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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
火の巻
53/165

魚紋

「見つけた!」


 まるで鬼でも見つけたかのように、城太郎じょうたろうは叫んで駆け出した。牛車ぎっしゃの陰にしゃがみこんでいるのは、おおつうだった。今朝の彼女は、珍しく化粧をしていたが、それは拙い手つきで施されたもので、ほんのりと香る程度だ。烏丸家からすまるけから頂いたという紅梅色こうばいいろの小袖に、白と緑の桃山刺繍が施されている、春らしい装いだった。


 その鮮やかな紅梅色の袖や白い襟が、車の輪から透けて見えたのだ。城太郎はそれを見つけ、牛の鼻先を撫でるようにして近づき、お通の元に駆け寄った。


「なんでこんなところにいるんだ、お通さん!」


 胸を抱え込んで縮こまるお通の背後から、城太郎は彼女の襟にしがみついた。髪も化粧も台無しになるのも構わずに、


「何してるのさ! ずっと待ってたんだよ! 早く来てよ!」


「……」


 返事がないお通に、城太郎は肩を揺さぶり続ける。


「武蔵様も、あそこにいるんだぞ! 見えるだろ、ほら! あんなにしゃくにさわること、ないじゃないか!」


 そして彼女の手を取って無理やり引っ張り出そうとしたが、ふと手首が濡れていることに気づいた。お通は顔を上げようとせず、何かがおかしいことに気がついた。


「……おや、お通さん、泣いてたのか?」


「城太さん……」


「何さ?」


「武蔵様に見えないようにして、あなたもここに隠れていてちょうだい……お願い……」


「なんでだよ?」


「理由なんて……」


「ちぇっ!」


 城太郎は、わけもわからず腹が立った。苛立ちのやり場がなく、


「だから女ってのは嫌になるんだ! こんな訳のわからないことってあるか? 武蔵様に会いたい会いたいって、あんなに泣いてたくせに、今度は隠れていろなんて……なんなんだよ!」


 城太郎の言葉は、鞭のようにお通に突き刺さる。それでもお通は、腫れた赤い目をそっと上げ、


「城太さん……お願いだから、そんなに責めないで……」


「おいらは別に、お通さんをいじめてなんかいないだろ?」


「黙ってて……一緒にここでじっとしてて……」


「嫌だよ! 牛のふんがそこにあるじゃないか。元日から泣いてたら、カラスに笑われるぜ!」


「……なんでもいいの。もう……わたしは……」


「笑ってやろうか? さっき行った若い武者みたいにさ。おいらも、初笑いで手を叩いてやろうか!」


「もう……笑わなくていい……」


「笑えねぇよ……」


 鼻水をすすりながら、城太郎はむしろ泣きそうな顔をしている。


「ああ、わかったぞ。お通さんは、あそこで武蔵様が他の女と話してるのを見て、嫉妬しっとしてるんだな?」


「……そ、そうじゃない、そんなことじゃないけど……」


「そうだよ、そうだろ! だからおいらもしゃくにさわるんだ。だからこそ、お通さんが出て行かないとダメなんだよ! どうしてわかんないんだよ!」



 いくらおおつうが頑なにしゃがみ込んでいようとしても、城太郎じょうたろうの力には勝てなかった。彼は無理やり手首を引っ張り続けた。


「痛い……城太さん、お願いだから、そんなひどいことしないで。私がわからず屋だって言うけど、城太さんこそ、私の気持ちなんてわかってないのよ」


「わかってるさ、どうせ嫉妬してるんだろ?」


「そうじゃないの……そんな単純なことじゃないの、私の今の気持ちは……」


「いいから、早くおいでよ!」


 牛車ぎっしゃの陰から、ついにお通の身体がずるずると引きずり出されてしまった。まるで綱引きをするかのように、城太郎は踏ん張りながら、遠くを見て言った。


「おっ、もういないよ。朱実あけみはもうどっかに行っちゃった!」


「朱実? ……朱実って誰?」


「さっき、武蔵様と一緒にいた女さ。あっ、武蔵様も歩き出したぞ。早く来ないと行っちゃう!」


 もう女のことなんて構ってられないとばかりに、城太郎は走り出そうとした。


「待ってよ、城太さん!」


 お通も、ついに立ち上がった。彼女は五条大橋のたもとをもう一度確認し、朱実がまだそこにいるかどうかを、細心の注意を払って見渡した。恐ろしい敵の影が去ったかのように、お通はほっとした表情を浮かべると、急いで牛車の陰に戻り、泣き腫らした目を袖口で拭き、髪を整え始めた。


 そんな彼女を急かすように、城太郎は叫んだ。


「早くしなよ、お通さん。武蔵様は河原に降りたみたいだぜ。おしゃれなんかしてる場合じゃないよ!」


「河原へ?」


「ああ、河原へ。――一体、何をしに行ったんだろう?」


 ふたりは急いで橋の袂へ駆け寄った。吉岡家の者たちが立てた高札こうさつの前には、もう人だかりができていた。誰かが声を出して高札の内容を読み上げており、また、聞きなれない「宮本武蔵」という名前に興味を持った人々が、あちこちで彼について話していた。


「ごめん、ちょっと通るよ!」


 城太郎は人々の間をすり抜け、橋の欄干から河原を覗き込んだ。お通も、武蔵の姿をすぐに見つけられると思っていた。しかし、ほんのわずかな時間が過ぎただけなのに、武蔵はもうその場にいなかった。


 ――一体どこへ?


 その答えはすぐにわかった。武蔵は朱実の手を振り切り、無理やり彼女を追い返していた。そして、橋の上で本位田又八ほんいだまたはちを待っていたものの、彼が来るはずもなく――吉岡家の高札も読んだ――待つべき用事はもうないと判断した武蔵は、ひらりとどてを降り、橋杭のそばに停めてあった苫舟とまぶねに駆け寄っていた。


 その苫の下には、先ほど武蔵に縛られたお杉隠居おすぎいんきょが、もがいていた。


「おばば、残念だけど、又八は来ないよ。――そのうち、俺も会いに行って、あの気の弱い男を励ましてやるつもりだが、おばばも親子で無事に暮らすのがいい。――そのほうが、この武蔵の首を狙うより、よっぽど先祖孝行になるだろうさ」


 そう言って、武蔵は小刀こづかを取り出し、苫の下に差し入れて、お杉を縛っていた縄を切った。


「うるさいっ! 偉そうな口をきくんじゃないよ、この小僧め。おせっかいするより、早く私を討つか討たれるか、決着をつけようじゃないか!」


 顔中に青筋を立てながら、お杉隠居は苫の中から顔を出した。しかし、その瞬間には、武蔵はすでに加茂かもの流れを横切り、まるで鶺鴒せきれいのように素早く対岸の堤を駆け上がっていた。



 おおつうは見ていなかったが、城太郎じょうたろうはちらりと、向こう岸にいる武蔵むさしの人影を見たのだろう。


「師匠だ! 師匠だぁ――!」


 そう叫ぶと、河原へ向かって一気に跳び下りた。当然、お通もつられて後を追った。


 この場面で、少し遠回りでも五条大橋を渡って行かなかったのはなぜだろう? 城太郎の勢いに引き込まれたお通にとっては仕方のないことかもしれないが、この一歩の誤りがもたらす結果は、単に武蔵に再会できなかったという遺憾に留まらなかった。


 城太郎の元気な足取りには、河も山も関係ない。しかし、初春の晴れ着をまとっているお通にとって、眼の前に現れた加茂川かもがわのいくつもの流れは、進むのを妨げる壁のように感じられた。


 すでに武蔵の姿は見えなかったが、跳べない流れに直面したお通は、まるで死に別れた者を呼ぶように叫んだ。


「武蔵様ぁっ!」


 その声に応えるかのように、誰かが返事をした。


「おうっ!」


 とまをばらばらと払いのけ、小舟から突っ立ったのはお杉隠居おすぎいんきょだった。


 お通はなんの気もなく振り向いたが、その瞬間、


「――きゃっ!」


 と叫び、顔を覆いながら逃げ出した。隠居の白髪が風に揺れていた。


「お通阿女あま!」


 老婆の声は激しい息遣いにより途切れ途切れになり、


「用があるッ、待たっしゃれっ!」


 水面に響くように叫び声を上げた。


 お杉隠居の邪推がこの場をさらに悪く解釈させていた。老婆は勝手にこう考えた。


(武蔵が私を苫で覆ったのは、お通とここで密会するためだったに違いない。何か痴話喧嘩でもして、武蔵が女を振り切って去ったのだ。そして、お通阿女は泣き叫んで男を呼び戻そうとしているのだろう。)


 咄嗟の思いがそのまま事実として成り立つのが、この老婆だった。


(憎い阿女め)


 武蔵以上にお通への憎しみを抱いたお杉隠居。彼女は息子の嫁を自分の嫁のように感じ、息子が嫌われたことは自分が嫌われたのと同じように感じる老婆だった。


「待たぬかっ!」


 二度目の叫びが響いたとき、老婆はまるで口が耳まで裂けたかのような恐ろしい表情で風を切って走っていた。


 驚いた城太郎が立ち向かう。


「な、なんだ、この婆!」


 だが、老婆は恐ろしく固い力で城太郎を跳ね除けた。力はあまりなかったが、押し退けられることには成功した。


 この老婆が何者なのか、なぜお通があんなに驚いて逃げたのか、城太郎にはまったく理解できなかった。


 わからないままでも、事態が普通でないことは感じ取っていた。青木城太郎ともあろう者が、老婆に一度跳ね飛ばされてそのままでいられるはずもない。


「ばばっ! やったな!」


 そう叫んで、お杉隠居の背後から飛びかかると、老婆はまるで孫の首を掴んで仕置きするかのように、左腕で城太郎の顎を引っかけ、三度、四度とぴしゃぴしゃと叩きつけた。


「餓鬼のくせに、邪魔だてするとこうだぞ、こうだぞ!」


「カ、カ、カ……」


 喉を絞られるような状態になりながらも、城太郎は木剣の柄を握りしめていた。



 お通にとって、今までの生活は辛いことや悲しいことが多くても、決して不幸ではなかった。希望があり、毎日小さな楽しさもある、若さに満ちた日々だった。もちろん、苦しみや悲しみも含まれていたが、純粋な楽しさだけの人生など信じられないというのが彼女の考えだった。


 しかし、今日ばかりは、そんな彼女の心も折れてしまいそうだった。今までの純粋な心に、まるで亀裂が走ったかのように感じられた。その原因は、朱実あけみ武蔵むさしの存在だった。


 あの二人が五条の欄干に並んでいるのを遠くから見た瞬間、お通は足が震え、目眩がして倒れそうになり、牛車の陰にしゃがみ込んでしまった。


「なぜ、今朝、ここへ来たのだろうか?」


 後悔しても、泣いてもどうしようもない。短い時間の中で、彼女の頭には、死すら考えが浮かんだり、男性という存在が全て嘘で塗り固められているように思えたりした。憎しみと愛、怒りと悲しみが混じり合い、自分自身に嫌悪感すら抱いた。そして、ただ泣くだけでは心の叫びは収まらなかった。


 しかし、朱実が武蔵のそばにいる限り、自分を主張することはできなかった。嫉妬で血が燃え上がりそうなほど体中が火のようになっていたが、彼女の理性は必死に抑えた。


「はしたない」と、彼女は自らをたしなめるように思い、冷静さを取り戻そうと努めた。


「冷たく、冷たく……」


 そう自分に言い聞かせ、普段の修養の下にその感情を押し込めた。


 だが、朱実が去った瞬間、その抑え込んでいた感情は一気に噴き出した。彼女はもう抑えることなく、武蔵に向かって言おうと思った。どう言うかは考えていなかったが、胸の中に溜まった思いを全て伝えるつもりだった。


 人生の道は、常に一歩一歩が運命を左右する。ふとした心の迷いが、10年先までの間違いを引き起こすことがある。その一歩が、彼女にとって決定的な運命を招いた。


 武蔵の姿を見失ったことで、お通はお杉隠居に遭遇してしまった。元日にもかかわらず、彼女の心の花園には蛇のような存在ばかりが現れた。


 夢中でお通は三、四町(約330~440メートル)ほど逃げた。普段から悪夢を見るたびに、お杉の顔がその中にあった。それが今、現実となり、彼女を追いかけてくる。


 息が切れ、お通は振り返った。その瞬間、ほっと息をつくことができた。お杉隠居は、半町(約55メートル)ほど後方で城太郎の首を掴み、立ち止まっていた。城太郎も必死に戦っており、叩かれ振り回されても隠居にしがみついて離さなかった。


 今にも城太郎が腰の木剣を抜くかもしれない。そして、そうすれば隠居も刃を抜いて応じるに違いない。


 お通はお杉隠居の性格をよく知っていた。もし悪い方向に進めば、城太郎が斬り捨てられるかもしれないと、彼女は不安で胸が張り裂けそうだった。


「どうしよう……」


 七条の河下に位置しているこの場所。堤の上を見上げても、助けを求める人は誰もいなかった。


 城太郎を助けたいが、お杉隠居のそばに近づくのは怖い。彼女は、どうすることもできず、ただうろうろとするしかなかった。



「くそ、くそばば!」

 城太郎はついに木剣を抜いた。しかし、抜いたところで、自分の首根っこは隠居のわきの下にしっかりと抱え込まれており、いくらもがいても離れない。地面を蹴ってみたり、くうを叩いてみたりして暴れるほど、敵を喜ばせるだけだった。

「このガキが、なんの芸じゃ、まるで蛙の真似事かよ!」

 隠居は、長い前歯をむき出しにして勝ち誇った様子を見せながら、城太郎を引きずりながら河原を歩いていた。だが、ふと彼方に立っているお通の姿を見て、隠居は急に老婆らしい狡猾さを思いついた。

「待てよ」と心の中で呟く。隠居はすぐに策略を変えることにした。これでは力任せに追いかけるのは無駄だと判断したのだ。武蔵のような相手ならば騙しは効かないが、相手が女子供であれば話を合わせ、後でうまく料理すれば良いと考えた。


 そこで――隠居は突然、

「お通よ、お通よ」と、手を上げてお通を呼び寄せた。

「――のう、お通阿女あまよ、なんでわしを見るたびに逃げるのじゃ? 三日月茶屋でもそうじゃったが、今もわしを鬼かのように扱う。そなたのその心がけが、わしには理解できん。この婆に何の害意があるというのじゃ?」


 お通はまだ疑いの眼差しを向けていたが、隠居の腋の下に挟まれていた城太郎が、

「ほんとかい、おばば?」と声をかける。

「オオ、お通はこの婆の心を誤解しておるのじゃ。ただの恐ろしい人間と思っているようじゃ」

「じゃあ、俺が、お通さんを呼んでくるから、この手を離してくれよ」

「そんなことを言って手を離したら、この婆に木剣をくらわせて逃げる気だろうが!」

「そんな卑怯な真似、しないさ。誤解で喧嘩なんて馬鹿らしいだろ?」

「では、お通にこう言って来い――婆は、昔と違って気も弱くなった。今では、武蔵のことを恨む気もない。お通は今も婆の嫁のように思っているのじゃ。せめてこの老婆の話し相手になってはくれぬか?」

「おばば、それ長すぎて覚えきれないよ」

「それだけでよい」

「わかった、じゃあ離してくれ」

「ちゃんと伝えるんだぞ」

「わかったよ」


 城太郎はお通のところへ駆け寄り、隠居の言葉をそのまま伝えた。お杉隠居は、見ないふりをしながら河原の岩に腰を下ろし、浅瀬にいる小魚たちが描く魚紋ぎょもんを眺めていた。

 心の中では、(来るか? 来ないか?)と、お通の様子を小魚の影より速い眼差しで注意深く見守っていた。



 お通はまだ疑念を抱きつつも、城太郎が何度も説得したことで、ついに恐る恐るお杉隠居の方へ歩み寄った。お杉隠居は、内心で「もうこちらのものだ」と思い、長い前歯を覗かせて不気味に笑った。


「お通」

「……おばば様」

 お通は河原に跪いて、隠居の足元に手をついた。

「どうかお許しください……もう今となっては、何も言い訳はいたしません」

「なんの、そんなことは」

 お杉隠居の声は、かつてのように優しげに聞こえた。

「元々、又八が悪いのじゃ。いつまでも、そなたの心変わりを恨んでいるわけではない。この婆も、一時は憎らしい嫁だと思ったが、今ではその気持ちも水に流した」

「では、どうかお許しくださいませ。私のわがままを」

「……じゃが」

 隠居は言葉を濁しながら、お通と共に河原にしゃがみ込んだ。お通は冷たい砂を指で掻き出し、掘った穴から春の暖かい水がじわじわと湧き出していた。


「そのことは母として許してもよいが、ひとつ頼みがある。そなた、いちど又八と会ってやってはくれぬか。もちろん、そなたを取り戻すつもりではない。ただ、この婆の気が済むように、せがれにきっぱりと別れを告げてもらいたいのじゃ。そうすれば、この婆も、母としての役目を果たせる」

「……はい」

 川砂から小さな蟹が這い出し、日差しを避けるように石の陰に隠れた。城太郎はその蟹を摘まみ、お杉隠居の小さなまげの上に落とした。


「……でも、おばば様、今となっては、又八さんに会わない方が良いのでは……」

「わしがそばについておれば大丈夫じゃ。会って、きっぱりと決着をつけておいた方が、そなたのこれからのためにもなる」

「……ですけれど」

「いいから、そうしなさい。わしはそなたの未来を思って言っているのじゃ」

「でも、又八さんが今どこにいるか、わかっておりませんし……おばば様は居場所をご存じなのでしょうか?」

「すぐにわかる。つい先日、大坂で会ったのじゃ。今はまた気まぐれで私を振り捨てて去ってしまったが、きっと後悔して、この京都のあたりをうろついておるに違いない」


 お通はその話を聞くと、不気味な気持ちに襲われた。しかしお杉隠居の言葉に道理を感じ、この老婆に対する同情が込み上げてきた。

「おばば様、では私も一緒に、又八さんを捜して差し上げましょう」

 お杉は砂を弄っていたお通の冷たい手を握りしめ、

「本当にかいの?」

「ええ……ええ、もちろんです」

「では、まずわしの旅舎まで来てくれるかの……ア、ア……」

 お杉隠居は立ち上がりながら襟元に手をやり、城太郎が落とした蟹を掴み取った。



「なんだい、こんなもんだったのか。気味悪いねえ」

 お杉隠居が、身震いしながら指先にぶら下がった小蟹を振り払う様子が滑稽で、城太郎はお通の後ろで、思わず口を抑えて笑ってしまった。隠居はすぐに気づき、白い目で城太郎を睨みつけた。

「貴様か、悪戯をしたのは?」

「おいらじゃないよ! おいらのせいじゃない!」

 城太郎は慌てて堤の上へ逃げた。そして上から、

「お通さん、どうするの? おばばの旅舎に一緒に行くの?」

 お通が返事をする前に、隠居が口を開いた。

「そうじゃ、この婆の旅舎は三年坂の下にある。いつも京都に来ればそこに泊まっている。お前には用もないから、さっさと帰るがいい」

「アア、おいらは烏丸からすまの屋敷に先に戻っているぜ。お通さんも、用事が終わったら早く帰ってきてよ」


 そう言いながら城太郎は走り出したが、お通は急に心細くなり、

「待って、城太さん」

 と、河原から駆け上がって彼を追った。それを見て、お杉隠居もお通が逃げ出すのではないかと慌てて後ろから追いかけてきた。


 その短い間に、お通と城太郎はささやき合った。

「ねえ、城太さん。私はあのおばば様と旅舎に行くけど、烏丸様のところにも、時々顔を出すわ。お館の方々に伝えておいてね。あなたはしばらくそこでお世話になっていて、私の用事が片付くのを待っていてくれる?」

「アア、いつまででも待っているよ」

「それから……お願いがあるの。武蔵様の居場所を探してくれない? お願いだから」

「いやだよ。見つけてもまた、牛車の陰に隠れて出てこないんじゃないか。だから先に言っておいたのにさ」

「私は馬鹿だわ……」


 そのとき、お杉隠居が追いついて二人の間に割り込んできた。お通は、隠居の前では武蔵の話題を出すのは良くないと感じ、口をつぐんでしまった。隠居は油断なくお通を見張っているが、それでも彼女は、姑のようなこの老婆との同行に窮屈さを感じた。


 元の五条大橋の辺りに戻ると、そこはすでに多くの人々で賑わい、陽の光が柳や梅の枝の上に明るく降り注いでいた。

「武蔵って、誰なんだ?」

「そんな兵法者がいるのか?」

「聞いたことないけど、吉岡相手に晴れやかな試合をするってことは、相当の腕前なんだろうな」


 高札の前は、朝よりもさらに人だかりが増していた。

 お通はその様子にギクリとし、立ちすくんだ。お杉隠居も城太郎も、群衆が「武蔵、武蔵」と囁きながら去っては来る様子を見つめていた。まるで魚の群れが渦を巻くように、人々が武蔵の噂をしながら通り過ぎていくのだった。

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