明日待酒
額に汗をにじませ、酒のせいもあってか少し赤らんだ顔で、本位田又八は、五条から三年坂まで、脇目も振らずに駆けて来た。
例の旅籠に向かって、石ころの多い坂道を駆け上がり、汚れた長屋門をくぐり抜け、畑の奥にある離れまでやって来ると、
「おふくろ!」
部屋の中を覗き込み、
「なんだ、また昼寝かよ」
と舌打ちしてつぶやいた。
井戸端で一息つき、ついでに手足も洗ってから部屋に戻るが、老母はまだ目を覚まさず、顔を手枕に押しつけて鼾をかいている。
顔のどこが鼻でどこが唇かも分からないほどだ。
「まったく、泥棒猫みたいに暇さえあれば寝てばっかりいやがる」
老母は眠っているかと思ったが、又八の声に薄目を開けて、
「なんじゃ?」
と起き上がった。
「おや、知ってたのか」
「親をなんだと思うんじゃ。こうして寝てるのがわしの養生なんじゃ」
「養生はいいけどさ、俺が少し落ち着いてると『若いくせに元気がない』『暇があれば手がかり探して来い』って怒鳴りつけるくせに、自分だけ昼寝してるのは、親でも勝手すぎるだろ?」
「許しておくれ、気だけはまだ達者なつもりじゃが、体は年には勝てぬようじゃ。それに、あの日、お前と二人でお通を討ち損ねてから、ずいぶん気落ちしてなあ。沢庵坊に抑えられたこの腕が、いまだに痛むのじゃ」
「俺が元気になると思えばおふくろが弱気になるし、おふくろが元気になると思えば俺がやる気をなくす。これじゃあ、いたちごっこだな」
「なんの。今日は一日骨休めに寝ておったが、まだお前に弱音を聞かせるほど老いちゃおらぬぞ。……で、又八、何か世間で、お通の行き先や、武蔵の様子を聞かなかったか?」
「いや、それがさ、もう、耳に入るのも嫌になるくらい大騒ぎだよ。昼寝してるおふくろくらいだろ、知らないのは」
「やっ、なんじゃと? 大騒ぎとは?」
お杉は膝を寄せてきて、
「なんじゃ、又八」
「武蔵が、また吉岡と三度目の決闘をするんだってさ」
「ほう、どこで? いつじゃ?」
「遊廓の総門前にその高札が立ってた。場所は一乗寺村って書いてあったが、詳しいことは書いてなかった。――日は、明日の夜明けだとさ」
「……又八」
「なんだよ」
「お前、その高札を遊廓の総門の脇で見たのか?」
「うん、人だかりがすごかった」
「さては、昼間からそんな所で遊んでおったのか」
「と、とんでもねぇ!」
慌てて手を振りながら、
「稀に酒くらいは飲むが、俺はあれ以来、生まれ変わったつもりで、武蔵とお通の行方を探し回ってんだよ。おふくろに邪推されちゃ、さすがに情けなくなるぜ」
お杉はふと同情を示し、
「又八、機嫌直せ。今のは冗談じゃ。お前の心が定まって、以前のような極道をやめたことくらい、この老母も見ておる。……にしても、武蔵と吉岡の果し合いが明日の夜明けとは急なことじゃのう」
「寅の下刻というから、夜明けもまだ薄暗い時間だな」
「お前、吉岡の門人衆で知り合いがいるといったの」
「いないこともないが……それがどうした?」
「わしを連れて、その吉岡の四条道場へ案内してほしい。――すぐじゃ。お前も準備をせい」
年寄りのせっかちさというのは、ひどく勝手なものだ。今まで悠々と昼寝をしていたことは棚に上げ、
「又八、早くせんか」
と、焦るあまりに眉をひそめて、相手を急かす。
又八は支度もせず、のんびりしたまま、
「なんだよ、そんなに慌てて。軒に火でもついたのかってくらいだな。……第一、吉岡道場に行ってどうするつもりだよ、おふくろの考えは?」
「知れたこと。母子で頼み込んでみるんじゃ」
「何を頼むんだよ……」
「明日の夜明け、吉岡の門弟衆が武蔵を討つと言うておったろ? その討ち手に、わしら母子も加えてもらい、及ばずながら一太刀、恨みを晴らそうというわけじゃ」
「アハハハ、冗談じゃねえぞ、おふくろ!」
「なにを笑う?」
「あまりにも暢気すぎる話だからさ」
「暢気なのはお前じゃろう」
「俺が暢気? おふくろが暢気だろうが、まあ街へ出て世間の噂を聞いてみな。吉岡の連中は清十郎を討たれ、伝七郎もやられて、今度こそは最後の弔い合戦だってんで、もう破れかぶれ。四条道場には、血の気が逆上した奴らが集まってる。もうどうでもいいから、武蔵を討ち取るって公言してるんだよ。師匠の仇を弟子が討つ分には、作法なんて関係ない――ってね。で、今回は大勢でかかる気なんだ」
「ほう……そうか」
聞くだけで嬉しそうに、お杉は目を細めて、
「それなら、いかに武蔵でも、今度はなぶり殺しに遭うだろうな」
「いや、どうなるかは分からない。多分、武蔵だって助太刀を集めてるはずだ。吉岡が大勢なら、武蔵も同じくらいの人数で迎えるだろう。そうなると、まるで戦争のような大騒ぎになるって、今日の京都はその話で持ちきりだ。……そんな大騒ぎの中に、おふくろが『助太刀に参りました!』なんて言って出て行っても、誰も相手にしないだろうさ」
「うーん……それもそうじゃろうが、かといって、わしら母子がこれまで追い続けてきた武蔵が、他人の手で討たれるのを黙って見ているわけにもいかぬ」
「だから俺はこう考えたんだ。明日の夜明け頃に一乗寺村に行ってみれば、果し合いの場所も分かるし、その様子も見られるだろう。――そこで武蔵が吉岡に討たれたら、俺たち母子でその場に行って、武蔵とのいきさつを話して、死体に一太刀くらわせる。武蔵の髪の毛でも片袖でも貰って、『武蔵を討ち取った』って故郷の連中に話せば、それで面目は立つじゃねえか」
「なるほど……お前の考えも悪くないの。そうするより他はないか」
お杉は座り直し、再び落ち着きを取り戻したように、
「それなら、故郷への面目も立つ。……後はお通さえ始末すればいい。武蔵がいなければ、お通は木から落ちた猿も同然じゃ。見つけ次第、成敗するに手間はかからぬ」
独り言のようにうなずきながら、ようやく年寄りのせっかちさも収まったようだ。
又八は、少し醒めてきた酒を思い出すかのように、
「さあ、そうと決まれば、今夜の丑満時までゆっくり休んでおかねえと。……おふくろ、少し早いけど、晩飯に酒を一本つけてくれねえか」
「酒か……ふむ、帳場に言って来い。前祝いに、わしも少し飲もう」
「どれ……」
億劫そうに腰を上げかけた又八が、ふと小窓の横に目をやり、
「あっ!」
と、驚いたように大きな目を見開いた。
窓の外に、白い顔がちらりと見えたのだった。
又八が驚いたのは、それがただ若い女だったからではなく、
「やっ、朱実じゃねえか!」
彼は窓に駆け寄った。
まるで逃げ遅れた子猫のように、朱実は木陰に立ち尽くしていた。
「……まあ、又八さんだったのね」
彼女も驚いたように目を見開いていた。
そして、伊吹山のころから変わらず、どこかに付けているらしい鈴が、彼女の動きに合わせてかすかに鳴った。
「どうしたんだ、こんなところで。どうして急に来たんだ?」
「……でも、私、もうずっと前からここに泊まっていたんです」
「ふうん……それは知らなかったな。お甲と一緒にか?」
「いいえ」
「一人で?」
「ええ」
「お甲とはもう一緒じゃないのか?」
「祇園の藤次を知っているでしょう?」
「ああ」
「藤次と二人で、去年の暮れに世帯を畳んで他国へ逃げてしまったんです。私はその前に、お母さんとも別れて……」
鈴の音が微かに震え、朱実は顔を袂で覆いながら泣き始めた。
木陰の淡い光に照らされた彼女は、伊吹山で見たかつての朱実とは違って見える。
あの頃の艶やかさはもうどこにもなかった。
「――誰だ、又八?」
後ろでお杉が不審そうに訊ねた。又八は振り返り、
「おふくろにも話したことがあるだろう、あの……お甲の養女さ」
「その養女が、なんでわしらの話を窓の外で立ち聞きしていたんだ?」
「悪く取らなくてもいいだろう。この旅籠に泊まっていたんだから、何気なく寄ってみただけさ。……なあ朱実?」
「え、そうなんです。まさか、ここに又八さんがいるなんて夢にも思わなかった……ただ、前にここに迷い込んだ時に、お通という人を見かけたけど」
「お通はもういない。お前、お通と何か話したのか?」
「特に深い話はしなかったけど……後から思い出したんです。あの人が、又八さんの許嫁のお通さんなんでしょう?」
「……まあ、以前はそうだったが」
「又八さんも、お母さんのために……」
「お前はその後、独り身か? だいぶ変わったな」
「私も、お母さんのためにずいぶん辛い思いをしてきました。でも、育ててもらった恩義があるので、我慢してきたんですけど、去年の暮れ、どうしても耐えられなくなって、住吉へ遊びに行った帰りに、一人で逃げたんです」
「お甲には、俺もお前も、人生の出ばなをめちゃくちゃにされたようなもんだ……畜生め、その代わり、ろくな死に方はしやしねえさ、見ていろ」
「……でも、これから先、私はどうしたらいいのかしら?」
「俺だって、これから先の道は真っ暗さ……あいつに意地を見せたいと思ってるけど、なかなかうまくいかねえ」
窓越しに同じような運命を感じて話していると、お杉は一人で旅支度をしていた。彼女は舌打ちして、
「又八、又八。用もない人間と何をぶつぶつ言ってるんだ。この旅籠も今夜限りで立つんだぞ。お前も手伝って片付けでもしろ」
まだ話したそうな様子を見せながらも、お杉に遠慮して、朱実は「じゃあ、また後で……」としおしおと立ち去った。
やがて――
離れの部屋に灯りがともり、夜食が用意された。母子で酒を酌み交わしながら、勘定書が盆に載せられて運ばれてくる。旅籠の手代や主人が次々にやって来て、別れの挨拶を述べる。
「今夜でお立ちですか。長い間のご逗留、何のお構いもできませんでしたが……どうぞ、また京都にお越しの際はぜひお立ち寄りください」
「はい、はい、こちらこそお世話になりました。年末から越年して、いつの間にか三月も過ぎてしまいましたのう」
「いやはや、名残惜しい限りですなあ」
「ご亭主、名残の一盃あげましょうか」
「恐れ入ります……。ところで、ご隠居様、これからはお国へお帰りになるので?」
「いやいや、まだしばらくは国へは戻れませんな」
「そうですか。夜中にお立ちだと伺いましたが、どうしてそんな時刻に?」
「まあ、急に少し大事があってな……そうじゃ、ご亭主、あんたのところに一乗寺村の地図か何かはないか?」
「一乗寺村といえば、白河からかなり離れた淋しい山里で、叡山に近いところですな。夜明け前にそんなところへ向かうとは……」
亭主の話を遮るように、又八がやや苛立った口調で言った。
「場所なんかはいいんだよ。道順だけ教えてくれれば、それでいいんだ」
「かしこまりました。ちょうど一乗寺村出身の雇い人がいますので、聞いて分かりやすく地図にして持って参ります。ですが、一乗寺村といっても広いですよ」
又八は少し酒が回っていたらしく、面倒くさそうに亭主を見ながら言った。
「余計な心配はするな。聞きたいのは道順だけだ」
「失礼いたしました。では、どうぞごゆっくりお支度をなさってください」
揉み手をしながら、亭主は縁側へと退いた。
その時、離れの周囲が急にざわつき、旅籠の雇い人たちが慌てて走り回っているのが見えた。亭主も不審そうに目を細め、番頭が駆け寄ってきた。
「旦那、この辺りで誰か見かけませんでしたか?」
「どうしたんだ?」
「ええ、実は……この間から奥に一人で泊まっていた娘が、どうやら部屋から姿を消しているんです」
「なに? 逃げたってのか?」
「はい。夕方までは確かに見かけたんですが、どうも部屋の様子が……」
「いないのか」
「そうなんです」
「まったく、阿呆どもめが!」
さっきまでとは打って変わって、亭主は怒りを露わにした。丁寧に客の部屋をもてなしていた時の姿は消え、口汚く罵る。
「逃げられてから騒いでも遅い! 初めから怪しい娘だとは分かっていたんだ。七日も八日も泊めてからやっと気付いたのか? そんなことで旅籠商売ができるか!」
「申し訳ございません……まったく一杯食わされました」
「帳場の立替えや旅籠代が倒れるのは仕方ないとして、まずは他のお客様の物が無くなっていないか確認しろ。忌々しい!」
舌打ちしながら、亭主は外の闇に目を光らせた。
夜も更け、母子は酒をなん度も注ぎ足していた。お杉は、先に飯茶碗を手に取りながら言った。
「又八、お前もそろそろ酒はやめたらどうだ?」
「これで最後だ」と、又八は自分で酒を注ぎ、続けた。「飯なんか、もうたくさんだ」
「少し湯漬けでも食べておかないと、体に悪いぞ」
外を見ると、旅籠の雇い人たちが、提灯を持って忙しく出入りしているのが見えた。それを見たお杉はつぶやいた。
「まだ捕まらないみたいだね」
そう言いながら、お杉は言葉を続けた。
「旅籠代を払わずに逃げたっていう娘、あれ、昼間お前が窓越しに話していた朱実じゃないのか?」
「たぶんそうだな」
「お甲に育てられた養女だなんて、どうせろくな者じゃないだろうさ。あんな女と付き合うのはやめておきな」
「……でも、あの女も考えてみれば、可哀そうなものだよ」
「他人に同情するのは勝手だが、旅籠代をこっちが肩代わりさせられちゃ、たまらない。ここを出るまでは知らんぷりしておけ」
「…………」
又八は、別のことを考えているようで、頭を掻きながら横になった。
「忌々しい女だ……思い出すと、あいつの顔が天井に浮かんでくる。俺の人生を狂わせた真の敵は、武蔵でも、お通でもなく、あのお甲だ」
お杉はその言葉に反応し、ピシャリと言った。
「何を言うんだ。お甲なんぞを討ったところで、故郷の連中が誉めるわけもないし、家の名を挙げることもできないよ」
「……ああ、世の中ってのは面倒くさいもんだ」
その時、旅籠の亭主が縁先から提灯を持って顔を出し、言った。
「ご隠居様、丑の刻が過ぎましたが、そろそろお立ちですか?」
「どれ……出発しましょうかね」
又八は伸びをしながら言った。
「ところで、さっきの食い逃げ娘、捕まったのか?」
「いや、どうやら逃げ切ったようで。顔がそこそこ良かったんで、もし旅籠代が取れなくても、働かせればなんとかなると思ってたんですが、まんまと逃げられてしまいましたよ」
草鞋の紐を締めながら、又八は振り返って言った。
「おい、母さん、何やってるんだよ? 俺を急かしておいて、自分がもたもたしてどうするんだ」
「まあ待ちなさい、そんなに急かさなくてもいいじゃないか……ところで又八、あの巾着はどこに置いたっけ?」
「巾着? そんなもの俺は知らないけど」
「いや、あんたに預けたはずだぞ。旅包みの横に置いたはずの、旅籠代を払うための巾着だ」
その時、お杉は旅包みを見て、そこに結びつけられた紙片を発見した。
「なんだって……! なんて図々しいんだ、元の縁を免じて拝借する、罪を許してくれだと?」
「ふん……じゃあ、朱実が持ち逃げしたんだな」
「盗んでおいて、罪を許してくれなんて……ありえない! ご亭主、客の盗難について、宿主も責任を取るべきじゃないか。どうしてくれるんだ?」
お杉が怒りをあらわにすると、亭主は冷静に返した。
「それじゃあ、ご隠居様も、あの食い逃げ娘と知り合いだったんですね……それなら、うちが肩代わりした勘定を、先に何とかしていただけませんか?」
亭主が言うと、お杉は慌てて顔を横に振った。
「な、何を言ってるんだ! あんな娘と知り合いなわけがない! さあ、又八、もたもたしてると鶏が鳴くよ、さっさと行こう!」




