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野の人たち

 ただの百姓ではない、半農半武士である。いわゆる郷士だ。


 本位田家の隠居であるお杉婆さんは、頑固な性格の老母だった。

 彼女は又八の母で、もう六十に近いが、若者や小作の先頭に立ち、毎日野良仕事に出かける。

 畑を打ち、麦を踏み、暗くなるまで働き、帰るときも手ぶらではなく、春蚕のための桑の葉を山のように背負って戻ってきては、夜も蚕の世話をするほどだった。


「おばばアー」


 孫の丙太が畑の向こうから裸足で駆けてくるのを見つけ、お杉は桑畑から腰をのばして呼びかけた。


「おう、丙太、寺に行ったのか?」


「行ったよっ」


「お通さん、いたか?」


「いた。今日はおばば、お通姉さんがきれいな帯を締めて、花祭りをしていたよ」


「甘茶と虫除けの歌は、もらってきたのか?」


「ううん」


「なぜもらってこなかったんだ?」


「お通姉さんが、そんなものはいいから、早くおばばに知らせに帰れって言ったんだ」


「何を知らせに?」


「河向いの武蔵が、今日の花祭りに歩いていたのを、お通姉さんが見たんだって」


「本当か?」


「本当だよ」


 お杉は驚き、目を潤ませて息子の又八の姿がもうそこに見えるかのようにあたりを見回した。


「丙太、おばばに代わってここで桑を摘んでおけ」


「おばば、どこに行くんだ?」


「邸に戻ってみる。もし武蔵が帰っているなら、又八もきっと一緒に帰ってきているだろう」


「おらも行く!」


「阿呆、来なくていい」


 お杉は急いで邸へ駆け戻った。そこには、分家の嫁や作男たちが働いているのが見えた。


「又八は帰ってきたか?」


 皆がぽかんとした顔で「ううん」と首を振った。


 しかし、お杉の興奮は治まらず、周りの人々を叱りつけた。


 息子は村に戻ってきているはずだ、武蔵が戻ってきたなら、又八も必ず戻ってきているに違いない、早く探して連れてこいと命じた。


 お杉は、関ヶ原の合戦の日を息子の命日として心から悲しんでいた。


 又八はお杉にとって、目に入れても痛くないほど可愛い存在だった。


 又八の姉はすでに嫁いでおり、又八が本位田家の後継ぎとなることが期待されていた。


「見つかったか?」


 お杉は家の中を出たり入ったりしては、繰り返し同じ質問をしていた。


 日が暮れる頃、彼女は祖先の位牌の前に燈明を灯し、祈るように座り込んでいた。


 夕食も食べず、家の者たちは皆、外に出ていたが、夜になっても吉報は届かなかった。


 お杉は再び暗い門口に立ち、息子の帰りを待ち続けた。


 水っぽい月が、邸の樫の木々の梢に掛かり、周囲の山々は白い霧に包まれていた。


 梨畑からは甘い香りが漂ってきていた。


 梨畑のあぜ道を歩く人影が見えた。それが息子の許嫁であると気づいたお杉は手を挙げた。


「……お通か?」


「おばば様」


 お通は、濡れた草履の音を響かせながら重そうに走り寄ってきた。



「お通。――おぬし、武蔵の姿を見たそうだが、本当け?」


「ええ、たしかに武蔵さんです。七宝寺の花祭りに見えました。」


「又八は、見えなんだかよ?」


「それを訊こうと思って急いで呼びましたが、なぜか隠れてしまったんです。もともと武蔵さんという人は変わっている人ですが、どうして私が呼んだのに逃げてしまったのか分かりません。」


「逃げた?……」


 お杉は首をかしげた。息子の又八を戦に誘ったのは新免家の武蔵だと恨んでおり、今も何か邪推を巡らせているように考え込んでいた。


「あの悪蔵め、ことによると、又八だけを死なせて、自分は臆病風に吹かれて一人だけのこのこと戻ってきたのかもしれん。」


「まさか、そんなことはないでしょう。そうならば、きっと何か遺物を持って帰ってくるはずです。」


「なんの。」


 お杉は強く顔を振った。


「彼奴が、そんなしおらしい男かよ。又八は、悪い友達を持ったもんじゃ。」


「おばば様。」


「なんじゃ?」


「私の考えでは、きっとお吟様の邸に行けば、今夜は武蔵さんもいると思います。」


「姉弟だから、そりゃあいるだろうよ。」


「これから、私たち二人で訪ねて行ってみましょうか。」


「姉も姉だよ。自分の弟がうちの息子を戦に連れ出したのを知っていながら、その後、見舞いにも来ないし、武蔵が戻ったとも知らせてこない。何も、わしが出向く筋じゃない。新免から来るのが当たり前じゃ。」


「でも、こんな場合ですし、一刻も早く武蔵さんに会って事情を聞きたいです。挨拶は私がいたしますから、どうかおばば様も一緒に来てくださいませ。」


 お杉は渋々承知したが、心の中では息子の安否を知りたい気持ちはお通にも劣らないほどだった。


 新免家は河向こうにあり、そこまで十二、三町もある。

 河を挟んで本位田家と新免家は古い郷士で、以前から暗黙の対立関係があった。


 門は閉まっており、灯りも見えないほど木々が深く立ち並んでいた。


 お通が裏口へ回ろうと言うと、お杉は「本位田の老母が新免を訪ねるのに、裏口から入るような弱味は持たぬ」と動かなかった。


 やむなく、お通だけが裏へ回っていった。


 しばらくすると、門の内に灯りがさし、お吟も出てきて迎え入れた。


 お杉は、野良で畑を耕す姿とはまったく異なり、「夜中じゃが、捨て置けぬことゆえに、出向いてきたぞ。お迎え、ご大儀じゃ」と高い気位を持ち、格式を重んじた様子で、新免家の一室に通された。



 お杉は荒神様のように黙って上座に座り、お吟の挨拶を鷹揚に受けると、すぐに言った。


「お前の家の、悪蔵が戻って来たそうじゃが、ここへ呼んでおくりゃれ。」


 突然の言葉にお吟は驚きながらも、「悪蔵とは、誰のことでございまするか」と訊ねた。


「ホ、ホ、ホ。これは口が滑った。村の者がそう呼ぶので、婆もつい染まったようじゃ。悪蔵とは武蔵のことじゃ。戦から帰ってきて、ここに隠れておるんじゃろうがの。」


「いいえ……」


 肉親の弟をずけずけと言われたため、お吟は唇を噛んで白けた表情を浮かべた。


 お通は気まずさを感じ、今日の灌仏会で武蔵を見かけたことを伝え、双方の間を取りなした。


「不思議ですね、ここに来ていないとは……」


 お吟は苦しげに言った。


「……まだ来ておりません。もし姿を見せたなら、やがて参りましょうが。」


 それを聞いたお杉は畳を叩き、舅のような恐ろしい顔で言った。


「なんじゃ、その言い草は。そのうちに参りましょうで済ませるつもりか。そもそも、うちの息子を唆して戦に連れ出したのは、ここの悪蔵ではないか。又八は本位田家の大事な後継じゃ。それを、わしの目を盗んで連れ出したばかりか、自分一人無事に帰ってきて済むものか。……それはよしとしよう。だが、なぜ挨拶に来ぬ? この新免家の姉弟は、婆を何と思うておるのじゃ。武蔵が帰ってきたのなら、又八もここへ帰してもらわねばならん。それができぬなら、悪蔵をここに座らせて、又八の安否をきちんと聞かせてもらわねばならん!」


「でも、武蔵がここにおりませぬことには……」


「白々しい! お前が知らぬはずがない!」


「ご難題でございます。」


 お吟は泣き伏してしまった。


 彼女は心の中で、もし父の無二斎がいたなら、と思わずにいられなかった。


 その時、縁側の戸ががたっと鳴った。風ではなく、明らかに外に人の気配がした。


「おやっ?」


 お杉が目を光らせると、お通はもう立ち上がっていた。


 直後に、次の物音は絶叫だった。人間の発する声のうちで最も獣に近い呻き声が響いた。


 続いて、何者かが「――あッ、捕まえろっ」と叫び、激しい足音が邸の周りを駆け抜けた。


 木が折れるような音や藪の揺れる音が響き、足音は一人や二人のものではなかった。


「武蔵じゃ!」


 お杉はそう言って立ち上がり、泣き伏しているお吟の襟元を睨みつけた。


「いるのじゃ! この女め、婆に隠しおって。覚えていやい!」


 そう言って縁側の戸を開け、外をのぞくと、お杉の顔は土気色に変わった。


 具足を当てた若者が仰向けに倒れ、死んでいたのだ。


 口や鼻から鮮血を吹き出し、無残な状態だった。どうやら木剣のような物で一撃のもとに打ち殺されたらしい。



「た……誰じゃ……誰かここに殺されているがの。」


 お杉のただ事でない顫えた声に、お通は、縁側まで行燈を提げて出た。お吟も怖々と大地をのぞき込む。


 死骸は武蔵でも又八でもなかった。


 見慣れない武士の姿だ。


 二人は戦慄しながらも、ほっと胸を撫で下ろした。


「下手人は、何者じゃろう?」


 お杉は呟き、急にお通へ向かって、「関わりあいになるとつまらないから帰ろう」と言い出した。


 お通は、老母が息子の又八を盲愛し過ぎて、ここに来ても酷いことばかり言い散らしたことが気の毒で、お吟を慰めたいと思い、「自分は後から帰る」と告げた。


「そうか、勝手にしい。」


 冷たく言い放ち、お杉は一人で玄関から出て行った。


「お提燈を」とお吟が親切に言うと、


「まだ本位田家の婆は、提燈を持たねば歩けぬほど、耄碌しておらぬわ!」


 そう言って裾を端折り、夜露の深い中をてくてくと歩み出して行く。


「婆。ちょっと待て。」


 新免家を出るとすぐ、誰かが呼び止めた。


 お杉が最も恐れていた関わり合いが、ついに訪れたのだ。


 人影は陣太刀を横たえ、半具足で手足を固めた堂々たる武士だった。


「そちは今、新免家から出てきたな。」


「はい、左様でございますが……。」


「新免家の者か。」


「とんでもない!」


 お杉は慌てて手を振った。


「わしは河向かいの郷士の隠居ですじゃ。」


「では、新免武蔵と共に関ヶ原に出た本位田又八の母か。」


「されば……。それも伜が好んで行ったのではなく、あの悪蔵に騙されたのでございます。」


「悪蔵とは?」


「武蔵のやつで……。」


「村でもあまり評判の良くない男か?」


「手のつけられぬ乱暴者でござりましてな。伜があんな人間と付き合ったため、どれほど泣きを見たことか。」


「そちの息子は関ヶ原で死んだらしいな。しかし、悔やむな、敵は取ってやる。」


「あなた様は?」


「それがしは戦の後、姫路城を守っていた徳川方の者で、主命を受け播州の木戸で往来人を検めておった。そこに現れたのが……。」


 後ろの土塀を指さしながら、


「武蔵という奴が木戸を破って逃げおった。新免伊賀守に従い、浮田方へ加担した者だとわかっておるゆえ、追い詰めてこの宮本村まで来たのじゃ。しかし、あの男、恐ろしく強い。数日間追い続けておるが、疲れを待っているのに、なかなか捕まらん。」


「それで……。」


 お杉はうなずき、武蔵が七宝寺にも姉の元にも立ち寄らない理由がわかった。


 同時に、又八が帰らず、武蔵だけが生きて帰ったことが一層憤りを増した。


「旦那様、武蔵が強くとも、捕まえるのはそう難しいことではございますまい。」


「何せ、人数が少ないのだ。今も今とて、奴のために一人打ち殺された。」


「婆には良い智慧がありますじゃ。そっと、耳をお貸しなされ……。」



 どんな策を囁いたのだろうか。


「む! なるほどな」


 姫路城から国境の目付として来ていたその武士は大きくうなずいた。


「首尾よくおやりなされよ」


 お杉婆は煽動するように言い、立ち去った。


 ――間もなく、その武士は新免家の裏手に十四、五名の手勢を集めていた。


 密かに指示を与えると、やがて塀を越えて邸内へと雪崩れ込んだ。


 その頃、お通とお吟は、お互いの薄幸を語り合っていた。


 灯りの下、涙を拭い合っているところに、突然、足音と共に土足のままの男たちが両方の襖を開けて部屋へ押し入った。


「……あっ?」


 お通は蒼ざめ、震えたまま動けなかった。


 しかし、さすが無二斎の娘であるお吟は、冷静に男たちを睨みつけた。


「武蔵の姉はどっちだ」


 一人が声を荒げる。


「私ですが」


 お吟は毅然と答えた。


「邸に無断で押し入るとは、何事でございますか。女の住まいと知って無礼な振る舞いをされれば、許しませぬぞ」


 お吟が膝を進めて責めると、組頭らしい武士が彼女の顔を指さした。


「お吟はこっちだ。」


 その瞬間、屋鳴りと共に灯りが消えた。


 お通は悲鳴をあげ、庭先に転がり落ちた。


 お吟は壮烈な抵抗を見せたが、それも一瞬のことだった。


 大の男たちにねじ伏せられ、足蹴にされながら捕らえられた。


「たいへんだっ!」


 お通は、どこを走って来たのかもわからない。


 裸足のまま、ただひたすらに七宝寺へ向けて駆けた。


 彼女の胸には、この世がひっくり返るような衝撃が渦巻いていた。


 寺のある山の下まで来た時、

「お、お通さんではないか」

 樹蔭に腰掛けていた人影が立ち上がった。宗彭沢庵だった。


「こんな遅くまで帰らないことはないと思って、探していたところだった。おや、跣足で?……」


 彼は彼女の足に目を落とし、驚いた様子を見せた。


 お通は泣きながら沢庵の胸に飛び込み、訴えた。


「沢庵さん、大変です! ああ、どうしたらいいのか……。」


 沢庵は落ち着いて、

「大変? 世の中にそんな大変なことがそうあるものか。まずは、話してごらんなさい。」


「新免家のお吟さんが捕まって行きました……。又八さんは帰って来ないし、お吟様まで……私、どうしたらいいのか、わかりません。」


 お通は泣きじゃくりながら、いつまでも沢庵の胸にすがり、震えていた。

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