雪響き
武蔵は、何を思ったのか、酒席を抜け出して廊下に出た。だが、広い扇屋の中では、どこへ行けばよいのか分からず、ひとりで迷っていた。
明るい表座敷からは、遊客たちの笑い声や音楽が賑やかに響いていた。武蔵はその方向を避けて、薄暗い母屋の方へと足を運ぶ。そこには、布団部屋や道具部屋、台所に近い場所が広がっていて、独特な厨の匂いが、暗い壁や柱から漂っていた。
すると、突然、暗がりから小さな禿が飛び出し、武蔵の前に立ちはだかった。
「お客さま、こんなところに来ちゃダメです!」
その禿は、まるで自分たちの秘密を覗かれたような顔をして、手を広げて武蔵を追い返そうとした。さっき座敷で見た時の可愛らしい印象とは打って変わって、何かに腹を立てているようだった。
「ここは、お客さまの来る場所じゃないんです。早く、あっちに戻ってください!」
禿の態度は、まるで武蔵が知らぬ間に何か無礼を働いたかのようで、彼を叱るように追い立てた。きっと、武蔵がその裏の生活を少しでも垣間見たことが、彼女にとって不快だったのだろう。
「そうか、ここは来ちゃいけない場所だったのか」武蔵が尋ねると、禿は鋭い眼差しで答えた。
「そうですよ、ここは来ちゃダメなんです!」
彼女は武蔵の腰を押しながら、彼を元の道に戻そうとする。その仕草を見た武蔵は、ふと気づいた。
「お、そなたはさっき縁側から雪の中に転んだりん弥という子じゃないか?」
「ええ、そうです!」りん弥は頷き、「お客さま、迷子になったんですね?私が案内しますよ」と言って、武蔵の手を引いた。
「いやいや、酔っ払ってはいないさ。ただ、そこらの座敷で、茶漬けを一碗食べたいんだが」
「ご飯ですか?」りん弥は驚いた顔をして言った。
「ご飯なら、座敷に持って行ってあげますよ」
「いや、みんな楽しそうに飲んでいるところだからな」武蔵は少し躊躇いながら答えた。
「確かにそうですね。じゃあ、ここで持ってきますね。何か特別なご馳走をお望みですか?」
「いや、握り飯を二つほどでいい」
そう言うと、りん弥は急いで奥に駆けて行った。まもなく、武蔵が頼んだ握り飯が持ってこられ、彼はそれを空いた暗がりの部屋で食べた。
「この裏庭から外へ出られるか?」武蔵が訊くと、りん弥は驚いて彼の顔を見上げた。
「お客さま、どこへ行くんですか?」
「すぐ戻ってくる。表から出るのが億劫でな。それに光悦どのや紹由どのが気づけば、また遊びを邪魔してしまうだろうから」
りん弥は心配そうにしながらも、「わかりました。じゃあ、この木戸を開けてあげます。でも、すぐ戻ってきてくださいね。帰ってこないと、私が叱られちゃいますから」
武蔵は微笑んで頷いた。「すぐ戻るさ。もし光悦どのが尋ねたら、『蓮華王院の近くで知人に会うために中座しましたが、すぐ戻ります』と伝えてくれ」
「つもりではダメです。ちゃんと帰ってきてくださいね。あなたのお相手は、私の吉野太夫さまですからね」
りん弥は雪に覆われた柴折戸を開けて、武蔵を送り出した。
遊廓の総門のすぐ外に「編笠茶屋」という茶店があった。武蔵はそこに立ち寄り、わらじがないか尋ねたが、この店は顔を隠す笠を求める男たちが訪れる店で、わらじを扱っているはずもなかった。
「すまないが、どこかでわらじを買ってきてくれないか」
武蔵はそこの娘に頼み、その間、自分は床几の端を借りて帯や腰紐を締め直した。羽織を脱ぎ、丁寧に畳んでから、筆と紙を借りて何かを書き、それを結び文にして袂に忍ばせた。
「ご亭主」と、奥で炬燵にうずくまっている年寄りに向かって言った。
「この羽織を預かっておいてくれないか。もし拙者が亥の下刻(十一時)までにここに戻らなかったら、この羽織と手紙を扇屋の光悦どのに届けてほしい」
「はい、かしこまりました。たしかにお預かりいたしまする」
「今、時刻は酉の下刻(七時)か、戌の刻(八時)ごろか」
「いや、まだそこまではいっておりません。今日は雪が降って、暗くなるのが早いのでしょう」
「扇屋を出る前、あそこの土圭が鳴っていたが」
「それなら、たぶん今がちょうど酉の下刻でございましょう」
「まだそんなものか」
「はい、まだ暮れたばかりでございます。――往来を見れば分かります」
ちょうどその時、娘がわらじを買ってきてくれた。武蔵は丁寧にわらじの緒を調べてから、革足袋の上に履いた。
武蔵は、茶屋に多めの茶代を置き、編笠をひとつ手に取った。それは頭に被らず、ただ手に持ち、降りしきる雪を払いながら、静かにその場を後にした。
四条の河原近くでは、民家の灯りがぽつりぽつりと見えていたが、祇園の林に足を踏み入れると、雪は斑で、足元も暗く、ほとんど光がなかった。
かすかに見える灯りといえば、祇園の林に包まれた燈籠や神燈くらいだった。神社の拝殿や社家の中も、まるで人がいないように静まり返っており、雪が木々の梢に当たる音だけが響いては、その後をさらに静寂が包んでいた。
「さあ、行こうか」
祇園神社の前で祈念していた一団が、社殿の前から立ち上がると、あたりはますます静かになった。その時、花頂山の寺々から戌の刻の鐘が響いた。雪の夜のせいか、今夜の鐘の音は一層冴えていて、身体の奥底まで染み渡るように感じられた。
「御舎弟さま、わらじの緒は大丈夫でござりますか? こう寒い晩には、きつい緒もぷつりと切れやすいものですぞ」
「心配はいらぬ」
それは吉岡伝七郎だった。彼のまわりには親族や門弟の重鎮が17、8人ほど揃い、皆寒さのせいか、緊張した顔をしていた。彼らは蓮華王院へ向かって歩いていく。
伝七郎は、すでに祇園神社の拝殿前で、完全な決闘の支度を整えていた。鉢巻や革襷など、全身に一分の隙もなかった。
「わらじか? こういう時には布緒に限るものだ。お前たちも覚えておけ」
そう言いながら、伝七郎は雪を踏みしめ、大きな息を吐き出して一団の中を進んでいった。
日暮れ前に、太田黒兵助たち三人の使いから、武蔵の手に渡された果たし状には、はっきりとこう書かれていた。
場所:蓮華王院裏地
時刻:戌の下刻(九時)
「明日を待たず、今夜の戌の刻」と急な指定をしたのは、吉岡伝七郎自身もそれが最善だと考えたからだ。親族や門下の者も一致していた。
「猶予を与えて、もし逃げられたら、もう一度京都で彼を捕まえることは難しい」
そんな想定が根底にあり、作戦としてまとまっていた。太田黒兵助がこの場に見当たらないのは、彼が堀川船橋の灰屋紹由の家の付近に潜み、武蔵を尾行しているのかもしれない。
「……誰だ? 誰かもう来ているようだな」
伝七郎はそう言って、蓮華王院の裏手にある廂の下で、雪の中に火を焚いている者を遠くから見つめた。
「御池十郎左衛門と植田良平でしょう」
「何? 御池や良平まで来ているのか」
伝七郎は少し不満げに顔をしかめた。
「武蔵一人を討つのに、こんなに大勢で来るとは。もし討てたとしても、大人数で討ったと言われたら、俺の名にも傷がつく」
「いえ、時刻が来たら、私たちはすぐに立ち退きますから」
蓮華王院の長い廊架、通称「三十三間堂」は、その長さが弓の射程に適しているため、昔から弓を練習する者たちが集まる場所だった。そんな背景もあり、この場所が武蔵との果し合いに選ばれたのだが、来てみると弓以上に決闘には絶好の場所だった。
広い雪の庭には、雑草や凸凹も見えず、淡雪がきれいに積もっていた。松の木が点在しているが、それも疎らで、寺院の風情を引き立てる程度のものだった。
「――やあ」
火を焚いて待っていた門人が伝七郎を迎えると、すぐに火のそばから立ち上がった。
「お寒かったでしょう。まだ時刻はあります。体を十分に温めてから準備をなさっても遅くはありません」
御池十郎左衛門と植田良平の二人だった。良平が腰かけていた場所に、伝七郎も黙って腰を下ろした。すでに準備は祇園神社の前で済ませていたので、今は焚火の炎に手をかざし、指の節を一本一本鳴らしながら温めていた。
「――少し早すぎたか」
煙に顔をしかめつつ、伝七郎の表情は次第に殺気を帯びていった。そして、ふと道中にあった茶屋を思い出した。
「さっき、腰かけ茶屋があったな」
「ええ、この雪で店はもう閉まっておりましたが」
「叩き起こせば開けるだろう。誰か、そこへ行って酒を買って来い」
「え? 酒をですか」
「そうだ、酒がなくては……とても寒くてたまらん」
伝七郎はそう言って、火を抱えるように身をかがめた。
彼が酒を好むことは門人たちも知っていた。朝でも夜でも、道場に出ている時でさえ、伝七郎の体から酒のにおいが消えることはなかった。だが、今夜は普段の酒とは違う。これから一族の命運を賭けて武蔵と戦おうとしている今、この酒が伝七郎の力を増すのか、それとも弱めるのか。門弟たちは心中で思案せざるを得なかった。
雪に冷え切った体で太刀を握るよりも、少し酒を入れたほうがマシだ――そう考える者が多かった。
「それに、御舎弟がああ言い出した以上、彼の気持ちをこじらせるのも良くない」
こうしたもっともな意見もあって、門弟の二、三人が急いで茶屋へ走り、間もなく酒を買って戻ってきた。
「やっと来たか。どんな味方よりも、こいつが一番だな」
焚火の暖かさに当てられた酒を茶碗に注がせ、伝七郎は心地よさそうに飲み、戦いへの緊張を吹き飛ばすかのように息を吐いた。
側にいる者たちは、いつものように伝七郎が酒を飲みすぎるのではないかと心配していたが、彼は心得ていたのだろう。いつもより少ない量しか飲まなかった。命を懸けた決闘が間近に迫っていることもあり、豪放な態度を装っていても、内心は誰よりも緊張していたのだ。
「――あれ、武蔵か?」
誰かが不用意にそう言うと、
「来たか!」
焚火を囲んでいた一同が一斉に立ち上がり、彼らの袖や裾から火の粉が雪空へと舞い散った。
三十三間堂の長い建物の角に現れた黒い人影が、遠くから手を振りながら近づいてきた。
「わしだ、わしだ」
袴を短くたくし上げ、しっかりとした装いだが、その背中には老武士の疲れが見えていた。門弟たちはその姿を見て、互いに「源左衛門様だ」「壬生のご老人だ」と囁き合い、静かになった。
壬生の源左衛門は、先代吉岡拳法の実弟であり、清十郎や伝七郎にとっては実の叔父にあたる人物だった。
「おう、これは壬生の叔父上、どうしてここへ?」
伝七郎は、まさか叔父が今夜ここへ来るとは思っておらず、驚きを隠せなかった。源左衛門は火のそばに来ると、じっと伝七郎の姿を見つめた。
「伝七郎、ついにやるのだな……お前のその姿を見て、ようやく安心したわ」
「叔父上にも、いずれご相談にあがろうと思っていましたが……」
「相談などいらん! 吉岡の名に泥を塗られ、兄を傷つけられて、黙っているようなら、わしがそちを叱りに来ようと思っていたぐらいだ」
「ご安心を、私は兄とは違いますから」
「そこはわしも信じている。そちが負けるとは思わんが、一言だけ、励ましに来たのだ。……だが、伝七郎、あまり敵を侮ってかかるな。武蔵という男も、噂によればかなりの強者らしい」
「心得ております」
「焦るな、焦って勝とうとするな。天命に任せろ。もし万が一のことがあれば、わしがそちの骨を拾ってやる」
「ははは、叔父上、それはありがたいお言葉」
伝七郎は笑いながら、酒の茶碗を叔父に差し出した。源左衛門は黙ってそれを一杯飲み干すと、周囲の門弟たちを見回して言った。
「お前たちは何をしに来たのだ。まさか助太刀をするつもりではなかろうな? 助太刀ではないなら、さっさとこの場を去れ。一人と一人の勝負にこんなに集まっているのは、まるで我々が弱みを見せているようなものだ。勝ったとしても、人の口はうるさい。……さあ、時刻も近づいているだろう、わしと共にどこか遠くへ退くとしよう」
伝七郎と門弟たちは、静かにその場を片付け始めた。
すぐ耳元で鐘が大きく鳴ったのは、ずいぶん前のことのように感じる。――あれは確かに、戌の刻だった。つまり、約束の戌の下刻はもうすぐだ、と伝七郎は思った。
(出遅れているな、武蔵は)
白く静かな夜を見渡しながら、伝七郎は独りで燃え残る焚火を前にしていた。叔父の壬生源左衛門の助言で、門弟たちは皆立ち去り、雪の上には黒々とした足跡だけが残っている。
――ぽきっと、時折鋭い音が響いた。三十三間堂の廂にぶら下がる氷柱が割れて落ちたり、雪の重みで樹の枝が折れる音だ。そのたびに、伝七郎の鋭い眼が鷹のように動いた。
そんな時、まるでその鷹の影のように、ひとりの男が雪を蹴り、彼方の樹の間から素早く伝七郎の元へ駆け寄ってきた。それは、宵の口から武蔵を監視していた者たちの中で最後の一人、太田黒兵助だった。
今夜の大事がもう目前に迫っていることは、兵助の息が荒いだけでも察することができた。息を切らしながら、兵助はすぐに告げた。
「来ましたぞッ!」
伝七郎は兵助が言う前に、その気配を察して立ち上がっていた。そして兵助の言葉を聞くと、すぐに繰り返した。
「来たか」
そう言いながら、伝七郎は無意識のように足を踏み出し、燃え残った焚火を踏みつけていた。
「――六条柳町の編笠茶屋を出てから、雪が降る中、武蔵め、まるで牛のようにのそのそ歩いておりましたが、今しがた祇園神社の石垣を登って境内に入りました。拙者は回り道をしてここに来ましたが、あののろい歩みでも、すぐに姿を現すはずです。御用意を!」
「よしッ。……兵助」
「は」
「向こうに行っていろ」
「皆は?」
「知らん。その辺にいるな、目障りだ。立ち去れ」
「はッ……」
そうは言ったものの、兵助はその場を離れる気になれなかった。伝七郎が雪の泥の中で焚火を踏み消し、武者震いしながら廂の下から出ていくのを見届けると、兵助は反対側に回り、三十三間堂の床下に潜り込んで、暗がりに身を潜めた。
床下に潜んでいると、外よりも冷たい風がひんやりと動いているのを感じた。太田黒兵助は膝を抱え込みながら、自分の体が骨まで冷え切っていくのを感じた。奥歯がガチガチと鳴るのを抑えることができず、腰から顔まで震えが止まらなかった。それを寒さのせいだと必死に自分に言い聞かせ、震える体を落ち着かせようとしていた。
(……おかしいな?)
外は昼間よりもよく見えた。伝七郎の姿は、三十三間堂から百歩ほど離れた高い松の木の根元で、武蔵の姿を今か今かと待ち構えている。
だが、兵助が考えていた時間はとうに過ぎていたのに、武蔵はまだ姿を現さない。雪がまだちらちらと舞い、寒さが肌を刺すように感じる。火も酒もすっかり冷め、遠くからでも伝七郎の苛立ちが手に取るように分かる。
――ざあッ、と突然、伝七郎の神経を刺激する音が響いた。それは、梢から滝のように落ちてきた雪の音に過ぎなかった。
待つ時間の一瞬一瞬が、気の焦る者にとっては耐えがたいものになるのは当然だ。伝七郎も、太田黒兵助も、まさにその例に漏れない。特に兵助は、自分の報告に責任を感じ、体は寒さでまるで凍りつくようだった。もう一瞬、さらにもう一瞬と焦りを抑えようとするが、依然として武蔵の姿は見えてこない。
ついに兵助はたまらず、床下から這い出し、遠くに立っている伝七郎に声をかけた。
「どうしたのでしょうか?」
「兵助、まだいたのか」
伝七郎も、同じく焦りを感じていたらしく、苛立ちを含んだ声で返した。二人は無意識のうちに接近し、雪に覆われた静かな夜を共に見渡した。
「……見えぬ!」
伝七郎は呻くように言った。
「奴、逃げたか?」
伝七郎が低く呟く。
「いや、そんなことは……」
兵助は即座に否定し、自分が確かに確認してきた事実を繰り返しながら、自信を保とうと努めていた。
すると――
「や?」
伝七郎の目が急に横を向いた。
――見ると、蓮華王院の庫裡のほうで、小さな手燭の灯が揺れている。それを持って来るのは一人の僧で、その後ろにもう一つ人影が見えた。二つの影とその小さな灯火は、境の扉を開けて三十三間堂の縁へと進み、低い声で会話をしている。
「――夜分は、どこもかしこも閉まっておりますが、宵の頃、こちらで暖を取っていたお武家の方がいらっしゃいました。それが、あなたのお探しのお方かもしれませんが、今は誰もいないようですね」
僧が言った。
それに対して、案内された側の者が、丁寧に礼を述べている。
「いえ、せっかくお休みのところをお邪魔して申し訳ありません……あの向こうに二人ほど佇んでいる者が見えます。もしかすると、蓮華王院で待つと言っていた者かもしれません」
「では、お確かめください」
「ご案内はここまでで結構です。どうぞお引き取りください」
「雪見でもされるご予定でしょうか?」
「まあ、そんなところです」
と、一方は軽く笑った。
僧は手燭を消し、
「余計なことかもしれませんが、もしこの廂で火を焚かれるなら、残り火にはご注意を」
と言って庫裡の方へ戻っていった。
残された者はじっと伝七郎の方を見て、しばらくその場に立っていた。廂の陰にいるため、周囲の雪の反射が強く、その暗がりが一層濃く見えた。
「誰だ? 兵助」
「庫裡の方から出てきたようですが?」
「寺の者ではないようだぞ」
「はてな」
二人は無意識のうちに三十三間堂の縁へと二十歩ほど進んだ。
すると、御堂の端にいた黒い人影も少し位置を変え、縁の中程まで進むと足を止めた。そして、革襷の端を、左の袂のわきできつく締め直している様子が見えた。その姿を確認できる距離にまで近づいた二人だったが、突然、その足が雪の中から動かなくなった。
数息の間があって――
「――あっ、武蔵!」
伝七郎が大声で叫んだ。
二人が互いに視線を交わした瞬間、伝七郎が「武蔵!」と最初の声を上げた。しかし、その時点で二人の立場はすでに決まっていた。武蔵は、圧倒的に有利な場所を占めていたのだ。
なぜか――それは簡単だ。まず、武蔵は三十三間堂の縁に立ち、伝七郎より何尺か高い位置にいた。さらに、武蔵は背後に堂の長い壁があり、完全に守られている。仮に横から攻撃されても、縁の高さが防御となり、背後を気にせずに目の前の敵に集中できる。一方、伝七郎は広い空地を背にし、無限に広がる雪の中で、風にさらされていた。武蔵が一人で来ていると分かっていても、その広い背後に何かが潜んでいる可能性を無視することはできない。
ただ、幸いなことに、伝七郎には太田黒兵助がそばにいた。だが――
「退け、兵助!」
伝七郎は袖を払うように兵助に命じた。無用な手出しをされるより、遠くで見守られていた方が安心だったのだろう。
「よいか」
武蔵が静かに声を発した。まるで水をかけるような冷静な口調だった。
伝七郎は武蔵の顔から足元までを鋭く睨みつけた。彼の心の中には、肉親の恨み、世間での比較による屈辱、そして駆け出しの剣客への蔑みが渦巻いていた。
「黙れ!」
彼の語気は、自然と激しいものになった。
「――よいか、とはどういう意味だ。武蔵、戌の下刻はとっくに過ぎている!」
「鐘の音と同時に来るとは約束していない」
「詭弁を吐くな! こちらはとうに来て、こうして待っていたのだ。さあ、降りろ!」
伝七郎は武蔵を挑発し、不利な立場を打開しようとした。しかし、武蔵はその挑発を軽く受け流すように、冷静に機を伺っている様子だった。
伝七郎は武蔵を前にして、すでに戦いの準備を整えていたが、武蔵はすでに戦いを始めていたのだ。武蔵は、目に見えない部分で戦略を練り、戦いに臨んでいた。
その証拠に、武蔵はわざと道を逸れて寺の中を通っていた。寺僧に世話をかけ、境内を歩かずに、堂の縁を利用して突然現れたのも、彼の計算のうちだった。祇園の石段を登った時点で、雪に残る多くの足跡を目にしていたのだろう。彼はそこで即座に察知し、自らが追跡されていることを確認すると、わざと寺の正門から入り込んだ。
その後、寺僧から周辺の状況を聞き、暖を取りながら時間を過ごし、戦いに備えていた。そして、ついに武蔵は伝七郎の前に現れた。
武蔵はすでに、第一の機を掴んでいた。今、伝七郎から次の機がしきりに誘われている。しかし、その誘いに乗るのも戦略だし、自ら機を作り出すのもまた戦法である。勝敗の分かれ目は、まるで水面に映る月影のように捉えどころがなく、過信して力づくで掴もうとすれば、月と共に水に沈んでしまうのだ。
「出遅れた上に、まだ準備が整っていないのか。ここでは足場が悪いぞ!」と、伝七郎は焦りを隠せず声を上げる。しかし、武蔵は相変わらず冷静で、「すぐに行く」と言うのみだった。
怒りを抱けば必ず敗北を招く。それは伝七郎も十分理解していたが、武蔵の態度があまりにも悠然としているため、心の中で抑えきれない苛立ちが募っていた。
「来い! もっと広い場所へ移動しろ! お互い、潔く勝負をつけるべきだ。卑怯な戦いなど、吉岡伝七郎の名に唾を吐くようなものだ。武蔵、お前が怯んでいるのなら、俺の前に立つ資格はないぞ! さあ、降りてこい!」
ようやく伝七郎が声を荒らげると、武蔵はにやりと笑い、歯を少しだけ見せた。
「何を言っている、吉岡伝七郎のような者、俺はすでに去年の春、真っ二つに斬っているんだぞ! 今日は二度目だな!」
「なにっ! いつ、どこでだ!」
「大和の国、柳生の庄でな」
「大和の? まさか、あの時か?」
「そうだ、綿屋という旅籠の風呂場でのことだ。互いに武器を持たない状況だったが、俺は心の中で、お前を斬れるかどうか見極めていた。そして、目で斬ったのだ。見事に、だが、お前の体には何も傷が残らなかったから、気づきもしなかっただろう。もしお前が、剣で名を立てる者だと言うなら、それは他の者の前で言うがいい。だが、この俺の前で言うのは、笑止千万だ」
「くだらん! だが少し面白い、その自己満足を叩き直してやろう。さあ、ここでは狭い、もっと広い場所へ行こう!」
「伝七郎、道具はどうする? 木刀で勝負か、それとも真剣か?」
「木刀を持たずに来て何を言う。もちろん、真剣での覚悟だろう!」
「もし木刀が相手なら、俺はその木刀を奪って打ち込む」
「大口を叩くな!」
「では――」
「おっ!」
伝七郎は雪の上に一歩下がり、黒い斜線を引いて武蔵に空間を与えた。武蔵は縁の上を横に数歩歩き、やがて雪の中へ静かに降り立った。
二人は、堂の縁から何十歩も進むことなく立ち止まった。伝七郎はもう待ちきれず、緊張感が張り詰める中、圧力をかけるように一喝を浴びせた。彼の長刀が音を立てて、まっすぐに武蔵の元いた場所を薙ぎ払った。
しかし、その一撃が敵を両断することはなかった。武蔵の動きは、刀の速度よりもはるかに速かった。――いや、もっと迅速だったのは、武蔵の白刃が伝七郎の肋骨の下から噴き出た瞬間だった。
一瞬、宇宙に二本の刀がきらりと閃いた。その後、雪が静かに地面へ落ちていく様子が、妙に遅く感じられた。しかし、その動きの中にも、「徐」「破」「急」の変化があった。風が吹けば雪は急に舞い上がり、つむじ風となり、また静かな雪景色に戻る。
「……」 「……」
武蔵と伝七郎は、互いの刀が鞘を走るかのように見えた一瞬、その間にどちらかが無事でないことは確実だと思われた。しかし、二人が離れた後も、雪の大地には一滴の血も落ちていなかった。奇跡のように、どちらも健在だったのだ。
「……」 「……」
そのまま、二人の刀は約九尺(約2.7メートル)の距離を保ったまま、空間に固着しているかのようだった。伝七郎の眉に積もった雪が、解けて眉毛からまつ毛に流れ込む。その度に伝七郎は顔をしかめ、その顔がまるで無数の瘤のように動く。そして、彼の目はまるで熔鉄の炉のように燃えていた。
伝七郎は内心で悔やんでいた。
(――しまった! どうして今日に限って、青眼で構えてしまったんだ? 普段のように、もっと高く振りかぶるべきだったのに)
彼は焦りながらも、脳内の思考が止まらない。全身の血管を駆け巡る血が、まるで自身の思考力を持っているかのように感じた。体中の毛が逆立ち、爪先までが戦闘態勢を示している。
伝七郎は、青眼の構えが自分に向いていないことを知っていた。だからこそ、何度も刀を振り上げようとしたが、武蔵の眼光がそれを許さなかった。
武蔵は青眼に構え、伝七郎の肘が力強く張っているのに対し、武蔵の肘は柔らかく、押せばどこにでも動きそうだった。武蔵の刀はびくとも動かず、雪が積もるほどの静けさだった。
伝七郎は焦っていた。武蔵の破綻を祈り、隙を見つけ、勝とうと必死だった。しかし、その間も、伝七郎の姿が大きな岩のように見え、武蔵は圧倒的な存在感に圧迫されていた。
(敵は、おれよりも上だ……)
武蔵は正直にそう思った。同じような敗北感は、柳生四高弟に囲まれたときにも感じた。吉岡流という整った剣技を目の前にして、自分の剣術がいかに野育ちであるかを痛感していたのだ。
武蔵は無謀にはなれなかった。彼の野性的な剣術も、今夜はまるで通用しないように感じた。それでも、自分の勝ちを祈り、心の中で焦りが募る。
武蔵は、かつて幾度も生死の境目を超えてきた。その経験が、彼を冷静に保たせていた。はっと目を覚ますと、伝七郎との対峙が続いていた。
「……」 「……」
雪が武蔵の髪に、伝七郎の肩に積もっていた。しかし、武蔵の心にはもはや勝とうという意識すらなかった。彼の心は、舞う雪のように軽やかで、天地そのものが彼であり、彼が天地であった。
その時、静かに舞っていた雪の中で、伝七郎の足が前に進んだ。そして、刀が微かに動き出そうとした瞬間――
「ぎゃっ!」
武蔵の刀は背後を払っていた。
その刃は、太田黒兵助の頭を横に薙ぎ、ジャリっと小豆袋を斬ったかのような音が響いた。
太田黒兵助の体が、武蔵の横を勢いよくよろけ、伝七郎の方へ泳いで行った。その歩いて行った死骸につづいて、武蔵の体も咄嗟に高く跳んでいた。
四方の静寂を引き裂くように、「ア…ああっ!」という声が伝七郎の口から漏れた。その声は、まるで途中で折れてしまったかのように、宙に消え、伝七郎の巨体が後ろに倒れ込み、真っ白な雪しぶきに包まれた。
「まッ、まてッ」
伝七郎は無念そうに体を曲げ、雪に顔を埋めながら呻いたが、その時、武蔵の影はすでに彼のそばにはいなかった。
その代わりに、遠く彼方で――
「おうっ!」 「御舎弟の方だ!」 「たいへんだ、皆、来い!」
黒い人影が雪を蹴り上げながら、どっとこちらに駆け寄ってくる。待っていたのは、壬生の源左衛門や門人たちだった。彼らは離れた場所で、楽観的に勝負を見守っていたのだ。
「やっ! 太田黒までやられたか!」 「御舎弟!」 「伝七郎様!」
どんなに呼びかけ、手当てをしても、もう助からないことは明らかだった。太田黒兵助は右の耳から斜めに口の中まで刀が達しており、伝七郎は頭頂部から鼻の脇、顴骨までが斬られていた。どちらも、たった一太刀だった。
「だから、わしがあれほど侮るなと言ったんだ! 伝七郎…伝七郎…!」
壬生の源左衛門叔父は甥の体を抱きしめ、無念に悔やんだ。周囲の雪はいつの間にか、踏みつけられた場所から桃色に染まっていた。
老人は死者に気を取られながらも、周囲の者たちがうろうろとする様子に腹を立て、
「相手はどうした!」と怒鳴った。
皆も武蔵の所在を気にかけてはいたが、どこを見渡しても、武蔵の影はどこにも見当たらない。
「――いない」 「――いない…」
ぼんやりとした返事に、源左衛門は歯ぎしりしながら、
「いないわけがあるか! わしらが駆けつける前、確かにここに立っていたはずだ! 武蔵を討たずに、吉岡の一族の面目が立つか!」
その時、一人が「あっ!」と叫び、指さした。それにつられて皆が一歩後ろに退き、指さした方向に視線を集中させた。
「武蔵だ!」 「おお、あれか…」 「……むう……」
瞬間、何とも言えない寂寞の気配がその場に漂った。人のいない天地の静けさではなく、人々が集う中に突然湧き上がる寂寞、それは不気味な霊魂を含んでいるかのようだった。まるで鼓膜も頭の中も真空になったかのように、物を見てもそれを思考に反映させることができなくなっていた。
武蔵は、伝七郎を倒した場所から最も近い建物の廂の下に立っていた。そして、相手の様子を見ながら、壁を背にして徐々に横歩きで移動し、三十三間堂の西の端に向かって悠然と歩を進めていった。
彼は一瞬、群れの方に体の正面を向け、(襲ってくるか?)と警戒したが、その気配がないと確認すると、再び歩き出し、縁の北の角に向かって進んでいった。やがて、武蔵は蓮華王院の横へと姿を消した。




