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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
風の巻
57/165

二人小次郎

 又八は貧しい家々をちらっと覗き込んでみた。どの家もひどい貧乏暮らしだったが、そんな中でも、夫婦で一つ鍋を囲んでいる姿や、老母を囲んで夜なべをしている兄妹たちが見えた。物質的には恵まれていないが、彼らの間には豊かな愛情が感じられた。

 それは、豊臣秀吉や徳川家康の家庭にすらなさそうな、骨肉の絆のようなものだった。その温かさがあるおかげで、この貧民街も餓鬼の巣窟にはならず、人間らしいぬくもりを保っているのだ。


「おれにも、そんな老母がいたっけな……」


 又八は急に母親のことを思い出した。昨年の暮れ、彼は母と再会し、七日ほど一緒に過ごしたが、ちょっとした親子のわがままで、途中で別れてしまった。


「……悪いことをしたな。おふくろ、かわいそうに。どんなに他の女と付き合っても、おふくろほど俺を愛してくれる女なんていないさ」


 彼は母親のことを考えながら、清水の観音堂へ行こうと決めた。あそこならひさしの下で寝ることができるし、運が良ければ母親と再会できるかもしれないと思ったのだ。母親のお杉は大の信心深い人で、神仏に対する信仰心がとても強かった。又八は、母がどこかで信心をしているのではないかと思い出しながら、清水寺に足を向けた。


 六条坊門ろくじょうぼうもんの通りから五条の方へ向かって歩いていると、あたりはますます暗く、犬の鳴き声が響いていた。町中に野良犬が多く、彼はその犬たちに吠えられながら歩き続けていたが、慣れっこになっているため、気にすることもなくそのまま歩を進めていた。


 だが、五条に近づいたころ、犬の群れが急に吠える方向を変えた。先ほどまで又八の前後をついてきた犬たちも、別の場所に向かって咆哮ほうこうし始めた。彼らは、一本の松の木を取り囲んで、猛烈に吠え続けていた。


「……なんだ?」


 又八は松の木を見上げ、驚いた。木のこずえの上に、チラリと人影が見えたのだ。星明りを頼りに見ると、それはどうやら女のようだった。美しいたもとが松の葉の間に揺れている。その白い顔がかすかに見え、彼は息を呑んだ。



 その女性が犬に追われて木の上に登ったのか、それとも木の上に隠れていたせいで犬が彼女を怪しんで取り囲んだのかは明らかではない。しかし、どちらにしても、こずえの上で震えているのは若い女性だということは確かだった。


「こいつらめ、しっし! 畜生どもが!」


 又八は、犬の群れに向かって拳を振り上げ、石をいくつか投げた。さらに、かつて聞いたことのある「四つん這いで唸れば犬は逃げる」という話を思い出し、獣のように四つん這いになって唸ってみた。


「ウウー!」


 しかし、この犬たちには何の効果もなかった。相手は三匹や四匹どころか、数えきれないほどの犬の群れだ。まるで深い闇の中に無数の影がうごめいているかのように、尾を振りながら牙を剥いている。彼女を守ろうとする又八の努力は全く意味をなしていなかった。


「なんだ、このやろう!」


 憤然と立ち上がった又八。彼は両刀を帯びている身であり、そんな姿を若い女性に見られていることに気づき、屈辱を感じたのだ。キャーン!と犬の一匹が悲鳴を上げると、他の犬たちはその瞬間に又八に注目し、彼の手に握られている白刃と、その下に倒れている仲間の死骸に目を向けた。


「これでもくらえ!」


 又八は刀を振りかざして犬の群れに突進し、砂埃が彼の顔に舞い上がった。その瞬間、犬たちは八方に散って消えていった。


「おい、女!降りてこい!早く!」


 彼は木の上の女性に向かって叫んだ。すると、梢の間からキラリと金属音が響いた。


「……朱実あけみか?」


 その音に覚えがあった。帯や袂に鈴をつけるのは朱実だけではないが、彼が見た白い顔立ちが朱実のものに似ていた。


「……誰?誰なの?」


 やはり、朱実の声だった。非常に驚いた様子で声が返ってきた。


「俺だ、又八だ!わからないのか?」


「えっ、又八さんですか?」


「なんでそんなところにいるんだ?犬が恐いなんてお前らしくないな」


「犬が怖いから隠れているわけじゃありません!」


「じゃあ、なんでだ?降りてきたらどうだ?」


「でも……」


 朱実は木の上から静かな夜のあちこちを見回し、怯えたように言った。


「又八さん、そこに立ってないでください。あの人が追ってきてるんです!」


「誰だ、その『あの人』ってのは?」


「今は話してる場合じゃありません。本当に恐ろしい人なんです。最初は親切な人だと思っていたんですが、だんだんひどいことをされて……それで今夜、逃げ出したんです。すぐに気づかれて、追いかけてきたみたいで……」


「おおこうのことじゃないのか?」


養母おっかさんのことではありません!」


祇園ぎおん藤次とうじでもないのか?」


「そんな人なら、恐くなんてありません……あっ、来たみたい!又八さん、早く隠れて!私も見つかっちゃうし、あなたも酷い目に遭いますよ!」


「そいつが来たってのか?」


 又八は、どうすべきか迷っていた。



 女の視線は、男に特別な力を与えることがある。女に見られると、男はついつい見栄を張り、強がってしまうものだ。先ほど、誰も見ていないと思って四つん這いで犬を追い払おうとした屈辱が、まだ又八の心の中で燻っていた。だからこそ、朱実が木の上から「危ないから早く隠れて!」と何度も警告してきても、彼の中では「そんな逃げ方をしては、男としての面目が立たない」という思いが強まっていた。


 そんなとき、すぐ近くで「誰だっ!」という声が響いた。驚いた又八も「誰だ?」と同じように声をあげた。そこにいたのは、朱実が恐れていた男だった。彼は、又八の前に立ち、鋭い眼差しを向けてきた。


「お前は誰だ?」


 朱実が恐れていた男はそう問いかけた。又八は一瞬驚いたが、よく相手を見直すと、背は高いものの、自分とあまり年の変わらない若者だ。派手な若衆小袖を着て、前髪を結っている。


(なんだ、この青二才か)


 その瞬間、又八は安心した。この程度の相手なら、いくらでも対処できる。六部ろくぶのような不気味な相手ではなく、こんな派手な格好をした若者相手なら、負けることはないだろうと思った。


(こいつが朱実を追い回してたってわけか。生意気な奴め、少し懲らしめてやるか)


 そう思いながら、又八はあえて黙っていたが、相手の若者は再び問うた。


「お前は何者だ?」


 その声は意外にも迫力があり、三度目にしては特に気合が入っていた。しかし、又八はすっかり相手を見下していたため、鼻で笑って返した。


「おれか?おれは人間だよ」


 そう言い放ち、にやりと笑ってみせた。若者は怒りに燃え、顔が真っ赤になった。


「名前はないのか? 自分を卑下して名乗らないというのか?」


 挑発に乗った若者に対し、又八は悠々と答えた。


「お前のような、どこの馬の骨ともわからん奴に名乗る名前なんてねぇよ」


 若者は激昂し、「だまれっ!」と叫んだ。彼の背中には大刀が斜めにかかっていた。その柄をちらりと見せながら、若者は前に身を乗り出して言った。


「そちとわしの争いは後にしよう。まずは、この木の上にいる女を連れ戻す。それからお前を相手にしてやる!」


「馬鹿を言うな、そうはさせない」


「何だと?」


「この娘は、かつて俺の女房の娘だ。今は縁が薄くなっているが、困っているのを見捨てるわけにはいかない。俺を無視して指一本でも触れてみろ、その瞬間、お前を叩き斬ってやるぞ!」


 又八は抜刀し、決意を込めた目で若者を睨んだ。



 先ほどの犬の群れを威嚇したときのように、相手もすぐに退くと思いきや、意外にも前髪男は好戦的な態度を見せてきた。


「面白いな。お前も武士の端くれか。久しく骨のある奴と戦っていないから、俺の背中のこの刀も夜泣きしそうだ。この伝家の宝刀も、俺の手に渡ってからまだ血を吸わせたことがない。だからお前の骨で研いでやろう――ただ、逃げるなよ、いざとなって」


 相手は退路を断つように言葉で又八を縛りつけてくる。しかし、又八は相手をまだ甘く見ていた。少し余裕を見せながら言い返した。


「広言はやめておけ。考え直すなら今のうちだぞ。今なら命は助けてやる」


「その言葉、そっくりお前に返してやる。――ところで、名乗る気はないのか? お前さっきは名乗るに値しないと言ってたが、ここは勝負の作法を守るべきだろう?」


「名を聞きたいのか? いいだろう、聞いて驚くなよ」


「驚かないように、心の準備をして聞いてやる。――まず、どの流派か教えてくれ」


 相手が長々と話し始めたのを見て、又八はますます相手を見下す気になった。


「俺は富田流とだりゅう入道勢源にゅうどうせいげんから派生した中条流ちゅうじょうりゅうを学び、印可いんかも受けている」


「えっ、中条流を?」


 相手の前髪男、小次郎は少し驚いた様子を見せた。ここで、又八は一気に押し切ろうと、さらに畳みかけた。


「次はお前の流派を聞かせてもらおうか。これも勝負の作法だろ?」


 得意げにそう言うと、小次郎は少し間を置いて答えた。


「いや、俺の流儀は後で話そう。ところで、そなたが学んだ中条流、誰に師事したのか?」


 そんな問いに、又八は一瞬もためらわずに答えた。


鐘巻自斎かねまきじさい先生だ」


「ほう……」


 小次郎はさらに驚いた様子を見せた。


「では、伊藤一刀斎いとういっとうさいは知っているか?」


「知っているとも」


 又八は内心ますます調子に乗っていた。相手が驚いているのを見て、これで相手が自分に妥協してくるだろうと思ったのだ。


「伊藤弥五郎一刀斎なら、俺とは兄弟弟子の関係だ。つまり、同じ鐘巻自斎のもとで学んだ仲間だが、それがどうした?」


「では、重ねて伺いたいが、あなたは誰なのか?」


「佐々木小次郎だ」


「え?」


「佐々木小次郎だと言ったんだ!」


 又八はわざわざ二度も自分の名を名乗った。その瞬間、小次郎は驚きを超えて、ただ唖然とするしかなかった。



「フーム」

 やがて小次郎は、そう唸りながら笑いを含んだ表情を浮かべた。じっと無遠慮に自分を見つめるその眼差しに、又八は睨み返しながら言った。

「なんだ、おれの顔をそんなにじろじろ見やがって。おれの名を聞いて、恐れ入ったか?」


「いや、恐れ入ったよ」

「なら、さっさと帰れ!」


 又八は顎をしゃくって、刀の柄を前に突き出しながらそう言った。だが、小次郎は突然大笑いを始めた。


「アハハハ……面白い。世の中にはいろんな人間がいるが、こんなに恐れ入ったのは初めてだ。――さて、佐々木小次郎殿、あなたに聞きたいが、では、拙者は何者だと思う?」


「なに?」

「わしは一体、何者か、あなたに聞いてみたいのだ」


「知ったこっちゃない」

「いやいや、よくご存じのはずだ。もう一度聞いてみよう。あなたのお名前は?」


「わからないのか、おれは佐々木小次郎だと言っただろう!」


「では、わしは?」


「人間だろうが」


「いかにも。それに違いない。しかし、わしの名は?」


「こいつ……おれをからかってるのか?」


「からかってなどいない。これ以上の真面目はない。――小次郎殿、わしは誰だ?」


「うるせえ! 自分で考えろ!」


「では自分に問うてみよう。わしも名乗らせてもらう――驚くなよ」


「ふざけるな!」


「わしは、岸柳がんりゅう佐々木小次郎だ」


「えっ……?」


「わしの先祖は岩国に住み、名は佐々木小次郎。剣名は岸柳流と呼ばれている。――さて、いつの間に佐々木小次郎が二人になったのだろうか?」


「……え? ……じゃあ?」


「今までいろんな人間に会ってきたが、佐々木小次郎という名の男に会ったのは、生まれて初めてだな」


「…………」


「いやはや、不思議な縁だ。貴殿が佐々木小次郎殿とは――さて、どうした? 震えているようだが」


「…………」


「まあまあ、仲良くしようではないか」


 小次郎は又八に近づき、肩をポンと叩いた。その瞬間、又八は全身が震え、大声で叫んだ。


「――あッ!」


 次の瞬間、小次郎は鋭い声を吐き出し、まるで槍のように又八の影を貫いた。


「逃げると、斬るぞッ!」


 一瞬で二間(約4メートル)ほどの距離が開いたかと思うと、小次郎の物干し竿のような長刀が肩越しに閃き、闇の中に銀色の軌跡を描いた。小次郎は二度斬る必要もなかった。


 風に吹かれた木の葉のように、又八は地面を転がり、三回ほど回転した後、そのまま動かなくなった。



 小次郎は背中の鞘に、三尺もある白刃を吸い込ませるように納めると、高い鍔鳴りが夜空に響き渡った。

 だが、彼はすでに呼吸を失った又八に興味を示すことはなかった。むしろその視線は別の方向へ――


「――朱実あけみ!」

 小次郎は樹の下へ近づき、梢を見上げながら叫んだ。

「朱実、降りておいで。もうあんなことはしないから降りてきなさい。おまえの養母ははの亭主だったという男を、つい斬ってしまったんだ。降りて来て、介抱してやってくれ」


 しかし、樹の上からは何の反応もない。松の梢が暗く茂り、その闇の奥に朱実は隠れているようだった。小次郎は、自分で樹をよじ登ることにした。

 だが、朱実の姿はなかった。いつの間にか隙を見て逃げ出してしまったようだ。


 小次郎は、梢に腰を下ろし、しばらくの間、静かに考え込んでいた。松風が颯々と吹き、彼の体を包んでいく。

(どうして、あの女は、俺をあんなに怖がるのだろうか?)

 小次郎には、それが理解できなかった。彼は自分なりに朱実に愛情を注いだつもりだったからだ。その愛し方が、少し激しすぎたことは彼も自覚していた。しかし、それが他の人と違うことには、気づいていない。


 小次郎の剣技を見る者であれば、彼の「粘り」を特徴として理解するだろう。彼の剣は、相手が強ければ強いほど、その粘り強さを発揮するのだ。そして、その性格は、愛する者に対する執着にも表れていた。


 彼は子供の頃から、「鬼才」や「麒麟児きりんじ」と称されるほど、剣の道において常人とは異なる資質を持っていた。その剣筋は、どんな相手に対しても、粘り強く執拗に攻め続ける。これは剣法としては評価されるが、女性に対してはその粘りが過剰な執着として現れ、彼を怖がらせる結果となるのだ。


 かつて兄弟子たちから木剣で打ち倒された際、気絶していた小次郎は、目を覚ますや否や、その兄弟子を撲り殺してしまったという逸話が残っている。そして、一度負けた相手を決して忘れず、いつでもどこでもその敵を狙い続けるという執拗さを持っていた。


 そんな彼の異常な執着が、女性を愛する際にも同じように現れるとは、誰も想像していなかったし、小次郎自身もそれに気づいていなかったのだ。だからこそ、朱実が彼を恐れて逃げ出したことが、小次郎には全く理解できず、ただ不思議そうな顔をしていた。



 気がつくと、樹の下で誰かが動いていた。小次郎は梢の上にいたが、その人間は小次郎の存在に気づいていないようだった。

「……あれ、誰か倒れているな」

 その人間は、又八のそばに寄り、屈んで彼の顔を覗き込んだ。そして、驚いた様子で声をあげた。

「あっ、こいつだ!」

 その声は、梢の上にいる小次郎の耳にもはっきりと届いた。それは、白木の杖を手にした六部だった。六部は驚いた素振りを見せながらも、すぐにおいずるを下ろし、又八を調べ始めた。

「……斬られているわけでもないし、体はまだ温かい。どうしてこいつが気絶しているんだ?」

 彼は呟きながら又八の体を撫で回し、やがて腰についていた細引きを解き、又八の両手を後ろ手に縛り上げた。気絶している又八は、何の抵抗もできない。六部は彼の背中を膝で押さえつけ、鳩尾みぞおちに気合いを込めて強く押した。

「ウウム……」

 又八が太い声を出すと、六部は満足そうに彼を樹の下へ引きずっていった。

「起て! 起きるんだ!」

 六部はそう命じ、足で又八を蹴り飛ばした。


 地獄の淵から戻ったような又八は、まだ完全には意識を取り戻していなかったが、夢中で体を起こした。

「そうだ、そうしていろ」

 六部は彼を満足げに見下ろし、又八の体を松の幹に縛りつけてしまった。

「……あっ?」

 ようやく目を覚ました又八は、驚いた声を漏らした。小次郎ではなく、六部がそこにいることに意外性を感じたらしい。

「こら、偽小次郎。よくも逃げ回ってくれたな……だが、もう逃げられないぞ」

 六部はそう言って、又八に平手打ちを加えた。そして、彼の額を強く押したため、又八の後頭部が樹の幹にぶつかり、鈍い音が響いた。

「あの印籠は、どこから手に入れたものか、それを言え! 言わぬか!」

「……」

「言わぬな?」

 六部は又八の鼻をつまみ、左右に振り回す。又八は苦しげに悲鳴をあげた。

「ひゅう、ひゅう……」

 六部は鼻を放し、また問いかける。

「言うか?」

「言う、言うよ!」

 涙を流しながら又八は答えた。彼にはもう隠し続ける勇気は残っていなかった。


「実は、去年の夏のことだったんだ――」

 彼は、伏見城の工事場で遭遇した「頤のない武者修行」の死を話し、どうしてその死骸から金入れと印籠を持ち逃げしたのかを告白した。

「……つい出来心で、その人の死骸から金入れ、中条流の印可、それにあの印籠を持ち去ったんだ。金は使ってしまったが、印可は懐中に持っている。命だけは助けてくれれば、働いて返済するよ……証文に書いてもいいさ」


 すべてを白状したことで、又八は心の重荷を一度に解き放たれたようで、少し楽になったのだろう。



 六部は、話を聞き終わると、低く静かに言った。

「それに相違ないか」

 又八は、神妙な面持ちで、

「相違ありません」

 と答え、少しうつむいた。しばらく黙っていた六部は、腰の小脇差を抜き、又八の顔の前にスッと出した。又八はびくっとして顔を上げ、

「き、斬るのか、おれを?」

「ウム、命をもらう」

「おれは、すべてを正直に話したじゃないか。印籠も返したし、印可の巻物も返す。それに、今は金がないが、後日必ず返すって言ってるだろう。だから、なにもおれを殺す必要はないじゃないか!」

「おぬしの正直はわかっている。しかしな、仔細を言えば、わしは上州下仁田しもにたの者で、伏見城の工事場で殺された草薙天鬼くさなぎてんき様の奉公人なんだ。――つまり、あの武者修行に出ていた草薙家の若党、一ノ宮源八という者だ」

 だが、そんな言葉は、死を目前にしている又八の耳には入らなかった。彼はもがきながら、自分の縄目を恨み、何とかして逃げ出そうと必死だった。

「――謝る! おれが悪かったんだ! でも、あの死骸から物を盗んだわけじゃない! 最初は、遺言どおりに身寄りの者に届けるつもりだったんだ……でも、金に困って、つい手をつけてしまった。それが悪かったんだ。いくらでも謝るから、勘弁してくれ! どうにかして許してくれ!」

「いいや、謝られては困る」

 六部は、自らの感情を抑え込むように首を振った。

「伏見の町で、お前が正直者であることはよく調べてある。しかし、わしには国元に帰らなければならない事情があるんだ。天鬼様の遺族に対して、何か報いを持っていかなければならん。そのためには、どうしても、天鬼様を殺した下手人げしゅにんが必要なんだ」

「おれが……おれが殺したんじゃないぞ! 勘違いしないでくれ!」

「わかっている。だが、遠い上州にいる草薙家の遺族は、天鬼様が工事場で石工たちに虐殺されたことを知らない。しかも、そんなことを遺族や世間に知られるのは外聞がいぶんが悪い。だから、おぬしには気の毒だが、どうか天鬼様を殺した下手人になってもらいたいんだ。そして、わしが主の仇としてお前を討たねばならん」


 この頼みは、正気とは思えないものであった。又八は、さらに必死でもがき、

「ば、ばかげた話だ! 嫌だ、絶対に嫌だ! おれはまだ死にたくない!」

「もっともな仰せだが、おぬしは居酒屋で飲んだ代金すら払えず、飢えに苦しみ、この世をうろついている。そんな恥を抱えて生きるよりは、さっぱりと潔く死ぬほうがいいのではないか。――金ならば、わしが少しばかり持っている。それを香典こうでんとして、もし心残りの年寄りがいるなら、その者に届けさせよう」

「そんなこと、いらねえ! おれは金なんかいらない! 命が惜しいんだ、助けてくれ!」

「残念だが、頼みを聞いてもらわなければならない。お前を討ち、天鬼様の仇として上州に帰る。――これも宿命だ、諦めてくれ」


 源八は、刃を持ち直した。



「待て、待て! 源八!」

 その時、誰かが声を上げた。

 もしも、その声が又八自身から出たのなら、無法を承知で目的のために叫んだようなものだっただろう。

 しかし――

「や……?」

 源八は、暗い空を見上げ、耳を疑うような表情を浮かべ、風が梢を揺らす音に耳を澄ませた。


 すると、再び声が宙から響いた。

「無駄な殺生をするなよ、源八!」

「あっ、誰だ?」

「小次郎だ」

「何?」

 再び名乗る小次郎が現れ、今度は空から降りてくるというのだ。まるで天狗のような存在だが、その声には不思議な親しみがある。いったい何人の“偽”小次郎がいるのか、源八は苛立ちを見せながら、

「もうその手は通じないぞ」

 と木の下から飛び退き、脇差を構えて、

「ただ小次郎と名乗るだけではわからぬ。どこの何者か、言え!」

「岸柳――佐々木小次郎だ」

「ばかな!」

 源八は笑い飛ばし、

「その偽物はもう通じないぞ。ここで一人、憂き目を見た者がいるのに気づかないのか。はは、さてはまた同類か!」

「わしは真物ほんものだ。――源八、わしはここから降りようと思うが、お前はわしを真っ二つに斬ろうとしているな」

「ウム、いくらでも降りて来い。成敗してくれる!」

「斬れるなら偽物だろう。だが、真物ほんものの小次郎は斬れはしない――降りるぞ、源八」

「…………」

「よく聞け、お前の頭上に跳び降りる。見事に斬ってみせろ。だが、わしを宙斬りにし損ねれば、わしの背にある物干竿ものほしざおが、お前の体を真っ二つに割ってしまうだろう」

「アッ、しばらく――。小次郎様、しばらくお待ちください! その声、思い出しました。そして、物干竿の銘刀をお持ちならば、真物の佐々木小次郎様に違いありません」

「信じたか」

「ですが――どうしてこんな所に?」

「後で話そう」


 源八は、ハッと首をすくめ、小次郎が静かに地上へ降り立つ様子を見守った。小次郎の袴の裾が、散る松葉とともにひらりと宙を舞いながら自分のすぐ後ろに着地した。

 紛れもない佐々木小次郎を目の当たりにして、源八は一瞬、混乱に包まれた。この小次郎こそが、自分の主人であった草薙天鬼と同門の間柄であり、鐘巻自斎のもとで修行していた人物だったからだ。幾度も顔を合わせたことがあるが、その頃の小次郎とはまるで見違えるほど美しい青年になっていた。


「見違えるようだ……」

 源八は思わず見惚れた。木の根元に腰を下ろした小次郎は、軽く手を叩いて招き寄せ、

「ま、そこに腰を下ろせ」

 と言った。


 二人の間に交わされた会話の中で、師である草薙天鬼が、自分に渡すはずだった中条流の印可を持って遊歴中、伏見城の工事場で間違って殺された事情が明らかになっていった。そして、その事件が原因で、世間に二人の佐々木小次郎が生まれた理由も理解できた。


 真物の小次郎は、その話を聞き、愉快そうに笑った。

「いやはや、世の中には面白いこともあるものだな」



 そこで小次郎は、再び言った。

「こんな他人の名を騙るような、生活力の弱い人間を殺しても、少しも面白くはない。懲らしめるなら、別の方法があるだろう。草薙家の遺族や国元の世間体の問題も、無理に敵討ちにこじつけて事情を整える必要はない。そのうち、俺が上州へ下る時に、十分に説明し、追善供養でもして、故人の名誉を守ってやることにしよう。それでどうだ、源八?」

 小次郎の言葉に、源八はすぐに頭を下げて答えた。

「小次郎様がそう仰ってくださるなら、私には異存はございません」

「それでは、俺はこれで別れる。お前も国に帰れ」

「え、このままですか」

「実はこれから、朱実という女の逃げた先を探さねばならない。急いでいるんだ」

「あ、待ってください。まだ大事なものをお忘れですよ」

「何をだ」

「先師の鐘巻自斎様が、甥の天鬼様に託し、あなたに譲るとされた中条流の印可の巻物です。天鬼様の死体から抜き取って、この偽小次郎である又八という者が持っていると申しておりました。それは、もともと自斎先生からあなたに授けられたものです。どうかこの場でお受け取りくださいませ」


 源八はそう言って、又八の懐に手を入れ、巻物を取り出した。又八は、命が助かりそうだと感じていたため、それが取り上げられても未練はなく、むしろ懐の中も心も軽くなったように感じていた。

「これです」

 源八が巻物を小次郎に差し出すと、小次郎はそれを押しいただくかと思いきや、予想外の返答をした。

「――要らない」

 そう言って、手を出さなかったのだ。驚いた源八は、

「え? なぜですか?」

「要らんと言った」

「どうして?」

「わしにはもうそんなものは不要だと思っている」

「勿体ないことを仰る。自斎先生は、多くの弟子の中から、中条流の印可を授ける者をあなたか、伊藤一刀斎にと定められました。先生は生前、あなたにこの巻物を授けることを心に決めていたのです。師恩のありがたさをおわかりにならないのですか?」

「師恩は師恩だが、わしにはわしの抱負がある」

「なんですって?」

「誤解するな、源八」

「いくらなんでも、師に対して無礼ではありませんか?」

「無礼だとは思っていない。むしろ、わしは自斎先生よりも天賦の才に恵まれていると思っている。それゆえ、先生よりも偉大になるつもりだ。わしは片田舎で終わる剣士にはなりたくないのだ」

「本気で仰っているのか?」

「――勿論だ」

 小次郎は、自分の抱負を語ることに何の遠慮もなく言い放った。

「先生は確かに印可を授けてくださったが、今のわしの剣技は、すでに先生のそれを超えていると自信を持っている。中条流という流派の名は田舎臭い。若い者にとっては邪魔になるだろう。兄弟子の弥五郎が一刀流を立てたように、わしも新たな流派を立てる。将来は『巌流がんりゅう』と名乗るつもりだ。だから、この巻物は必要ない。国に帰ったら、寺の過去帳と一緒にでもしまっておけばいい」


 小次郎の抱負は、確固たる決意とともに、明瞭に語られた。



 小次郎の口調には、謙譲などというものは微塵もなく、むしろ思い上がった態度が目立っていた。まさに高慢という言葉がふさわしい男だと、源八は小次郎の薄い唇をじっと憎しみの眼差しで見つめた。

「――だがな、源八。草薙家の遺族たちにはよろしく伝えておいてくれ。俺が東国へ下る際には、彼らを訪ねるからな」

 最後に小次郎は、あえて丁寧な口調でそう告げ、にやりと笑った。高慢な者が見せるていねいめいた言葉ほど、嫌味で小憎たらしいものはない。源八はむかむかとしながらも、亡き師に対するこの無礼を詰問しようと思ったが、ふと自嘲し、

(馬鹿げている!)

 そう思い直し、さっさとおいずるに近寄り、印可の巻物を笈の中へしまいこんだ。そして短く「さらば」と言い残し、その場を立ち去ってしまった。


 その後、小次郎は笑いながら見送り、

「ハハハ、怒って去っていったな。田舎者め」

 と言った。そして今度は、木の幹に縛られている又八に目を向け、

偽者にせもの

「…………」

「おい、偽者。返事をせんのか」

「はい」

「名はなんという?」

「本位田又八です」

「牢人か?」

「はい……」

「意気地のない奴だな。師匠からもらった印可さえ返した俺を見習え。それくらいの気概がなければ、一流の祖となることなどできるはずがない。……それにしても、他人の名を騙り、印可まで盗んで世間を渡り歩くとは、さもしいにもほどがある。虎の皮をかぶったところで、猫は猫だ。結局はこうして痛い目に遭う。少しは身にしみたか?」

「以後、気をつけます……」

「命だけは助けてやる。しかし、今後のこともあるから、その縄目はひとりで解けるまでそのままだ」

 そう言うと、小次郎は何を思ったのか、小刀を取り出し、木の皮を削り始めた。削られた松の皮が又八の頭に落ち、襟の中にまで入り込んだ。

「ア、矢立やたてを持っていなかったな」

 小次郎がつぶやくと、

「矢立が必要なら、私の腰に確かに差してありますが……」

 と、媚びるように又八が言った。

「そうか、じゃあ借りるぞ」

 小次郎は矢立を手に取り、筆を走らせた。


 実は「巌流がんりゅう」という名は、今思いついたものであった。従来は、故郷である岩国の錦帯橋で修行していた頃の思い出を剣号として「岸柳きしのやなぎ」と称していた。しかし、これを「巌流」とすれば、よりふさわしいと感じたのだ。

「そうだ、これからは『巌流』を名乗ることにしよう。一刀斎の『一刀流』などより遥かに良い」


 夜も更けていた。小次郎は削った木の白い肌に、矢立の筆を使ってこう書いた。


 この者、それがしの姓をかたり、それがしの剣名を偽称し、諸国よからぬ事をして歩きたれば、捕えて面貌を衆に示すものなり

 わが姓、わが流、天下に二なし

 巌流 佐々木小次郎


「よし」

 と、満足げに言うと、墨のような松風が松林を潮のように響き渡った。小次郎の鋭敏な若さが、すぐに新たな目標へと向かい始めていた。ふと、その瞬間に豹のような目を輝かせ、

「ヤ?」

 まるで朱実の影を見つけたかのように、小次郎は突然どこかへ猛然と駆け去った。

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