次男坊
輿やあん輿といった乗り物は、かつて一部の階級にしか使われていなかった。しかし、最近では庶民にも広まり、「駕籠」と呼ばれるものが市中や街道に現れ始めている。
四つの竹の棒が付いた籠に人が乗り、前と後ろの担ぎ手が、 「エッ、ホッ!」「ヤッ、ホッ!」と声を掛け合いながら運ぶ様子は、まるで人間が荷物のように扱われているかのようだ。
駕籠が大きく跳ねると、浅い籠に乗っている人間は振り落とされないように必死で吊り竹にしがみつき、 「エッ、ホッ! エッ、ホッ!」
と、駕籠担ぎと息を合わせて体を弾ませ続けなければならない。
今まさに、その駕籠が松林の中の街道を進んでいる。一挺の駕籠には提灯が三つか四つぶら下がり、七、八名の一団が東寺の方から旋風のように駆けて来るのが見える。
夜半を過ぎると、こうした駕籠や馬の鞭の音がしばしば聞こえてくる。この道は京都と大阪を結ぶ動脈で、淀川の川船の運行が止まると、急用のある者たちは陸路を駆け抜けることがよくあるのだ。
「ヤッサ!」
「エッサ!」
「あぁ、もう少しだ……」
「ここは六条だぞ!」
この一団も、三里(約12キロ)か四里(約16キロ)先から来たのだろう。駕籠担ぎも、駕籠に添って走る者たちも、疲れ果てていて、まるで心臓が口から飛び出しそうな息づかいだ。
「ここが六条か?」
「六条の松原だ、もう少しだ」
彼らが携えている提灯には、大坂の遊廓で使われる太夫紋が描かれている。しかし、駕籠に乗っているのは、大男だ。その男に付き従う歩きの若者たちも皆、勇壮な面々だった。
「御舎弟、四条はもうすぐそこでございます」
そう声をかけられた駕籠の中の巨漢は、まるで張り子の虎のように首をガクガクさせながら、気持ちよさそうに居眠りをしていた。
そのうちに――
「おっと、落ちるぞ!」
介添えの者が慌てて外からその巨漢を抑えると、その男は突然大きな目を開け、
「アア、喉が渇いた……酒をくれ、竹筒の酒を!」
と言った。
ちょっとでも休めるのなら、皆一休みしたい気持ちだった。
「よし、降ろせ、しばし休むぞ」
そう言うと、あっという間に駕籠を地面に下ろし、駕籠担ぎも周りの若者たちも一斉に手拭いで、魚のように汗をかいた胸や顔を拭き始めた。
「伝七郎様、もうあまり酒はございませんが……」
そう言って竹筒を差し出すと、伝七郎と呼ばれたその男は、一息に酒を飲み干し、
「アア、冷てぇ! 酒が歯にしみるぜ」
と、目が覚めたかのように大きく呟いた。
彼は首をぬっと四ツ手の外へ突き出し、夜空の星を仰ぎながら、
「まだ夜が明けないのか……随分早く着いたものだな」
「お兄上の身になれば、まだかまだかと、一刻千秋の思いでお待ちかねでございましょう」
「俺が着くまで、兄貴の命が持ってくれればいいが……」
「医者は命が持つと言っておりましたが、ひどく興奮しておられるので、時折傷口から出血するのがよくないそうです」
「……無念だろうな」
伝七郎は口を開き、竹筒を逆さにしたが、もう酒は残っていなかった。
「――武蔵めぇ!」
彼は竹筒を地面に叩きつけ、荒々しく叫んだ。
「急げっ!」
伝七郎は酒に強いが、それ以上に癇癪が強い。だが、最も強いのは彼の腕力で、吉岡家の次男坊として世間では知られた存在だった。兄とは正反対の性格で、父親の拳法がまだ健在だった頃から、その力量は父をも凌いでおり、今でも門下の者たちはそれを認めている。
「兄貴はダメだな。あんなのが親父の跡を継ぐなんて無理だよ。いっそ禄でももらって大人しくしていればいいんだ」
これは、伝七郎が兄に向かって堂々と言うような口ぶりである。従って、兄弟仲は決して良くない。拳法がまだ生きていた頃は一緒に道場で稽古に励んでいたものの、父親が亡くなった後、伝七郎は兄の道場に顔を出すこともなくなった。昨年、友人二、三名と伊勢に遊びに出かけ、帰りに大和の柳生石舟斎を訪ねると言いながら、京都には戻らず行方をくらましたままだった。
しかし、誰もこの次男坊が飢えているとは思わなかった。わがままを言って酒を飲み、兄貴の悪口を言い、自分は一切働かずに天下を見下していれば、それで不自由なく暮らせていたからだ。まるで不思議な次男坊の生活力が彼には備わっていたのである。(最近では、兵庫の御影あたりで誰かの下屋敷に転がり込んでいるという噂がある)
そんな噂は耳にしても、特に誰も気に留めていなかった。だが、今度の清十郎と武蔵の蓮台寺野の事件がきっかけだった。
瀕死の清十郎が、 「弟に会いたい」 と最後に漏らした言葉は、門弟たちの心を突き刺した。しかしそれ以上に、門下の者たちは、 「この失態を雪ぐには、御舎弟しかいない」 と、彼の名を誰もが思い浮かべていたのだった。
御影の近くにいるとしか分からなかったが、即日、五、六名の門下生が兵庫に向かい、ようやく伝七郎を見つけ出し、早駕籠に乗せて連れ帰った。
普段は仲が悪い兄であろうとも、吉岡の名を賭けての決闘で、兄が瀕死の重傷を負い、敗北の汚名を被った。そしてその瀕死の状態から「弟に会いたい」と口にしたと聞かされると、伝七郎は二つ返事で、 「よし、行ってやる」 と駕籠に乗り込み、道中でも 「早く! 早くしろ!」 と急かしていた。駕籠かきを三度も四度も替えながら急いで駆け抜けて来たほどだった。
しかし、それほど急いでいるにも関わらず、伝七郎は立ち寄るたびに竹筒に酒を買わせていた。感情が高ぶっていたせいかもしれないが、普段から大酒飲みだ。それに寒い淀川の川岸や田んぼの風に吹かれながら駕籠で移動するため、いくら飲んでも酔わない気がしていたのだろう。
ところが、またしても酒が切れてしまい、伝七郎は焦りと苛立ちを募らせていた。竹筒を捨てながら、駕籠かきの男たちや門下生たちが何か不審な様子で、松林の暗闇に耳を傾けている。
「――なんだ?」
「ただの犬の鳴き声じゃないぞ」
耳や目を奪われている一行に対し、伝七郎が急かしてもすぐには駕籠のそばに戻ってこない。そこで、癇癪を起こした伝七郎はまたも怒鳴りつけた。
「早く駕籠を進めろ!」
それを聞いて驚いたように、一人の門弟が言った。
「御舎弟、少しお待ちください。あれは一体、何が起こっているんでしょうか?」
そんなに大げさに神経を使うようなことではなかった。遠くで聞こえていたのは、数十匹か、あるいは百匹以上の犬たちが吠え合っている声だったのだ。犬がいくら多くても、結局のところ犬は犬だ。「一匹が吠えれば、千匹が吠える」というように、犬たちの騒ぎはあまり信用ならない。まして最近は戦乱が少なく、食糧を求めて野から町へ移ってきた野良犬の群れが街道筋にいるのは珍しくない。
「行ってみろ!」
伝七郎はそう言い、率先して足早にその方向へ向かった。彼がこう動く以上、犬の声もただの犬の声ではなく、何か特別な理由があるのだろう。門人たちもそれに続き、遅れまいと駆け寄っていった。
「――やっ?」
「――や?」
「――何だこれは?」
彼らが目にしたのは、想像以上の光景だった。
木の根元に縛られているのは又八。そして、その又八を三重、四重にも取り巻くように、黒々とした犬の群れが唸りながら彼を取り囲んでいる。まるで彼の肉を要求しているかのようだった。
犬の立場で言えば、これは復讐というものかもしれない。実際、先ほど又八は刀で犬を斬り、その血が辺りに飛び散っていた。又八の体には、犬の血の臭いが染みついているのだ。
あるいは、犬の知能が低いことを考えると、単に「この弱そうな奴を弄んでやろう」と面白がっているのかもしれない。または、変わった格好をして木に縛り付けられている姿が、犬たちにとっては不審に思えるのかもしれない。泥棒か、動けない者か、とにかく何か怪しい存在に見えているのだろう。
犬たちは狼のような姿をしており、腹は痩せ、背骨は浮き出ていて、牙はまるでヤスリで削ったかのように尖っている。孤立無援の又八にとっては、先ほどの六部や小次郎よりもはるかに恐ろしい存在だった。
手足を使えない今、又八に残された唯一の戦法は、顔と言葉を駆使して犬たちを撃退することだった。しかし、顔は武器にはならないし、言葉も犬には通じない。
仕方なく、又八は犬たちにも分かるような声と表情を作り、必死に防御しようとした。
「うううっ――。うわうッ……うわうッ!」
猛獣のような唸り声を出してみた。すると、犬たちは一瞬怯み、少し後ずさった。だが、又八があまりにも唸り続けたせいで、水洟を垂らし、犬たちから甘く見られてしまったのか、効果はすぐに消えてしまった。
声が通用しなくなった今度は、顔つきで犬たちを威嚇する作戦に出た。
大きな口をぱっと開いてみせると、犬たちは一瞬驚いたようだった。目を大きく見開き、まばたきを我慢してみせる。顔をしかめ、鼻と口をぐしゃぐしゃにして威嚇する。さらには、長い舌を伸ばして鼻先まで届かせて見せた。
だが、こんな無理な表情を続けていると、次第に疲れてきた。犬たちも飽きたのか、再び険悪なムードが漂い始めた。
そこで又八は最後の知恵を絞り、「俺も君たちの仲間だ、同じ生き物なんだ」という親しみを伝えるためにこう叫んだ。
「――わん、わん、わん! きゃん、きゃん、きゃん!」
犬の鳴き声を真似してみたのだ。しかし、それが裏目に出た。犬たちは彼をますます軽蔑し、怒り出したかのように吠えながら顔に近づき、さらには彼の足先を舐め始めたのだ。
又八はこの状況に焦り、弱音を吐くまいと決意し、突然大声で歌い始めた。
「法皇は文治二年の春の頃――」
それは、平家物語の『大原御幸』を夢中で呟くかのように叫び続けるものだった。彼は目を固く閉じ、顔を歪め、自分の声で耳を塞ごうとしていた。
幸運にも、その場に伝七郎たちが駆けつけた。すると、犬の群れは八方へ散り、逃げていった。又八は、その場の体裁も忘れて必死に叫んだ。
「助けてくれ! 縄を解いてくれ!」
吉岡の門人の中には、又八の顔を見覚えている者が二、三人いた。
「おい、こいつは…見覚えがあるぞ。よもぎの寮で見たことがある」
「ああ、お甲の亭主だ」
「亭主? でも、確か亭主なんていなかったはずだが…」
「それは祇園の藤次に見せかけてただけで、実はこの男が本当にお甲に養われてたんだよ」
そんな話で盛り上がり始めたが、伝七郎が「かわいそうだから解いてやれ」と一言。縄を解かれた又八は、事情を説明することにした。しかし、良心の呵責からか、真実を全て話すわけではなかった。
吉岡の一行だとわかると、又八は自分の「敵意」を思い出し、武蔵の名前を引き合いに出した。自分と武蔵は同じ郷里の出身だが、武蔵は自分の許嫁を奪って逃げたせいで、郷土の名に泥を塗られた、と話した。
さらに、又八は母親のお杉も、その恨みを晴らすために国を出て、自分と共に武蔵を討とうと狙っていると説明。自分はお甲とは無関係であり、あくまで祇園の藤次とお甲が親密で駆け落ちした事実を証明しようとした。
そして、母のお杉と武蔵の消息を知ることが今は一番の関心事だ、と付け加えた。話の流れで、清十郎が武蔵に敗れたことを知り、その報復のためにここまで駆けつけたとも語った。野武士に囲まれて金を奪われたものの、母の仇と武蔵を討つために耐えてきたのだと主張する。
「吉岡家も、手前も、武蔵は共に天を戴かざる仇敵。このように吉岡家の皆様に縄を解いていただいたのも何かの縁かもしれません。お見受けするに、あなたは清十郎様の御舎弟ではありませんか。手前も武蔵を討つ者、あなたも武蔵を討とうとされているでしょう。どちらが早く武蔵を仕留めるか、目的を果たした後でまたお目にかかりましょう」
又八の言葉には、嘘もあれば、少しは本当のことも混じっていた。だが、最後に「どちらが早く武蔵を討つか」と言ったあたりで、自分でも少し気恥ずかしくなってきたらしい。
「母のお杉は清水堂で参籠して祈願しておりますので、これから母を訪ねて参ります。お礼は後日、四条道場に伺いますので、お急ぎのところお足を止めて恐縮でした。では、これにて失礼します」
そう言い残し、ボロが出ないうちにと急ぎ足で立ち去っていった。
嘘か本当か疑う暇もなく、又八は姿を消した。吉岡の門下たちは呆れ顔をし、伝七郎は苦笑を浮かべながら言った。
「なんだ…あいつは一体?」
そして後ろ姿を見送りながら、暇つぶしができたことに舌打ちし、気を取り直すように歩き出した。
医者が「この数日が危ない」と言ってから、四日が経過した。その時期が最も危険な状態だったが、昨日あたりから少し回復してきたように見える。
清十郎は、ぼんやりと目を開けて、(今は朝なのか? 夜なのか?)と考えた。枕元の有明行灯は消えかかっている。部屋には誰もいないが、隣の部屋から誰かのいびきが聞こえる。看護で疲れた者たちが、帯を解かずにそのまま寝ているのだ。
(鶏が鳴いている…まだ生きているのか)
再び自分がこの世にいることを実感しながら、清十郎は思った。(生き恥だ…!)
彼は夜具の襟で顔を隠し、指先が微かに痙攣しながら泣いているように見えた。(この先、どの面下げて…)という思いが胸をよぎり、こらえきれず、男泣きに嗚咽を飲み込んだ。
父の拳法の名声はあまりにも大きすぎた。不肖の息子である自分は、その名声と遺産を背負って生きるのが精いっぱいだった。そしてついには、その名声が仇となり、身も家も滅びの道へと追い込んでしまった。
(もう終わりだ…吉岡家も)
ぼんやりと枕元の行灯が消える。部屋の中に、夜明けの淡い光がほのかに差し込んできた。ふと、あの日、朝霜の白い蓮台寺野に立っていた時のことが蘇る。――武蔵のあのまなざしが、今でも彼の心に深く突き刺さる。
(あの時、なぜ武蔵に対して木剣を投げ、家名を守る手立てを取らなかったのか?)
自分は最初から武蔵の敵ではなかった。それにもかかわらず、父の名声が自分の名声と勘違いしてしまったのだ。(修行なんてしていなかった…おれは、武蔵に敗れる前に、人間として、そして一家の戸主として、すでに敗北の兆しを見せていたんだ)
武蔵との決闘は、ただその滅びへの一歩に過ぎなかった。遅かれ早かれ、吉岡家の道場が栄えることなど、社会の激流の中ではありえなかったのだ。
閉じたまつげの上に涙が滲み、それがぽろりと耳の横へと流れる。(なぜあの時、蓮台寺野で死ねなかったのか…生き残って何になる…)
右腕の無い痛みを感じながら、朝が来ることを恐れる気持ちに襲われた。
その時、どどどっと門を叩く音が遠くから聞こえてきた。誰かが隣の部屋で寝ている人たちを起こしに来たようだ。
「えっ、御舎弟が?」
「今、到着されたそうです!」
慌ただしく出迎える者たちと、すぐに清十郎の枕元に駆け寄ってくる者たちが入り乱れた。
「若先生、若先生! 喜んでください、伝七郎様が早駕でお着きになったそうです! すぐこちらへ見えられます!」
雨戸が開かれ、火鉢に炭が足され、待つ間もなく――
「ここか、兄貴の部屋は!」
襖の外から伝七郎の声が聞こえてきた。久しぶりの声だ。清十郎は、弟に会うのが辛いと感じながらも、その声に反応せざるを得なかった。
「兄上!」
入ってきた弟を見上げようとした清十郎だったが、笑顔を見せることができなかった。伝七郎の体から、ふっと酒の匂いが漂ってきた。
「どうなさったんですか、兄上?」
伝七郎のあまりにも元気すぎる様子が、清十郎の神経に重圧をかけているようだった。
「……」
清十郎は目を閉じたまま、しばらく何も言わなかった。
「兄上、こんな時こそ、不肖な弟でも頼りになるでしょう。使いの者から話を聞いて、急いで御影を出発し、途中で大坂の傾城町で旅支度や酒を整えて、夜を冒して駆けつけてきたのです。――安心してください、伝七郎が来たからには、もう誰にも吉岡道場に手出しはさせません!」
そう言って、茶を持ってきた門人に向かい、
「おい、茶なんていらない。酒を準備しろ!」
「はい」
門人が退下すると、伝七郎は続けた。
「おい、誰か障子を閉めろ! 病人が寒いだろうが、馬鹿め」
そして膝を崩してあぐらをかき、火桶を抱え込みながら黙っている兄の顔を覗き込んだ。
「で、どんな勝負をやったんです? 宮本武蔵なんて、最近ちょっと聞き始めた駆け出しの青二才じゃありませんか。兄貴がそんな奴に負けるなんて、信じられませんよ」
その時、門人が襖越しに声をかけた。
「御舎弟さま」
「なんだ?」
「お酒の準備が整いました」
「持ってこい」
「ですが、お風呂の準備もできておりますので、湯に入られてから…」
「風呂なんて入りたくない。酒はここで飲むから、ここに持ってこい!」
「え…枕元で…ですか?」
「いいんだ。兄貴とは久しぶりに話すんだ。仲が悪かったけど、こういう時こそ兄弟に勝るものはないさ。ここで飲もう」
やがて、伝七郎は手酌で酒を飲み始めた。
「うまいな…」
と、二、三杯続けて飲み干し、
「兄上が元気だったら一杯差し上げるんですがね」
と、独り言のように言った。
清十郎は上目遣いに弟を見上げ、
「弟よ…」
「なんだ?」
「枕元で酒を飲むのはよしてくれ」
「どうしてだ?」
「いろいろな嫌なことを思い出すからだ。おれには不愉快なんだ」
「嫌なことって?」
「亡き父上は、きっと兄弟で酒を飲む姿を見て、眉をひそめていただろう。…お前も、おれも、酒にまつわることでいいことなんてしてこなかった」
「じゃあ、悪いことばかりしてきたって言うのか?」
「…お前にはまだわからないだろう。だが、今この病床にいるおれは、半生の苦杯をなめているんだ」
伝七郎は笑い飛ばしながら、
「ハハハ、兄貴は昔から神経質だ。剣士としての太さが足りないんだよ。正直な話、武蔵なんかと試合をするなんて、そもそも間違いだったんだ。相手が誰であれ、そんなことをするのは兄貴には似合わないんだ。もうこれで懲りたなら、太刀を握らないほうがいい。そして、吉岡家の二代目として大人しくしているべきだ。もしどうしても試合を挑んでくる奴がいて、引き下がれないような状況になったら、伝七郎が代わりに立ち合ってあげるよ。道場も、これからは俺に任せてくれ。父上の時代よりも、もっと繁盛させてみせるから」
そう言って、銚子からもうなくなった酒のしずくを杯に切って入れた。
「…弟よ!」
清十郎は急に体を起こそうとしたが、片腕が無いために夜具をうまく跳ね除けられなかった。
「伝七郎…」
清十郎の片手が夜具の中から伸び、弟の腕を強く握りしめた。その力は、病人とは思えないほど強く、伝七郎に痛みを感じさせた。
「お…おい、兄貴、酒がこぼれるぞ」
伝七郎は慌てて杯を持ち直しながら言った。
「なんですか、改まって」
「弟よ…お前に、この道場を譲ろう。しかし、道場を継ぐということは、同時に家名を背負うということだ」
「わかりました、引き受けますよ」
「そんな簡単に言わないでくれ。もしお前が、俺と同じ轍を踏んで、また父の名を汚すようなことがあれば、この道場は潰してしまった方がいい」
「馬鹿なことを言わないでください。伝七郎は兄貴とは違いますよ」
「心を入れ替えて、本気でやってくれるか」
「わかりましたよ。けど、酒だけはやめませんぞ、酒だけは」
「それならいい、酒もほどほどなら構わん。…俺が失敗したのは、酒のせいではない」
「女だろう。兄貴の悪いところは女好きだ。今度体が癒えたら、ちゃんと決まった妻を迎えなさい」
「いや、俺はもう剣を捨てた。この機会にすっぱりと、妻など持つ気もない。…ただ一人、救わなければならない人がいる。その人が幸せになるのを見届けたら、俺の役目は終わりだ。野末で茅の屋根を結んで、ひっそりと果てるつもりだ」
「え? その救うべき人間とは?」
「それはいいんだ――お前にこの道場を任せる。こうして廃人になった兄の胸の中にも、まだ武士としての意地や面目が少しは残っている。…頼むから、俺のようにはならないでくれよ」
「わかりました、兄上。必ず兄貴の汚名は、俺が晴らしてみせます。だが、あの武蔵の居場所はわかるんですか?」
「武蔵…?」
清十郎は驚いた表情で弟を見つめた。
「伝七郎、お前は、俺がこうして忠告しているそばから、あの武蔵と戦おうとしているのか?」
「何をおっしゃるんですか? そのために俺を呼び戻したんじゃないんですか? 門人たちも、武蔵が他国へ行く前に一刻も早くと急いだんです」
「勘違いも甚だしい!」
清十郎は首を振り、未来を見据えるような目つきで、
「やめろ」
と弟に命じるような態度を見せた。
その命令に、伝七郎は不満そうな顔をして、
「なぜです?」
と問い返した。
清十郎の顔は、伝七郎のその言葉に触発されたのか、血の気が戻り、赤みがさした。
「勝てないからだ!」
清十郎が激しくそう吐き捨てるように言うと、
「誰に?」
と伝七郎も顔を青くして聞き返す。
「武蔵にだ!」
「誰が勝てないって?」
「お前だ! お前の腕では勝てるわけがない!」
「馬鹿なことを!」
伝七郎はわざと大きく笑いながら肩を揺らし、兄の手を振りほどいて、自分で杯に酒を注いだ。
「――おい門人! 酒が足りないぞ、もっと持ってこい!」
声を聞いて、弟子の一人が厨房から酒を運んできたが、すでに伝七郎の姿は病室に無かった。
「…あれ?」
弟子は驚き、盆を床に置きながら清十郎の顔色を伺った。清十郎は夜具にうつ伏しており、その様子に弟子はぎょっとして枕元に駆け寄った。
「呼べ…伝七郎をもう一度連れてこい。話さねばならんことがある。早く!」
「は、はい!」
清十郎のしっかりとした語気に、弟子は少しほっとした様子で、すぐに伝七郎を探しに行った。
伝七郎はすぐ見つかった。彼は道場に出ており、久しぶりに見る道場の床に座っていた。
彼の周りには、古参の門下たち――植田良平、南保余一兵衛、御池や太田黒といった面々が集まっていた。
「お兄上とはもうお会いになられましたか?」
「うむ、今会ってきた」
「喜ばれていたでしょう?」
「いや、そうでもなかったな。部屋に入るまでは、俺も感慨深かったが、兄貴の顔を見た途端、互いにむっつりして、すぐにいつもの口喧嘩さ」
「え、口喧嘩を? それはよくない。お兄上は昨日からやっと体調が持ち直してきたばかりです。そんな病人相手に口喧嘩なんて…」
「だが、待てよ…おい」
伝七郎は、自分をたしなめようとする植田の肩を掴み、軽く揺すぶった。その冗談めいた仕草にも、彼の腕力が垣間見えた。
「兄貴はこう言ったんだ。『お前は俺の汚名をすすぐために武蔵と立ち合うつもりだろうが、所詮、お前では武蔵に勝てん。お前が負ければ、この道場も家名も終わりだ。だから俺が剣を捨てて道場を支えるしかない』とさ。どう思う?」
「なるほど…」
「なるほどじゃないだろ!」
植田たちは黙り込んだ。
その時、清十郎の弟子が戻り、話の合間を見計らって伝七郎に声をかけた。
「御舎弟様、お兄上がもう一度お呼びです」
伝七郎はじろりとその門人を見て、
「酒はどうした?」
「酒はあちらに運んでおきました」
「ここに持ってこい。皆で飲みながら話すんだ」
「若先生が…」
「うるさい! 兄貴はちょっと臆病になってるだけだ。酒を持ってこい!」
植田や御池が口をそろえて言った。
「いやいや、今は酒なんて時じゃない。私たちは結構だ」
伝七郎は苛立った顔で、
「なんだ貴様たちは…まさか貴様たちまで武蔵に怯えているのか?」
吉岡家という名が大きかっただけに、その一撃の影響も大きかった。
武蔵から受けた木剣の一撃は、単に当主である清十郎の肉体を傷つけただけでなく、吉岡一門という既成勢力そのものを根底から揺るがすものだった。
「まさか…」
そう思っていた自信満々の一門の気持ちは崩れ、以前のような団結は消え失せ、混乱が広がっていた。
受けた傷が深すぎて、日が経っても一門の者たちは誰もがその重みを感じ、何かを話し合うたびに、消極的になったり、逆に極端に積極的な意見に走ったりと、まとまりを欠いていた。
伝七郎が到着する前から、意見は二つに分かれていた。
「武蔵に再度試合を申し込み、雪辱を果たすか?」
「それとも、しばらく身を潜めて慎重に動くか?」
古参の門下たちの中にも、伝七郎の強気な姿勢に賛同する者もいれば、清十郎の慎重な考えに共感する者もいた。
だが、
「恥は一時のことだが、もし再び負ければ、さらに取り返しのつかないことになる…」
という清十郎の隠忍自重の意見は、彼であればこそ言えるものだった。古参たちも心の中ではそう思っていたが、口には出せなかった。特に、覇気あふれる伝七郎の前ではなおさらだ。
「こんな女々しい、卑怯で未練がましい兄貴の言葉を、病人とはいえ素直に聞いていられるか!」
伝七郎は杯を取り、皆に酒を注がせた。彼は、今日から自分が兄に代わってこの道場を運営するのだと、自らの強い意志を示し始めた。
「俺は断言する。武蔵を打つ! 兄が何と言おうと、俺はやる。武蔵をこのまま放っておいて、家名や道場を守れなんて言う兄貴の言葉は、武士が口にするものか? そんな考えだから武蔵に負けたんだ。――お前たちも、兄貴と俺を一緒に見るなよ」
「それはもう…」
口ごもった後で、南保余一兵衛という古参が言った。
「御舎弟様のお力は信じていますが…ですが」
「だが…なんだ?」
「お兄上のお考えでは、武蔵はただの一介の武者修行者。こちらは室町以来の名門家。勝っても負けても、我々にとっては損な勝負です。それをお兄上は賢明に悟られたのではないでしょうか…」
「…博打だと?」
伝七郎の目が険しく光った。南保は慌てて言葉を訂正した。
「ああ、失言でした。取り消します!」
伝七郎は彼の襟を掴み立ち上がり、
「…出て行け! 臆病者!」
「失言でした、御舎弟様…」
「黙れ! お前のような卑劣な者は、俺と一緒にいる資格はない! ――去れ!」
彼は南保を突き飛ばした。南保は道場の羽目板に背をぶつけ、顔が真っ青になっていたが、やがて静かに座り直し、
「皆様、今までお世話になりました」
そう言って正面の神壇に礼をし、静かに邸の外へ出て行った。
それを見ても目もくれず、伝七郎は残った一同に酒を勧めて言った。
「さあ、飲め。飲んだ上で、今日から武蔵の居場所を探し出してくれ。まだ他国には出ていないだろう。勝ち誇って、近くを歩き回っているに違いない。いいか、まずはそれを手配し、次にこの道場だ。こんなに寂れてはいけない。普段通り稽古を励むんだ。…俺も一眠りしたら、道場に出るよ。兄貴と違って、俺の指導は少し厳しいぞ。覚悟しておけ!」
それから七日ほど経った日のことだった。
「わかった!」
外から大声で叫びながら、吉岡道場に戻ってきた門人がいた。
道場では、伝七郎が自ら稽古をつけており、その手荒い指導に皆が辟易していた。次に誰が指名されるのか恐れ、道場の隅に寄っていた。今、古参の太田黒兵助がまるで子どものように扱われている様子を見て、他の者たちは冷や汗をかいていた。
「待て、太田黒」
伝七郎は木剣を引き、道場の端に現れた男に目を向けた。
「わかったか?」
「わかりました」
「武蔵はどこにいる?」
「実相院町の東の辻、俗に本阿弥の辻と呼ばれるあたり、そこの本阿弥光悦の家の奥に武蔵が逗留しているようです」
「本阿弥光悦の家に? 武蔵のような田舎者と、どうして光悦が知り合いなのだ?」
「その縁はよくわかりませんが、とにかく確かに泊まっているとのことです」
「よし、すぐに向かおう!」
そう言って、大股で奥に支度をしに向かおうとする伝七郎を、太田黒兵助や植田良平などの古参たちが押し止めた。
「突然討ちに行くのは、ただの喧嘩のように見えます。世間に勝っても評価されませんぞ」
「稽古には礼儀作法があっても、実戦ではそんなものは必要ない。勝てばすべてだ」
「ですが、お兄上のこともあります。前もって書状を送り、場所や時間を約束して、堂々と試合をされたほうが名誉ではないでしょうか」
「そうか、確かにその方がいいかもしれん。お前たちの言う通りにしよう。ただ、まさか兄貴に説得されて、お前たちまで止めに来たりはしないだろうな?」
「異論を持つ者や、吉岡道場を去った者たちは、この十日ほどの間にすべて出て行きました」
「それで良かった。道場はこれで強固になった。不届き者の祇園藤次や臆病者の南保余一兵衛のような腰抜けは、出て行って正解だ」
「武蔵に書状を送る前に、お兄上にも一言お耳に入れては…」
「そのことなら俺が話をつける」
兄弟の間で、この問題は十日前と同じ状態だった。どちらも自分の意見を譲らない。古参の者たちは再び争いが起きるのではと心配していたが、大声が漏れてくることもなく、武蔵に送る書状の内容や試合の日取りを膝を交えて相談していた。
その時、清十郎の部屋から声がした。
「おい、植田、御池、太田黒、ほかの者も、ちょっと顔を出してくれ」
それは清十郎の声ではなかった。顔を揃えて行ってみると、伝七郎が一人でぼんやりと立っていた。古参の者たちも初めて見るような表情だった。伝七郎の目は、今にも泣き出しそうだった。
「見てくれ…みんな」
伝七郎は手に広げた兄の置手紙を一同に見せ、怒りを抑えた声で言った。
「兄貴のやつ、俺にこんな長たらしい意見手紙を書き残して、家出してしまった。行き先も書いてない…どこに行ったのかも…」




