冬の蝶
預かり中の病人が、無断で寝床からいなくなる――これだけでかなり重大な事件といえる。しかし、住吉の浜にある旅籠では、彼女が病気になった原因をうすうす察していたし、無断で出て行った朱実が二度と自ら命を絶つようなことはしないだろうと思っていた。そのため、京都の吉岡清十郎に一通の知らせを飛脚で送るだけで、彼女を追いかけるような無駄な手間はかけなかった。
――さて、ここからが本題だ。
朱実は、まるで籠から飛び出した小鳥のような自由を手に入れたが、体調は万全ではなかった。あの海で仮死状態になってから、体はまだ完全には回復していない。さらに、清十郎によってつけられた心の傷――女性としての誇りを踏みにじられたこと――が、心にも体にも深い影響を及ぼしていた。それが三日や四日で癒えるわけがない。
「くやしい……」
朱実は、淀川を下る三十石船の中で、自分の涙がどれだけ流れても、この悲しみを語り尽くすことはできないと思った。彼女の悔しさは単なる「くやしい」ではなかった。――朱実は別の男性、つまり武蔵を思い続けていたが、その人との未来が、清十郎の暴力によって壊されたという事実が、さらに彼女の心を苦しめていたのだ。
淀川の流れには、門松や初春を告げる飾りを載せた小舟が忙しそうに行き交っている。その光景を見つめると、朱実は涙がこぼれ、つぶやいた。
「……武蔵様に会っても?」
五条大橋のたもとに武蔵が来て、また本位田又八を待つ――正月の朝を朱実がどれほど心待ちにしていたかは、誰にも分からないだろう。
「あの人が、なんだか好きだ……」
そう思い始めてから、どんな都会の男性を見ても、朱実の心は動かなかった。特に、養母のお甲と戯れていた又八と比べると、武蔵への想いはますます深まっていった。
思慕の感情を糸にたとえるなら、恋心は胸の中でその糸を巻き続け、鞠のように大きくなっていく。何年も会わなくても、遠い記憶や噂話を糸にして、彼女の恋はひたすら膨らんでいった。
昨日までは、朱実もそんな純粋な想いを胸に抱いていた。――だが今は、その心が砕け散ったように感じている。
誰もそのことを知るはずはないのに、まるで世間の目が変わったような気がしてならない。
「おい、そこの娘! 帯がほどけて引きずってるぞ!」
と、誰かに声をかけられた。朱実は薄暗くなり始めた五条に近い寺町の通りで、冬の蝶のように寒々と歩いている自分の影を見つめ、ふとその声の主を見やった。
「結んでやろうか?」
声の主は、身なりこそ冴えないが、腰に二本の刀を差している牢人だった。朱実は初めて見る男だったが、その男――赤壁八十馬と名乗る者は、盛り場や裏通りをぶらついているだけのならず者のようだ。すり切れたわら草履を音立てて、朱実の後ろに寄ってきた。
「まさか、お前さんは狂女じゃあるまいな……美しい顔をしているのに、そんなだらしない姿で歩いてたら、笑われるぜ。もう少し、どうにかしたらどうだ?」
朱実の帯の端を拾い上げ、男は軽く笑った。
朱実は、黙って歩いていた。赤壁八十馬が後ろから声をかけてくるのが、どうにも鬱陶しかった。彼女は耳を貸す気もなく、ただ前を見つめ続けた。しかし、八十馬はそれを若い女のはにかみだと勝手に解釈し、さらに言葉を続ける。
「おい、娘さん。都の人間みたいだが、家出でもしたのか? それとも、主人の家から逃げてきたのか?」
「…………」
「おいおい、気をつけろよ。お前みたいな美人が、そんな物思いにふけった顔で都をうろうろしていたら危ないぞ。羅生門や大江山はなくなったが、今の都にはそれ以上に危険な連中がいる。女を見るなり喉を鳴らす野武士、浮浪人、そして人買いだってな……」
「…………」
朱実は一言も返さなかったが、八十馬は気にすることなく、まるで自分自身に話しかけるように言葉を紡ぎ続けた。
「まったく、この頃は江戸に京の女がどんどん売られているって話だ。昔、奥州の平泉に藤原三代の都が栄えたころも、京の女がたくさん奥州に売られていったもんだが、今はその行き先が江戸になっているらしい。二代目将軍秀忠が江戸を開府するために、一生懸命だからな。――だから、京女が次々と江戸に売られ、角町や伏見町、境町、住吉町ってな色街が江戸にできているんだ」
「…………」
「お前さんみたいな美人は、すぐ目に留まるからな。売られたり、野武士に絡まれたりしないように、気をつけるんだぜ。物騒な世の中だからな」
「……叱っ!」
朱実は突然、犬を追い払うように袂を振り上げて、八十馬を睨みつけた。
「――叱っ、叱っ!」
八十馬はげらげらと笑いながら、
「おいおい、こいつは本当に気でも触れたか?」
「うるさい!」
「……そうでもないのか?」
「お馬鹿!」
「なんだと?」
「お前こそ気狂いだ!」
「ハハハハ、こりゃあ本当に間違いなしのキ印だ。かわいそうに」
「大きなお世話だ!」
朱実はぷいっと顔をそむけて、
「石をぶつけるよ!」
と捨て台詞を吐く。八十馬はそれでも離れない。
「おい、娘さん、待ちなよ!」
「知らない、犬、犬!」
朱実は本気で怖かったのだ。彼を罵り、手を振り払って、走り出した。彼女は小松殿の館跡と言われる草むらを泳ぐように駆け抜ける。
「おーい、娘さん!」
八十馬はまるで猟犬のようにその後を追った。夕焼けが鬼女の裂けた口のように空に浮かび、鳥部ノ山のあたりにかかっていた。陽が落ちかけて、この辺りには人通りもほとんどなかった。ただ、少し離れたところに、野辺の送りから帰ってくる一群の人影が見えたが、朱実の悲鳴を聞いても、彼女を助けに駆け寄る者はいなかった。――彼らは皆、白い裃を着て、白い緒の編笠をかぶり、数珠を手にしていた。まだ、涙が乾かないまま、ゆっくりと歩いていたのだから。
朱実は背中をどんと突き飛ばされ、勢いよく萱の中に倒れ込んだ。
「おっと、悪い悪いな」
八十馬はふざけたように謝りながら、朱実に覆いかぶさる。
「痛かったか?」
そう言いながら彼女を抱きすくめるが、朱実は反射的に彼の髭面を平手で打った。ピシャッ、ピシャッ、と二度、三度。だが、八十馬は全く意に介さない。それどころか、彼はその平手打ちを楽しむかのように、目を細めている。執拗に彼女を抱きしめ、頬をこすりつけてくる。それはまるで無数の針が刺さるように痛み、朱実は息もできないほどに苦しんだ。
朱実は必死で爪を立て、八十馬の鼻の穴を引っ掻いた。鼻からは血が噴き出し、彼の顔はまるで獅子頭のように赤く染まった。しかし、彼は手を離そうとしない。
鳥部ノ山の阿弥陀堂から、夕暮れの鐘が響き渡り、諸行無常を告げているが、こんな状況では、その静かな梵音も馬の耳に念仏に過ぎない。枯れ萱が大きく波立つ中、二人の姿は沈んでいく。
「おとなしくしな」
「…………」
「怖がることはない」
「…………」
「おれの女にしてやるよ。――嫌じゃないだろ?」
「……死にたいッ!」
朱実は痛ましげに叫んだ。その声のあまりの悲痛さに、八十馬も思わず驚く。
「えっ?」
朱実は手と膝、そして胸を固く閉ざし、まるで山茶花の蕾のように体を丸めていた。八十馬はこの強固な抵抗をどうにか言葉で解こうと試みる。この男は、どうやらこうした状況を楽しむ悪趣味を持ち、経験も豊富なようだ。彼は、目の前の獲物を嬲るかのように、気長に楽しんでいる。
「泣くことないじゃないか。何も怖がることはないんだ」
八十馬は朱実の耳元に唇を寄せて囁く。
「お前、男を知らないってわけじゃないだろ? もうそんな年頃なんだから……」
朱実はその言葉に、吉岡清十郎を思い出した。あの時の苦しさが蘇ってきたが、今の彼女の心には、以前ほどの動揺はなかった。あの時の恐怖とは違い、今は少しばかりの冷静さがあった。
「待ってくださいッ!」
朱実はカタツムリのように体を丸めながら叫んだ。それは無意識のうちに出た言葉だったが、体が火のように熱く感じられ、その熱を八十馬は病気のせいだとは思わなかった。
「待ってくれって? よし、待ってやるとも……だが、逃げようとしたら容赦しないぞ」
「ちっ!」
朱実は肩を振り払い、八十馬の執拗な手をようやく退けた。そして彼の顔を睨みつけ、立ち上がりながら言った。
「――何するつもりよ!」
「お前もわかってるだろ?」
「女を馬鹿にしないで! 私にも、女としての誇りがあるんだから!」
朱実は唇をかみしめ、血が滲んだ。その涙がぽろぽろと流れ、血と一緒に白い頤を伝った。
「ほう……いいこと言うじゃないか。どうやらただの気狂い女じゃないようだな」
「当たり前よ!」
朱実は八十馬の胸を突き飛ばし、そのまま萱の波の中に転がり出た。そして叫んだ。
「人殺し! 人殺しィッ!」
その時の精神状態から見れば、朱実よりも八十馬の方が、完全に狂人のようだった。一時的なものではあるが、彼はすっかり理性を失い、人間らしさをかなぐり捨て、情欲に駆られた獣のように変貌していた。
――助けて!
青白い宵月の光の下、朱実はほんの十間も走らないうちに、八十馬に追いつかれ、噛みつかれたように押し倒された。彼女の白い脛は無残にも闘いの中で傷つき、自分の黒髪を顔に巻きつけるようにして、頬を地面に押しつけられた。
春が近いとはいえ、山から吹き降ろしてくる風は凍えるような冷たさで、冬の野を霜で覆い尽くさんばかりだった。朱実の白い胸と乳房は無防備に晒され、八十馬の目にはそれが炎のように映った。
しかし、突然、八十馬の耳元に「ゴツン!」と堅いものがぶつかる音がした。
その瞬間、彼の体内の血液が一斉に流れを止め、打撃を受けた場所に集まった。神経はまるで火が噴いたかのように反応し、八十馬は悲鳴を上げた。
「――痛っ!」
彼は驚きながら後ろを振り返ったが、その瞬間、再び「この馬鹿者め!」という声が響き、空を切って尺八が彼の脳天に振り下ろされた。
今回の一撃は痛みすら感じる暇がなかった。八十馬の体はへなへなと崩れ、まるで張り子の虎のように首を左右に揺らしながら、そのまま倒れ込んだ。
「たわいもないものだな」
そう言いながら、尺八を手に持つ虚無僧が、倒れた八十馬の顔を覗き込んでいた。八十馬は大きく口を開け、気絶している。虚無僧は、二度も脳天を打ったことで、気がついたとしてもこの男が痴呆になってしまうのではないかと考え、ひょっとして、殺すよりもひどいことをしてしまったのではと自らの行いを顧みていた。
朱実は、その虚無僧を茫然と見つめていた。彼の鼻の下には薄く髭が生えており、手に持つ尺八から虚無僧とわかるが、うす汚れた着物に、一本の太刀を帯びたその姿は、乞食とも侍ともつかない風貌の五十代の男だった。
「もう大丈夫だ」
青木丹左衛門は、そう言って大きな前歯を見せながら笑った。
「――もう安心していいぞ」
朱実はようやく我に返り、「ありがとうございました」と震える声で感謝の言葉を口にした。彼女は乱れた髪と着物を直しながら、怯えた目で周囲を見回した。
「どこから来たのだ?」
「家ですか……家は……家は……」
朱実は突然すすり泣き始め、両手で顔を覆った。
彼女は尋ねられたことに正直に答えることができなかった。半分は嘘をつき、半分は本当のことを話し、そして再び泣き続けた。
養母のお甲が自分の体を金に換えようとしたこと、住吉から逃げてここまで来たこと――その程度のことは話せたが、それ以上は言葉にならなかった。
「もう家には戻りたくないんです……ずっと我慢してきたんです。恥ずかしいことを言えば、小さい頃には戦の後の死体から盗みをさせられたこともあるんです」
朱実は、吉岡清十郎への憎しみ以上に、赤壁八十馬よりも、養母のお甲への憎しみを強く感じた。急にその憎しみが込み上げ、彼女は再び両手で顔を覆いながら泣き崩れた。




