悲母悲心
滝の音が耳に響いていた。水量が増したわけではないが、夜になると一層その音が大きく感じられる。
「地主権現っていうのは、確かこれだろうが……地主桜と、この木の立て札にも書いてあるな」
お杉婆さんは、清水寺の脇を通り、かなり険しい山道を登ってきたが、息が切れた様子はない。彼女は堂の前に立つと、すぐに闇の中に向かって声をかけた。
「伜! 伜!」
その声には、真実の愛情が震えていた。その姿を見ていたお通には、まるで別の老婆のように感じられた。
「お通、提灯の明かりを消すなよ」
「はい……」
「いない、いない……」
お杉はつぶやきながら辺りを見回し、そこここを歩き始めた。
「手紙には確か、地主権現まで来てくれとあったが……」
「今夜と書いてありましたか?」
「いや、今日とも明日とも書いてなかったんじゃ。あの子はいつまで経っても子供だからな……それに、自分で旅宿に来ればよいものを、住吉の件があるから気まずいんだろう」
お通が袂を引っ張って耳を澄ますと、下から誰かが登ってくる足音が聞こえてきた。
「お婆様、あれは又八さんではありませんか? 誰かが登ってきます」
「いたか?」
崖の道を覗き込みながら、お杉は再び声をかけた。
「伜……!」
だが、登ってきたのは、そう呼びかけるお杉には目もくれず、地主権現の裏手に回り、また元の場所に戻ってきた。そして、その者はじっとお通の白い顔を無遠慮に見つめていた。
――お通ははっとしたが、その顔には何も感じさせない冷静さがあった。この元旦、五条大橋の近くでお互いに見かけたはずだったが、佐々木小次郎はそのことを覚えていないようだった。
「おい、そこのお婆さんと女、今ここに登ってきたのか?」
突然の質問に、お通もお杉も驚いたまま、ただ小次郎の派手な姿を見つめるしかなかった。すると、小次郎は急にお通の顔を指さして言った。
「だいたい、このぐらいの年ごろの女だ。名は朱実といって、もう少し丸顔で、がらはこの女よりも小柄だが、都会育ちの茶屋の娘だ。どこか少し大人びた風がある……見かけなかったか、この辺りで」
二人は黙って首を振るしかなかった。
「おかしいな? 三年坂の辺りで見たという話を聞いたが……もしそうなら、この辺の堂で夜を明かすつもりかもしれん」
初めは話しかけていたが、途中から独り言のようになり、そのまま何かつぶやきながら小次郎は立ち去った。
お杉は舌打ちして言った。
「なんじゃあの若者は。刀を持っているところを見れば、侍だろうが、あんな派手な格好で夜中に女を追いかけて……。こっちはそれどころじゃない」
お通もまた、心の中で考えていた。
(あの女……あの女は旅籠に迷い込んだあの娘じゃないか……朱実だったんだ)
武蔵、朱実、そして小次郎――この三人の関係を考えれば考えるほど、解けない謎に悩まされるばかりだった。
「……戻ろう」
お杉はがっかりした様子で言い捨てた。確かに手紙には地主権現と書いてあったが、又八は来なかった。滝の音が冷たく響き、肌寒さが身を刺していた。
少し道を下っていくと、本願堂の門前で、二人はまたさっきの佐々木小次郎と出くわした。
「…………」
顔を見合わせただけで、どちらも無言のまま通り過ぎた。お杉が振り返ると、小次郎の姿は子安堂を通り過ぎ、三年坂へとまっすぐ降りていくところだった。
「険しい眼をしているのう……まるで武蔵みたいじゃ」
お杉がつぶやいていると、その視線が何かに触れ、急に背筋をピンと伸ばして、
「……ほう!」
まるで梟が鳴くような声を上げた。大きな杉の木の陰に、誰かが立って手を振っているのだ。
闇の中でも、お杉にはその人影がはっきりと見えた。間違いない、又八だ。
(――こっちに来い、と言ってるんだな)
手で何かを合図している様子から、その意味をすぐに読み取ったお杉は、嬉しそうに目を細めた。
「お通よ」
後ろを見ると、お通は少し離れた場所で、お杉を待っていた。
「――そなた、ひと足先に行ってくれ。だが、あまり遠くには行かぬように。あの塵間塚のそばで待っていなさい。すぐに後から行く」
お通は素直に頷き、前へ進みかけると、
「これこれ、他の場所に行ったり、どこかへ逃げたりするつもりなら、婆の目がここから光っていることを忘れるでないぞ。いいな」
そう言い終わると、お杉は杉の木陰へと素早く向かった。
「又八ではないか!」
「おばばっ!」
暗がりから手が伸び、待ちかねていたようにお杉の手をしっかりと掴んだ。
「何だ、そんなところで縮こまって……あらまあ、この子は氷のように手が冷たいじゃないか」
お杉はその手を包み込むように握りしめ、母親のような慈しみを見せた。
だが、又八は怯えた表情で、おどおどしながら言った。
「……でもなおばば、今も、たった今もここを通ったろうが」
「誰が通ったんじゃ?」
「背中に太刀を背負った、眼の鋭い若者だ」
「知っているのか?」
「知ってるに決まってる! あいつは佐々木小次郎だ。ついこの間、六条の松原でとんでもない目に遭わされたんだ!」
「――なに、佐々木小次郎? それじゃ、お前が言っていた佐々木小次郎とは別人なのか?」
「そ、そうなんだ……あれは嘘なんだよ。――その悪戯がバレてしまって、本物の佐々木小次郎にひどく懲らしめられたんだ。――実は、おばばに手紙を頼んでから約束の場所に向かおうとしたんだが、またもここであいつを見かけたもんだから、目立たないようにあっちこっちに隠れて、様子を見ていたんだ。――もう大丈夫かしら。あいつがまた来たら面倒だが……」
「…………」
お杉は呆れたように黙り込んだが、やつれて無力さを露わにしている又八の様子を見ると、その分だけこの子が愛おしくて仕方なくなってしまった。
「そんなことはどうでもよい!」
婆はもう、わが子の弱音を聞きたくないという顔をして、首を振った。
「それより、又八、お前は権叔父の死を知っているのか?」
「えっ、叔父御が? ……本当ですか?」
「誰が嘘を言うものか。お前と住吉の浜で別れてすぐ、あの浜で亡くなったのじゃ」
「知らなかった……」
「叔父御のあえない死も、この婆がこの年になっても、こうして憂き旅をさまよっているのも、いったい何のためか、お前は分かっておるだろう?」
「いつか大坂で会った時、凍てついた地面に叩きつけられ、お婆にたっぷり叱られたことは、肝に銘じて忘れてはいない」
「そうか……あの時の言葉を覚えているのか。では、お前に喜んでもらえることがあるぞ」
「なんだ、お婆?」
「お通のことじゃ」
「……あっ! じゃあ、お婆と一緒にここに来たあの女は……」
「これっ!」
お杉は、又八の前に立ちはだかり、たしなめるように言った。
「お前はどこへ行くつもりだ?」
「お通なら……お婆、お願いだ。お通に会わせてくれ!」
お杉はうなずきながら、
「会わせてやろうと思って連れてきたのじゃ。――だが又八、お前はお通に会ってどうするつもりじゃ?」
「悪かった、済まなかった、と謝るんだ……許してくれって」
「……そして?」
「……そしてな、お婆……お婆にも頼む。おれの一時の過ちを許してくれ」
「……そして?」
「元のように」
「なんだ?」
「――元のように仲直りして、お通と夫婦になりたいんだ。お婆、お通はおれのことを今でも思ってくれているだろうか?」
全てを言わせずに、
「――ばかっ!」
お杉は、又八の横顔をピシャリと叩いた。
「アッ……な、何をするんだ、お婆!」
よろめきながら又八は顔を押さえ、これまで見たことのないほど恐ろしい母の顔を見た。
「たった今、お前はなんと言った? わしがいつか言って聞かせた言葉を、肝に銘じていると言っただろう?」
「…………」
「いつ、この婆が、お通のような不埒な女に頭を下げて謝れと教えたか?――本位田家の名に泥を塗り、そればかりか、七生までの仇だと思っている武蔵と逃げた女じゃぞ!」
「…………」
「許嫁であったお前を捨てて、家名の仇である武蔵に身も心も捧げている犬畜生のようなあのお通に、お前は頭を下げて謝るつもりか。……謝るつもりかよ!」
お杉は、又八の襟を両手で掴み、激しく揺さぶった。
又八は、首をがくがくと動かしながら、目を閉じて母の叱責を甘んじて受けた。閉じた目からは涙がこぼれていた。
お杉は、ますます歯がゆそうに言った。
「何を泣いているんじゃ。泣くほどあの犬畜生に未練があるのか!――もう、お前なんて子はいらん!」
そう叫ぶと、お杉はわが子を力任せに大地へ突き倒した。自分もその場に崩れ落ち、一緒になって泣き出した。
「これを聞け」
お杉は再び、厳しい母の表情を取り戻し、大地に座り直した。
「今が、お前にとっても性根を据える時だ。――この婆も、あと十年二十年は生きられぬかもしれん。この声を聞けるのも、わしが死んでしまった後では、もう二度と聞けぬぞ」
その言葉に、又八は横を向いたまま何も返さなかった。まるで「分かりきったことを」とでも言いたげに。
お杉は、わが子の機嫌を損ねぬよう、心の隅で慎重に言葉を選びながらも、
「のう、又八。お通ばかりが女ではないぞ。あのような者に未練を残すな。もしこの先、お前が望む女が現れるなら、この婆がその家へ百回でも通ってやろう。いや、命を結納として差し出してでも、きっとお前にその女を貰わせてやる」
「…………」
「――だが、お通だけは金輪際、本位田家の面目として、許すことはできん。お前がなんと言おうと、わしは絶対に許さぬ」
「…………」
「もし、お前がどうしてもお通と一緒になりたいというのなら、この婆の首を落としてからそうするがいい。わしが生きているうちは――」
「おばば!」
突然、又八が激しく突っかかってきた。お杉は膝を立てて、
「何だ、その言い草は?」
と応じた。
「じゃあ訊くが……いったいおれの妻になる女は、おばばが持つのか、それともおれが持つのか?」
「それは知れたこと。お前が持つ妻に決まっておろう」
「……ならば、選ぶのはおれだろう。それを!」
「まだそのような聞き分けのないことを言うとは……お前はいったい何歳だ?」
「でも……いくら親でも、それはあんまりだ!勝手すぎる!」
この母と息子は、互いに感情をむき出しにしがちで、そのために言葉が追いつかないことが多かった。それが家庭の中で昔から続いてきた習慣であり、感情のぶつかり合いが、より一層対立を深めていた。
「勝手とは何だ? お前は誰の子で、誰の腹から生まれてきたと思っている!」
「そんなことを言われても無理だ……おばば……おれはどうしても、お通と一緒になりたいんだ!お通が好きなんだっ!」
さすがに、又八は母の青ざめた顔に向かって言うことはできず、空を見上げて叫んだ。
お杉の尖った肩が震え、まるで骨が音を立てるかのように動き出した。そして突然、
「又八、本気か?」
と問いかけると、いきなり脇差を抜き、自分の喉へ突きつけた。
「おばば、何をするんだ!」
又八は叫んだ。
「ええ、もう止めるな。それより、なぜ介錯すると言わぬのか?」
「ば、ばかなことを言うな!……おれが、母が死ぬのを見ていられるか!」
「では、お通を諦めて性根を入れ替えられるか?」
「それなら、おばばは一体、何のためにお通をここへ連れてきたんだ? おれにお通の姿を見せつけるためか?……おれには、おばばの意図が分からぬ!」
「わしが手を下すのは簡単だが、本来、汝を裏切った不貞な女だ。お前自身の手で成敗させてやりたいと思う親心を、有難いとは思わぬか?」
「じゃあ、おばばは、おれにお通を斬れと言うのか?」
「……嫌か!」
まるで鬼のような言葉だ。
又八は自分の母親に、こんな冷たい声を出す性質があったのかと疑った。
「嫌なら嫌と言え。もう猶予はならぬぞ」
「だ、だって、おばば……」
「まだ未練があるのか。ええい、もうお前のような奴、わしの子でもなければ母でもない! 女の首は斬れまいが、母の首なら斬れるであろう。さあ、介錯せい!」
お杉は脅しに違いないが、脇差を取り直して自害しようとする仕草を見せた。
親の気まぐれにしては、あまりにも激しすぎる。しかし、このお杉婆は、本気になればやりかねないような様子が息子の目にはただの演技とは思えなかった。
又八は震え上がって、
「おばば!……そんな短気なことをしなくてもいいよ。……わかった、おれは諦める」
「それだけか?」
「……成敗してみせる。おれの手で……おれの手でお通を斬る」
「本当にやるか?」
「……うん、やってみせる」
お杉は喜びの涙を流しながら、脇差を捨て、子の手を握りしめた。
「よく言った! それでこそ本位田家の後継ぎ、あっぱれな息子だ。御先祖様もお前を褒めるだろう!」
「……そうかなぁ?」
「さあ、討ってこい。お通はすぐこの下の塵間塚の前で待たせてある」
「うむ……今行くよ」
「お通を討ち取って、首を添え状とともに七宝寺へ送り届けよう。それだけで村の者たちの噂も変わるし、わしらの面目も半分は立つ。次は武蔵だが、これもお通が討たれたと聞けば、必ずわしらの前に姿を現すはずだ。さあ、行け!」
「おばば、ここで待っているのか?」
「いや、わしも後をついていくが、わしが姿を見せるとお通が騒いで話がこじれるだろうから、少し離れて見ておる」
「……女ひとりだ」
又八はゆっくりと立ち上がり、
「おばば、きっとお通を首にしてくるから、ここで待っていろ。女ひとりだから、大丈夫、逃がしはしない」
「だが、油断するなよ。あれでも、刃物を見ればそれなりに抵抗はするぞ」
「いいよ……なにくそ!」
自分を叱咤しながら、又八は歩き出した。不安そうなお杉もその後を追いかけてきた。
「よいか、油断するなよ」
「なんだ、おばば、ついてくるのか。待っていろ」
「いやいや、塵間塚はまだその下――」
「いいと言ったら!」
又八は苛立ちを爆発させ、
「二人で行くくらいなら、おばば一人で行ってこい。おれはここで待っている!」
「何を渋っているのだ、お前はまだ本気でお通を斬る気になっていないな?」
「……あれだって人間だ。猫の子を斬るような気持ちでは斬れない」
「無理もない。どんなに不貞な女でも、元はお前の許嫁だったのだから……。よい、婆はここにいよう。お前一人で行って、見事にやってくるのだぞ」
又八は返事もせず、腕を組んだまま、緩やかな崖道を一歩一歩降りて行った。
お通は、塵間塚の前でずっと佇んでいた。お杉婆が来るのを待ちながら、何度か「いっそ今ここで」と、逃げることも考えたが、それでは二十日以上も我慢して耐えてきた忍耐が無駄になってしまう。
(もう少しの辛抱だ)
そう自分に言い聞かせながら、武蔵のことや、城太郎のことを思い浮かべる。そして、ぼんやりと夜空に瞬く星を見つめていた。
武蔵を心に描くと、その姿は無数の星々と共に、彼女の胸の中で輝いた。
(今に……今にきっと会える……)
まるで夢を見ているかのように、彼女は将来の希望を数え始めた。国境の山で武蔵が言ったこと、花田橋のたもとでの彼の誓いを何度も心の中で繰り返す。
たとえどれほどの月日が経とうとも、彼がその誓いを裏切ることはない――お通はそれを強く信じていた。
――ただ、朱実という女性のことを考えると、ふと嫌な気持ちが胸を曇らせる。しかし、それも武蔵に対する強固な信頼に比べれば、取るに足らない些細なこと。不安にすらならない、ただの陰影に過ぎなかった。
(花田橋で別れて以来、会うこともできないし、話すこともできない。それでも、どうして私はこんなに楽しいんだろう? 沢庵さんは私を哀れんでいたけど、こんなに幸せなのに、どうしてあの人には私が不幸に見えるのかしら……)
針仕事をしながら待っていた時も、そしてこうして暗い寂しい中で、会いたくない人を待っている今も――お通はひとりで楽しんでいた。それは他人には空虚に見えるかもしれないが、彼女にとっては一番心が満たされている瞬間だった。
「……お通」
突然、暗闇から声がした。お杉婆の声ではない。お通はハッと我に返った。
「……え? どなたですか?」
「おれだよ」
「おれ、とは……」
「本位田又八だ」
「えっ?」
お通は思わず一歩後ずさりして驚いた。
「又八さん……ですか?」
「もう声まで忘れたかい?」
「本当に……本当に又八さんの声ですね。婆様には会いましたか?」
「お婆は、あっちに待たせてある。……お通、お前は変わらないなあ。七宝寺にいた頃とまったく変わってない」
「又八さん……あなたは今どこにいるんです? 暗くて姿が見えません」
「そばへ行ってもいいか?……おれ、恥ずかしくてさっきからここにいたんだ。でもしばらく後ろの暗がりからお前のことを見てたんだよ……。お前は今、そこで何を考えていた?」
「べつに……何も」
「本当に? おれのことを思い出してたんじゃないのか? おれは、一日たりともお前のことを忘れた日はなかったぜ」
又八がゆっくりと歩み寄ると、その姿がようやくお通の目に映った。しかしお通は、婆がそばにいないことに急に不安を感じた。
「又八さん……お婆様から、何か話を聞きましたか?」
「ああ、今さっきな」
「それじゃあ、私のことも……?」
「うむ」
その言葉を聞いてお通は、ホッと胸を撫でおろした。
きっと婆が以前に約束してくれた通りに、自分の気持ちを又八に伝えてくれたのだろう。そう思い、彼がここに来たのは、それを理解し承諾してくれるためだと解釈した。
「婆様からお聞きになったのなら、私の気持ちはもう分かっているはずです。私からも改めてお願い申し上げます。又八さん、どうか過去のことは縁がなかったものとして、今夜限りで忘れてくださいませね」
お通とお婆の間に、どんな約束が交わされていたのだろうか? それが気になりながらも、又八は、すぐにそれを追及することはなかった。お婆の言うことはいつもいい加減だから、どうせ大したことはないだろうと高をくくっていたのだ。お通が今、静かに語りかけた言葉にも、
「いや、ちょっと待ってくれ」
と、顔を少し横に振って、彼女の言葉の背後にある本当の意図を探ることはしなかった。
「――以前のことを言われると、正直、俺は辛いよ。ああ、本当に俺が悪いんだ。お前に顔向けできないなんて、今さらの話だが……でも、できるなら、これまでのことは全部忘れてしまいたいと思ってる。だけどさ、どうしてもお前のことを忘れられないんだ」
お通は戸惑いを隠せず、冷静に答えた。
「又八さん、私たちの心と心の間には、もう深い谷ができてしまいました。その谷は、二人の思いをもう通わせることはありません」
「その谷間に、五年の月日が流れていったんだ」
「ええ、そうです。年月は戻らない。私たちの昔の心も、もう呼び戻すことはできません」
「できるさ! お通、お前、そんなこと言わないで、やり直そう!」
「いいえ、無理です」
お通の冷たい語調と表情に、又八は驚き、思わず彼女をじっと見つめた。
情熱的で明るく、夏の日差しの下で咲き誇る真紅の花のような一面を持つお通に、こんな冷ややかな、まるで白い石を撫でているかのような感触を覚える側面があったなんて、又八は今まで気づかなかった。触れればすぐに切れそうな、その厳しさは、一体どこに隠されていたのだろうか。
この冷たい一面を目の当たりにして、又八の頭に浮かんだのは、七宝寺の縁側だった。あの山寺の縁側で、何かを考え込んでいるように、潤んだ目で空を見上げながら一日中黙っていた、お通の姿を思い出したのだ。
あの孤児のような寂しい姿。その中で育まれていた、冷たさ。それが今、ここで現れているに違いない――そう思うと、又八は彼女にそっと近づき、まるで棘のある白薔薇に触れるように、
「……やり直そう」
と、彼女の耳元で囁いた。
「……ねぇ、お通。戻らない過去のことを嘆いても仕方ないじゃないか。これから一緒にやり直せばいいんだ」
「又八さん、あなたは何か勘違いをしているようです。私が言っているのは、過去の年月ではなく、心のことです」
「だから、その心を、これから取り戻そうって言ってるんだよ。俺がやった過ちは……まあ、自分で言うのも変だけど、若い頃には誰にだってあることさ。そんなに大げさな話じゃないだろ?」
「どんな言葉を並べても、私の心はもう、あなたの言葉を本気で受け止めることはありません」
「……悪かったって! こんなに俺が謝ってるんじゃないか……ねぇ、お通」
「おやめください、又八さん。あなたはこれから男として生きていかなければならないのです。こんなことに――」
「でも、俺にとっては一生の問題なんだ。お前が誓いを立てろって言うなら、どんな誓いだって立てる。手をつけろって言うなら、今すぐつくよ!」
「知りません!」
「頼むよ……お通、怒らないで。ここじゃ落ち着いて話せない。どこか、別の場所へ行こう」
「嫌です」
「お婆が来たら厄介だ。……早く行こう。俺は、お前を殺すことなんてできない。どうして、お前を殺せるわけがあるか」
又八が彼女の手を取ろうとしたが、その手は強く振り払われた。
「嫌です! たとえ殺されても、あなたと同じ道を歩くのは絶対に嫌です!」
「嫌だって?」
「ええ、嫌です」
「本当に?」
「ええ、本当です」
「お通、それじゃあ、お前は今までずっと武蔵を思っていたってことか?」
「はい。あの方を慕っています。二世まで誓うほどに、心に決めている人です」
「う、うぅ…」
又八は怒りと悔しさで体を震わせた。
「言ったな、お通」
「そのことは、すでにお婆様にもお話ししました。お婆様からあなたにも伝わっているはずですし、この際、すべてをはっきりさせるために今日までこの機会を待っていたんです」
「わかった……おれに会って、そう言えと? それも全部、武蔵の指図だろ? 間違いない、そうに違いねぇ!」
「いいえ、武蔵様からの指図は受けていません。私の生涯の決断は、私自身で下すものです」
「俺も男だ。意地があるんだ、お通! お前がそういうつもりなら――」
「なにをするつもりですか!」
「俺は、男だぞ! たとえ生涯をかけても、武蔵とお前を添わせるわけにはいかない! 絶対に許さない! 誰が許すものか!」
「許す、許さないの問題ではありません。それをあなたが私に言う筋合いはないでしょう?」
「いや、ある! お前は元々、本位田又八の許嫁だったんだ。又八が『はい』と言わない限り、誰の妻にもなれないはずだ。ましてや……武蔵の妻になるなんて、絶対に許せない!」
「卑怯です。未練たらたらです。今さらそんなことを言えるなんて! 私はもうとっくに、あなたとお甲さんの名前で縁切り状を頂いているんです」
「知らない! そんな物を俺が出した覚えはない。お甲が勝手にやったんだろう」
「いいえ、その縁切り状には、あなたがきっぱりと私との縁を諦め、他家に嫁ぐようにと書かれていました」
「見せろ、それを!」
「もうありません。沢庵さんが見て、笑いながら鼻をかんで捨ててしまいました」
「証拠のないことを言っても、世間には通じないぞ。おれとお前が許嫁だってことは、故郷に戻れば知らない者はいない。こっちは証人がいくらでもいるが、そっちには証拠がない。……なあお通、無理やり武蔵と一緒になってみても、幸せにはなれない。お前だってわかっているはずだ」
「そんな話、私には関係ありません」
「じゃあ、これほど頭を下げて頼んでるのに――」
「又八さん、さっきあなたは『俺も男だ』と言いましたね。恥を知らない男には、どうして女の心が動くものですか。女が求めているのは、女々しくない男です」
「なんだと?」
「離してください。袂が切れてしまいます!」
「く、くそっ!」
「何をするんです!?」
「もう、こうなったら破れかぶれだ!」
「え……?」
「命が惜しいなら、ここで武蔵を諦めると誓え! さあ、誓え!」
又八はお通の袂を離すと、脇差を抜くためだった。刃を抜くと、その瞬間、又八の顔つきがまるで別人のように変わり、狂気を帯びたものになった。
刃物を持った人間は、確かに怖い。しかし、それ以上に恐ろしいのは、刃物に操られている人間だ。
お通が「ひっ…!」と声を上げたのは、刀の切っ先よりも、今や狂気に満ちた又八の顔を見た瞬間だった。
「よくも…この女め!」
又八の刀は、お通の帯の結び目をかすめていた。
(逃げなければ…)
焦りが募り、又八はお通を追いかけながら叫んだ。
「おばば! おばばぁっ!」
その声が届いたのか、遠くからお杉婆の返事が聞こえた。
「おう!」
婆もまた、小脇差を抜き、焦燥の表情で走り回る。
「仕損じたのか…」
お杉は辺りを見回しながら、走ってくる又八を目にし、道を塞いで叫んだ。
「どこだ、どこへ行った?」
しかし、お通の姿は見えず、又八が彼女にぶつかる勢いで眼前に現れた。
「斬ったのか?」
「逃がした…」
「この阿呆が!」
「――下だ! あれがそうだ!」
崖下に目をやると、お通は樹の枝に袂が引っかかり、必死にもがいていた。崖下は滝壺に近く、水の音が闇を駆け抜ける。お通は袂を振りほどくと、転がるようにして再び走り出した。
母子の跫音がすぐ後ろから迫る。お杉の声が耳元に響く。
「捕まえたぞ!」
お通は、もう逃げ場がないことを悟った。目の前にも、横にも、暗闇と崖に囲まれていたからだ。
「又八、早く斬れ! お通が倒れてるぞ!」
お杉に叱咤され、完全に刃物に支配された又八は豹のように跳びかかり、
「――畜生めっ!」
乾いた灌木の間に倒れこんだお通を目がけて、刀を振り下ろした。
木の枝が折れる音がしたと思うと、下から「きゃっ」という短い叫び声と共に、血が飛び散った。
「この女め、この女が!」
三度、四度、まるで血に酔ったかのように、又八は目を吊り上げ、灌木や萱を何度も滅茶苦茶に斬りつけた。
「…………」
撲ち続けた後、息が切れ、血の滴る刀を下げたまま、又八はぼんやりと立ち尽くした。血の酔いから醒めかけていた。
――手を見ると、掌にも血が。――顔を撫でると、そこにも血が付いている。温かく粘つく液体が、体中に飛び散っていた。
その一滴一滴が、お通の命のかけらだと思うと、又八はふらつき、眩暈を感じた。彼の顔はみるみるうちに青ざめていく。
「……ふふふ……。よくやった、息子よ。とうとう斬りおったな」
お杉婆は、呆然としている又八の背後から顔を覗かせ、滅茶苦茶に薙ぎ伏せられた灌木と草むらをじっと見つめた。
「よい気味だ! もう動くことはないだろう……。やったな、息子。これで胸のつかえが半分は取れた。故郷の連中にも、面目が立つというものだ……。又八、どうした? 早く首を斬れ。お通の首を持ち帰れ!」
「ホ、ホ、ホッ」
婆は息子の小胆を嘲るように笑いながら、
「――たった一人の人間を斬っただけで、そんなに肩で息をするとは、情けない奴じゃな。汝がその首を取れぬのなら、婆が代わりにやってやろう。――そこをどけ!」
そう言って前に進もうとした瞬間、ぼんやりと突っ立っていた又八が、握っていた刀の柄頭で、いきなり老母の肩を強く突いた。
「――な、なにをするんじゃ!」
危うく婆も足元が崩れ、灌木の中へ転びかけたが、どうにか踏みとどまった。
「又八、おまえは気でも違えたか。母親に向かってなんたる無礼じゃ!」
「おふくろ!」
「……なんじゃア?」
「…………」
異様な声を喉に呑み込むようにして、又八は血に染まった手で眼をこすった。
「……おれは……お通を斬った! お通を斬ったんだ!」
「褒めてやっておるではないか。それを、なぜ泣く?」
「泣かずにいられるかっ! 馬鹿、馬鹿っ! おばばのせいだ!」
「悲しいのか?」
「あたりまえだろう! おまえのような腐りきった婆さえ生きていなければ、どうにかしてお通の気持ちを取り戻してやったのに……。くそっ、家名だ? 故郷の面目だ? そんなもの、どうでもいい! ……もう、駄目だ……」
「知れたことを言いやがる。そこまで未練があるのなら、なぜ婆の首を斬って、お通を助けなかったのじゃ?」
「それができるくらいなら、こんなに泣いたり愚痴を言ったりはしねぇ! 世の中に、わからず屋の親を持つほど、不幸せなことはねぇ!」
「よせ。なんたるざまだ、それは……。せっかくうまくやったというのに」
「勝手にしろ。……おれはもう一生、好き勝手やってやる。目にもの見せてやるさ!」
「それが汝の悪い癖じゃ。もっと駄々をこねて、この年老いた母を困らせるがいいわ」
「困らせてやるとも、くそ婆め、鬼婆め!」
「オオ、オオ。なんとでも言え。さあ、そこをどけ。今からお通の首を取ってくるのだ。それから話を聞かせてやろう」
「誰がそんな鬼婆の話を聞くか!」
「いや、胴体から離れたお通の首を見たら、少しは考え直すじゃろう。美しい女子も死ねばただの白骨……それを見て、目に焼きつけてやろう」
「うるせえっ! うるせえっ!」
又八は頭を振り乱し、狂ったように叫んだ。
「……アーア、考えてみれば、おれの望みはやっぱりお通だったんだ。何度か、これはいけないと思って、立身出世の道を探そうとしたのも、全部お通と一緒になることを考えていたからだった。――家名でもなけりゃ、このくそ婆のためでもねえ!――お通がいたからこそ、おれは頑張れたんだ!」
「よしなさい。いつまでも泣き言を言っておらず、念仏でも唱えた方がまだマシじゃぞ。……なむあみだぶつ」
お杉婆は、いつの間にか又八の前に出て、血にまみれた灌木や枯れ草をかき分けながら進んだ。その底には、黒くうつ伏せになった仏体が横たわっていた。
婆は草をかき分け、恭しくその前に座り込んだ。
「……お通、わしを恨むな。仏になれば、わしもそなたに恨みはない。すべては約束ごとだ。頓証菩提」
婆は、手探りで黒髪を掴みしっかりと握った。
その瞬間、遠く音羽の滝の上から、誰かが「お通さん!」と呼ぶ声が、風に乗って響いた。まるで樹々や星々が語りかけるように、その声は暗闇の中を駆け抜けて耳に届いた。




