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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
風の巻
71/165

明日待酒

 ひたいに汗をにじませ、酒のせいもあってか少し赤らんだ顔で、本位田又八ほんいでん またはちは、五条から三年坂さんねんざかまで、脇目も振らずに駆けて来た。


 例の旅籠はたごに向かって、石ころの多い坂道を駆け上がり、汚れた長屋門をくぐり抜け、畑の奥にある離れまでやって来ると、

「おふくろ!」

 部屋の中を覗き込み、

「なんだ、また昼寝かよ」

 と舌打ちしてつぶやいた。


 井戸端で一息つき、ついでに手足も洗ってから部屋に戻るが、老母おふくろはまだ目を覚まさず、顔を手枕に押しつけていびきをかいている。


 顔のどこが鼻でどこが唇かも分からないほどだ。


「まったく、泥棒猫みたいに暇さえあれば寝てばっかりいやがる」


 老母は眠っているかと思ったが、又八の声に薄目を開けて、

「なんじゃ?」

 と起き上がった。


「おや、知ってたのか」


「親をなんだと思うんじゃ。こうして寝てるのがわしの養生ようじょうなんじゃ」


「養生はいいけどさ、俺が少し落ち着いてると『若いくせに元気がない』『暇があれば手がかり探して来い』って怒鳴りつけるくせに、自分だけ昼寝してるのは、親でも勝手すぎるだろ?」


「許しておくれ、気だけはまだ達者なつもりじゃが、体は年には勝てぬようじゃ。それに、あの日、お前と二人でおつうを討ち損ねてから、ずいぶん気落ちしてなあ。沢庵たくあん坊に抑えられたこの腕が、いまだに痛むのじゃ」


「俺が元気になると思えばおふくろが弱気になるし、おふくろが元気になると思えば俺がやる気をなくす。これじゃあ、いたちごっこだな」


「なんの。今日は一日骨休めに寝ておったが、まだお前に弱音を聞かせるほど老いちゃおらぬぞ。……で、又八、何か世間で、お通の行き先や、武蔵むさしの様子を聞かなかったか?」


「いや、それがさ、もう、耳に入るのも嫌になるくらい大騒ぎだよ。昼寝してるおふくろくらいだろ、知らないのは」


「やっ、なんじゃと? 大騒ぎとは?」


 お杉は膝を寄せてきて、

「なんじゃ、又八」


「武蔵が、また吉岡よしおかと三度目の決闘をするんだってさ」


「ほう、どこで? いつじゃ?」


遊廓くるわの総門前にその高札こうさつが立ってた。場所は一乗寺村いちじょうじむらって書いてあったが、詳しいことは書いてなかった。――日は、明日あしたの夜明けだとさ」


「……又八」


「なんだよ」


「お前、その高札を遊廓の総門の脇で見たのか?」


「うん、人だかりがすごかった」


「さては、昼間からそんな所で遊んでおったのか」


「と、とんでもねぇ!」


 慌てて手を振りながら、

たまに酒くらいは飲むが、俺はあれ以来、生まれ変わったつもりで、武蔵とお通の行方を探し回ってんだよ。おふくろに邪推されちゃ、さすがに情けなくなるぜ」


 お杉はふと同情を示し、

「又八、機嫌直せ。今のは冗談じゃ。お前の心が定まって、以前のような極道ごくどうをやめたことくらい、この老母も見ておる。……にしても、武蔵と吉岡の果し合いが明日の夜明けとは急なことじゃのう」


「寅の下刻とらのげこくというから、夜明けもまだ薄暗い時間だな」


「お前、吉岡の門人衆で知り合いがいるといったの」


「いないこともないが……それがどうした?」


「わしを連れて、その吉岡の四条道場しじょうどうじょうへ案内してほしい。――すぐじゃ。お前も準備をせい」



 年寄りのせっかちさというのは、ひどく勝手なものだ。今まで悠々と昼寝をしていたことは棚に上げ、

「又八、早くせんか」

 と、焦るあまりに眉をひそめて、相手を急かす。


 又八は支度もせず、のんびりしたまま、

「なんだよ、そんなに慌てて。軒に火でもついたのかってくらいだな。……第一、吉岡道場に行ってどうするつもりだよ、おふくろの考えは?」


「知れたこと。母子おやこで頼み込んでみるんじゃ」


「何を頼むんだよ……」


「明日の夜明け、吉岡の門弟衆が武蔵を討つと言うておったろ? その討ち手に、わしら母子も加えてもらい、及ばずながら一太刀、恨みを晴らそうというわけじゃ」


「アハハハ、冗談じゃねえぞ、おふくろ!」


「なにを笑う?」


「あまりにも暢気すぎる話だからさ」


「暢気なのはお前じゃろう」


「俺が暢気? おふくろが暢気だろうが、まあ街へ出て世間の噂を聞いてみな。吉岡の連中は清十郎せいじゅうろうを討たれ、伝七郎でんしちろうもやられて、今度こそは最後の弔い合戦だってんで、もう破れかぶれ。四条道場には、血の気が逆上した奴らが集まってる。もうどうでもいいから、武蔵を討ち取るって公言してるんだよ。師匠のかたきを弟子が討つ分には、作法なんて関係ない――ってね。で、今回は大勢でかかる気なんだ」


「ほう……そうか」


 聞くだけで嬉しそうに、お杉は目を細めて、

「それなら、いかに武蔵でも、今度はなぶり殺しに遭うだろうな」


「いや、どうなるかは分からない。多分、武蔵だって助太刀を集めてるはずだ。吉岡が大勢なら、武蔵も同じくらいの人数で迎えるだろう。そうなると、まるで戦争のような大騒ぎになるって、今日の京都みやこはその話で持ちきりだ。……そんな大騒ぎの中に、おふくろが『助太刀に参りました!』なんて言って出て行っても、誰も相手にしないだろうさ」


「うーん……それもそうじゃろうが、かといって、わしら母子がこれまで追い続けてきた武蔵が、他人の手で討たれるのを黙って見ているわけにもいかぬ」


「だから俺はこう考えたんだ。明日の夜明け頃に一乗寺村いちじょうじむらに行ってみれば、果し合いの場所も分かるし、その様子も見られるだろう。――そこで武蔵が吉岡に討たれたら、俺たち母子でその場に行って、武蔵とのいきさつを話して、死体に一太刀くらわせる。武蔵の髪の毛でも片袖でも貰って、『武蔵を討ち取った』って故郷の連中に話せば、それで面目は立つじゃねえか」


「なるほど……お前の考えも悪くないの。そうするより他はないか」


 お杉は座り直し、再び落ち着きを取り戻したように、

「それなら、故郷への面目も立つ。……後はお通さえ始末すればいい。武蔵がいなければ、お通は木から落ちた猿も同然じゃ。見つけ次第、成敗するに手間はかからぬ」


 独り言のようにうなずきながら、ようやく年寄りのせっかちさも収まったようだ。


 又八は、少し醒めてきた酒を思い出すかのように、

「さあ、そうと決まれば、今夜の丑満うしみつ時までゆっくり休んでおかねえと。……おふくろ、少し早いけど、晩飯に酒を一本つけてくれねえか」


「酒か……ふむ、帳場に言って来い。前祝いに、わしも少し飲もう」


「どれ……」


 億劫おっくうそうに腰を上げかけた又八が、ふと小窓の横に目をやり、

「あっ!」

 と、驚いたように大きな目を見開いた。



 窓の外に、白い顔がちらりと見えたのだった。


 又八が驚いたのは、それがただ若い女だったからではなく、

「やっ、朱実あけみじゃねえか!」

 彼は窓に駆け寄った。


 まるで逃げ遅れた子猫のように、朱実は木陰に立ち尽くしていた。


「……まあ、又八さんだったのね」


 彼女も驚いたように目を見開いていた。


 そして、伊吹山のころから変わらず、どこかに付けているらしい鈴が、彼女の動きに合わせてかすかに鳴った。


「どうしたんだ、こんなところで。どうして急に来たんだ?」


「……でも、私、もうずっと前からここに泊まっていたんです」


「ふうん……それは知らなかったな。おおこうと一緒にか?」


「いいえ」


「一人で?」


「ええ」


「お甲とはもう一緒じゃないのか?」


「祇園の藤次とうじを知っているでしょう?」


「ああ」


「藤次と二人で、去年の暮れに世帯を畳んで他国へ逃げてしまったんです。私はその前に、お母さんとも別れて……」


 鈴の音が微かに震え、朱実は顔をたもとで覆いながら泣き始めた。


 木陰の淡い光に照らされた彼女は、伊吹山で見たかつての朱実とは違って見える。


 あの頃の艶やかさはもうどこにもなかった。


「――誰だ、又八?」


 後ろでお杉が不審そうに訊ねた。又八は振り返り、

「おふくろにも話したことがあるだろう、あの……お甲の養女むすめさ」


「その養女が、なんでわしらの話を窓の外で立ち聞きしていたんだ?」


「悪く取らなくてもいいだろう。この旅籠はたごに泊まっていたんだから、何気なく寄ってみただけさ。……なあ朱実?」


「え、そうなんです。まさか、ここに又八さんがいるなんて夢にも思わなかった……ただ、前にここに迷い込んだ時に、おおつうという人を見かけたけど」


「お通はもういない。お前、お通と何か話したのか?」


「特に深い話はしなかったけど……後から思い出したんです。あの人が、又八さんの許嫁いいなずけのお通さんなんでしょう?」


「……まあ、以前はそうだったが」


「又八さんも、お母さんのために……」


「お前はその後、独り身か? だいぶ変わったな」


「私も、お母さんのためにずいぶん辛い思いをしてきました。でも、育ててもらった恩義があるので、我慢してきたんですけど、去年の暮れ、どうしても耐えられなくなって、住吉へ遊びに行った帰りに、一人で逃げたんです」


「お甲には、俺もお前も、人生の出ばなをめちゃくちゃにされたようなもんだ……畜生め、その代わり、ろくな死に方はしやしねえさ、見ていろ」


「……でも、これから先、私はどうしたらいいのかしら?」


「俺だって、これから先の道は真っ暗さ……あいつに意地を見せたいと思ってるけど、なかなかうまくいかねえ」


 窓越しに同じような運命を感じて話していると、お杉は一人で旅支度をしていた。彼女は舌打ちして、

「又八、又八。用もない人間と何をぶつぶつ言ってるんだ。この旅籠も今夜限りで立つんだぞ。お前も手伝って片付けでもしろ」



 まだ話したそうな様子を見せながらも、お杉に遠慮して、朱実あけみは「じゃあ、また後で……」としおしおと立ち去った。


 やがて――


 離れの部屋に灯りがともり、夜食が用意された。母子おやこで酒を酌み交わしながら、勘定書が盆に載せられて運ばれてくる。旅籠はたごの手代や主人が次々にやって来て、別れの挨拶を述べる。


「今夜でお立ちですか。長い間のご逗留、何のお構いもできませんでしたが……どうぞ、また京都にお越しの際はぜひお立ち寄りください」


「はい、はい、こちらこそお世話になりました。年末から越年して、いつの間にか三月も過ぎてしまいましたのう」


「いやはや、名残惜しい限りですなあ」


「ご亭主、名残の一盃ひとはいあげましょうか」


「恐れ入ります……。ところで、ご隠居様、これからはお国へお帰りになるので?」


「いやいや、まだしばらくは国へは戻れませんな」


「そうですか。夜中にお立ちだと伺いましたが、どうしてそんな時刻に?」


「まあ、急に少し大事があってな……そうじゃ、ご亭主、あんたのところに一乗寺村いちじょうじむらの地図か何かはないか?」


「一乗寺村といえば、白河からかなり離れた淋しい山里で、叡山えいざんに近いところですな。夜明け前にそんなところへ向かうとは……」


 亭主の話を遮るように、又八がやや苛立った口調で言った。


「場所なんかはいいんだよ。道順だけ教えてくれれば、それでいいんだ」


「かしこまりました。ちょうど一乗寺村出身の雇い人がいますので、聞いて分かりやすく地図にして持って参ります。ですが、一乗寺村といっても広いですよ」


 又八は少し酒が回っていたらしく、面倒くさそうに亭主を見ながら言った。


「余計な心配はするな。聞きたいのは道順だけだ」


「失礼いたしました。では、どうぞごゆっくりお支度をなさってください」


 揉み手をしながら、亭主は縁側へと退いた。


 その時、離れの周囲が急にざわつき、旅籠の雇い人たちが慌てて走り回っているのが見えた。亭主も不審そうに目を細め、番頭が駆け寄ってきた。


「旦那、この辺りで誰か見かけませんでしたか?」


「どうしたんだ?」


「ええ、実は……この間から奥に一人で泊まっていた娘が、どうやら部屋から姿を消しているんです」


「なに? 逃げたってのか?」


「はい。夕方までは確かに見かけたんですが、どうも部屋の様子が……」


「いないのか」


「そうなんです」


「まったく、阿呆どもめが!」


 さっきまでとは打って変わって、亭主は怒りを露わにした。丁寧に客の部屋をもてなしていた時の姿は消え、口汚く罵る。


「逃げられてから騒いでも遅い! 初めから怪しい娘だとは分かっていたんだ。七日も八日も泊めてからやっと気付いたのか? そんなことで旅籠商売ができるか!」


「申し訳ございません……まったく一杯食わされました」


「帳場の立替えや旅籠代が倒れるのは仕方ないとして、まずは他のお客様の物が無くなっていないか確認しろ。忌々しい!」


 舌打ちしながら、亭主は外の闇に目を光らせた。



 夜も更け、母子おやこは酒をなん度も注ぎ足していた。お杉は、先に飯茶碗を手に取りながら言った。


「又八、お前もそろそろ酒はやめたらどうだ?」


「これで最後だ」と、又八は自分で酒を注ぎ、続けた。「飯なんか、もうたくさんだ」


「少し湯漬けでも食べておかないと、体に悪いぞ」


 外を見ると、旅籠はたごの雇い人たちが、提灯ちょうちんを持って忙しく出入りしているのが見えた。それを見たお杉はつぶやいた。


「まだ捕まらないみたいだね」


 そう言いながら、お杉は言葉を続けた。


「旅籠代を払わずに逃げたっていう娘、あれ、昼間お前が窓越しに話していた朱実あけみじゃないのか?」


「たぶんそうだな」


「お甲に育てられた養女むすめだなんて、どうせろくな者じゃないだろうさ。あんな女と付き合うのはやめておきな」


「……でも、あの女も考えてみれば、可哀そうなものだよ」


「他人に同情するのは勝手だが、旅籠代はたごだいをこっちが肩代わりさせられちゃ、たまらない。ここを出るまでは知らんぷりしておけ」


「…………」


 又八は、別のことを考えているようで、頭を掻きながら横になった。


「忌々しい女だ……思い出すと、あいつの顔が天井に浮かんでくる。俺の人生を狂わせた真の敵は、武蔵でも、お通でもなく、あのお甲だ」


 お杉はその言葉に反応し、ピシャリと言った。


「何を言うんだ。お甲なんぞを討ったところで、故郷の連中が誉めるわけもないし、家の名を挙げることもできないよ」


「……ああ、世の中ってのは面倒くさいもんだ」


 その時、旅籠の亭主が縁先から提灯を持って顔を出し、言った。


「ご隠居様、丑の刻が過ぎましたが、そろそろお立ちですか?」


「どれ……出発しましょうかね」


 又八は伸びをしながら言った。


「ところで、さっきの食い逃げ娘、捕まったのか?」


「いや、どうやら逃げ切ったようで。顔がそこそこ良かったんで、もし旅籠代が取れなくても、働かせればなんとかなると思ってたんですが、まんまと逃げられてしまいましたよ」


 草鞋わらじの紐を締めながら、又八は振り返って言った。


「おい、母さん、何やってるんだよ? 俺を急かしておいて、自分がもたもたしてどうするんだ」


「まあ待ちなさい、そんなに急かさなくてもいいじゃないか……ところで又八、あの巾着きんちゃくはどこに置いたっけ?」


「巾着? そんなもの俺は知らないけど」


「いや、あんたに預けたはずだぞ。旅包みの横に置いたはずの、旅籠代を払うための巾着だ」


 その時、お杉は旅包みを見て、そこに結びつけられた紙片を発見した。


「なんだって……! なんて図々しいんだ、元の縁を免じて拝借する、罪を許してくれだと?」


「ふん……じゃあ、朱実が持ち逃げしたんだな」


「盗んでおいて、罪を許してくれなんて……ありえない! ご亭主、客の盗難について、宿主も責任を取るべきじゃないか。どうしてくれるんだ?」


 お杉が怒りをあらわにすると、亭主は冷静に返した。


「それじゃあ、ご隠居様も、あの食い逃げ娘と知り合いだったんですね……それなら、うちが肩代わりした勘定を、先に何とかしていただけませんか?」


 亭主が言うと、お杉は慌てて顔を横に振った。


「な、何を言ってるんだ! あんな娘と知り合いなわけがない! さあ、又八、もたもたしてると鶏が鳴くよ、さっさと行こう!」

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