無常
「ほら見て、権叔父!」
「おお、何じゃ?」
「疲れてないのか、お前?」
「さすがにちょっと体がだるくなってきたな。」
「そりゃそうだろうね。この婆も今日はさすがに歩き疲れたわ。でも、さすがは住吉の社ね。見事なもんだ。…ほら、これが若宮八幡の秘木って言われてる橘の樹かね。」
「そのようだな。」
「神功皇后さまが三韓へ遠征した時に、八十艘の献上品のうちの一つがこれだって言い伝えがあるんだよ。」
「婆さんよ、あそこの神馬小屋にいる馬、いい馬だぞ。加茂の競馬に出したら、一番になるんじゃないか?」
「むむ、月毛の馬か。」
「なんか立て札があるな。」
「この飼料のお豆を煎じて飲むと、夜泣きや歯ぎしりが止まるって書いてあるぞ。権叔父、飲んでみたらどうだ?」
「馬鹿なことを言うんじゃない!」
二人で笑いながら辺りを見渡す。
「ところで、又八はどこ行った?」
「本当に、どこへ行ったんだろうね?」
「やあやあ、あそこだ。神楽殿の下で足を休めているじゃないか。」
「またようっ! またようっ!」と婆は手を振って叫んだ。
「そっちに行くと、元の大鳥居の方に出るだろうが、高燈籠の方へ行くんだよ!」と呼びかける。
又八は重い足取りでゆっくり歩いてきた。この婆と爺を連れて、毎日こうして歩いてばかりいるのは、彼にとってかなりのストレスのようだ。もしこれが五日や十日ほどの観光ならまだしも、宮本武蔵という宿敵と会って決着をつけるまでの長い旅路だと考えると、憂鬱にならざるを得ない。
三人一緒に歩いていても無駄だと感じ、別々に行動しようと提案したことがあるが、
「もうすぐ正月だし、久しぶりに母子一緒に屠蘇を酌み交わす機会だよ。いつ何があってもおかしくないんだし、せめて今年の正月だけでも一緒に過ごそうじゃないか」と母が言うので、又八はそれを無下に断ることができなかった。元日か二日が過ぎたら、別れるつもりでいるが、婆も爺も仏心が芽生えたのか、神社仏閣に参るたびに長々とお賽銭を投げたり、祈願をしてばかりいる。今日もこの住吉の社に一日を費やしそうだ。
「早く来いよ!」と婆は、重い足取りで近づいてくる又八に対して焦れた様子で言った。
「勝手なことばかり言ってら!」と又八は返事しながら、足を早めることはない。
「人を待たせるときは平気で待たせるくせに!」とまた嫌味を言う。
「何を言ってるんだ、この息子は! 神さまの前に来たら、手を合わせるのが当たり前だろう! お前、神にも仏にも手を合わせたことがないが、そんな態度では先が思いやられるぞ!」と婆は叱る。
「うるせぇな」と、又八は横を向きながら小さく呟いた。
それを聞き咎めた婆がすかさず、「何がうるさいってんだ!」と怒鳴り返す。
最初の二、三日は母子の愛情も蜜のように濃かったが、時間が経つにつれて、又八がしょっちゅう反抗したり、老母を小馬鹿にしたりするようになっていた。それが続いているせいか、旅籠に戻ると、婆は毎晩のように又八を前にして説教を始めるのだった。
今回もまた、ここで説教が始まりそうな雰囲気になり、権叔父はそれを察して、「ま、ま、ま、ま、落ち着いて」と二人をなだめ、歩み出した。
「まったく困った母子だな」と権叔父は思った。どうにかして隠居のお杉の機嫌を直し、また又八のふくれた顔をなだめたいと、両方に気を使いながら歩いていた。
「おお、いい匂いがすると思ったら、あそこだ。磯茶屋で焼き蛤を焼いてるぞ。婆さん、一杯やろうじゃないか」と、高燈籠の近くにある海辺の葭簀茶屋に目をつけて言った。
権叔父は気乗りしない様子の二人を誘い、「酒はあるか」と先に茶屋に入った。そして、二人に声をかける。
「さあ、又八も機嫌を直せ。婆さんも少し静かにしてくれ。」
だが、お杉は杯を前にして、「飲みたくない」と言って、そっぽを向いた。
権叔父は仕方なく、その杯を「じゃあ、又八に」と手渡した。
むっつりとした顔つきで、又八は一気に二、三杯を飲み干す。それを見たお杉は、当然のことながら気に入らない。
「おい、もう一本頼むぞ」と、権叔父を置いて又八が四杯目を求めた。
「いい加減にしろ!」とお杉が叱る。「遊山や酒を飲むための旅じゃないだろう。権叔父も、いい歳して又八と同じように、年甲斐もなく。」
きつく言い放たれた権叔父は、まるで自分が独りで飲んでいたように赤くなり、顔のやり場を失って、照れ隠しに自分の手を撫で回しながら「そうだ、ほんとにそうだな…」と、のそのそと軒先へ出て行った。
その後で、ついに始まってしまった。お杉隠居による、又八への諄々たる説教だ。この激しくも脆い母の愛情は、一度火がつくと止まらない。宿屋に帰るまで待てず、周囲の人がいようがいまいが気にしない。
又八はそれに対して、むっとした顔で反抗の目を向け、睨み返していた。そして、言いたいことを言わせておいてから、
「おふくろ」と、今度は又八が口を開いた。
「じゃあ、俺って奴は、おふくろにとって結局、意気地なしの腰抜けで、親不孝者ってことなんだな?」
「そうじゃろうが。今日までお前がやってきたことに、どこに意気地のあるところがあった?」と、お杉は厳しい口調で答える。
「俺だってそんなに見くびられるような奴じゃない。おふくろなんかにわかるものか。」
「わからいでか。子供のことを親ほど見抜ける者はいない。お前みたいな子を持ったのが、本位田家の不作というものだ。」
「黙って見てろ。俺はまだ若いんだぞ。婆あめ、後で後悔することになるぞ。」
「その後悔ならしてみたいもんだ。だが、百年待ってもそんな日は来まい。」
「そんな嘆かわしい子なら持ってても仕方がないな。俺から離れてやる!」
憤然と、又八は立ち上がり、大股でその場を去ろうとする。
「こ、これっ!」と、震え声でお杉が呼び止めようとするが、又八は振り返らない。――止めるべき権叔父も、何をのんきに海の方を見ているのか、大きな目をじっと海に向けたまま動かない。
お杉は再び腰を下ろしながら、「権叔父! 止めるんじゃない! 止めるでないぞ!」と叫んだ。
「婆さん!」
権叔父は呼びかけて振り向いたが、その言葉は隠居のお杉の期待とはまるで違っていた。
「あの女、なんか様子が変だ…ちょっと待ってくれ!」
そう言うが早いか、権叔父は、蛤茶屋の軒先に笠を投げ捨てると、まるで弦から放たれた矢のように海に向かって駆け出していった。
「阿呆っ、どこへ行くんじゃ! 今はそんなことしてる場合じゃない! 又八が…!」
お杉隠居は驚き、権叔父を追いかけて十間ほど走ったが、磯の藻草に足を取られ、勢いよく前へ転んでしまった。
「ば、ばかっ!」
砂だらけになった顔と肩を払いながら、隠居は這い上がる。そして怒り心頭に発した表情で、権叔父の姿を探す。その時、隠居の目が驚愕で大きく見開かれた。
「馬鹿っ、馬鹿っ! 気が狂ったか、どこへ行くんじゃ、権叔父っ!」
隠居は発狂したかのような形相で、権叔父が駆け出していった海に向かって、自分も駆け出した。
――見ると、権叔父はすでに海に入っていた。このあたりは遠浅なので、まだ水は脛までしか浸かっていないが、夢中で沖へと進んでいく。その飛沫は彼の姿を包み、真っ白に煙っていた。
だが、権叔父の前にももう一人、若い女がものすごい勢いで海へ駆け込んでいるではないか。権叔父がその女を初めて見つけた時、彼女は松原の陰に佇み、じっと海の青さを見つめていた。だが、「あっ!」と思った時には、もう黒髪を乱しながら飛沫を蹴り、海へ一直線に駆けていったのだ。
この浦は先に述べた通り、五町六町沖まで潮が浅い。先に走る女の姿も、まだ脚の半分ほどしか水に浸かっていなかった。白い水煙を浴び、赤い袖裏や金糸の帯が光って見える。まるで、平敦盛が駒を沈めていくような光景だった。
「おい! 女っ! 待てっ!」
やっとのことで近づいた権叔父が叫んだその瞬間――そこから急に海底が深くなっていたのか、女は「ガボッ」と一声残し、大きな波紋の中へと消えた。
「なんて奴だ! やっぱり死ぬ気だったのか!」
権叔父も同時にずぶずぶと沈んでいき、全身が水に包まれていった。
岸では、お杉隠居が波打ち際を走り回っていた。一抹の水煙と共に、女の影も、権叔父の姿も消えると、
「あれっ、あれっ! 誰か、早く助けに行かないと、間に合わない! 二人とも死んでしまうわ!」
まるで他人事のように叫びながら、隠居は転んだり駆けたり、手を振り回したりして、まるで自分が溺れているかのように騒いでいた。
「心中か?」
「まさか……」
漁師たちは砂の上に並べられた二つの体を見て笑った。権叔父は、しっかりと若い女の帯を掴んでいたが、二人とも息がなかった。若い女の方は、髪が乱れてはいたが、化粧の白粉や口紅が浮き立ち、まるでまだ生きているかのように見えた。彼女の紫色になった唇は、少し笑っているようにも見える。
「おい、この女、見たことがあるぞ」
「さっき浜辺で貝殻を拾っていた女じゃないか」
「そうだ、あの宿屋に泊まっていた女だ」
知らせに行くまでもなかった。向こうから数人が駆け寄ってきて、その中には吉岡清十郎の姿もあった。清十郎は息を切らせながら駆けつけてきたが、二人を見て、すぐに朱実だと気づいた。
「おっ、朱実だ……」
彼は顔を真っ青にして、棒立ちになった。
「お侍さん、この女、お前の連れか?」
「そ、そうだ……」
「早く水を吐かせな!」
「た、助かるのか?」
「そんなこと言ってる暇はない!」
漁師たちは権叔父と朱実の体を分け合い、鳩尾を押したり、背を叩いたりして応急処置を始めた。朱実はすぐに息を吹き返し、清十郎は急いで宿屋の者たちに彼女を任せ、人目を避けるようにして旅舎へ戻って行った。
「権叔父よ……権叔父よっ……」
お杉隠居は、権叔父の耳元に顔を寄せ、泣きながら呼びかけていた。若い朱実は蘇生したが、権叔父は老体でもあり、さらに酒も入っていたため、完全に息を引き取ってしまったようだった。お杉隠居が何度も呼んでも、その眼は二度と開くことはなかった。
漁師たちも手を尽くしたが、
「この老人はもう駄目だ」
と、諦めの言葉を漏らした。
それを聞くと、隠居は涙を見せることなく、親切にしてくれる人々に向かって、
「何が駄目だというのじゃ! 一方の若い女が息を吹き返したのに、この者だけが生きないという法があろうか!」
そう言って、怒りに燃えるような形相で手当てをしている者たちを押し退け、
「この婆が活かしてみせるわ!」
と必死にあらゆる手当てを続けた。その一心不乱な様子は、見ていて涙ぐましいほどであったが、彼女はそこに居合わせた人々をまるで召使いのように扱い、
「押し方が悪い! それでは効果がない! 火を焚け! 薬を持ってこい!」
と次々に指示を飛ばす。これには浜の者たちも腹を立て、
「なんだ、このクソ婆」
「死んだ者と気絶した者は違うんだ。活かせるものなら活かしてみろ」
そう呟き合い、皆は次第にその場を去ってしまった。
浜辺にはもう夕暮れが迫り、沖には薄靄が立ち込め、橙色の雲がわずかに残る夕焼けを映していた。隠居はそれでも諦めることなく、権叔父を焚火のそばに抱き寄せ、
「おういっ、権叔父……権叔父……」
と呼び続けた。だが、燃やしても燃やしても、権叔父の体は一向に温まらなかった。隠居はそれでも、権叔父が突然息を吹き返して話し出すと信じて疑わないようだった。印籠の薬を噛んで口移しで与えたり、体を抱えて揺さぶったりしながら、
「もう一度、眼を開いてくだされ、何か言うてたもい……。これ、この婆を見捨てて先へ逝くという法があろうか……まだ武蔵も討たずに、お通阿女の成敗も果たしておらぬのに……」




