枯野見
丹波街道の長坂口は、遠くの方にうっすらと見渡せる。その並木越しに、白く輝く稲妻のように目を引くのは、丹波の国境にある山の頂と、京都の西北に広がる山々に残る雪だった。
「火を放て!」
誰かがそう叫ぶ。
季節は春の初め、まだ正月の九日だ。衣笠山から吹き下ろす冷たい風は、小さな鳥たちにはあまりに厳しく、野に響く鳥の鳴き声さえも、幼い響きが寒々しく耳に残る。人々は、腰に差している刀の鞘から、冷たさがじんわりと伝わってくるのを感じていた。
「よく燃えるなあ」
「火が飛んでる!気をつけないと、野火になりかねんぞ!」
「心配するな。いくら火が広がったところで、京都が焼けるわけじゃない」
枯れ草に放たれた火は音を立てて燃え上がり、四十人以上の男たちの顔を赤々と照らし出す。炎は朝日を背に、まるでその光に届こうとするかのように伸びていった。
「暑い、暑いな……」
今度は誰かがぼそりと呟いた。
「もうやめろ!」
草を投げ込む者に向かって、植田良平が煙たい顔をして叱る。
そうしているうちに、時間は半刻ほど経過していた。
「もうそろそろ卯の刻を過ぎたんじゃないか?」
誰かが言い出し、
「本当か?」
皆が自然と太陽を仰ぎ見る。
「卯の下刻だな……もうその時刻のはずだ」
「若先生はどうしたんだ?」
「もう来るさ」
「そうだな、来る頃だ」
次第に皆の表情には、何かしらの緊張が漂い始めた。それが自然と人々を黙らせ、誰もが一様に街道を見つめ、じっと息を潜めながら待っている。
「どうされたんだろうな?」
のろのろした声が響き、どこかで牛が長く鳴いた。この場所はかつて禁裏の牛場であり、乳牛院と呼ばれていたこともある。今でも野放しにされた牛がいるようで、日が高くなると枯草と糞のにおいが漂ってくる。
「武蔵はもう蓮台寺野の方に来ているんじゃないか?」
「来てるかもしれん」
「誰か、ちょっと様子を見に行かないか?蓮台寺野とここは、五町ほどしか離れていない」
「武蔵の様子を見にか?」
「そうだ」
「…………」
誰もすぐには動かない。煙の影の中で、皆が煤にまみれた顔をしながら、黙り込んでいた。
「でも、若先生は、蓮台寺野に行く前に、ここで準備を整える予定になっているんだから、もう少し待とうじゃないか」
「それは間違いないのか?」
「植田殿が昨夜、若先生から直接聞いた話だ。間違いないはずだ」
植田良平がその言葉にうなずいて補足した。
「そうだ、間違いない。――武蔵は既に約束の場所に来ているかもしれないが、清十郎先生の考えで、わざと遅れているのかもしれない。もし門下の者が勝手に動いて助太刀したなどという噂が立ったら、吉岡一門の名に泥を塗ることになる。相手はただの牢人一人、武蔵だ。ここは静かにして、若先生が颯爽と現れるのを待つべきだ。我々は、林のように静観していよう。」
その朝。
乳牛院の原に集まっていた者たちは、もちろん吉岡門下の一部に過ぎなかったが、その顔ぶれには植田良平や、「京流の十剣」と自称する高弟たちの半分が見えていた。つまり、四条道場の中堅どころは揃ってここに来ていると言っても過言ではなかった。
師匠の吉岡清十郎は、昨夜、
「助太刀は一切無用」
と門下生たち全員に固く言い渡していたようだ。また、門下の全員が今日、清十郎が対峙する武蔵という男を軽く見ているわけではなかったが、かと言って、清十郎が簡単に負けるとも思っていなかった。
「勝つのは当然だが、万が一ということもある」
そういう常識を持ちながらも、吉岡一門としては、五条大橋に高札を掲げて試合を公開している以上、今日の試合を通じて清十郎の名声を広めたいという思いがあった。だからこそ、門下生たちは蓮台寺野の試合場からそれほど離れていないこの場所に集まり、清十郎の到着を待ちわびていたのだ。
だが――
肝心の清十郎の姿は、未だに見えなかった。
卯の下刻は、太陽の位置から見ても、もうすぐである。
「おかしいなあ?」
三十人以上の者たちが次第にざわめき始め、植田良平の静観しろという態度も少し緩んできていた。その時、乳牛院の原を目にした人々が、今日の試合の場所をここだと勘違いし、次々と集まってきた。
「どうなってるんだ? 試合は始まってるのか?」
「吉岡清十郎はどこにいるんだ?」
「まだ見えないが」
「武蔵ってのは?」
「それもまだ来ていないらしい」
「あの侍たちは何者だ?」
「あれはどっちかの助太刀だろう」
「なんだよ、助太刀だけが来て、肝心の武蔵も清十郎も来てないなんて」
人がいるところには、さらに人が集まってくる。次々と集まる群衆が弥次馬となり、原にはますます人が増えていく。そして、
「まだか」
「まだか」
「どれが武蔵だ?」
「どれが清十郎だ?」
とざわざわと声を上げていた。
さすがに吉岡門下の者たちの近くに踏み込んでくる者はいなかったが、乳牛院の原のあちらこちらに、萱や樹の枝の間から無数の人々の頭が見えた。
その中を、一人の少年が歩いていた。
城太郎だ。体よりも大きな木剣を横に抱え、足よりも大きな藁草履を履いて、乾いた土の上をぽくぽくと歩きながら、周囲をきょろきょろと見回していた。
「いないな、いないな」
彼は、人々の顔を探しながら、広い原を歩き回っていた。
「どうしたんだろう? お通さんは、今日のことを知らないはずがないのにな……あれから烏丸様の館にも一度も来てないし……」
彼が探しているのは武蔵ではなく、その勝敗を心配しているはずのお通の姿だった。
小さな怪我でも青ざめてしまうような女たちだが、意外なことに、血を見ることや残酷な場面には、男とは違った興味を持っているようだ。
今日の試合は、京洛中の耳目を集めていた。見物に訪れた群衆の中には、かなり多くの女性の姿があった。中には、数人で手をつないで歩いている女性たちもいた。
しかし、どれだけ探しても、その中にお通の姿は見当たらなかった。
「おかしいなあ」
城太郎は、野の周りを疲れるほど歩き回った。
(もしかして、あの日――五条大橋で別れた元日から――病気になっているんじゃないか?)
そんな臆測を思い描きながら、さらに考えを深めていく。
「お杉婆は、あんなに上手く言っていたけど、もしかしてお通さんを騙して、何か悪いことをしてるんじゃないか?」
そう考えた瞬間、不安が一気に押し寄せてきた。
その心配の度合いは、今日の試合の結果がどうなるかなど問題にならないほどだった。城太郎は、武蔵の勝敗を少しも心配していなかった。
野に集まった数千人の見物人のほとんどが、吉岡清十郎の勝利を信じているように、城太郎もまた、
(お師匠さまが勝つ!)
と、全く疑わなかった。
大和の般若野で、宝蔵院の槍衆を相手に闘った時の武蔵の頼もしい姿を、彼は今も頭の中で描いていた。
(負けるわけがない。たとえ全員がかかってきても――)
彼は、乳牛院の原に集まっている吉岡の門人たちさえも敵の一部として数え、それでも武蔵の勝利を確信していた。
――だからこそ、試合については何の不安も感じていなかったが、お通が来ていないことだけは、城太郎をがっかりさせただけでなく、彼女の身に何か悪いことが起こっているのではないかという胸騒ぎまで引き起こしていた。
彼女は――
五条大橋でお杉婆に従って別れる時に、
「暇を見つけて、私も烏丸様のお館に行きますからね。城太さんは、しばらくお館に泊まっていてくださいね」
そう言っていた。
確かに、そう言ったのだ。
なのに――あれから今朝で九日目、正月の三が日も、七草の日も、一度もお通は訪ねてこなかった。
(どうしたんだろう?)
城太郎の不安は、もう二、三日前からずっと抱えていたものだった。それでも今朝、ここに来るまでは、ほんのわずかな望みを抱いていたのだが――
「…………」
ぽつんと、城太郎は原の真ん中を見つめていた。焚火の煙に囲まれている吉岡の門人たちは、遠くから数千人の見物人に見守られて物々しく集まっているものの、まだ清十郎が来ていないせいか、どこか活気が欠けているように見えた。
「おかしいなあ、高札には蓮台寺野と書いてあったのに、試合場はここなのか?」
誰もが当たり前のようにここに集まっているが、城太郎だけがふと疑問に感じ始めた。
すると、彼の左右を行き交う人混みの中から、声がかかった。
「おい、そこの子供――こら、こっちに来い!」
横柄な声で呼びかけるその人物に、城太郎は見覚えがあった。八日前の元日、五条大橋のたもとで朱実と話していた武蔵に向かい、人をバカにしたように大笑いしながら去っていった佐々木小次郎だった。
「なんだい、おじさん?」
一度顔を見たことがあるだけで、城太郎は馴れ馴れしく声をかけた。佐々木小次郎は、城太郎のそばに寄ってきた。彼の癖なのか、話す前にまず相手の足元から頭までじろりと見上げるのだった。
「以前、五条で会ったことがあるな」
「おじさんも覚えていたのかい」
「お前は、女の人と一緒だったな」
「うん、お通さんと一緒だったよ」
「お通さんというのか、あの女は――武蔵と何か縁があるのか?」
「あるんだろうね」
「従兄妹か?」
「ううん」
「妹か?」
「ううん」
「じゃあ、なんだ?」
「好きなんだよ」
「誰が?」
「お通さんが、俺のお師匠様を」
「恋人か?」
「……だろうね?」
「じゃあ、武蔵はお前の先生ってわけか」
「うん」
城太郎は誇りを持ってしっかりと頷いた。
「なるほど、それで今日もここに来たんだな。――でも、清十郎も武蔵も、まだ姿が見えなくて、見物人がやきもきしているが、武蔵はもう宿を出発したんだろう?」
「知らないよ、俺も探しているところだ」
その時、後ろから二、三名がバラバラと駆けてくる足音が聞こえた。小次郎の鋭い鷹のような眼がすぐに振り向いた。
「おや、あそこにいらっしゃるのは佐々木殿ではありませんか」
「おお、植田良平」
「どうされたんですか」
良平はそばに駆け寄り、小次郎の手を掴むように握った。
「年末から急に道場へお戻りにならないので、若先生も『どうされたのか』とおっしゃっていました」
「ほかの日には道場に戻らなくても、今日さえここに来れば問題ないだろう?」
「まあ、とにかく、こちらまでお越しください」
良平や他の門下生たちは、巧みに小次郎を囲みながら、自分たちが屯している原の中心へと引き込んでいった。
背に大刀を負っている小次郎の派手な姿を遠くから見た見物人たちはすぐに、
「武蔵だ、武蔵が来た!」
「おお、あれが宮本武蔵か!」
とささやき始めた。
「ほう、あれか」
「あれだ――宮本武蔵は」
「ふうむ……なかなかの伊達者だが、弱そうには見えないな」
その言葉を聞いていた城太郎は、大人たちが真剣な顔でそれを受け止めているのを見て、
「違うよ、違うよ! 武蔵様はあんな人じゃない。あんな歌舞伎の若衆みたいな格好してるわけないだろ!」
むきになって誤解を訂正しようとしていたが、その声は届かず、見物人たちもやがて様子を見ていると、小次郎がどうも武蔵ではないことに気づき始め、
「はてな?」
と首をかしげ始めた。
原の中心に立った小次郎は、吉岡門下の四十名ほどの者たちを見下ろし、高慢な態度で何かを演説しているようだった。
植田良平や御池十郎左衛門、太田黒兵助、南保余一兵衛、小橋蔵人といった「十剣」と呼ばれる高弟たちは、小次郎の言葉に不快感を覚え、眉をひそめたまま黙り込んで、その動く唇をじっと見つめていた。
そこで佐々木小次郎は、一同に向かって高らかに演説を始めた。
「武蔵も清十郎もまだここに来ていないのは、まさに吉岡家にとって天の助けですぞ。諸君、早く手分けをして、清十郎殿がここに来ないうちに、彼を途中で捕まえて道場に連れ帰るべきです!」
この発言だけでも吉岡方の人々を激怒させるには十分だったが、小次郎はさらに続けた。
「この言葉こそ、清十郎殿に対する最も効果的な助太刀です。これ以上の助太刀などありません。私は吉岡家にとって天からの予言者だ。はっきり言っておきましょう――もし試合をするなら、清十郎殿は気の毒ですが、必ず敗北します。武蔵という男に、必ず命を奪われるでしょう。」
吉岡一門の者たちがこれを黙って聞いていられるわけがない。植田良平などは、顔が青ざめ、小次郎を鋭く睨みつけていた。
十剣の中の御池十郎左衛門は、耐えられなくなったのか、小次郎がまだ話し続けようとするその胸元に、自分の胸をぐっと寄せていき、
「何を言っているんだ、貴様は!」
右手を肘で持ち上げ、顔と顔の間に挟んだ。それは居合の構えであり、一閃を見せようという意志の現れだった。
小次郎はニコリと笑い、笑窪ができた。その笑顔でさえ、背が高いため、相手を見下ろすような高慢さを感じさせた。
「気に障ったか?」
「当然だ!」
「それは失礼」
小次郎は軽くかわしながら、
「では、助太刀はしないことにしましょう。どうぞ、好きにされるといい。」
「誰が貴様などに助太刀を頼んだものか!」
「そう言うな。毛馬堤から私を四条道場まで迎えに来て、あんなに機嫌を取ってくれたではないか。お前たちも、清十郎殿も。」
「それはただ、客として礼を尽くしたまでだ……思い上がるな!」
「ハハハハ、まあまあ、ここでさらに試合の火種を増やしても仕方がないだろう。しかし、私の予言を忘れないように。後で涙ながらに悔やむことにならないようにね。――私の目で見た限り、清十郎殿には九分九厘勝ち目がない。この正月の一日の朝、五条大橋の上で武蔵という男を見かけ、その瞬間にこれはまずいと思った。……あの橋のたもとに掲げられた試合の高札は、まるで吉岡家の衰退を自ら宣言する忌中札のように見えたよ。……だが、衰退する者は、そのことに気づけないのが常というものだ。」
「黙れ! 貴様、今日の試合に対して吉岡家にケチをつけに来たのか!」
「人の好意すら素直に受け取れなくなる、それこそが衰退していく者の特徴だ。何と思おうが勝手だ。明日には分かることだが、いや、もう一刻も経たないうちに、嫌でも目が覚めるだろう。」
「言ったな!」
怒りに満ちた声とともに、四十名の門人たちが一歩ずつ小次郎に近づいた。その殺気は、まるで黒雲が野原を覆うかのような迫力だった。
しかし、小次郎は冷静だった。素早く身を翻し、喧嘩を売られたなら買ってもいいという血気が隠されていなかった。彼が説いていた「好意」も、これでは怪しむのも無理はない。悪く解釈すれば、群衆の心理を利用して、武蔵と清十郎の試合の注目を自分が奪おうとしているようにも見えた。それほどまでに、小次郎の眼は突然、好戦的になっていた。
群衆が遠くからその様子を見守り、どよめきが広がっていた。その時、人混みを突き抜け、一匹の小猿が原へ向かってまるで鞠のように転がるように跳んでいった。小猿の前には、若い女性が転ばないかというほどの速さで駆けているのが見えた。
それは朱実だった。
吉岡門下の人々と小次郎の間に漂っていた、今にも血が流れるかという険悪な空気は、朱実が後ろから叫んだ言葉で一気に消えた。
「小次郎様、小次郎様ッ……どこですか、武蔵様は! 武蔵様はいませんか!」
「……あ?」
小次郎が振り向いた。吉岡方の植田良平や他の人々も、
「や、朱実じゃないか」
と、つぶやき、全員が一瞬、朱実と小猿の姿に目を奪われた。
小次郎は叱るように言った。
「朱実、何でお前がここに来た? 来てはいけないと言ったはずだろう!」
「私の体です。来ちゃいけないんですか?」
「いけないッ!」
小次郎は朱実の肩を軽く突き、
「帰れ」
と言い放ったが、朱実は息を切らせながら激しく顔を横に振って拒絶した。
「嫌です。私はあなたのお世話にはなりましたが、あなたの女ではないでしょう……それを――」
急に朱実は声を詰まらせ、しゃくり上げた。その哀れな嗚咽に、男たちの荒々しい感情が一瞬水をかけられたように和らいだかと思うと、次の瞬間、朱実の言葉は男たちの想像以上に強い血相を含んでいた。
「それを、なんですか、あなたは私を数珠屋の二階に縛りつけたりして!……私が武蔵様のことを心配すると、あなたは私を憎むようにいじめてきたじゃありませんか。それだけでなく……それだけでなく、今日の試合では、武蔵はきっと討たれるだろう、そして私は吉岡清十郎に義理があるから、もし清十郎が及ばなくても、助太刀して武蔵を討たなければならない、そう言って……昨夜から泣き明かしていた私を数珠屋の二階に縛りつけて、あなたは今朝出て行ったんじゃないですか!」
「……気でも狂ったか、朱実。大勢の人がいるこの場所で、青空の下で何を言っているんだ?」
「言います! 気も狂うでしょう、武蔵様は私の心の中の人なんです。その人が殺されるかもしれないと思ったら、じっとしていられません。数珠屋の二階から大声を出して、近所の人に来てもらって縛めを解いてもらい、こうして駆けつけたんです。私は武蔵様に会わなければならない……武蔵様を出してください! 武蔵様はどこにいるんですか!」
「…………」
小次郎は舌打ちをして、朱実の凄まじい饒舌に対し黙り込んだ。
朱実が逆上しているのは確かだが、その言っていることに嘘はないようだった。もしこれが真実なら、小次郎という男は、この女性に温かい世話を焼きながらも、同時に彼女の心と体を極端に虐待して楽しんでいるのではないかと疑われても仕方がない。それをこうした場で、隠すことなく暴露されたのだから、小次郎にとっては当然ながら間が悪い上、怒りも湧き上がり、彼女をじっと睨みつけていた。
――その時。
いつも清十郎に付き従う奉公人で、若党の民八という男が、街道の並木からこちらに鹿のように駆け込んできて、手を振り上げながら叫んだ。
「たいへんだ! 皆さん、来てください!……若先生が、武蔵に……やられました! やられました!」
民八の絶叫は、その場にいた全員の顔から血の気を奪った。まるで足元の大地が突然崩れ落ちるような驚きが広がった。
「な、なにっ?」
「若先生が……武蔵に?」
「ど、どこで?」
「いつの間に?」
「本当か、民八!」
口々に上ずった声が飛び交い、皆が同じように混乱していた。清十郎がここに立ち寄って身支度を整えると言っていたのに、姿も見せず、もう武蔵との勝負が決まったという報せは、信じられないような気がしていた。
奉公人の民八は、
「早く、早く!」
と呂律の回らない声で言い続け、息をつく間もなく来た道をのめるように駆け戻っていった。
誰もが半信半疑ではあったが、嘘とも思えない。植田良平や御池十郎左衛門など四十名ほどの者たちは、
「すわ……」
と民八を追い、野火の炎を飛び越える獣のような素早さで草埃を巻き上げながら、街道の並木へと走り出た。
丹波街道を北へ五町ほど駆け抜けると、並木の右手に広がる広大な枯野があった。そこには静かに春先の日差しが降り注いでいた。
つぐみや鵙が何事もなかったかのように啼いていたが、彼らが近づくとパッと飛び立った。民八は気が狂ったように草の中へ駆け込む。そして、古塚の跡らしき饅頭型に土が盛られている場所まで来ると、
「若先生っ! 若先生っ!」
ともう一度、ありったけの声を振り絞り、大地にしがみつくように膝を折った。
「……やっ?」
「お……」
「若先生だ!」
目の前に広がる光景を見て、駆けつけた者たちの足が皆、釘付けになった。見ると、藍花染の小袖に革のたすきをかけ、白い鉢巻で汗止めをきりっと締めた侍が、草の中に顔を埋めて伏せているのが見えた。
「――若先生!」
「清十郎様っ!」
「しっかりしてくださいっ!」
「我々です、門下生です!」
抱き起こされた清十郎の頭は、首の骨が砕けたかのように重たく垂れ下がり、ぶらんと傾いた。
白い鉢巻には一滴の血もついていなかった。小袖にも袴にも、辺りの草にも血の跡は見当たらない。しかし、眉をひそめ、苦しげに目を閉じたまま、清十郎の唇は野葡萄のように紫色に染まっていた。
「……息は……息はあるのか?」
「かすかに……」
「おいっ、誰か早く若先生の体を!」
「担いで運ぶのか?」
「そうだ!」
一人が背を向け、清十郎の右手を肩にかけて立ち上がろうとすると、
「痛いっ!」
清十郎が苦悶の声を上げた。
「戸板だ! 戸板を持ってこい!」
数名が並木を駆け出し、やがて近くの民家から雨戸を一枚外して持ってきた。
清十郎の体は戸板の上に仰向けに寝かされ、息を吹き返したが、痛みに耐えかねて暴れ始めたため、門下生たちは帯を解いて彼の体を戸板に縛りつけ、四隅を持って運び出した。その様子は、まるで葬式のように暗然としていた。
戸板が割れそうなほど、清十郎はその上で足をばたつかせながら叫んだ。
「武蔵は……武蔵はもう立ち去ったか……ウウム、痛い! 右の肩から腕の付け根だ、骨が砕けたようだ……ウウム、たまらぬ! 門人衆、右腕を、付け根から斬り落としてくれ……斬れっ、誰か、わしの腕を斬れっ!」
空を見上げ、清十郎は叫び続けていた。
あまりにも清十郎が苦しんでいるので、戸板の四隅を持って歩いている門人たちは、特にそれが師匠であるがゆえに、思わず目をそらしてしまった。
「御池殿、植田殿」
立ち止まりながら、門人たちは後ろを振り返って、先輩たちに相談した。
「あのように苦しがって、腕を斬れと仰るのですから、いっそのこと斬って差し上げたほうが楽になるのではありませんか?」
「馬鹿を言え!」
良平も十郎左衛門も一言で叱り飛ばした。
「どれほど痛んでも、痛みだけなら命に別状はないが、腕を斬って出血が止まらなければそのまま死んでしまうかもしれん。とにかく、早く道場へ連れて行き、武蔵の木剣がどれほど打ち込んでいるのか、清十郎様が打たれた右の肩骨をよく調べた上で、必要なら腕を斬る。だが、血止めや手当の準備が整ってからでなければ斬ることはできん。――誰か、先に駆けて行って道場に医者を呼んでおけ!」
数名がその指示を受けて、急いで駆け出していった。
街道の方を見ると、並木の松の間々に、乳牛院の原から群衆が蛾のように集まり、こちらをじっと見守っていた。それもまた、植田良平にとっては忌々しいものだった。彼は暗い顔をしながら黙々と戸板の後に続く人々へ命じた。
「各々、先に行ってあいつらを追っ払え。若先生のこの姿を、弥次馬どもの見世物に晒すわけにはいかん!」
「よしっ!」
鬱憤のはけ口を見つけた門下生たちは、血相を変えて駆け出し、敏感な群衆はバタバタと逃げ出し、ほこりを上げながら散っていった。
その時、良平は再び民八を呼び止めた。民八は涙を流しながら主人である清十郎の戸板のそばに付き添っていた。
「民八、ちょっとこっちへ来い」
良平は怒りを込めて彼に問いただした。
「な、なんですか」
民八は良平の恐ろしい眼を見て、震える声を出した。
「お前は、四条の道場を出る時から若先生に付き従っていたのか?」
「はい、さ、さようでございます。」
「若先生はどこで支度を整えられたのだ?」
「この蓮台寺野に来てからでございました。」
「我々が乳牛院の原で待ち構えていることを、若先生がご存じないはずはない。どうして真っ直ぐここへ来られたのだ?」
「手前には、なぜか一向にわかりません。」
「武蔵は――先にここに来ていたのか? 若先生より後に来たのか?」
「先に来て、あそこの塚の前に立っておりました。」
「一人だったな、先も。」
「へい、一人でした。」
「どうやって試合が始まったのだ? お前はただ見ていたのか?」
「若先生は、私に向かって、『万が一、武蔵に負けた時は、私の骨を拾って行け。乳牛院の原には、門下たちが出張って騒いでいるが、試合が決するまで知らせに行くな。兵法者が負けるのは仕方のないことだ。横から手出しは無用だ』と仰って、武蔵の前へ進んで行かれました。」
「ふ……ウム、そして?」
「武蔵の少し笑っている顔が若先生の背を越えて私の方に見えました。二人は静かに挨拶を交わしているように見えましたが、その瞬間、鋭い声が野に響き渡り、ハッと目を凝らすと、若先生の木剣が空へ飛び上がったかのように見えました。そして、次の瞬間には、この広い野に立っていたのは、柿色の鉢巻を締め、鬢の毛を逆立てている武蔵の姿だけでした……。」
大風が吹き去ったかのように、並木の道からはもう弥次馬の姿は消えていた。清十郎の呻き声を乗せた戸板を運ぶ一行は、敗北した軍隊が故郷に戻るような、疲れた足取りで悄然と歩いていた。
「……おや?」
ふと足を止め、戸板を支える者の一人が自分の襟に手をやり、もう一人が空を見上げた。戸板の上にもハラハラと松の枯れ葉がこぼれてきたのである。見ると、並木の梢に一匹の小猿が、キョトンとした眼で下を見つめ、わざとらしく尾籠な姿勢を見せていた。
「痛っ!」
その瞬間、仰向いた顔に松の実が飛んできた。顔を押さえながら、
「ちくしょうッ!」
その男が小柄を投げた。小柄は細やかな葉の隙間を通り抜け、きらりと光った。
どこかで口笛が鳴った。小猿はトンボを打って並木の陰へ跳び降り、そこに佇んでいた佐々木小次郎の胸から肩へヒョイと乗った。
「……オ!」
戸板を囲んでいた吉岡門下の者たちは、初めて小次郎と朱実の姿をそこに見つけたかのようにギクッとし、眼の光を鋭くした。
「…………」
小次郎はじっと戸板の上に横たわる清十郎を見つめていたが、嘲笑うような表情は浮かべていなかった。むしろ、敗者の痛ましい呻きに眉をひそめ、敬虔な様子を見せていた。しかし、吉岡門下の者たちは、小次郎が以前に言った言葉を思い出し、
(嗤いに来たな)
と感じたらしい。植田良平が誰かに向かって、
「――猿だ、人間じゃない奴の仕業だ。相手にするな、早く運べ!」
と戸板を促した。その時、小次郎が駆け寄り、いきなり清十郎に向かって話しかけた。
「――どうしました、清十郎殿、武蔵めにやられましたか。打たれたのはどこです? 右の肩ですか……ああ、いけませんね。まるで袋に砂利を入れたように骨が砕けています。ですが、仰向けに運ばれるのは良くありません。体内に溢れた血が臓器を侵し、頭に逆流してしまうかもしれませんよ。」
周りの者たちに向かって、小次郎は高飛車な態度で命じた。
「――戸板を下ろしなさい。何をためらっている? 下ろせ、いいから下ろしなさい。」
そして、瀕死の清十郎に向かって、
「清十郎殿、起きてください。起きられないはずがない。傷は軽い。多寡が右腕一本ではありませんか。左手を振って歩けばいいではありませんか。拳法の達人、清十郎ともあろう方が、京都の大路を戸板に乗せられて帰るなどと言われたら、あなたもですが、亡き先生の名も地に落ちてしまいます。これ以上の不孝はありませんよ。」
その言葉を聞いた清十郎は、じっと小次郎の顔を見つめた。白く、瞬きもしない眼であった。
突然、清十郎はがばっと起き上がった。左手に比べ、右手はまるで一尺も長いようにぶらんと他人のもののように垂れ下がっていた。
「御池、御池!」
「は……」
「斬れ!」
「な、何をですか?」
「馬鹿、さっきから言っているだろう、わしの右手をだ!」
「……しかし」
「ええ、意気地のない……植田っ、お前がやれ、早くせい!」
「は……は!」
すると、小次郎が言った。
「私でよければ。」
「おお、頼む。」
小次郎は清十郎に近づき、ぶらんとした右手をつまんで持ち上げると、同時に前差しの短刀を抜いた。何か怪しげな音が周りの者の耳に響いたかと思うと、栓を抜いたように血が噴き出し、腕は付け根から落ちた。
体の重心を失いかけたように、清十郎は少しよろめいた。弟子たちは彼を支えながら、傷口を押さえ合った。
「歩く。おれは、歩いて帰る!」
まるで死人が叫んでいるような顔つきだった。弟子たちに囲まれたまま、清十郎は十歩ほど歩いた。その跡には、ポタポタと黒く血が大地に吸い込まれていった。
「……先生」
「……若先生」
門下の者たちは、桶のように清十郎を囲んで立ち止まり、気遣わしげに言った。
「戸板で運んだ方が、はるかに楽だったでしょうに、小次郎め、余計な真似をして……」
彼らは皆、小次郎の無責任な行動に対して憤りを感じていた。
「歩く!」
一息つくと、清十郎はさらに二十歩ほど歩いた。足が動いているのではなく、彼の意地が歩いているようだった。しかし、その意地も長くは続かず、半町ほど進んだところで、清十郎はばたっと弟子たちの手に崩れ落ちた。
「誰か、早く医者を!」
狼狽した弟子たちは、抵抗する力のない清十郎を担ぎ上げ、まるで死体を扱うように急いで駆け去っていった。
それを見送ると、小次郎は並木の下にじっと立っている朱実の姿を振り返り、
「見ていただろう、朱実。お前にとっては、いい気味だったろうな」
と言った。
朱実は青ざめた面持ちで、小次郎の平然とした笑い顔を、憎むように白い眼で見つめた。
「お前がいつも呪っていた清十郎だ。さぞ、胸がすっとしただろう。……なあ、朱実。お前の奪われた純潔は、これで見事に報復されたというものじゃないか」
「…………」
朱実は、今この瞬間、小次郎という男が、清十郎以上に憎らしく、恐ろしい人間に思えてきた。清十郎は確かに自分を傷つけたが、彼は根っからの悪人ではなかった。しかし小次郎は違う。彼は人の幸福を喜ばず、人の不幸や苦しみを眺め、自分の快楽に供する変質者だと朱実は感じた。盗賊や横領者のような悪人ではないが、それ以上に質が悪い、油断のならない本当の悪人ではないか、と。
「帰ろう」
小猿を肩に乗せて、小次郎は言った。朱実はこの男のそばから逃げたいと思ったが、なぜか妙に逃げきれない何かを感じ、その勇気が出なかった。
「……武蔵を探しても無駄だ。こんな辺りにうろついているわけがない」
小次郎は独り言を言いながら先へ歩いて行く。
(なぜこの悪党のそばを離れられないのか。この隙に逃げ出せばいいのに……)
朱実は自分の愚かさに怒りながらも、やはり小次郎の後を追い続け、歩かずにはいられなかった。小次郎の肩にいる小猿が、後ろを向き、キキッと白い歯をむいて彼女に笑いかけてきた。
「…………」
朱実は、自分が小猿と同じ運命にある者だと思った。そして心の中で、あの無惨な姿になった清十郎が可哀そうに思えてきた。武蔵という存在はまた別として、彼女は清十郎にも小次郎にも、それぞれ異なる愛憎を抱くようになり、最近は男性というものを複雑に考え始めていた。
――勝った。
武蔵は心の中で、自分に凱歌を捧げた。
(――吉岡清十郎に、おれは勝った。室町以来の京流の宗家、その名門の子を、おれは倒した……)
だが、彼の心は少しも喜びに満たされることはなかった。武蔵は俯向きがちに、果てしない野を独り歩いていた。低く飛ぶ小鳥の影が、魚のように腹を見せて空を掠めていく。武蔵は、やわらかい枯草や枯葉の中に、一歩一歩を沈めるようにして進んだ。
勝った後の寂しさ――それは賢い人々が感じる世俗的な感傷だ。修行中の兵法者には無縁の言葉だ。しかし、武蔵はたまらない孤独感に包まれながら、広い野を独り歩いていた。
(……?)
ふと振り向くと、清十郎と対峙した蓮台寺野の丘の松が、遠くにひょろりと立っているのが見えた。
(二太刀とは打たなかった。命に関わることはないだろうが……)
彼は、そこに打ち捨ててきた清十郎の様子をふと案じた。手に提げている木剣を見てみたが、刃には血の跡はついていなかった。
今朝――この木剣を帯びて場所に来るまでは、吉岡側には大勢の介添えが付いているだろうし、もし卑怯な計略があるならば、死を覚悟し、死に顔が見苦しくならないように歯も白く塩で磨き、髪も洗って出向いたものだった。
しかし、実際に相手の清十郎と向き合った時、武蔵は彼が自分の想像していた人物とは全く違う人間のように感じた。
(これが、京流第一の拳法の子だろうか……?)
武蔵の目に映った清十郎は、到底京流第一の兵法者には見えなかった――都会的で線の細い公達のようだった。召し連れているのは奉公人一人だけで、介添えも助太刀もいない様子だった。
互いに名乗り合い、立ち会ったその瞬間、武蔵は内心で悔いた。
(これは、やるべき試合ではなかった……)
武蔵が求めていたのは、常に自分より優れた者との対決だった。ところが、清十郎と対峙すると、彼が一年もかけて腕を磨くほどの相手ではないことが一目でわかった。
その上、清十郎の眼には全く自信がなかった。どんな未熟な相手でも、戦う時には自尊心が燃え上がるものだが、清十郎にはそれが感じられなかった。彼の全身からは生気が抜け落ちていた。
(なぜ今朝ここに来たのだ? こんなにも自信がない状態で……破約した方がよかったのに)
そう思うと、武蔵は清十郎を哀れに感じた。清十郎は名門の子で、父から受け継いだ千人以上の門下の上に立ち、師と仰がれているが、それは彼自身の実力ではなく、先代の遺産だったのだ。
――何とか口実を作って木剣を引いた方が双方のためだ、と武蔵は考えたが、その機会はなかった。
「……気の毒なことをした」
武蔵はもう一度、遠くに見える松の木を振り返り、清十郎に与えた木剣の傷が早く癒えるようにと、心の中で祈った。




