたい」と頼んだ。


 老爺はすぐに近所の娘に縫い物を頼みに行き、その帰りには酒屋から酒を買ってきた。

 武蔵と一緒に山芋汁を肴にして世間話に興じていると、頼んでいた肌着や腹巻ができ上がってきた。

 武蔵はそれを枕元に置いて眠りについた。


 ところが、老爺が真夜中にふと目を覚ますと、裏手の井戸で水浴びをする音が聞こえた。

 何気なく覗いてみると、武蔵はもう寝床を抜け出し、月明かりの下で沐浴を終えていた。そして、宵に仕立ててもらった真っ白な肌着と腹巻を身につけ、いつもの衣服を纏っていた。


 月はまだ高く、西には傾いていない。


「こんな時間に、どこへ行くんだ?」と老爺が尋ねると、武蔵は答えた。


「この数日、京都の町を見て回り、鞍馬にも登った。だが、もうこの京都には少し飽きた。今から月の光を浴びながら叡山えいざんに登り、志賀の湖で日の出を拝む。そして、それを鹿島立ち(旅立ち)のきっかけに、江戸へ向かうつもりだ。……そう決めたら、すっかり目が冴えてしまってな。お前を起こすのも悪いから、宿代と酒代は枕元に置いておいた。少ないが、それで勘弁してくれ。また三年後か四年後か、京都に戻ってきたら、お前の宿に泊まるとしよう」


 そう言い残し、武蔵は立ち去った。


「おやじ、後を閉めておいてくれよ」


 武蔵はそのまま歩き出し、畑道を抜け、北野の通りへと出ていった。老爺は名残惜しそうに小さな窓から武蔵を見送った。武蔵は十歩ほど歩くと、草鞋の緒を締め直していた。

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