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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
風の巻
59/165

袋路地

 ふと、針を持つ手を止めて、おおつうは静かに耳を澄ました。


「……誰かしら?」

 軽く口にして、縁側に立ち、障子をそっと開けてみた。しかし、外には誰もいない。ただの気のせいだったらしい。それに気づくと、お通は妙に胸が塞がれるような寂しさに襲われた。もう少しで袖や襟を縫い終えるはずの縫物にも、自然と気持ちが入らなくなっていく。


(城太郎さんが来たかと思ったのに……)

 心の中でそうつぶやきながら、まだ誰も通らない昼下がりの風景を名残惜しそうに眺めていた。誰かが通るような気配でもあれば、きっと城太郎が訪ねてきたのだろうと思ってしまう自分がいた。


 ここは、京都の三年坂さんねんざかの下にある一軒家だった。町の中にありながらも、少し外れた裏道に位置していて、周囲には竹やぶや畑が広がっている。椿つばきの花が咲き始め、うめのつぼみも少しずつほころんできている。そんな自然に囲まれた静かな場所だ。


 お通が暮らすこの家も、近くの旅籠屋はたごやの一部で、畑を挟んだ向こう側にその旅籠屋の厨房がある。朝夕の食事は、その旅籠屋の台所から運ばれてくることになっている。この場所は、かつてお杉婆様ばばさまが定宿にしていた場所で、京都に来るたびにこの別棟を使っていたという。


「お通さん、もうお昼のご飯をお運びしてもよろしいですか?」

 畑の向こうから、旅籠屋の女中が大声で話しかけてきた。


 お通は考え事をしていたが、はっとして我に返り、

「ご飯ですか? でも、お婆様が帰ってきてから一緒に食べますので、後にしてください」

 と返事をした。


 すると、女中はさらに言った。

「ご隠居様は、今日は遅くなると仰って出かけましたけどね。きっと晩方までお戻りにはならないんじゃないでしょうか」

「そうですか……では、私もあまりお腹が空いていないので、昼食は後でいただきます」

「まぁ、あんたもあまり召し上がらないで、体を大事にしなきゃだめですよ」


 どこからともなく、松のまつまきの煙が漂い、畑の梅の木や母屋の風景が煙に包まれていった。この辺りには陶器の窯元かまもとが多く、火入れの際には絶えず煙が近所を覆うのだ。しかし、煙が消えた後には春の澄んだ空が一層美しく見えるのだった。


 馬のいななきや、清水寺への参拝客の足音が、遠くからかすかに聞こえてくる。そんな街の喧騒の中で、武蔵むさしが吉岡を討ったという噂を耳にした。


 お通は、ふと胸が高鳴り、武蔵の姿を瞼に思い浮かべた。

(城太郎さんは、蓮台寺野れんだいじのに行って、詳細を確かめているに違いない。城太郎さんが来れば、もっと詳しい話が聞けるかも……)

 そんな期待とともに、城太郎の訪れを待つ気持ちが一層強くなる。しかし、その城太郎が一向に現れないのだ。五条大橋で別れてから、もう二十日余りが経っている。


(もしかして、城太郎さんはこの家を見つけられなかったのかしら? いいえ、そんなはずはないわ。三年坂の下って教えてあるんだもの。探せばすぐに見つかるはずよ……)

 そう考えたり、また別の思いが浮かんだ。

(それとも、風邪を引いて寝込んでしまったのかしら?)

 だが、あの城太郎が風邪で寝ている姿はどうしても想像できなかった。


(きっと、あの子のことだから、のんきに春の空に凧でも揚げて遊んでいるんでしょう……)

 そう思うと、お通は少し腹立たしく感じ始めた。



 ――しかし、城太郎の方でも同じように考えているかもしれない。

(こんなに遠いわけでもないし、お通さんだって一度くらいは、自分から訪ねてきてくれてもおかしくないじゃないか。それに、烏丸からすまの屋敷にお世話になったまま、お礼も言わないのは悪いよな)

 そんなふうに、城太郎もこちらを待っているのではないかと考えた。


 お通もそのことに気づいていないわけではなかったが、今のところ、自分から城太郎の屋敷へ出向くことは難しい状況にあった。別に屋敷に限ったことではなく、どこへ行くにも、お杉隠居の許しがなければならなかったのだ。


(今日は留守だから、この機会に出かけてしまえばいいじゃないか)

 そう思う人もいるかもしれないが、そこはさすがに抜かりのないお婆さんである。入口にある旅籠の者たちに頼んであるから、お通の動きには常に誰かの目が光っている。ちょっと往来を覗くだけでも、

「お通さん、どちらへ?」

 と、すぐに旅籠の母屋からさりげない声がかかるのだ。


 また、お杉婆さんはこの三年坂さんねんざかから清水きよみずの界隈では顔が広いようで、すでに長い馴染みがあるらしい。特に、去年清水の近くで武蔵に真剣勝負を挑んだという話があってからは、周囲の籠かきや荷運び人たちの間で、

「あの婆さんはすごい気丈だ」

「本当にすごいな」

「敵討ちをしているらしいぞ」

 と評判になり、その気丈さが一種の尊敬を集めていた。そのため、旅籠の者たちはなおさらお杉婆さんの頼みを忠実に守る。

「この子には事情がある。だから、留守の間に勝手に外へ出ないように見張っていてくれ」

 そんなふうに頼まれていたのだ。


 つまり、いずれにせよ、お通はここから無断で外出することは許されなかった。手紙を出すにも、宿の者を通さなければならない。結局、お通にできることは、城太郎が訪れてくれるのを待つしかなかった。


「…………」

 お通は障子の陰に身を引き、再び針を進め始めた。その縫物は、お杉の旅支度のための着物の仕立て直しだった。


 すると、また外に人影が見えた――


「おや? 違ったかしら」

 聞きなれない女の声がした。往来から路地を抜けて、袋路地に入り込んだ女性が、どうやら道を間違えたらしく、こう呟いているのが聞こえた。


 お通は何気なく障子の陰から顔を出してみた。女は、梅の木の下で立ち止まり、お通の顔を見ると、間が悪そうに頭を下げた。

「あの……」

 困った様子で、もじもじしながら続けた。

「こちら、宿屋じゃないんですか? 路地の入口に『旅籠はたご』と書かれた掛行灯かけあんどんがあったので、つい入ってきてしまったんですけれど……」


 お通は答えることも忘れて、その女の顔から足先までじっと見つめていた。袋路地に迷い込んだ女はさらに間が悪そうに、

「どこのお宅でしょうか……」

 と、周囲の家々を見回し、ふと梅のこずえに目を向けて、

「まあ、きれいに咲いてますね」

 と、照れた様子で呟き、梅の花を眺めていた。


(そうだ、あの時の! 五条大橋ごじょうおおはしで見た娘……)

 お通はその瞬間、思い出した。そして、人違いかもしれないと自分を疑いながら、記憶を確かめるようにしていた――あの日、元旦の朝、大橋の欄干らんかんの前で、武蔵の胸に顔を押しつけて泣いていた美しい娘。お通にとっては、忘れ難い光景だった。それ以来、彼女のことが心に引っかかって仕方がない。あの女性に間違いないのだろうか。



 旅籠はたごの台所の女が帳場ちょうばに告げたようで、表から路地を回って来た手代が声をかけた。


「お女中さま、お宿でございますか?」

 朱実あけみは少し落ち着かない様子で答えた。

「ええ、どこなの?」

「ついそこの入口でございますよ。路地の右側の角です。」

「まあ、じゃあ往来に面しているんですね。」

「はい、ですが、非常に静かな場所でございます。」

「私は、人目につかない家を探していたの。だから、あの掛行灯かけあんどんを見て、この奥なら静かだろうと思って入って来たのよ。」

 朱実はお通のいる一棟いっとうをちらっと見ながら言った。

「ここは、あなたの宿の離れ家なの?」

「はい、手前どもの別棟べつむねでございます。」

「ここなら良さそうね……。静かで、誰にも見えない。」

「向こうの母屋おもやにもよいお部屋がございますが。」

「番頭さん、この家には他に女性がいらっしゃるようですし……私もここに泊めていただけませんか?」

「ですが、もう一人、少々気難しいご隠居様がおられますので……」

「私は構いませんよ。それでも良ければ。」

「では、ご隠居様がお帰りになりましたら、合宿あいやどを承知してくださるかどうか伺ってみます。」

「それまで、向こうの部屋で休んでいれば良いですか?」

「どうぞ。……向こうのお部屋もきっとお気に召すかと存じますが。」

 手代に従って、朱実は旅籠の表口に向かって行った。


 お通は結局、何も言えずに終わった。後になって、どうして一言でも聞いてみなかったのだろうと悔やむことになるが、それがいつも彼女の悪い性分なのだと、独りで思い沈んでしまう。

 朱実と武蔵はいったいどんな関係なのか。

 それだけでも知りたかった。


 五条大橋ごじょうおおはしで見かけた時、二人はかなり長い時間話していた。それだけならまだしも、彼女が泣いて、武蔵が肩を抱いていたではないか。

(まさか、武蔵様に限って……)

 お通は自分の妬みが生む疑念を打ち消そうとしたが、それでもあの日以来、心の中に知らぬ間にできた傷が深くなっていくのを感じていた。


 ――自分より美しい女。

 ――自分より武蔵に近い女。

 ――自分より才気があり、男性の心を巧みに掴む女。

 今までは、武蔵と自分のことしか考えていなかったお通だが、急に同性という存在に目を向けると、自分の無力さが哀しく思えてきた。

 ――自分なんて、美しくない。

 ――才もない。

 ――運もない。


 こうした思いが心を占め、広い世間の女性たちと比べてみると、自分が抱く希望はあまりに自分に不釣り合いで、何か途方もない夢のように思えてくるのだった。

 以前、七宝寺しっぽうじ千年杉せんねんすぎに登ったあの頃のような勇気はもう出せない。代わりに、五条大橋の朝、牛車ぎっしゃの陰にしゃがみ込んでしまった時の弱さだけが、妙にこの頃の心を支配している。

(城太郎さんの力が欲しい!)

 お通は痛切にそう思った。そして、

(あの頃は、まだ城太郎さんのような無邪気さが自分にも少しはあったから……)

 と考え、今はそんな純粋な気持ちからどんどん遠ざかってしまっている自分に気づく。縫い物をしている手元に、いつの間にか涙がほろりとこぼれていた。


「――いるのか、いないのか。お通っ、なんであかりを灯さないんだい!」

 いつの間にか夕闇が迫る中、戻ってきたお杉隠居の声が響いた。



「お帰りなさいませ。――今すぐ灯りの準備をいたします。」

 お通は小さな部屋に向かって歩きながら、冷たい視線を背中に感じた。お杉婆さんがほの暗い畳の上に座っているのが見えた。

 お通が灯りを置くと、そっと手をついて話しかけた。

「お婆様、今日もお疲れでしょう。どちらへ行かれていたのですか……?」

「聞くまでもなかろう。」

 お杉はわざと厳しい声で答えた。

「息子の又八を探しに、そして武蔵の居場所を捜し歩いていたんじゃ。」

「少し、脚をお揉みいたしましょうか。」

「脚はさほどでもないが、陽気のせいか、この四、五日は肩が凝る。――揉んでくれる気があるなら、揉んでくれ。」

 お杉の態度はいつもこうだった。しかし、お通はそれでも黙ってお杉の背後に寄り、肩を揉み始めた。これは、又八を見つけて過去の問題を片付けるまでの辛抱だと思っていたのだ。

「本当に肩が固くなっていますね。これでは呼吸が苦しいでしょう。」

「歩いていると、たまに胸が詰まるように感じることがある。やはり年を取ったのう。いつ倒れるかわからんぞ。」

「そんなことはありません。お婆様はまだお若い者たちには負けないくらいお元気です。」

「だがな、あの陽気な権叔父ごんおじですら、あっという間に逝ってしまったんだ。人間、何が起こるかわからん。……だが、わしが元気になるのは武蔵を思い出す時だけだ。奴を倒すことを考えると、気力がみなぎってくる。」

「お婆様……。武蔵様はそんな悪い人ではないと思います。お婆様が誤解しているだけです。」

「……ふ、ふ。」

 お杉は肩を揉ませながら、少し笑った。

「そうか、そなたにとっては、又八よりも武蔵が大事なんじゃろう?――まあ、悪く言ってすまなかったのう。」

「そ、そんなことはありません……。」

「そうか? でも、正直に言ったほうが楽じゃろう。又八よりも武蔵が気に入っているんじゃな?」

「…………。」

「まあ、いい。いずれ又八に会った時には、この婆が仲に立って、きっちりと話をつけてやる。それでそなたとわしは他人同士。そなたはすぐに武蔵の元へ走って行って、きっとわしら親子の悪口でも言うのじゃろう。」

「そんなことはありません。お婆様、お通はそんなことはいたしません。ご恩はご恩として、忘れることはありません。」

「この頃の若い女は、口がうまいのう。まあ、その優しい言葉に騙されはせんがな。――もしそなたが武蔵の妻になったら、わしはその時、仇じゃ。……仇の肩を揉むのも辛かろう。」

「…………。」

「それも武蔵と一緒になりたいからの苦労だ。まあ、それなら我慢もできる。」

「…………。」

「泣いているのか?」

「いえ、泣いてはおりませぬ。」

「では、この襟にこぼれたものはなんじゃ?」

「……すみませぬ、つい。」

「ええもう、むずむずして虫が這うようで気持ちが悪い。もっと力を入れて揉んでくれ。……武蔵のことばかり考えておらずにな。」


 その時、前の畑に提灯の灯りが見えた。いつものように旅籠の女の子が夕食を運んできたのだろうと思っていると、外から声が聞こえてきた。

「ごめん下さい。本位田様のご老母のお部屋はこちらでございますか?」

 縁先に立っているのは僧侶の姿をした男で、提灯には「音羽山清水寺おとわさんきよみずでら」と書かれていた。



「自分は子安堂の堂衆でございますが……」

 提灯ちょうちんを縁に置き、使いの僧侶はふところから一通の書状を取り出して言った。

黄昏たそがれ頃、寒々とした風貌ふうぼうの若い浪人が堂にやって来て、『この頃、作州さくしゅうの婆様は参拝に来ていないか?』と尋ねてきました。折に触れていらっしゃると答えると、筆を借りたいと言い、この手紙を渡してくれと言い残して立ち去ったのです。ちょうど五条まで用事で出かけましたので、早速お届けに参りました。」

「それはそれは、ご苦労様じゃ。」

 お杉婆さんはにこやかに敷物をすすめたが、使いの僧はすぐに戻って行った。


「……さてのう?」

 婆は行灯あんどんの下で手紙を開き、その顔色が変わった。どうやらその内容が彼女の胸を強く揺さぶったようだった。

「お通……」

「はい。」

 小部屋の隅で針仕事をしていたお通が答える。

「もうお茶など入れても無駄じゃ。子安堂の僧侶は帰ってしまった。」

「もうお帰りになられたのですか。それではお婆様に一服を……」

「客に出しそびれた茶をわしに回すのか?わしの腹は茶こぼしではないぞ。そのような茶は飲みとうもない。それよりすぐに支度をせい。」

「……え、どこかにお供するのでございますか?」

「そなたが待っている話を今夜つけてやろう。」

「あ……では、今の手紙は又八様からでございますか?」

「なんでもよいがな。黙ってついてくればよいのじゃ。」

「それでは旅宿やどの台所に、おぜんの支度を早くするように伝えてまいります。」

「まだか?」

「お婆様のお帰りを待っておりましたので……。」

「よけいな気づかいばかりしておる。わしは午前中に出かけておるのだ。今まで食べずにおれるわけがなかろう。昼と夜を兼ねて外で奈良茶飯ならちゃめしを済ませてきたわ。自分の分を早く済ませなされ。」

「はい。」

「音羽山の夜はまだ冷えるぞ。胴着どうぎは縫えているか?」

「お小袖こそではもう少しですが……」

「小袖のことは聞いておらぬ。胴着を出してくれ。それから足袋たびは洗ってあるか? 草履ぞうりの緒が緩んでおる。旅宿に行って新しいわら草履をもらってきなされ。」


 婆の指示が次から次へと飛び交い、お通は反抗する余裕もなかった。ただ無言で従うしかない。お通は急いで支度をし、

「お婆様、お出かけの準備が整いました。お供いたします。」

 そう言って先に立つと、婆はこう言った。

提灯ちょうちんを持ったか?」

「いえ……。」

「おろか者め!音羽山の奥まで行くのに灯りなしでわしを歩かせるつもりか。旅宿から提灯を借りてこい。」

「気がつきませんでした――今すぐ。」

 お通は自分の準備もそこそこに、急いで提灯を借りてきた。


 音羽山の奥と聞いても、どこへ向かうのかはわからなかった。だが、問えば叱られるだろうと思い、お通は黙って灯りを掲げて三年坂さんねんざかを進んでいった――。

 心の中では、彼女も少し急いでいるような気持ちだった。さっきの手紙はきっと又八からだ。もしそうなら、婆と長い間約束していた問題が今夜こそ解決されるに違いない。どんな苦しみも、もう少しの辛抱だ。

(話がついたら、今夜のうちにも烏丸様からすまるさまのところへ戻って城太さんに会わなければ……)

 三年坂を歩くお通にとって、それはまさに「辛抱坂」だった。石がゴロゴロと転がる坂道を、彼女は足元を見つめながら進んでいった。

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