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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
火の巻
40/165

旧約

 海鳴りと松の風が吹きつける薄暗い部屋の中で、朱実あけみはうつらうつらと昏睡状態に陥っていた。枕を当てられると、急に熱が上がり、うわごとを繰り返している。


 清十郎は、まるで凍りついたような顔でそのそばに座り込んでいた。自分が踏みにじった花のような朱実の苦しみに、彼自身の良心が痛むのを感じている。暴力的に奪い去った彼女の純潔を餌にして満足感を得たのも、他ならぬこの吉岡清十郎。しかし、今こうして彼女の呼吸や脈拍を心配し、罪悪感に苛まれながら座っているのも同じ清十郎だ。


「朱実…落ち着いてくれ。おれだけじゃない、男ってのは大体こんなもんなんだ。今は分からなくても、いつかおれの気持ちが理解できる日が来る…」


 自分に言い聞かせるように、清十郎は朱実の耳元で呟き続けた。


 部屋はまるで墨を流したように陰鬱で、朱実の白い手が布団の外に何度もはみ出してくる。清十郎が布団をかけ直してやると、彼女はそれを嫌がるかのように払いのけた。


「今日は何日?」

「え?」

「お正月まで、あと何日?」

「もうすぐだ。正月までには治るよ。元日には一緒に京都へ帰ろう」


 清十郎がそっと顔を寄せると、突然、朱実は叫びながら彼の顔を平手打ちした。


「嫌ッ!」

「…………」

「獣、けだもの!」

「…………」

「お前なんか見るのも嫌!」

「朱実…許してくれ」

「うるさい、うるさい、うるさいっ!」


 必死に手を振り回し、闇をかき回す朱実。その狂おしい姿に、清十郎は苦しそうに息を飲んで見つめるしかなかった。


 やがて彼女が少し落ち着いたかと思うと、再びうわごとを口にした。


「今日は何日?」

「…………」

「お正月はまだ?」

「…………」

「元日の朝から七草の日まで、毎朝五条の橋へ行くって…武蔵様からの言伝があったのよ。早く京都へ帰りたい、五条の橋へ行けば武蔵様がいる…」


「え、武蔵?」

「…………」

「武蔵って、あの宮本武蔵のことか?」


 驚いて清十郎が顔を近づけると、朱実はもう返事をしなかった。青白い瞼を閉じ、深い眠りに落ちている。


 外では、風が吹き、松の枯れ葉が障子を叩く音が聞こえる。その時、馬のいななきが遠くで響き、障子越しに灯火が映った。やがて旅舎の女将が一人の客を案内してくる気配がした。


「若先生、こちらですか?」



「おい、誰だ? 清十はここにいるが」

 慌てて襖を閉め、何事もないような顔を作っていると、

「植田良平でございます」

 埃を被った旅装束の男が障子を開け、その端に腰掛けた。

「ああ、植田か」

 清十郎は、彼がなぜここに来たのかをまず疑った。植田良平とは、祇園藤次、南保余一兵衛、御池十郎左衛、太田黒兵助などとともに、吉岡道場の古参の弟子であり、吉岡の十剣と自称する高弟の一人だった。


 今回の小旅行には、当然、こうした信頼のおける弟子たちは連れてきていない。植田良平も四条道場に残っていたはずだ。それが今、騎馬装束でここにいるということは、何か急を要することがあったに違いない。留守中のことは気がかりではあるが、わざわざ良平が馬を飛ばして来るほどのことは、年末に迫った負債の話などではないだろう。


「何だ? おれの留守中に何かあったのか?」

「若先生にもすぐにお戻りいただかなければならない事態が発生しましたので、このままお伝えいたします」

「む…」

「実は…」


 植田良平は懐に手を入れ、何かを探しているようだった。

 その時、襖越しに――


「嫌ぁッ――畜生ッ――あっちへ行けッ!」


 朱実の叫びが響いた。うつらうつらしている中で、昼間の悪夢にまだ脅かされているのだろう。彼女の声はうわごととも思えないほど、怨みがこもっていた。


 良平は驚いて、

「あっ…何ですか、あれは」

「いや…朱実が…ここに来てから体調を崩してな。熱のせいか、時々うわごとを言うんだ」

「朱実…ですか」

「それよりも、急用の方が気になる。早く聞かせてくれ」

「こちらです」


 腹帯の奥から取り出した一通の書状を、植田良平は差し出した。

 旅舎の女が置いていった燭台を、彼は清十郎の方へと寄せた。


 何気なく目を通すと、

「あっ…武蔵からのものか」

 良平は力強くうなずき、

「そうです!」

「もう開けたのか?」

「急ぎの書状とありましたので、留守を預かる者たちで相談し、一読しました」

「な、なんと書いてあった?」


 清十郎はすぐにはその書状を手に取れなかった。武蔵のことは常に心に引っかかってはいたが、まさか二度と彼から連絡が来ることはないだろうと高をくくっていた。だが、その思いが今、打ち砕かれたのだ。全身が冷たくなり、肌が粟立つのを感じた。清十郎はしばらくその書状をただ見つめるしかなかった。


 良平は唇を噛みしめ、怒りを隠さずに言った。

「ついにやって来ました。この春、あれほど大言壮語して去ったものの、もう二度と京都には足を踏み入れないと思っていたのに…よくもまあ、こんな慢心を。約束通りとはいえ…ご覧ください、宛名は『吉岡清十郎殿並びに御一門』と堂々たるもの。送り主は『新免宮本武蔵』とただ一人で、この果たし状を叩きつけてきたのです!」



 武蔵むさしが今どこにいるのか、その居場所までは書かれていなかった。だから、その書面から居所を特定することはできない。しかし、こうして吉岡一門に対して約束の履行を求めてきた以上、もう吉岡家と武蔵の間は、戦いが避けられない状態に突入したと言っていいだろう。


 この果し合い――それは命を懸けた一騎打ちだ。単なる試合ではない。侍としての剣と名誉を賭け、命を奪うか奪われるかの究極の勝負なのだ。お遊びではなく、魂そのものを賭ける戦いである。


 今の清十郎せいじゅうろうがそのことに気づかないでいるのは非常に危険だ。この状況で、のんびりと時を過ごしている場合ではない。吉岡道場の弟子たちの中には、清十郎の最近の行動に不満を募らせる者もいて、

「このままでは名誉が地に落ちる!」

 と激怒する者もいれば、

「剣の道を極めた拳法先生ならば…」

 と涙をこらえ、武者修行者から受けた侮辱に歯噛みする者もいた。


 そこで、彼らの意見をまとめ、植田良平うえだ りょうへいが急ぎ馬を飛ばしてここまでやって来たのだ。だが、肝心の武蔵からの書状を前にして、清十郎はそれをただ膝の上に置き、なかなか読むことができないでいた。


「とにかく、一度ご覧ください」

 良平が少し焦り気味に言うと、

「む…これか」

 清十郎はようやく手に取り、読み始めた。


 読み進めるにつれて、彼の指先がかすかに震えているのがわかった。――だが、それは武蔵の書いた言葉や内容があまりに過激だからではなかった。むしろ、今の清十郎自身が、心の底でかつてないほど弱り切っていることが問題だった。襖越しに聞こえる朱実あけみのうわごとが、かつての清十郎の侍としての心構えを完全に揺るがしていたのだ。


 武蔵からの書状には、こう書かれていた――


「以来 御健在なりや

 約に依って、ここに書を呈す。

 貴剣きけんさだめし御鍛養ごたんようと存ぜられ候。

 貧生ひんしょうまた些か鍛腕たんわんして罷りあり候。

 御見ぎょけんに入る場所は何処いずこ、日はいずれ、時は如何に。

 当方構えて望みなし、ただ尊示に従って旧約の勝敗を決せんと存ずるあるのみ。

 はばかりながら、正月中七日までの間、五条橋畔ごじょうばしはんにて、御返答高札くださるべく候。

 月 日

 新免宮本武蔵政名」


「すぐ帰る」

 清十郎は書状を懐にしまい、立ち上がった。――複雑な感情が胸の内で絡まり合い、もうじっとしていられなくなっていた。


 彼は慌ただしく旅舎の者を呼び出し、金を渡して、朱実の世話を頼むことにした。旅舎の者は少し迷惑そうな顔をしたが、断るわけにもいかず、しぶしぶ承諾した。

「この家も、この嫌な夜も、早く抜け出してしまいたい」

 清十郎の頭の中はその思いでいっぱいだった。


「そちの馬を借りるぞ」

 慌ただしい準備が整い、清十郎は馬に鞍をかけると、逃げるようにその背に飛び乗った。植田良平も後を追い、暗い住吉の並木道を駆け抜けていった。

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