縛り笛
近くの山は漆のように黒く、遠くの山は雲母のように淡く光っていた。
晩春の頃で、風は生暖かかった。
道端の熊笹や藤蔓には、蜘蛛の巣が張り巡らされている。人里を離れるほど、山は宵の雨を受けたかのようにしっとりと濡れていた。
「のんびりしてるなぁ、お通さん」と、竹杖に荷物をくくりつけた沢庵が言った。
お通は、荷物の後ろ側を担ぎながら、「全然のんびりなんてしてませんよ。一体どこまで行くつもりですか?」と返事をした。
「さぁな……もうちょっと歩こうか」と沢庵は曖昧に返事をする。
「歩くのは構いませんけど……」
「疲れたか?」と、沢庵が心配するが、
「いいえ」と、お通は肩を左右に振り替えながら答えた。
どうやら右肩が痛むようで、時折、左肩に杖を移していた。
「誰にも会いませんね」とお通が呟くと、沢庵は肩越しに振り返って、「今日は、どじょう髯の大将が一日寺にいなかったから、山狩りの者たちも里に引き揚げて、約束の三日間を見物してる腹なんだろうさ」と言った。
「でも、沢庵さん。どうしてあんなことを言って、武蔵さんを捕まえようなんてするんですか?」お通の声には不安が混じっている。
「そのうち出てくるさ」と沢庵は軽く答えた。
「出てきたって、武蔵さんはもともととても強い人です。それに今は、山狩りの者たちに囲まれて、もう死にもの狂いになってるでしょう。あんな状態の武蔵さん、まるで悪鬼みたいで……考えるだけで、足が震えてきます」と、お通は言った。
沢庵はそんな彼女に「ほら、足元を気をつけろ」と軽く注意した。
「きゃっ! ああ、びっくりしたじゃないですか!」お通は驚いた。
「武蔵が出たわけじゃないよ。道端に藤蔓や茨が張り巡らされてるだけだ」と沢庵は落ち着いて言った。
「山狩りの者たちが武蔵さんを追い詰めるために作った罠ですね」と、お通は息をついた。
「気をつけないと、俺たちが落とし穴に落ちちまうよ」と、沢庵は軽く笑った。
「そんなこと聞くと、もう怖くて一歩も歩けなくなります……」
「もし落ちるなら、俺が先だ。だがまぁ、つまらない骨折りをしたもんだ……おお、だいぶ谷が狭くなってきたな」と沢庵は崖の際に近づき、足を止めた。
「讃甘もの山は、さっき越えましたね。もうこの辺りは辻ノ原かと……」
「夜通し歩いてばかりでも仕方ないな」
「私に相談されても、知りませんよ」
「ちょっと、荷物を下ろそう」と言って、沢庵は崖の際まで歩いていき、ふっと息をついた。
「どうするんです?」お通が尋ねると、沢庵は満足げに崖を見下ろしながら答えた。
「おしっこだよ」
下には、英田川の上流が見える。激しい流れが百尺の巌から巌へとぶつかり、激しい音を立てている。
「うーん、気持ちいい……」と、沢庵は星を数えるように天を仰ぎながら、霧をまとわせていた。
「沢庵さん、まだですか? ずいぶん長いですね」と、お通は心細げに言った。
やっと戻ってきた沢庵は、「ついでに、易を占ってきた」と言いながら満足そうに笑った。
「さあ、これで見当がついた。もう迷うことはない」
「易を?」
「まぁ、俺のは心易だ。いや、霊易と言った方がいいな。地相、水相、天象を見て、目を閉じてじっと考えたら、あの山に行けと占いが出たんだ」と沢庵は指をさして言った。
「高照山のことですか?」
「その名は知らんが、中腹に木がない高原が見えるだろう?」
「それは、いたどり牧です」
「いたどり……去った者を捕らえる、か。さい先がいいな!」と沢庵は大きく笑った。
ここは東南に向かってなだらかな傾斜が広がり、広い展望を持つ高照峰の中腹だ。
村では「いたどりの牧」と呼ばれている場所で、牧というからには牛か馬が放牧されているはずだが、今は寂しげに風が草をなでるだけで、影一つ見当たらない。
「さあ、ここで陣を張るぞ。武蔵はまるで魏の曹操、私は諸葛孔明ってところかな」と、沢庵は言って座り込んだ。
お通も荷物を降ろし、「――ここで何をするんです?」と尋ねた。
「ただ座っているのさ」と沢庵が応える。
「座っていて武蔵さんが捕まるんですか?」
「網を張れば空を飛ぶ鳥も捕まる。そんなに難しいことじゃないさ」と沢庵は余裕の表情を見せた。
「沢庵さん、狐にでも憑かれてるんじゃないですか?」とお通が半信半疑で言う。
「火を焚こう。もしかしたら、引き寄せられるかもしれない」と、沢庵は言いながら枯れ木を集め、焚き火を始めた。
お通は少し安心した様子で、「火って、意外に賑やかなんですね」とつぶやく。
「心細かったのか?」と沢庵が尋ねると、お通はうなずいた。
「それは……誰だって、こんな山奥で夜を明かすのは怖いものですよ。それに、雨が降ってきたらどうするんです?」とお通は心配する。
「登ってくる途中で、下の道に横穴があるのを見かけた。もし雨が降ったら、そこへ逃げ込めばいい」と沢庵は言いながら、火を見つめる。
「武蔵さんも、雨の日や夜は、そんなところに隠れているんでしょうね。……でも、一体どうして村の人たちは、あんなに武蔵さんを敵視するんでしょう?」とお通が不思議そうに尋ねた。
「それはただ、権力がそうさせるんだ。純朴な民ほど官権を恐れる。だから官権に逆らうことを恐れ、自分たちの兄弟を郷土から追い出そうとするんだよ」と沢庵は静かに説明する。
「つまり、自分たちの身を守るために?」とお通が続ける。
「無力な民にはそれも仕方ないがな」と沢庵は少し同情の色を見せる。
「でも、理解できないのは姫路のお武士たちです。たった一人の武蔵さんを相手に、あんなに大騒ぎしなくても……」とお通は不満を漏らす。
「いや、それも治安を守るためにはやむを得ないことだ。そもそも武蔵が関ヶ原から逃げ続け、常に追われているような気持ちで村に戻った時、国境の木戸を破って入ってきたのがまずかった。木戸を守っていた藩士を殺し、それ以降も次々と人を殺してしまったのは、武蔵自身の未熟さが招いた結果だ」と沢庵は冷静に言った。
「あなたも、武蔵さんを憎んでいるんですか?」とお通は少し驚いた。
「憎むとも。わしが領主であれば、厳しく処罰して、見せしめにするだろう。もし武蔵が地を這うように逃げたとしても、草の根を掻き分けて捕らえ、磔刑に処すだろう。武蔵一人を甘やかせば、領地の紀綱が乱れる。それに今は乱世だ」と、沢庵は断言した。
「沢庵さん、普段は優しいのに、案外厳しいんですね」とお通は驚きを隠せない。
「厳しいとも。わしは公明正大な罰を与える者だ。それがわしの役目だ」と沢庵は力強く答えた。
「……あれ?」突然お通は、焚き火の近くで何かに気づき、ビクリと立ち上がった。
「どうした?」
「今、あっちの木々の中で、ガサッと足音がしませんでしたか?」
「ん? 足音だって?」
沢庵も気になって耳を澄ましたが、やがて大声で笑いながら言った。
「あはは、猿だ、猿だ! 親子猿が木の枝を渡ってるのが見えるぞ」
お通はホッとした様子で、
「……あぁ、びっくりしました」
と呟き、再び座り直した。
焚火の炎を見つめながら、二人はしばらくの間、黙り込んでいた。
夜が更けるに従い、ただ焚火の音だけが響いていた。沢庵は、消えかけた焚火に枯れ木をくべながら尋ねた。
「お通さん、何を考えているんだい?」
お通は腫れぼったい瞼で星空を見上げ、
「私は、この世の中が何と不思議なものだろうって考えていました。じっとこうしていると、無数の星が、静寂の深夜に動いているのがわかるんです。深夜すらも、全ての存在を抱きしめながら、大きく動いているように感じます。どうしても、この世界は止まることなく、常に動いているんだと。それと同時に、私自身も、何か目に見えない力に支配されて、運命が刻々と変わっていくんじゃないかって……そんなことを、ぼんやりと考えていました」
沢庵はにやりと笑って、
「嘘だろう。そんなことを考えていたかもしれんが、お通さんにはもっと別のことを必死に考え込んでいるはずだ」
と言った。
「…………」
「悪かったら謝るがね、実はお通さん、あの飛脚から届いた手紙、わしは読んでおるんだよ」
「えっ、あれを?」
「機舎で拾ったのに、あんたは手もつけずに泣いていたから、わしが預かっておいたんだ。……退屈しのぎに、まあ細かく読んでしまったのさ」
「まあ、ひどい!」
「一切の理由が分かったよ。……お通さん、あのことはむしろあんたにとって幸せなことじゃないか」
「どうしてです?」
「又八みたいな浮気性の男だ。もしあんたが彼の女房になってから去り状を突きつけられていたらどうする。まだそうならないうちだから、わしはむしろ喜んでいるんだ」
「女には、そんな風に考えることなんてできないんです」
「じゃあ、どう考えているんだ?」
「悔しくて……!」
お通は不意に自分の袖口に噛みつき、
「……きっと、きっと、私は又八さんを見つけ出して、思いの丈をぶつけてやらなければ、この胸の怒りが収まりません。そして、お甲とかいう女にも!」
沢庵は、お通の横顔を見つめながら、
「始まったな……」
と小さく呟いた。
「――お通さんだけは、世間の悪や人の裏表を知らずに、娘からおかみさん、そして婆さんになって、無憂華のような清らかな生涯を送るかと思ったら、やはりお通さんにも運命の荒い風が吹き始めたようだ」
「沢庵さん! ……わ、私はどうすればいいんでしょう! ……悔しい……悔しい!」
お通は、涙にくれた顔を袂に埋めたまま、体を震わせながら泣き続けていた。
昼間は山の横穴に隠れて、眠れるだけ眠る二人。食べ物には困っていなかった。だが、一番肝心なはずの武蔵を捕まえる件について、沢庵は一向に探そうともせず、気にしている様子もない。
三日目の夜がやってきた。いつものように焚火のそばでお通は言った。
「沢庵さん、今夜が最後ですよ。約束の三日が過ぎます」
「そうだな」
「どうするつもりですか?」
「何を?」
「何をって、あなたは大変な約束をしてここに来たんじゃないですか!」
「ウム」
「もし今夜中に武蔵さんを捕まえなければ…」
沢庵は彼女の言葉を遮り、
「分かっている。もし間違えたら、この首を千年杉の枝で縊りましょう。ただ、それだけのことだ。だが、心配はいらない。わしだって、まだ死にたくはない」
「なら、少しは探しに行ったらどうですか?」
「探しに行ったって会えるわけがない。この山中ではな」
「本当にあなたの考えが分かりません。私まで、こうしていると『なるようになれ』って気持ちになって、度胸が据わってきそうです」
「それだ、それが度胸だよ」
「じゃあ沢庵さんは、度胸だけでこんなことを引き受けたんですか?」
「まあ、そうだな」
「アア、心細い」
少しは自信があるだろうと密かに期待していたお通だったが、今は本当に不安になっていた。
――この人、馬鹿かしら? そう疑い出した。
沢庵は相変わらずぼんやりとした顔つきで焚火を見つめ、
「もう夜半だな」
と今になって気づいたように呟いた。
「そうですよ、もうすぐ夜が明けます」
わざとお通は少し切羽詰まった口調で返した。
「さてな……」
「何を考えているんです?」
「もうそろそろ出て来てもおかしくないのだが」
「武蔵さんがですか?」
「そうだ」
「自ら捕まえられに来る人がいるものですか!」
「いや、そうではない。人間の心というのは、実はとても弱いものだ。孤独は本来、耐えがたいものだ。ましてや、周囲の人間すべてに邪視され、追われ、世間からも冷たく見られ、刃の中に囲まれている者なら尚更だ。……さてな? この温かい火の光を見て、訪ねて来ないわけがない」
「それは、沢庵さんの勝手な思い込みじゃないですか?」
「いや、違う」
俄然、自信に満ちた声で首を横に振った。お通は、そう反対された方がむしろ嬉しかった。
「――考えてみるに、新免武蔵はもうすぐそこまで来ているはずだ。だが、わしが敵か味方か分からないのだ。疑心暗鬼に囚われて、物陰に隠れ、卑屈な眼でこちらを伺っていることだろう……そうだ、お通さん、そなたが帯に差している物、それをわしに貸してくれないか?」
「この横笛のことですか?」
「ウム、その笛を」
「いやです。こればかりは誰にも貸せません」
「なぜだ?」
いつになく、沢庵は執拗に聞いた。
「理由なんて…」
お通は首を振る。
「貸してもいいじゃないか。笛は吹けば吹くほど良くなるもので、減りはしないだろう」
「でも……」
お通は帯に手を当て、依然として「はい」とは言わなかった。
もちろん、沢庵は彼女がこの笛を肌身離さず持ち歩いている理由を知っている。
お通自身が話してくれた身の上話を覚えていた。しかし、ここで貸してくれるくらいの寛容さはあってもいいはずだ、と彼は思った。
「粗相には扱わない。とにかく、ちょっと見せてくれ」
「嫌です」
「どうしてもか?」
「ええ……どうしてもです」
「強情だなあ」
「ええ、強情です」
「じゃあ……」
ついに沢庵は折れて言った。
「お通さんが自分で吹いてくれてもいい。何か一曲」
「嫌です」
「それも嫌か?」
「ええ」
「どうしてだ?」
「涙がこぼれて吹けませんもの」
「……そうか」
沢庵は、孤児であるお通の頑固さに哀れみを感じた。
彼女の心は、常に冷たく空虚で、何かを渇望しているのだ。
彼女の孤児としての境遇が、持たざる愛への深い渇望を抱かせていることに気づいた。
それは、親からの愛の象徴であり、彼女の笛はその唯一のつながりだった。
実はその笛は、彼女の親の遺物だったのだ。
お通がまだ赤ん坊だった頃、七宝寺の縁側に捨てられていた際に、その帯に差してあったのがこの笛だった。
お通にとって、その笛は自分の血のつながりを見つける唯一の手がかりであり、笛こそが親の姿であり、声だったのだ。
――吹くと涙がこぼれるから。
彼女が貸すのも嫌、吹くのも嫌だという気持ちは、よくわかるし、いじらしい。
「…………」
沢庵は黙ってしまった。
珍しく、今夜は薄雲の中にぼんやりと真珠色の月が浮かんでいた。
秋に来て春に帰る雁が、今夜も日本を去っていくように、雲の合間から時折啼く声が聞こえた。
「……また火が弱くなってきたな。お通さん、そこの枯れ木をくべておくれ……どうしたのだ?」
「…………」
「泣いているのか?」
「…………」
「つまらないことを思い出させて、心ないことをしてしまったな」
「……いいえ。沢庵さん……わたしこそ、強情を張って悪うございました。どうぞ、お使いくださいまし」
お通は帯に挟んでいた笛を抜き、沢庵に差し出した。
それは色褪せた古金襴の袋に入っており、糸はほつれ、紐も切れかけていたが、古雅な香りが漂い、その笛もどこか懐かしさを感じさせるものだった。
「ほう……よいのか」
「かまいません」
「では、せっかくだから、お通さんが吹いてはどうかな。わしはただ聴いているから……こうして」
沢庵は笛に手を触れず、横向きになって膝を抱え込んだ。
常であれば、沢庵は笛を聴くといっても、冗談や茶化しが入るものだが、今日は珍しく静かに耳を澄ませていた。
お通は、逆にその真剣さに戸惑い、少し恥ずかしくなった。
「沢庵さんは笛が上手なんでしょう?」
「下手でもないよ」
「じゃあ、あなたが先に吹いて見せてください」
「いやいや、そんなに謙遜するほどのことはない。お通さんだって、清原流で習ったんじゃないか?」
「ええ、先生が四年間、寺にいたので、その間だけですが……」
「じゃあ立派なものだ。『獅子』や『吉簡』といった秘曲も吹けるのではないか?」
「とんでもないことです……」
「まあ、何でもいい。好きな曲、いや、自分の胸に溜まっているものを、その七つの孔から吹き出してみなさい」
「……そうですね。私も胸の中の悲しみや恨み、ため息を全部吹き散らせたら、どんなにすっきりするでしょうか」
「それが大事だよ。気を散らすことは大切だ。笛の一尺四寸がそのまま人間であり、宇宙の万象なのだから……」
沢庵の言葉を受け、お通は少し迷いながらも、心の中の何かを解放するように笛を吹く準備を始めた。
「そうか……私もそんなふうに笛を吹いてみたい……」
「では、試しにやってみなさいよ」
「はい。でも沢庵さん、私には大切な理由があって、この笛は……」
彼女の手に持つ笛、それは彼女の心の象徴でもあり、彼女にとって非常に大切なものであった。
彼女は幼い頃、捨てられた赤ん坊として見つかった時、この笛だけが唯一の持ち物だった。
それが彼女の親の形見であり、親の存在そのものでもあるのだ。
お通は笛を手に持ち、静かに座り直した。
彼女の心の中にある感情が、少しずつ笛を通じて外に出ようとしているのが感じられた。
彼女は沢庵が求めた通りに、心の中の悲しみや怒りを、この一瞬にすべて託す決意を固めた。
「拙い技でございますが……」
お通は、草の上に静かに座り、笛に向かって丁寧に礼をした。
沢庵は黙って見守る。
深夜の静寂が、二人の間に広がり、世界がその瞬間に止まっているような感覚があった。
沢庵の黒い姿は、まるでこの山の岩の一部であるかのように、静かに存在していた。
「…………」
お通は唇に笛を当て、ゆっくりと息を吹き込んだ。
お通は、少し横向きに顔を傾け、ゆっくりと笛を構えた。
歌口に息を吹き込み、静かに笛の音が鳴り始める。
彼女の白い指が、まるで生きているように、七つの孔を踏み、音を紡ぎ出していた。
その姿は、普段のお通とは違い、どこか厳粛で、芸の持つ威厳が感じられた。
笛の音は低く、穏やかに流れ始め、まるで川のせせらぎのようだ。
沢庵は、その音に引き込まれ、自分が流れる水の一部になったような気がした。
高い音が響くと、魂が宙に舞い上がり、雲の中を戯れているような感覚に陥った。
地と天が交わり、風に乗って流れるように奏でられるその音は、世の無常を感じさせ、まるで松風の音のように悲しみを伝えていた。
沢庵は、目を閉じ、その音に心を委ねていた。
ふと、昔の伝説が頭に浮かんだ。
三位博雅卿が、朱雀門の夜に笛を吹き、そこに現れた鬼と笛を取り替え、一晩中一緒に演奏したという話。
音楽の力が、鬼ですら感動させるほどなら、この美しい笛の音が人の心を揺さぶらないはずがない。
沢庵は深く感動し、涙がこぼれそうになったが、ぐっと堪えていた。
膝に顔を埋めるようにし、無意識のうちに膝を固く抱きしめていた。
焚火の火は弱まってきたが、お通の頬は赤く染まり、自分の吹く音に完全に没入していた。
笛とお通、その境界が曖昧になり、まるで笛が彼女自身であるかのようだった。
彼女の笛の音は、まるで親を求め、宙を翔けているかのようだった。
また、自分を捨てた男への恨みや裏切られた悲しみを、切々と訴えているようでもあった。
彼女の孤児としての孤独な人生、その中でどうやって生きていくのか、その不安と絶望が笛の音に込められていた。
しばらくすると、お通の息が疲れを見せ始め、額には汗がにじみ、頬には涙が白く流れた跡が残っていた。
それでも、笛の音は途切れることなく、彼女の心の内を奏で続けていた。
その時、不意に暗くなりかけた焚火の近く、草むらの中から何かが動く音が聞こえた。
沢庵はその音に気づき、首を持ち上げて静かに目を凝らした。そして、手を軽く挙げて、こう言った。
「――そこのお方、霧の中では冷たかろうに、遠慮なく、火のそばに来て、お聴きなされ」
お通は怪しんで笛を止め、沢庵に尋ねた。
「沢庵さん、何を独り言で言っているのですか?」
「――知らぬのか、お通さん。さっきから、そこに武蔵が来て、そなたの笛を聴いているのだよ」
そう言って、沢庵が指さす方向をお通が振り返った瞬間、彼女は驚愕して「きゃっ!」と叫び、反射的に手に持っていた横笛を、その人影に向かって投げつけた。
お通が「きゃっ」と叫んだ瞬間、武蔵は草むらから鹿のように立ち上がり、ぱっと駆け出そうとした。
驚いて逃げようとする武蔵を見て、沢庵は焦ったが、彼の全身の力を込めた声で「――武蔵?」と呼びかけた。
その声にはただならぬ力がこもっていた。
武蔵はその声に足を止め、まるで釘を打たれたかのように振り向いた。
彼の眼には猜疑と殺気が宿っていたが、沢庵は静かに彼を見つめ返していた。
長い間、二人はただ互いをじっと見つめ合っていたが、やがて沢庵の眼の周りに和やかな皺が寄り、両腕をゆっくりと解いて、手招きをした。
「お出でよ、一緒に遊ぼうじゃないか」と、沢庵は武蔵に優しく呼びかけた。
武蔵はその言葉に一瞬戸惑ったが、沢庵の真摯な態度に次第に警戒を解いていった。
「酒もあるし、食べ物もある。わしらはおぬしの敵でも仇でもない。火を囲んで話そうじゃないか」と続ける沢庵に、武蔵は少しずつ歩み寄った。
武蔵は完全には気を許さず、どこか肩身の狭い思いを抱きつつも、沢庵の指示に従って火のそばに腰を下ろした。
お通は依然として武蔵の顔を直接見ることができず、まるで鎖のない猛獣の前にいるような恐怖を感じていた。
しかし、沢庵はその場を和ませるように、鍋の中の芋を取り出し、「ウム、煮えたらしい」と言いながら自分の口に運んだ。
彼は満足そうにうなずき、武蔵に向かって「どうじゃ、おぬしも食べるか」と尋ねた。
武蔵は無言でうなずき、初めて、ニッと白い歯を見せた。その姿は、それまでの荒々しい武蔵とは違い、どこか安堵したような、そして少し恥ずかしそうな様子だった。
武蔵はお通から茶碗を受け取り、ふうふうと雑炊を冷ましながら、必死に食べ始めた。
その様子は、まさに飢えに苛まれた者の姿であり、茶碗に歯がガツガツと当たり、手も震えていた。
彼の飢えと疲れがどれほど深刻だったかが窺える。
「美味いのう」と沢庵が先に箸を置き、武蔵に酒を勧めるが、武蔵は首を振り「酒は飲みません」と答えた。
長い山籠もりで疲れた彼の胃は、強い刺激には耐えられないのだろう。「もう十分だ」と茶碗を返し、武蔵はお通に改めて「お通さん……」と呼びかけた。
お通はうつむいたまま、小さな声で「はい」と返事をした。
「ここへ、何しに来たのか。ゆうべも、この辺に火が見えたが」と武蔵が問いかけた。
お通はその質問に驚き、答えあぐねていると、沢庵が横から無造作に「実はの、おぬしを召捕りに登って来たのじゃ」と答えた。
驚くことなく、黙然とした武蔵は、二人の顔をじっと見比べるだけだった。
沢庵は膝を向けてさらに言葉を続けた。「どうじゃな武蔵、同じ捕まるものなら、わしの法縄に縛られぬか。国主の掟も仏の誡も法じゃが、わしの縛る法の縄目はまだ人間らしい扱いをするぞよ」と諭す。
しかし、武蔵は「嫌だ、おれは」と首を振り拒絶した。沢庵は彼の気持ちを理解しつつ、「反抗したい気持ちはわかるが、勝てるか? 憎いと思う人々や領主の法規、自分自身に勝ちきれるか」と問いかける。
武蔵は声を絞り出し、「敗けだ! おれは……」と自らの敗北を認め、涙を浮かべた顔で「最後になったら斬り死にするばかりだ。斬って斬って、斬り捲くって」と声を荒げた。
「姉はどうする?」と沢庵が冷静に問いかけると、武蔵は沈黙した。
「おぬしの姉、お吟どのはどうするのだ? あの気だての良い、弟思いなお吟どのを……」と続け、家族の名誉を思い出させるように話す。
これに武蔵は耐えきれず、顔を手で覆い「もう、そんなこと、どうなるものか」と泣きながら叫んだ。
突然、沢庵は拳を固め、武蔵の顔を力強く殴り、「この馬鹿者っ!」と大声で叱った。
よろめく武蔵にさらにもう一発拳を振り下ろし、「不孝者め、自分の先祖に顔向けできるのか!」と激しく叱責した。
武蔵は「痛い……」と呟き、沢庵は「痛ければまだ人間らしい心が残っている」と語りかける。沢庵はお通に縄を渡すよう促し、「わしが縛るのは慈悲の縄だ、何を恐れることがあろうか」と言った。
組み敷かれた武蔵は、もう抵抗する力も意志もなく、涙を流しながら沢庵に身を委ねていた。