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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
火の巻
48/165

心猿

 阿弥陀ヶあみだがみねの真下、清水寺きよみずでらの鐘の音が間近に聞こえる。歌ノ中山うたのなかやまや鳥部ノとりべのやまに囲まれたこの小さな谷は、風が弱く、外よりも寒さが和らぐ場所だ。


「――ここだよ、わしの仮の住まいは。なんとも気楽なもんだろう」


 青木丹左衛門あおき たんざえもんは、連れてきた朱実あけみを振り返り、上唇の薄い髭を少し剥き出しにして、にやりと笑った。


「ここですか…?」


 失礼かとは思いつつ、朱実は思わず聞き返した。


 そこにあったのは、ひどく荒れた一軒の阿弥陀堂あみだどうである。これが住居というのなら、このあたりには、荒れた堂塔どうとうが数多く残っている。黒谷くろたに吉水よしみず付近には、念仏門ねんぶつもんの発祥地としての遺跡が数多く残っているからだ。祖師・親鸞しんらんの足跡や、法然房ほうねんぼうが流された際の別れの地もこの小松谷にあったという。


 それは承元しょうげんの昔の話、今夜は冬の終わり、花のない寒い夜だった。


「……お入り」


 丹左は、先に御堂の縁に上がり、格子扉こうしどを押し開けて、朱実に手招きした。しかし朱実は、ためらったまま、彼の好意に従うべきか、それとも一人で寝る場所を探すべきか迷っているようだった。


「中は思った以上に暖かい。敷物もあるしな……。それとも、わしをさっきの悪党と同じように疑っているのか?」


「……」


 朱実は首を横に振った。丹左が善良な人であることは、彼女も感じていた。彼は五十を超えた年配の男性で、危険な雰囲気はなかった。しかし、ためらいを生んだのは、この場所の荒れ果てた状態と、彼の衣服や体から漂う不潔なにおいだった。


 ――でも、他に泊まる場所はないし、またあの赤壁八十馬あかかべやそまに見つかれば、何をされるかわからない……。それに、体がだるくて熱っぽい。早く横になりたい――。


「……いいんですか?」


 朱実はようやく階段を上がり始めた。


「いいとも。何日泊まっていようが、ここなら誰にも邪魔されん」


 中は真っ暗だった。まるで蝙蝠こうもりでも飛び出しそうなほど、暗く静かだった。


「ちょっと待ってな」


 丹左は部屋の隅で火打ち石をカチカチと打ち始めた。やがて、小さな短檠たんけいに灯りが灯った。


 そこには、鍋や瀬戸物、木の枕やむしろなどがひと通り揃っており、まるで拾い集められたようなものばかりだった。丹左は、「湯を沸かして、これから蕎麦掻そばがきでも作ってやる」と言い、七輪に炭を入れて火を起こし始めた。


(親切な人だ…)


 少し落ち着いた朱実は、丹左の不潔さがあまり気にならなくなってきた。そして彼の生活にも、徐々に馴染んでいくように思えた。


「そうそう、風邪かもしれんから、蕎麦掻ができるまで、そこの寝どこで休んでいなさい」


 むしろや米俵こめだわらが積み上げられて、隅には簡素な寝床ができていた。朱実はそこにあった木枕に自分の持っていた紙を当てて、すぐに横になった。


 掛けるものは破れた紙衣かみこのようなものだったが、朱実は感謝しながらそれを引き被った。


「じゃあ、おやすみ」


「さあ、さあ、何も心配することはない」


「……すみません」


 そう言って、渋紙しぶがみの布団を引き上げた瞬間、何かが電光のように飛び出し、彼女の頭を越えて行った。



 だが、驚いたのは朱実あけみよりも、むしろ青木丹左衛門あおき たんざえもんの方だった。彼は鍋に入れようとしていた蕎麦粉そばこの袋を取り落とし、膝を真っ白にしてしまった。


「アッ、なんじゃっ?」


 丹左は膝についた粉を払いながら、朱実に向かって尋ねた。朱実は打ち伏したまま、怯えた声で答える。


「なんだか、ねずみよりも大きなけものが隅から飛び出して…」


 丹左は周囲を見回しながら言った。


栗鼠りすじゃろう」


 そう言ってあたりを見渡すと、小さな猿が内陣ないじん欄干らんかんにちょこんと座っているのが見えた。人の目が向くと、猿はびくっと身を縮めたが、すぐに尻尾を揺らして欄干を何度も行ったり来たりしてから、また元の場所に戻って座り込んだ。その表情は、まるで「何か言いたいことでもあるのか?」と言わんばかりだった。


「こいつ…どこから入って来たんじゃろうか?」


 丹左は首を傾げた。しかし猿は、彼が近づこうとすると、するすると逃げ、内陣の奥へと隠れてしまった。


「ははは、愛嬌者あいきょうものじゃな。食べ物でも与えてやれば、悪戯いたずらもせんだろう。放っとこう」


 丹左は膝についた蕎麦粉をはたきながら、鍋の前に座り直した。そして、笑いながら朱実に言った。


「なにも心配はいらん。――おやすみ」


「だ、大丈夫でしょうか?」


 朱実は少し怯えた声で尋ねた。


「心配いらんさ。山猿やまざるじゃない、飼われていた猿が逃げてきたんだろう。寒くないか?」


「……いいえ」


「さあ、早く寝なさい。風邪かぜは静かに寝ていれば治るものだ」


 丹左は再び鍋に蕎麦粉と水を入れ、箸でかき混ぜ始めた。七輪の炭火が赤々と燃え、部屋が少しずつ温まってくる。鍋の湯がぐつぐつと煮立ち始め、その音が心地よい温かさを感じさせた。


 まるでこの鍋の中に、人生の楽しみが全て詰まっているかのように、丹左の目は湯気と泡を見つめていた。外からは清水寺きよみずでらの鐘の音が聞こえ、夜も更けていく。まだ冬の寒さが残るが、師走しわすの慌ただしさが人々の心に影を落とし、夜も更けると人々の詠歌えいかや鐘の音が絶えない。


(わしは、この身の罪を償っているが、城太郎はどうしているのか…あの子に罪はないはずだ。親の罪は親が背負うべきもの。南無なむ観世音菩薩、城太郎の上に慈悲の御目みめを…)


 丹左は鍋の中の蕎麦掻そばがきが焦げ付かないようにそっと箸を動かしながら、心の底で祈りを捧げていた。


 すると突然、寝ていた朱実が「嫌ッ!」と叫び、体を震わせていた。まるで何かにめ殺されるような悲痛な声だった。


「ち、ちくしょう…」


 彼女は目を閉じたまま、木枕きまくらに顔を押し付けて、泣き続けている。涙が止まらず、まるで夢の中で何かに追われているかのようだった。



 朱実あけみは自分の寝言で目を覚まし、恥ずかしそうに言った。


「おじさん、私、今何か言っていましたか?」


 丹左は枕元に寄り、朱実の額を拭きながら答えた。


「びっくりしたわい。熱があるせいじゃろう、ひどい汗だな」


「何を…言ったんでしょうか?」


「いろいろだ」


「いろいろって?」


 朱実は顔がさらに赤くなり、布団を引き寄せて顔を隠してしまった。


「朱実、おまえは心の中で誰かを呪っているのだな?」


「そんなこと、言いましたか?」


「うむ。男に捨てられたのか?」


「いいえ」


「騙されたのか?」


「いいえ」


 丹左は独り合点して、急に朱実は身を起こした。


「おじさん、私は…私は、どうすればいいんでしょう」


 心の中でずっと抱えていた住吉での恥辱の出来事を、朱実は丹左の前でついに話してしまった。彼女の怒りと悲しみが彼女の口を開かせ、嗚咽おえつをこらえながら、すべてを語り出した。


「……ふ、ム……」


 丹左は深く息を吐いた。久しく忘れていた女性の香りが、彼の鼻に、そして眼にしみる。この長い間、感覚を忘れていた彼の体が、急に熱くなり、まだ自分の中に心臓が生きていることを思い出させるようだった。


吉岡清十郎よしおか せいじゅうろうという男が、そんなにけしからぬことをする奴だったのか」


 そう言いながら、丹左は清十郎への憎しみを募らせた。だが、それだけではなかった。義憤だけではなく、どこか不思議な嫉妬心が彼の中で燃え上がっていた。まるで自分の娘が汚されたかのような怒りを感じていた。


 朱実にはその姿が頼もしく見え、彼なら何でも話せるという安心感を抱いた。そして再び泣きながら彼の膝にすがりついた。


「おじさん、わたし、死んでしまいたい。死んでしまいたい…」


 彼女が泣き崩れる姿に、丹左は困惑しながらも答えた。


「泣くな、泣くな。おまえが心から許したわけではないのだから、おまえの心までは汚されていない。女性の命というものは、体よりも心にある。貞操とは心の問題だ。もし体を許さなくとも、心で他の男を想うなら、その瞬間こそが真の汚れと言えるのだ」


 だが、その言葉では朱実の心は救われなかった。彼女はさらに激しく泣き、涙は丹左の衣を濡らし続けた。


「死にたい、死にたい…」


 丹左は朱実の背中を優しく撫でてやったが、その白い首筋の震えを見つめることはできなかった。肌の香りさえも、他の男に奪われたものだと思うと、複雑な感情が彼の心に湧き上がった。


 その時、小猿が鍋の近くにやって来て、何か食べ物をくわえて逃げ出した。丹左は、朱実の顔を膝から離し、拳を振り上げて叫んだ。


「こいつめ!」


 どうやら丹左にとって、食べ物の方が朱実の涙よりも重大な問題であるようだった。



 夜が明けた。


 朝になると、丹左は朱実あけみに言った。


「町へ托鉢たくはつに行って来るから、留守を頼むぞよ。帰りには、お前の薬や暖かい食べ物、それから油や米なども買ってこねばならぬでな」


 彼は雑巾のようにボロボロになった袈裟けさを身にまとい、尺八と竹笠を持って、阿弥陀堂を後にした。見た目はまるで、案山子かかしが歩いているかのようで、鼻の下の髭までみすぼらしい。


 特に今朝の丹左は、どこかしょぼくれていた。昨晩はほとんど眠れなかったからだ。朱実は、温かい蕎麦湯そばゆを飲んで一汗かくと、ぐっすりと深い眠りに落ちたが、丹左は明け方まで一睡もできなかった。


 眠れなかった理由は今も残っていて、朝の陽を浴びてもなお、彼の心に重くのしかかっていた。


(ちょうどお通くらいの年頃だ……)


 そう思いながら彼は続けた。


(お通とは性格が違うが、朱実の方が可愛らしい。お通には気品があるが、どこか冷たさがある。朱実は泣いても笑っても、そのすべてが蠱惑的こわくてきだ……)


 その蠱惑の力が、昨夜から彼の枯れた心に活力を与えていた。しかし、年齢には逆らえない。朱実の寝顔を思い浮かべながらも、別の心が彼に囁く。


(ああ、俺はなんて浅ましいのだろう。池田家の家禄を失い、こうして落ちぶれたのも、元を辿れば女のせいだ。お通に抱いた煩悩が、全ての始まりだったのではないか)


 そう自分を責め、そして叱咤しったする。


(まだ性懲りもないのか)


 そう呟きながらも、どこかで迷いが残っていた。丹左は尺八を持ち、袈裟を纏っているが、まだ悟りにはほど遠いと自覚していた。露身風体の境地に達するには、まだまだ時間がかかるだろうと。


 夜が明けてようやくその煩悩を捨てようと思い至った時、丹左の顔の上を大きな鷹が翼を広げ、飛び過ぎた。


「……?」


 彼が顔を上げると、灰色の小さな鳥の羽毛が風に乗って舞い降りてきた。鷹は小鳥を捕え、空高く舞い上がっていた。その瞬間、どこからか声が響いた。


「捕ったぞ!」


 続いて、鷹の持ち主の口笛が風に流れた。



 間もなく、延念寺えんねんじの裏坂から、狩りの支度をした二人がこちらへ降りてくる姿が見えた。


 ひとりは、左手にたかを据え、獲物を入れる網袋あみぶくろを大小の反対側に提げ、後ろには敏捷そうな茶色の猟犬を連れていた。四条道場の吉岡清十郎よしおか せいじゅうろうだ。


 もうひとりは、清十郎よりもずっと若いが、体つきは逆にがっしりとしており、派手な若衆小袖わかしゅうこそでを着て、背中には三尺余りの大太刀を斜めに負い、前髪を垂らしている。そう、岸柳がんりゅう佐々木小次郎ささき こじろうである。


「ここら辺だったな」


 小次郎が立ち止まり、あたりを見渡しながら言った。


「昨日の夕方、俺の小猿が、この猟犬と争って、尻尾を噛みつかれたんだ。それに懲りて、この辺りで隠れてしまい、それから姿を見せなかった。どこか、このあたりの木の上にでもいそうだが」


「いるわけがないだろう。猿だって脚がある」


 清十郎は興味のない様子で言い、近くの石に腰を下ろした。


「そもそも鷹狩たかがりに猿を連れて歩くなんて話、聞いたことがないぞ」


 小次郎も木の根に腰掛けながら返す。


「いや、連れて歩くわけじゃないんだが、あの小猿がどうも俺についてくるんだ。なんだか可愛い奴でさ、そばにいないと少し寂しいんだよ」


 清十郎は少し驚いた様子で、小次郎を見た。


「猫とかちんを可愛がるのは、女子や暇人ひまじんだけだと思っていたが、お前のような武者修行の身が小猿を愛でているとはな。何とも言えんものだな」


 清十郎は小次郎の剣技には敬意を払っているが、他の趣味や生活態度には、どこか幼さを感じていた。数日一緒に暮らしてみると、やはり年齢相応の未熟さが垣間見えることもあった。


 だからこそ、清十郎は小次郎に人間としての深い敬意は抱かないものの、逆にその無邪気さが付き合いやすく、親しみを感じていた。


「ははは、それはまだ俺が幼いからですよ。今に女を知れば、小猿なんて捨ててしまうでしょう」


 小次郎は笑いながら答えたが、そんな彼の無邪気な言葉とは対照的に、清十郎の顔には焦りの色が強くなっていった。まるで拳に据えた鷹の目のように、彼の瞳には絶えず焦燥感が漂っている。


「なんだ、あの虚無僧こむそうは……。さっきから俺たちをじっと見ている」


 ふいに、清十郎が不審そうにつぶやいたので、小次郎も振り返って見た。清十郎の視線の先には、青木丹左あおき たんざえもんがぼんやりと立ち尽くしていた。丹左は彼らの視線を感じて、背を向けて歩き出した。


「岸柳どの」


 清十郎は何かを思い出したかのように、突然立ち上がり、


「帰ろう。どう考えても鷹狩りなんてしている場合じゃない。今日はもう年暮れの二十九日だ。道場へ帰ろう」


 そう言い出した。しかし小次郎は、清十郎の焦りをまるで冷笑するかのように言った。


「せっかく鷹を連れてきたのに、まだ山鳩やまばと一羽と、つぐみを二、三羽しか獲ってないじゃないか。もう少し山を登ってみよう」


「やめておこう。気が乗らない時は、鷹も思うように飛ばないものだ。それより、道場へ戻って稽古だ、稽古!」


 清十郎の言葉には普段とは違う熱があった。まるで、小次郎が嫌なら自分ひとりでも先に帰ってしまいそうな様子だった。



「帰るなら一緒に帰るさ」


 小次郎も歩き出したが、どこか不愉快そうな顔をしていた。


「清十郎どの、無理に鷹狩たかがりを勧めてしまって、申し訳なかった」


「なにを言う」


「昨日も今日も、鷹狩をしようとあなたを誘い出したのは、この小次郎ですから」


「いや……その好意は分かっている。しかし、年の暮れでもあるし、君にも話したように、宮本武蔵みやもと むさしとの重要な試合が、目の前に迫っている状況だ」


「だからこそ、あなたに鷹でも飛ばして、悠然と気を養っていただきたかったのだが、どうやらあなたの気質では、それが難しいようだな」


「噂を聞けば聞くほど、武蔵という男は、軽く見られない相手だというのが分かってきた」


「ならば、なおさら冷静に心を鍛えるべきです。焦らずに備えるのが賢明でしょう」


「焦っているわけではない。ただ、敵をあなどるのは兵法における最大の戒めだ。試合までに十分な稽古を積んでおくのは当然のことだろう。万が一、敗北するようなことがあったとしても、それは最善を尽くしての結果だ。実力差で負けたなら、それは仕方のないことだ」


 小次郎は清十郎の正直な姿勢には好意を抱きつつも、彼の小さな器量も見透かしていた。これではとても、吉岡拳法よしおかけんぽうの名声と大きな道場を永続させる器ではない、と密かに思っていた。


(まだ、弟の伝七郎でんしちろうのほうが、ずっと器量がある)


 そう小次郎は感じていた。しかし、伝七郎は放縦な性格で、腕前こそ兄を上回るものの、家名や責任感には乏しい放蕩次男だった。小次郎はその伝七郎とも紹介されたが、肌が合わず、むしろ最初から互いに反感を抱いていた。


(この人は正直だが、小心者だ。助けてやらなければ)


 そう考えた小次郎は、わざと鷹狩に誘い出し、武蔵との試合を忘れさせようとしたのだが、清十郎はどうしてもその悠然たる構えを保てないようだった。


 ――試合前に稽古を重ねたいという彼の真面目さは立派だが、果たして武蔵と会うまでに何日稽古ができるのか、と小次郎は心の中で呟いた。


(性分なのだな……)


 こういった性格は助太刀のしようがない、と小次郎は痛感した。黙々と帰り道につこうとしたその時、足元にいたはずの茶色の猟犬がいつの間にか見えなくなっていた。


 ――わん、わんっ、わんっ!


 遠くから猛々しい吠え声が聞こえた。


「何か獲物を見つけたようだな」


 小次郎は目を輝かせて言ったが、清十郎は犬の働きを煩わしそうに感じたのか、


「捨てておけ。後から追いかけてくるだろう」


「でも……」


 小次郎は少し名残惜しそうに、


「ちょっと様子を見てくるから、あなたはここで待っていてください」


 そう言って、犬の声が聞こえる方へ駆け出した。――見ると、古びた阿弥陀堂あみだどうの縁側へ猟犬が駆け上がり、破れた窓に向かって吠え、飛びかかりながら転げ落ちたりしていた。犬はそのあたりの丹塗りの柱や壁を、めちゃくちゃに爪で引っ掻いていたのだった。



 一体、犬は何を嗅ぎつけて吠えているのか。小次郎は猟犬が飛びかかっている窓とは別の入口へ立った。


 御堂みどう格子扉こうしどに顔を近づけたが、中は真っ暗で、まるで漆壺うるしつぼの中を覗くように何も見えなかった。ガラリと、扉を引いた音が響くと、犬は尾を振りながら小次郎の足元へ跳びかかってきた。


「――叱しっ!」


 小次郎は犬を蹴飛ばしたが、犬は興奮していて怯む様子もない。


 小次郎が御堂の中へ入ると、犬は彼のたもとをくぐり抜け、先に駆け込んだ。


 ――そして、すぐに。


 小次郎の耳に突き刺さったのは、予想だにしなかった女性の叫び声だった。それも、ただの驚きではなく、金切り声のような激しい悲鳴だった。犬の吠え声と、その叫び声が混ざり合い、御堂のはりも裂けそうなほどに、凄まじい音が響き渡った。


「やっ?」


 小次郎は駆け寄り、その瞬間、犬が狙っている目標が何であるか、そして、必死に抵抗している女性の姿が目に飛び込んできた。


 朱実あけみは、紙衣蚊帳かみこがやをかぶって寝ていた。そこへ、猟犬の目に見つかった小猿が窓から飛び込んで朱実の後ろに隠れた。犬は小猿を追い詰め、朱実にまで襲いかかったのだ。


 ――「きゃっ!」


 朱実が仰向けに倒れた瞬間、犬の猛然とした吠え声が一段と激しくなり、彼女の腕に牙を立てた。


「くっ、これかっ!」


 小次郎はすぐに犬の脇腹を蹴飛ばした。しかし、犬は最初の蹴りで既に死んでいた。それにも関わらず、犬の大きな口は朱実の腕を離さないままだった。


「――離してっ! 離してえっ!」


 もがき苦しむ朱実の体の下から、小猿がぴょいっと飛び出した。小次郎は犬の上顎うわあごと下顎を両手で掴み、


「こいつめ!」


 と叫んで、力強く犬の顎をこじ開けた。犬の顎はぐっと裂ける音を立てて開いた。小次郎はそのまま犬の死体を外へ放り投げた。


「もういい」


 小次郎は朱実のそばに腰を下ろしたが、彼女の二の腕は「もういい」どころではなかった。真っ白な腕が、まるで緋牡丹ひぼたんのように真っ赤な血を噴き出していた。


 その白さとあかさに、小次郎は自分まで痛みを感じ、思わずぶるりと震えた。


「酒はないか、傷を洗う酒は……いや、こんなところにあるはずもない。どうしたものか……」


 小次郎は朱実の腕をぎゅっと抑えながら、熱い血が自分の手にも溢れ出してくるのを感じた。


「もし、犬の牙に毒があったら、狂犬病にでもなってしまうかもしれん。この犬はここ最近、ちょっとおかしかったからな……」


 途方に暮れながら、小次郎が呟くと、朱実は痛そうに眉をしかめ、白いうなじを反らしながら、


「えっ、狂犬病に?……もう、いっそのこと気が狂いたい……」


「ば、ばかなことを言うな!」


 小次郎はいきなり朱実の二の腕に顔を近づけ、その血を口に含んだ。口いっぱいに血が溢れると、それを吐き出し、再び彼女の白い肌に噛みついた。



 たそがれ時、青木丹左あおき たんざは、一日の托鉢たくはつからとぼとぼと阿弥陀堂あみだどうに帰ってきた。薄暗くなった堂の扉を開けて、彼は朱実あけみに声をかけた。


「朱実、さびしかったろう。今、戻ってきたぞよ」


 途中で求めてきた薬や食べ物、油の壺などを隅に置きながら、丹左は続けた。


「お待ち、今、明かりをつけてやるからの……」


 しかし、明かりが灯ると、彼の心は急速に暗くなった。朱実の姿がどこにも見当たらなかったのだ。


「おや?……どこへ行ったのじゃ、朱実、朱実!」


 彼女が姿を消していることに、丹左の胸には冷たく、重い失望が広がった。自分の情愛が拒絶されたという現実が、やがてやり場のない怒りに変わり、世の中までも暗く感じられた。その怒りが静まると、今度は深い淋しさが丹左を襲った。


「助けてもらって、あんなに世話をしておきながら、何も言わずに出て行くとは……やっぱり、これが世間なのか?今の若い女はみんなこうなのか……それとも、まだ私を疑っているのか?」


 丹左は、自嘲混じりに独り言をつぶやき、彼女が寝ていた跡を怪訝な目で見渡した。そこには、裂けた布切れが捨てられていた。よく見ると、その布には血がついている。これを見た丹左はさらに猜疑心が膨れ上がり、胸にふしぎな嫉妬が湧き上がった。


 苛立ちのあまり、丹左はわらの寝床を蹴り飛ばし、せっかく買ってきた薬を外へ投げ捨ててしまった。托鉢で空腹を抱えて帰ってきたにもかかわらず、食べ物を作る気力さえも失ってしまった彼は、尺八を持って縁側へ出ていった。


 しばらくして、尺八を吹き始めた丹左。しかし、その音色には彼の心の中の煩悩がにじみ出ていた。人間の欲望は、墓場に入るまでどこかに潜み続けるものだと、彼の尺八は空虚な響きの中で告白しているようだった。


「どうせ、あの娘は他の男に弄ばれてしまう運命だ……なぜ私は一晩中、道徳なんてものに縛られて悶え苦しんでいたのだろうか……」


 後悔と自己嫌悪が入り混じり、彼の心を乱していた。――丹左の尺八は、その雑多な感情から逃れようと必死に吹き続けたが、彼のごうの深さを示すかのように、音は澄んでこなかった。


虚無僧こむそうさん、何が面白くて、今夜は独りで尺八を吹いているんだえ? 町でもらったお金で酒でも買ったなら、わしにも少し酔わせてくれないか?」


 御堂の床下から、誰かが声をかけてきた。床下に住んでいるいざり(這いずるように歩く人間)のおこもだ。いつも丹左の生活を羨ましそうに眺めている。


「お……お前は知っているだろう。私が昨夜連れてきた娘は、どこへ行った?」


「逃すわけないだろう。今朝、お前が出かけたあと、大きな刀を背に負った前髪の若い男が、小猿と一緒にその娘を連れて行ったんだよ」


「えっ、あの前髪が?」


「悪くない顔立ちだったな。……お前や、わしよりはな」


 床下のいざりは、何がおかしいのか、一人で笑っていた。

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