町人
この家ほど、水を巧みに生活に取り入れている家は、なかなかないんじゃないだろうか――そんなことを考えながら、武蔵は耳に響く心地よいせせらぎの音に意識を向けていた。
ここは、本阿弥光悦の家だ。
場所は、武蔵にとって思い出深い蓮台野の近く、上京にある実相院址の東南角だ。町の人々はその辻を「本阿弥の辻」と呼んでいた。それもそのはず、光悦の家だけでなく、彼の甥や同業の職人たちが、その周辺に集まって穏やかに暮らしているからだ。昔の土豪の時代のように、家族や一族が軒を並べて暮らすその光景は、なんとも平和な町家の雰囲気を醸し出していた。
「なるほど、これが“町人”か」と武蔵は新鮮な驚きを感じていた。
彼はこれまで下層階級の町人たちと接することはあっても、京都で名のある“大町人”と呼ばれる人々の暮らしとは、無縁だったからだ。
本阿弥家は、もともと足利家の家臣の末裔で、現在も前田大納言家から年禄二百石を受け取っている。また、宮家ともつながりがあり、さらに徳川家康からも注目される家柄だ。しかし、光悦は侍か町人か、簡単にどちらとも言い切れない立場にいる。職業としては刀剣を研ぎ、拭う職人だが、その一方で町人の側面もある。
この時代、「職人」という言葉は、以前よりも低く見られるようになってきたが、それは職人自らがその品位を下げたからだ。昔は百姓ですら「天皇の大切な民」として尊ばれていたが、時が経つにつれて「この百姓めが!」と侮辱の言葉に変わってしまった。それと同じように、職人もかつては尊敬される存在だったのだ。
大町人たちのルーツを辿ってみると、角倉素庵や茶屋四郎次郎、灰屋紹由など、みな武家出身であることがわかる。つまり、元々は室町幕府の家臣が商業を担っていたが、いつの間にか幕府から独立し、個人経営を行うようになった。やがて、武士という身分を不要にし、町人として繁栄していったのが、今の京都の大町人たちだったのだ。
武家の権力争いが起こっても、大町人たちは両方の勢力から保護され、その家系は長く続いてきた。また、彼らは兵火に焼かれることなく、税のように特権的に守られていた。
本阿弥家の住まいは、水落寺の近くにあり、綺麗な有栖川の水が宅地を通り抜けていく。まず菜園を流れ、林の中に姿を隠し、やがて玄関の井戸に現れる。そして台所を潤し、風呂場にまで流れ込み、さらには茶室の静寂を岩清水のような音で満たすのだ。
また、家族全員が「御研小屋」と呼んで敬う仕事場にその水は流れ込む。そこでは職人たちが名だたる銘刀、正宗や村正、長船などを研ぎ澄ましている。
武蔵はこの家に泊まり、すでに四日目か五日目を迎えていた。
本阿弥光悦と、その母である妙秀尼とは、以前に野辺の茶会で一度会ったことがあった。その時、武蔵は「機会があれば、もう一度この二人と親しく話してみたいな」と密かに思っていた。
そんな彼の想いが通じたのか、意外にも再会のチャンスはすぐに訪れた。
ある日のこと、武蔵は、上小川の東に位置する羅漢寺というお寺を訪れようとしていた。その隣地には、かつて赤松氏の一族が住んでいたという館の跡があり、武蔵はそこを見てみたかったのだ。室町幕府が衰退した後、そういった旧大名の宅地も消え失せてしまったが、なんとなくその場所を歩いてみたいと思った。
武蔵が幼い頃、父親からよくこう聞かされていた。
「わしは今こそ田舎の郷士として静かに暮らしているが、我が先祖である平田将監は播州の赤松一族の支族だ。お前の血には、あの建武の英雄たちの血が流れているんだぞ。それを胸に、自分をもっと大事にしなければならん」
そんな父の言葉が頭をよぎり、羅漢寺を訪ねた武蔵だったが、寺の場所を尋ねても、誰も知らないと言う。
「この辺りも変わってしまったのか…」
らかん橋に立ち、流れる水を見つめながら、武蔵は父と自分の世代で、これほどまでに京都の風景が変わってしまったことに思いを馳せていた。橋の下を流れる澄んだ水が、時折白く濁っては、またすぐに清らかに戻る。
濁りの原因を探ると、左岸の草むらからチョロチョロと濁り水が流れ出していた。それが川に注がれるたびに、水は白く濁っていく。
「なるほど、刀を研いでいる家があるな」
そんなことをぼんやりと考えていた武蔵だが、その家の客として泊まることになるとは夢にも思っていなかった。
その時、不意に妙秀尼が声をかけてきた。
「これは武蔵どのではありませんか?」
戻ってきた妙秀尼に声をかけられ、彼女が住んでいるのが本阿弥の辻の近くであることを、その時初めて知ったのだ。
「よくぞおいでくださいました。光悦も今日おりますので、どうか遠慮なさらずに」
妙秀尼は、まるで武蔵が自分の家を訪ねてきたかのように喜び、彼を家に招き入れた。そしてすぐに下男を呼び、光悦を迎えに行かせた。
光悦も妙秀尼も、以前外で会った時と同じく、家庭の中でも変わらずに親切で、温かい人たちだった。
「今、少しばかり大事な研ぎ物に取りかかっておりますので、しばらく母とお話ししていてください。仕事が終われば、ゆっくりお話ししましょう」
光悦がそう言うので、武蔵は妙秀尼と談笑しながら時間を過ごした。気がつけば、夜もすっかり更けてしまい、今夜はこのまま泊まっていくことになった。そして翌日、武蔵が光悦に刀の研ぎ方や扱いについて教えを乞うと、光悦は「御研小屋」に案内し、実際に作業を見せながら色々と教えてくれた。
そうしているうちに、気がつけば武蔵は三晩、四晩とこの家に滞在することになっていたのだ。
しかし、人の好意に甘えるのも限度がある。武蔵は、そろそろ今日あたりで暇を告げようと思っていた。しかし、そのタイミングを測りかねていると、今朝もまた光悦のほうからこう言われたのだ。
「ろくにお構いもできていないのに、引き止めるなんて変なものですが、もし退屈しなければ、何日でも泊まっていってください。私の書斎には古書や、ちょっとした愛玩品もありますから、自由にご覧ください。そのうちにまた、庭の隅にある窯で、茶碗や皿を焼いてみせましょう。刀剣も良いものですが、陶器もなかなか面白いですよ。あなたも一度、土をこねて何か作ってみませんか?」
こんなことを言われてしまって、武蔵はついつい、彼の落ち着いた生活に自分も身を委ねてしまった。
「退屈になったり、急に何か用事を思い出された場合は、どうぞ遠慮なく出立してください。この家は見ての通り、特に挨拶も必要ない無人のような家ですから、気が向いたときに出発されて結構です」
光悦はこう気さくに言ってくれた。
武蔵は退屈どころか、むしろこの家に魅了されていた。光悦の書斎には、和漢の書物から鎌倉時代の絵巻物、舶来の古い書物まで、どれを手に取っても、一日があっという間に過ぎてしまうような宝物がたくさんあった。
特に武蔵の心を惹きつけたのが、書斎の床の間に掛けられていた宋の梁楷の「栗の図」という絵だ。縦二尺、横二尺四、五寸ほどの古びた掛け物で、紙の質もわからないほどだが、武蔵はそれを見ていると不思議と時間が経つのを忘れてしまう。
ある時、武蔵はこう言った。
「ご主人の描く絵は、素人には到底及びもつかないと思いますが、この『栗の図』を見ていると、これくらいなら素人の私でも描けるんじゃないか、なんて気がします」
すると光悦は、笑いながらこう返した。
「それは逆でしょうね。私の絵くらいなら、誰でも到達できる境地と言えますが、この『栗の図』は別です。道は高く、山は深く、凡人には到底及ばない領域です」
「なるほど、そういうものですか…」
それ以来、武蔵は何度もこの絵を眺めるようになった。そして光悦に言われたとおり、一見単純に見えるこの墨一色の粗い絵の中に、実は複雑な深みがあることに気づき始めた。
絵には二つの栗が描かれていた。一つは殻が割れ、もう一つはイガの針を立てて固く閉じている。その上に、一匹の栗鼠が飛びつこうとしている。
栗鼠の動きは自由で、生き生きとしている。その姿には、まるで若者が持つ欲望と純粋さが表れているようだ。しかし、欲望のままに栗に飛びつこうとすれば、イガに刺され、怖がれば中の実には手が届かない。
作者がそんな意図を持って描いたのかは分からないが、武蔵はそういう意味を込めてこの絵を眺めていた。もちろん、絵を鑑賞する際に、そんな風に深読みするのは余計なことかもしれない。しかし、この絵には「単純なる複雑」とでもいうべき美しさがあり、その墨の使い方や画面のバランスには、思わず人を無心にさせる力があるのだ。
そんなある日、光悦が無造作に声をかけてきた。
「武蔵どの、また『栗の図』ですか。随分と気に入ったようですね。もしよければ、出立の際に持って行っても構いませんよ。差し上げましょう」
そう言いながら、光悦は何やら用事があるらしく、武蔵の隣に腰を下ろした。
武蔵は驚いた表情で光悦に言った。
「えっ、拙者にこの梁楷の絵をくださるのですか? もってのほかです。数日もお世話になっている上に、こんな家宝を頂くわけにはまいりません」
固く辞退する武蔵に対し、光悦はにっこり笑って言った。
「でも、気に入ったんでしょう? それなら持っていって構いませんよ。絵というのは、本当にその価値を分かってくれる人に持たれるべきです。そうすれば、その絵は幸せですし、作者も満足すると思いますよ」
「そうおっしゃられても、私にはこの絵を頂戴する資格がありません。確かに見ていると欲しくなってしまいますが、私のような流浪の武者修行では、持ったところで飾る家もなく、邪魔になるだけです」
「なるほど、確かに旅ばかりしている人には持ち運ぶには厄介ですね。若いあなたにはまだ実感がないかもしれませんが、家を持たないというのは、とても寂しいものですよ。どうです、京都の片隅にでも簡単な庵を構えてみては?」
「家が欲しいとは思ったことはありません。それよりも、九州の長崎や江戸、陸奥の大自然――もっと遠い場所へ行きたいという気持ちが強いんです。どうやら私は生まれつき、放浪癖があるようで…」
「いや、それはあなたに限らず、若い人は皆そうですよ。四畳半の茶室より、広い空を求めるのは当然です。特に若い時は、自分の目標が身近にはないように感じ、遠くにばかり希望を求めてしまいがちです。しかし、それが過ぎると、若い日の貴重な時間を無駄にしてしまうこともあります。遠くばかりを見て、今の自分の境遇に不満を抱いてしまうんですね」
光悦は一息ついて、笑いながら続けた。
「ハハハ、私のような暇人が、若い人に教訓めいたことを言うのも変ですね。実は、そんな話をしに来たわけではなく、今夜、あなたを遊廓に連れて行こうと思って誘いに来たんです。どうですか、武蔵殿、遊廓をご覧になったことは?」
「遊廓…ですか? つまり、遊女のいる場所のことですね?」
「その通り。私の友人に灰屋紹由という者がいて、彼から今、誘いが来たんです。六条の遊び町を見に行きませんか?」
武蔵は少し考えてから、短く答えた。
「やめておきます」
光悦は無理に勧めることなく、軽く肩をすくめて言った。
「そうですか。気が進まないなら仕方がありませんが、時にはああいう世界を覗いてみるのも面白いものですよ」
すると、音もなくそばに来ていた母・妙秀尼が、興味深そうに二人の話を聞いていたらしく、口を挟んだ。
「武蔵どの、いい機会ではありませんか。一緒に行かれてはいかがです? 灰屋のご主人は気さくなお人柄、せがれもあなたを連れて行きたがっているのでしょう。さあ、行ってらっしゃい、行ってらっしゃい!」
妙秀尼は、いそいそと衣装箪笥から小袖を取り出して、武蔵にも着替えを勧め、光悦にも遊びに出るよう後押しした。
普通、親というものは、子供が遊廓に行くと聞けば、たとえそれが客の前であろうと、友人の前であろうと、眉をひそめたりして「また悪いことをしようとしているのか…」と苦々しく思うか、厳しい親なら「絶対にダメだ!」と一悶着起こるのが普通だろう。しかし、この母子は違った。
妙秀尼は、息子が遊廓に行くと言うのに、まるで自分が遊びに行くかのように、いそいそと支度を整え始めた。
「帯はこれでいいかしら? 小袖はどちらを着るの?」
まるで祭りにでも行くかのような勢いで、光悦の身支度を整え始めた。衣装だけでなく、紙入れ(財布)、印籠(薬入れ)、脇差(小刀)まで、派手なものを選んで揃え、特に紙入れには、金子(きんす、金銭)の音がしっかりするように、別の金箪笥から心づけをしっかりと入れておいた。
「さあさあ、行っておいで。遊廓は灯りがともる頃が一番良い時間よ。いや、もっと素晴らしいのは、夕暮れ時に行く道中かもしれないわ。武蔵どのも一緒に行かれたらどう?」
そう言って、武蔵の前にもいつの間にか、一揃いのきれいな服が準備されていた。最初、武蔵は妙なことだと不思議に思ったが、妙秀尼がこれほど勧めるなら、遊廓は世間で言うほど悪い場所ではないのかもしれないと考え直した。
「それでは、お言葉に甘えて、光悦どのにお供させていただきます」
「おお、そうなされ。さあ、衣装も替えて」
「いや、拙者には美しい服は似合いませぬ。この袷一枚が、自分らしくて気が楽ですので」
「それはダメです」
妙秀尼は、急に厳しい表情で武蔵をたしなめた。
「あなた自身はそれで良くても、汚い格好で遊廓に行ったら、まるで雑巾が置かれているように見えますよ。遊廓という場所は、世間の醜さや憂いを忘れ、一瞬でも美しいことに囲まれて屈託を捨てる場所なのです。そう思えば、身なりを整えるのもその場所の一部。さあ、これを着てみなさい」
「では、これを…」
武蔵は素直に衣装を着替えることにした。
「おお、よく似合う」
妙秀尼は、二人のさっぱりした姿を見て、何やら楽しそうに喜んでいた。
その間、光悦は仏間に入り、小さな燈明を捧げていた。どうやらこの母子は、日蓮宗を厚く信仰しているようだ。光悦は燈明を捧げ終えると、待っていた武蔵に声をかけた。
「さあ、お供いたしましょう」
二人は連れ立って玄関まで歩いていく。妙秀尼は既に先に出ていて、新しい草履を玄関に用意してくれていた。
「おそれ入ります」
光悦は草履に頭を下げ、足を履き替えながら母に向かって言った。
「では、行って参ります」
すると妙秀尼は、ふいに手を挙げて二人を止めた。
「光悦、ちょっと待ちなさい」
彼女は急いで外に出て、往来を見渡すように顔を出していた。
「――なんですか?」
光悦が不審そうに尋ねると、妙秀尼は門の潜り戸をそっと閉めて戻ってきた。
「光悦や、今のうちに言っておこう。さっき、門前に強そうな侍たちが三人でやって来て、不作法な言葉を吐いていったそうだ。何か大事が起こるんじゃないか、心配でね」
まだ外は明るいが、黄昏に向かう時間帯。妙秀尼は、遊廓へ行く息子と客である武蔵の身を案じて、眉をひそめてそう言った。
「……?」
光悦は武蔵の顔を見た。
武蔵はすぐに、その侍たちが誰なのか察したらしく、静かに言った。
「ご心配には及びません。彼らが拙者に危害を加えることはあっても、光悦どのに危害を加えるような者ではありません」
「おとといも、似たようなことがあったと聞いたのよ。おとといの侍は一人だったらしいけれど、鋭い目で門内に入り込んで、茶室の路地をうろつきながら、武蔵どのがいる奥の部屋を頻りと覗いていたそうだ」
「吉岡の者でしょう」
武蔵が断言すると、光悦も頷いた。
「私もそう思います」
そう言って、光悦は下男に尋ねた。
「今日の三人連れの侍は、なんと言って来たのか?」
下男は、わなわなと震えながら答えた。
「はい……お職人衆がみなお帰りになり、門を閉めようとしていると、どこからか侍三人が現れまして、いきなり私を囲んで、中の一人が懐から書状のようなものを取り出し、『これをこの家の客に渡せ』と、恐ろしい顔で言いました」
「なるほど……『客』とは、武蔵どのとは言わなかったのか?」
「いえ、その後で言いました。『宮本武蔵と申す者が数日前から泊まっているはずだ』と……」
「それでお前はどう答えた?」
「私は旦那様から口止めされておりましたので、『そのようなお客様はいらっしゃらない』と首を振りました。すると、一度は怒って、『嘘をつくな!』と声を荒げましたが、年配の侍がその人を宥め、『それなら良い、別の方法で当人に会って渡す』と言って、向こうの辻へ行ってしまいました」
武蔵はそれを聞き、光悦に言った。
「光悦どの、それではここを出ましょう。もし何かあって、あなたに怪我をさせたり、ご迷惑をかけてしまうことがあっては、申し訳が立ちませぬ。ですので、先におひとりで行かれますよう」
しかし光悦は、軽く笑って言った。
「そんな気遣いは不要ですよ。相手が吉岡の者と分かっていれば、恐れることなど何もありません。さあ、行きましょう」
光悦は武蔵を促し、門の外へ出た。しかし、ふと思い立ち、再び潜り戸の内側に顔を見せた。
「母上、母上」
「何か忘れ物か?」
「いいえ、先ほどのことですが、もしご心配なら、灰屋殿に使いを出して、今夜のお誘いはお断りしてもよいですが……」
「いいえ、心配しているのはお前の身ではなく、武蔵どのに何かあっては困るということだ。武蔵どのがすでに外で待っているのに、引き止めても意味がないし、せっかく灰屋殿のお誘いでもある。楽しんでおいで」
光悦は母の言葉に頷き、妙秀尼が閉めた潜り戸にももう未練はなかった。そして、武蔵と肩を並べて川沿いの町を歩きながら、言った。
「灰屋殿のお宅は、この先の一条堀川なので、途中で立ち寄って行きましょう」
まだ夕空は明るかった。水のせせらぎに沿って歩くと、なんとも心が落ち着く。黄昏時、人々が忙しそうに動き回る中、用もなくのんびり歩くのはなおさら良いものだ。
「灰屋紹由どの……どこかで名前を耳にしたことがあるような気がしますが」
武蔵が言う。彼と一緒にぶらぶら歩きながら、光悦が答える。
「おそらく聞いたことがあるでしょう。彼は連歌の世界で紹巴の門下にいて、すでに一家を成している方ですから」
「ほう、連歌師ですか」
「いや、紹巴や貞徳のように、連歌だけで生活しているわけではありません。彼も私と同じように、古くから続く京都の町人の家系です」
「灰屋という姓は?」
「それは屋号ですよ」
「何を売る店なのですか?」
「灰を売るのです」
「灰?……どんな灰を?」
「紺屋が紺染めに使う灰です。『紺灰』と言って、諸国の染物屋に卸しています。かなり大規模な商売です」
「なるほど、あの灰汁を作るための材料ですね」
「そうです。莫大な取引になりますよ。室町時代の初期には、御所の直轄で『紺灰座奉行』を務めていましたが、途中から民営になり、京都に三軒ほどの紺灰座問屋が許され、その一つが灰屋紹由どのの家でした。もっとも、今の紹由どのはすでにその家業をやめ、堀川のほとりで余生を送っています」
光悦はふと遠くを指さしながら続けた。
「あそこが見えますか? あの閑雅な門構えが、灰屋どののお住まいです」
武蔵は頷きながら、左の袂をそっと握りしめた。何かが入っている感覚がした。
(……これは?)
右の袂は軽く風に揺れるが、左の袂だけが少し重い。懐紙は胸元に入れてあるし、他には何も持っていないはずだ――そう思いながら手を滑らせ、中身を確かめてみると、そこには菖蒲色の革紐が入っていた。それは蝶結びで束ねられ、いつでも使える状態になっていた。
(……ああ)
どうやら妙秀尼がそっと入れてくれたものらしい。これを革襷として使えということか。
武蔵はその革襷を握りしめ、微笑みが頬に浮かんでくるのを感じた。そして、その微笑みを見せた先には――
ずっと後をつけてきた三人連れの侍たちの姿があった。彼らは武蔵の微笑に気づくと、はっとしたように足を止め、顔を突き合わせて何やら囁き合っていたが、やがて遠くから構え直し、急に大股でこちらに近づいてきた。
その時、光悦はすでに灰屋の門の前に立ち、鳴子を鳴らして訪問を告げていた。箒を持った下僕が現れ、案内されるままに庭へと入っていった。
後ろに武蔵が見当たらないことに気づいた光悦は、再び戻ってきた。
「武蔵どの、さあ、お入りください。遠慮はいりませんよ、ここは気軽に訪ねて良い家ですから」
何事もないかのように、光悦は門の外へ出て、武蔵を促した。
三人の侍が、まるで大太刀を誇示するように柄を反らし、武蔵を囲んで傲慢な態度で何かを言い渡していた。その様子を、光悦は門の外からじっと見ていた。
(さっきの連中か)
すぐに気づいた光悦は、侍たちに穏やかに何か返事をした後、武蔵がこちらを振り返って言った。
「すぐに後から行きますので、どうぞお先に。」
光悦はその言葉を聞いて、静かに目を見つめ返し、軽く頷いた。
「では、奥でお待ちしています。用事が済んだら、どうぞお入りください。」
光悦が門の中へ姿を消すと、待ち構えていたかのように、侍の一人が口を開いた。
「隠れるつもりか? いや、そんなことはないだろう。もう無駄な議論はやめだ。――俺はさっきも言ったが、吉岡門下の十剣の一人、太田黒兵助だ。」
そう言うと、太田黒兵助は懐から一通の書状を取り出し、武蔵に突き出した。
「これが、御舎弟・伝七郎殿からの手紙だ。ここで読んで返事をくれ。」
武蔵は無造作にその書状を広げ、さらっと目を通してすぐに返事をした。
「承知した。」
だが、太田黒兵助はまだ疑いの目を向けたままだ。
「本当に承知したのか?」
さらに念を押すように、武蔵の顔を伺う。武蔵は再び頷いて、
「確かに承知した。」
その言葉を聞いて、三人の侍はようやく納得したらしい。そして、太田黒兵助は念押しのように言った。
「もし約束を破れば、天下中に笑い者にしてやるぞ。」
武蔵は無言で彼らをじっと見つめていた。その静かな態度に、太田黒兵助はさらに疑念を抱いたようで、
「いいか、武蔵。本当に大丈夫なのか? 時間はもうすぐだ。場所はわかっているのか? 支度はできているのか?」
と、再び詰め寄ってきた。しかし、武蔵は簡潔に答えた。
「大丈夫だ。」
そう言いながら、灰屋の門へ入ろうとする武蔵に、太田黒兵助は再び追いすがった。
「武蔵、六条の遊廓にいるのか? それとも、この家か? 遅れたら迎えをよこすぞ。まさか卑怯なことはしないだろうな?」
武蔵は背中でその言葉を聞きながら、静かに灰屋の庭へと足を進め、門を閉めた。一歩足を踏み入れると、外の喧騒はまるで別世界のもののように遠のき、そこはまるで静かな別天地のようだった。
低い根笹と細竹が配された自然な小道が、石と石を結びながら湿り気を帯びた足元を導く。歩くにつれて見えてくる母屋や離れは、どれも歴史を感じさせる重厚さを持ち、周囲を囲む松の木は高くそびえ、家全体に静かな威厳を与えていた。それでも、客を迎える際には決して威圧感を与えることなく、穏やかな佇まいで迎えてくれる家だった。
どこかから蹴鞠の音が聞こえていた。武蔵はその音に耳を澄ませて、「公家の屋敷ならともかく、町人の家で蹴鞠の音を聞くなんて珍しいな」と思った。
「すぐに支度が整いますので、どうぞこちらでお待ちください」と、小間使いの女性が茶と菓子を運んできて、庭に面した座敷へ武蔵を案内した。彼女たちの動作はしとやかで、家全体に漂う上品な雰囲気が感じられる。
「日が陰ってきたからか、急に冷え込んできましたな」と、光悦がつぶやく。障子を閉めるよう小間使いに声をかけようとしたが、武蔵が蹴鞠の音に耳を傾け、庭の向こうに広がる梅林の花を見つめているのを感じ取り、自分もそちらに目を向けた。
「叡山の上に雲がかかってきたようですね。あの雲は北からやって来たものでしょう。――お寒くありませんか?」
「いや、特に寒くはないです」と、武蔵は淡々と答えた。彼はまったく光悦が気温の低下に気を遣っていることに気づいていなかった。武蔵の肌は、まるで革のように気候に強靭だったからだ。光悦の繊細な肌とは違い、彼の感受性もまた、すべてにおいて異なっていた。言い換えれば、武蔵は野生の男であり、光悦は都会人だった。
やがて、小間使いが燭台を持ってきて、外がすっかり暗くなると、光悦は障子を閉めようとした。
「お父様、ここにいたの?」
蹴鞠をしていた少年たちが、十四、五歳くらいの少年が数人、縁側から顔をのぞかせた。彼らは鞠を投げ捨て、武蔵の姿を見ると急に大人しくなった。
「おじい様を呼んでこようか?」
光悦が「いい」と答えたにもかかわらず、彼らは争うように奥へ駆けていった。
障子が閉められ、灯りがともると、この家のもつ和やかな空気が、さらに深く武蔵の心に染み込んできた。どこからともなく家族の笑い声がかすかに漏れ、居心地のよい空間が広がっていた。
武蔵が特に気に入ったのは、どこを見ても金持ちぶったところがまったくないことだった。むしろ、すべてが素朴で、ある金の気配を消そうとしているかのようだった。武蔵は、まるで大きな田舎の家にいるような感覚に包まれていた。
その時、突然、磊落な声が響いた。「いやあ、お待たせしてしまって申し訳ない!」
現れたのは、この家の主人、灰屋紹由だった。
光悦とは対照的に、彼は鶴のように痩せていたが、声は低く穏やかな光悦に比べて、ずっと若々しく力強かった。光悦よりも年上である可能性が高いが、気さくな性格がにじみ出ていた。光悦が武蔵を紹介すると、紹由は親しげに言った。
「おお、そうですか。松尾殿の甥御であらっしゃるとは。松尾殿とは、私も昔から親しくさせてもらっておりますよ!」
またしても叔父の名前が出て、武蔵はこの町人たちが、貴族との関係も持っていることをうっすらと感じ取った。
「さあ、早速出かけましょうか。明るいうちに出るつもりだったが、もう暗くなったので駕籠を呼ぶとしましょう。――武蔵殿ももちろん、ご一緒していただけますね?」
紹由はまるで若者のようにせかせかしていて、光悦とは対照的だった。光悦は落ち着き払って、遊郭に行くことすら忘れそうな雰囲気を持っていた。そんな二人の性格の違いが、さらに興味深い対照を生んでいた。
そうして、二人を乗せた駕籠が町を進んでいく。武蔵は初めて駕籠に乗り、生まれて初めての経験をしながら、堀川のほとりを揺れながら進んでいった。




