鍬
「どうしてこんなところに、宗彭沢庵がやって来たんだろうか?」 普通なら、彼がどこへ行くにも自然な感じがするものだが、今夜ばかりはその姿が唐突に見える。偶然ではないだろうけれど、このタイミングでここにいることが、少し不自然に感じられた。事情を聞きたいところだが、そんな余裕はなさそうだ。
「おーい、どうだい、宿屋のあんちゃん、見つかったか?」
沢庵とは別の場所を探していた宿屋の手代が、汗を拭きながら駆け寄ってきた。
「いや、見当たりません、どこにも――」
手代は困ったように言う。
「おかしいね。」
「本当に変ですね。」
「おまえが聞き間違えたんじゃないのか?」
「いえ、確かに、夕方に清水堂から使いが来て、地主権現まで行くと言って提灯を持っていったんですから。」
「でも、この夜中に、そんなところへ何しに行ったんだ?」
「誰かとそこで会う約束があったようです。」
「ならまだそこにいるはずだが……。」
「いないんですよ、誰も。」
「妙だな。」
沢庵は腕を組んで考え込むと、手代も頭を抱えて独り言をつぶやいた。
「子安堂のそばにいた灯明番に聞いたら、あのご隠居と若い女性が提灯を持って登って行ったのを見たと言ってました。……でも、三年坂のほうへ降りて行ったという人はいないんですよ。」
「だから心配なんだよ。ひょっとすると、もっと山奥の、人が行かない場所にいるのかもしれない。」
「なぜそんなことが?」
「どうやら、お通さんはあのおばばに騙されて、あの世への門口に連れて行かれたんじゃないかと心配してるんだ。」
「まさか、あのご隠居がそんな恐ろしい人とは……。」
「いや、普通はいい人間だよ。」
「でも、あなたのお話を聞くと、なんだか思い当たる節がありますね。」
「どんなことだい?」
「今日もお通さんという女性が泣いていたんです。」
「そりゃ泣くよ、お通さんは泣き虫だからな。……でも、この正月からずっとそのおばばのそばにいたってことなら、きっとひどい目に遭っていただろうな。可哀そうに。」
「息子の嫁だ嫁だと言ってましたから、姑として仕方ないかと思ってましたが……やっぱりおばばに虐められていたんですね。」
「おばばは楽しんでたんだろうよ。だが、こうして夜中に山の中に連れて行ったってことは、最後に思いを晴らそうとしているんだろう。女は怖いな。」
「でも、あのご隠居様は、もう女の部類には入らないくらいですよ。他の女性たちが迷惑するくらいです。」
「いや、どんな女にも少しはそういう部分があるものだ。おばばの場合、それが強いだけだ。」
「さすがお坊さん、やっぱり女性は嫌いなんですね。でもさっきは、あのご隠居のことをいい人間だとも言ってましたよね。」
「いい人間であることに変わりはないよ。あのおばばでも、清水堂に通って観音様に祈ってるじゃないか。観音様の前では、きっといいおばばなんだろうよ。」
「確かに、よくお念仏を唱えてますよ。」
「そうだろう? 信仰者には、そういう人が多いんだよ。外では悪いことをして、家に帰るとお念仏。悪魔のようなことをしても、お寺に行けばすぐにお念仏を唱える。人を殴っても、後でお念仏を唱えれば罪が消えて、極楽往生間違いなしだと思ってるんだ。困ったもんだね。」
そう言って沢庵は、また闇の中を歩き出し、滝壺のある山の沢へ向かいながら大声で叫んだ。
「おーいっ、お通さあん!」
又八はギョッとして叫んだ。 「やっ? おばば!」
注意を促す彼の声に、お杉も気づいていた。鋭い視線を宙に向けて、つぶやくように言う。 「なんじゃろ? あの声は」
だが、彼女が握っている黒髪と、それを切り離そうとしていた脇差は、少しも緩められていなかった。
「お通の名前を呼んでいるようだ……おお、また呼んでいるぞ。」
「いぶかしいことよの。――ここへお通を探しに来る者がいるとすれば、城太郎小僧くらいじゃが。」
「いや、これは大人の声だ……。」
「どこかで聞いたことがあるような……。」
「あっ、まずい! おばば、もう首なんて斬るのはやめろ。提灯を持った奴がこっちに降りてくる!」
「なんだと、降りてくる?」
「二人連れだ。見つかるとまずいぞ、おばば!」
危機を感じた瞬間、さっきまで啀み合っていた母子は急に一体となった。又八は急いで老母を促し、お杉も落ち着いている様子に見えながらも焦っていた。
「待ちなされ、すぐに行けるものか。」
お杉は、死骸の首を取ろうとする意欲に駆られていた。
「ここまで来て、証拠の首級を取らずに帰るのか。何を証拠に、故郷の者たちに、お通を成敗したと言えるというのじゃ。待て、今わしが……」
「あっ!」
又八は目を覆った。お杉が小枝を踏みしめ、死骸の首に刀を当てようとしたのを見て、彼にはその光景が耐えられなかった。
すると突然、婆の口から意味不明な言葉が飛び出した。彼女はよほど驚いたのだろう、死骸の首を離して後ろへよろめき、腰を落としてしまった。
「ち、ちごうた! ちごうた!」
手を振りながら、立ち上がろうとするが、どうしても立ち上がれない。
又八も慌てて顔を寄せて尋ねる。
「何が? 何が?」
「これを見い!」
「え?」
「お通ではない! この死骸は乞食か、病人か、男じゃ!」
「あっ、牢人者だ!」
じっと死骸の顔や風体を眺めた又八は、さらに驚きを隠せなかった。
「変だな……この人、知ってるぞ。」
「なんじゃ、知人か?」
「赤壁八十馬って奴だ。おれ、この男に騙されて、金を巻き上げられたことがある。あの生き馬の目を抜くような八十馬が、こんなところで死んでるなんて……。」
これはどう考えても、又八には理解できなかった。近くの小松谷の阿弥陀堂に住む虚無僧の青木丹左衛門がいたなら、あるいは八十馬の毒牙から朱実を救った誰かがいれば、説明もついたかもしれないが……今の彼らに答えを出せる者はいなかった。
「――誰だっ! お通さんじゃないのか、そこにいるのは?」
突然、二人の背後から、沢庵の声と提灯の明かりが差し込んだ。
「――あっ!」
逃げる瞬間、又八の若い足は、老母よりもはるかに速く動いた。
沢庵は駆け寄りながら、
「おばばだな。」
と呟き、しっかりとお杉の襟を掴んだ。
「そこへ逃げてゆくのは、又八ではないか!――これっ、老母を置いてどこへ行くつもりだ、卑怯者、不孝者、待て!」
沢庵はお杉の襟首を掴みながら、闇に向かって大声で叫んだ。お杉は彼の膝下で苦しそうにもがきながらも、虚勢を張って問い返す。
「たれじゃ、何奴じゃ」
だが、又八が戻ってくる気配はなく、沢庵は少し手を緩めながら言った。
「わからんか、おばば。どうやらおぬしも少しは耄碌したようだな。」
「オーッ、沢庵坊主か!」
「驚いたか?」
「なんの!」
お杉は首を横に振り、猛々しく答える。
「どこかの暗い世間をうろつく物乞い坊主が、今度は京都にまで流れてきたか!」
「そうそう」
沢庵はにこりと笑い、
「おばばの言う通り、最近までは柳生や泉州の辺りをうろついていたが、昨晩ふらりと都に戻ってきたんだ。そこで、あるお館で腑に落ちない話を耳にしてな、これはいかん――捨てておけぬ大事と思い、夕暮れからおぬし達を探していたのだ。」
「なんの用で?」
「お通に会おうと思ってな。」
「ふーム。」
「おばば。」
「なんじゃや?」
「お通はどこに行った?」
「知らん。」
「そんなことがあるものか。おぬしが知らぬはずがない。」
「このおばばは、お通に紐をつけて歩いてはおらんぞ。」
提灯を持って後ろに立っていた旅籠の手代が、ふと声を上げた。
「……坊さま、血が……地面に血がこぼれております、生々しい血が。」
沢庵はその言葉に顔を俯かせ、硬い表情を見せた。――その隙に、お杉婆は突然立ち上がり、逃げ出した。
振り返る沢庵は、そのまま叫んだ。
「待たんか! おばば! おぬしは家名の汚れをすすぐために故郷を出たのに、その家名に泥を塗って帰るのか? 子が愛しいと言いながら、その子を不幸にして戻るつもりか!」
沢庵の声はまるで宇宙が吠えているかのように響き渡り、婆の全身を包んだ。ぎくっと足を止め、お杉の顔には負けん気の皺が刻まれた。
「なんじゃと? わしが家名に泥を塗って、又八をさらに不幸にするだと?」
「そうだ。」
「阿呆な。」
お杉はせせら笑い、だがどこか真剣な表情になって言い返した。
「布施飯を食って他人の寺に泊まり、野に糞をして歩くだけの坊主に、家名や子の愛がわかるものか! 人並みに口を叩くなら、人並みに働いて食う米を食べろ!」
「痛いことを言うな。そう言いたくなる坊主もいるが、わしは違うぞ。おぬしの口の達者さには昔からかなわんと思っていたが、相変わらずだな。」
「オオ、まだまだこの婆には大望がある。口が達者だけではないぞ。」
「まあいい。――済んだことは仕方がないとして、話をしようじゃないか。」
「なんの話じゃ?」
「おばば、おぬしはここで又八にお通を斬らせたな。母子でお通を殺したのであろう?」
その言葉にお杉は首を伸ばし、笑みを浮かべた。
「沢庵坊、提灯を持って歩いても、眼がなければ世の中は暗闇だぞ。おぬしの眼は飾り物か、それともふし穴か?」
沢庵も、このお杉婆に翻弄されることには、どうしようもないらしい。無知というのは、時として知識を持つ者よりも強くなることがある。相手の知識を無視し、ただ自分の思うままに振る舞うと、知識のある者はかえって手も足も出なくなる。まさに、そんな状況だった。
「ふし穴か、飾り物か」
婆に罵られた沢庵は、じっと場を確認すると、確かに、目の前にある死骸はお通ではなかった。沢庵は、ほっとした表情を浮かべる。すると、お杉は嫌味たっぷりに言い放った。
「沢庵坊、おぬしはホッとしただろうよ。おぬしは、そもそも武蔵とお通をくっつけた、不義の媒人だものな。」
沢庵は逆らわずに答える。
「そう思うなら、それでもいいさ。――だが、おばば。おぬしも信心深いのは知っているが、この死骸を放っておくわけにはいかんだろう。」
「この死に損ないは、どうせ放っておいても死んでいたさ。又八が斬ったのは事実だが、あいつのせいじゃない。」
その時、旅籠の手代が口を開いた。
「そういえば、この牢人者は少し頭がどうかしていたようで、最近は涎を垂らして町をふらふら歩いていました。頭に大きな傷を負っていて、それが原因でしょうね。」
そんな話を耳にしても、お杉は興味を示さず、すでに道を探しながら歩き出していた。沢庵は、死骸の処理を手代に任せ、急いでお杉の後を追う。
歩きながらも、どこか気になったのか、お杉は振り返り、毒を吐きたそうな表情を浮かべる。しかし、その時、樹の陰から声が聞こえてきた。
「――おばば、おばば」
小声で呼びかける影を見つけると、嬉しそうにその声の方へ走り寄った。呼んでいたのは又八だった。
「やはり子だね、逃げたかと思ったら、母を案じていたのか」
お杉は、わが子の気遣いに内心喜んだ。そして二人で何かささやき合い、急に足を速め、麓へと向かって走り出した。
沢庵はそれを見送りながらつぶやいた。
「……まだ何を言っても耳を貸さないようだな。世の中から誤解というものがなくなれば、人間の苦労は随分減るのだが。」
彼の足は急ぐことなく、ゆっくりと進んでいた。彼にとって今の最優先は、お通を見つけることだ。だが、お通は一体どうなってしまったのか。母子の刃から逃げ切ったのは間違いないだろうが、それでも彼はお通の無事な顔を見るまでは、どこか落ち着かない。
そう思っていると、さっき崖を上がって行った旅籠の手代が戻ってきた。彼は、堂守たちを集めてきたのか、今度は七つ八つの提灯を持ち、再び崖を下りてきた。彼らは、牢人者である赤壁八十馬の死骸をその場に埋めようとしているらしく、鍬や鋤を振り下ろして、夜の静けさにドスッ、ドスッという不気味な音を響かせていた。
穴があらかた掘り終わる頃、突然、誰かが叫んだ。
「や、ここにも一人死んでるぞ! しかもこっちは美しい女子だ!」
その声がした場所は、穴を掘っている場所から五間ほどしか離れていなかった。滝から流れる水が分岐し、小さな沼が木々や草に覆われているその淵だった。
「これは……死んでないぞ。」
「いや、生きてる!」
「ただ気を失っているだけだ。」
提灯を持って集まった人々がざわめく中、沢庵が駆け戻ってきた。そして、それと同時に旅籠の手代が大声で沢庵を呼び返していた。




