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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
火の巻
38/165

わすれ貝

 潮騒しおさいの中、夕闇が迫る木津川湊きづがわみなとの灯りは、赤く揺れていた。どこか魚のにおいが漂ってきて、陸が近いことを感じさせる。船から響く呼び声と、陸地でざわつく声が、次第に近づいてきた。


「どぼーん」と水音が響き、真っ白な水しぶきが舞った。いかりが投げ込まれたのだ。次に、船を繋ぐ綱が放たれ、渡り板が架けられる。


「柏屋でございますが!」 「住吉の社家しゃけの息子さまは、この船におられますか?」 「飛脚屋さんはいますか?」 「旦那様~!」


 迎えの提灯ちょうちんの群れが、灯りの波となって船へと押し寄せる。その人混みの中を、例の美少年が揉まれながら降りていく。肩には小猿を乗せている姿が目立ち、旅籠はたごの客引きが数人、声をかけてきた。


「もしもし、猿連れのお泊りなら、無料で結構ですから、うちにお越しになりませんか?」 「住吉の門前で、参詣にも便利な場所です。お部屋の眺めも最高で――」


 だが、美少年は一瞥もせず、知人が迎えに来ているわけでもないようで、そのまま湊から姿を消した。


 それを見ていた堺や大坂の商人たちは、不機嫌そうに口々に言った。


「あの生意気なやつ、兵法が少しできるからっていい気になってるんだ」 「船の中、ずっとあの若造のせいで雰囲気が悪かったよ」 「こっちが町人じゃなければ、ただで降ろすなんてことはさせなかったんだがな」 「まあまあ、侍には好きなだけ威張らせておけばいい。どうせ気が済むのはそれだけさ。わしら町人は、花をあげても実を食うって流儀だから、今日は仕方がない」


 そんなことを言いながら、荷物を抱えてぞろぞろと船を降りていった。


 祇園藤次は誰よりも遅れて、こっそりと船を降りた。顔には怒りと不満が溢れている。まげを切られた頭を隠すために頭巾ずきんをかぶっているが、眉も唇も、暗い陰を落としていた。


 その藤次を見つけ、女が声をかけた。


「もし、ここですよ、藤次さま!」


 女も頭巾をかぶり、寒さで顔はこわばっていた。白粉おしろいを塗っていても、年齢を隠せない皺が浮き出ている。


「お、お甲か……来ていたのか」 「来ていたのかって、迎えに来るように手紙を出したのはあなたでしょ」 「いや、間に合うかどうか心配だったんだ」 「何よ、ぼんやりして――」 「いや、ちょっと船酔いしたみたいだ……。とにかく、住吉へ行って宿を取ろう」


「ええ、駕籠かごも用意しておいたから」 「おお、ありがたい。宿も取ってくれたのか?」 「みなさんも待ちかねているでしょう」 「え?」


 意外そうな顔をする藤次。


「おいお甲、ちょっと待て。俺は、お前と二人でどこか静かな宿に二、三日ゆっくりしようって考えだったんだ。『皆様』って一体、誰のことを言ってるんだ?」



「乗らない! わしは駕籠かごなんかには乗らない!」


 祇園藤次ぎおん とうじは、迎えの駕籠を拒絶し、怒り心頭に発してお甲の前を歩いていた。お甲が何か言いかけても、


「ばかっ!」


 と一言で遮り、言わせない。藤次をここまで立腹させた原因の一つは、お甲から聞いた新しい事情だったが、それに加えて、船の中で鬱積していた不満が一気に爆発したことは否定できない。


「おれは一人で泊まる! 駕籠なんか追い返せ! なんだ、人の気も知らないで……ばか、ばかっ!」


 そう言い放って、藤次はたもとを振り払う。


 かわ沿いの雑魚ざこ市場はすっかり店を閉じていて、薄暗い長屋の戸口には魚のうろこが散らばり、貝のように光っていた。


 人影が少なくなってきたその場所で、お甲は藤次に抱きついた。


「やめてよ、見苦しいわ」


「離せ!」


「一人で泊まったら、あちらの連中が変なことを考えるわよ」


「どうにでもなれ!」


「そんなこと言わないで……」


 冷たい白粉おしろいの香りと髪の香りが藤次の頬に触れた。お甲のひんやりした頬がぴったりと張り付き、藤次は少しだけ旅の孤独感から救い出された。


「……お願いだから、落ち着いて」


「がっかりしたんだ……」


「そうでしょうけど、二人でゆっくりできる機会はまたあるわ」


「俺は、大阪で二、三日、二人きりで過ごせるのを楽しみにしていたんだぞ」


「分かってる、分かってるけど……」


「わかっているなら、どうして他の奴らを連れてきたんだ! 俺をそんなに大事に思ってないからだろう!」


 藤次が責め立てると、お甲は悲しそうな目でじっと見つめ、泣きたいような顔をした。


「そんなこと言わないで……」


 彼女の説明はこうだった。


 藤次の手紙を受け取ったとき、もちろん彼女も一人で大阪へ向かうつもりだった。しかし、運悪くその日に吉岡清十郎よしおか せいじゅうろう門人もんじん六、七名を連れて「よもぎの寮」に飲みに来ていた。そして、その場で朱実あけみの口から藤次の話が漏れてしまったらしい。


「藤次が大阪に着くなら、俺たちも迎えに行ってやろうじゃないか!」


 と清十郎が言い出し、取り巻きもそれに賛同し、さらには朱実にも行くように騒ぎ立てる事態になった。お甲は断りきれず、十人ほどの一行に混ざって住吉の旅館に泊まることになり、一同が遊んでいる間に一人で駕籠を使って迎えに来たのだという。


 聞けば事情は理解できるものの、藤次の不満は収まらなかった。今日は迷信でも信じたくなるほど、不愉快なことばかりが頭をよぎる。


 まず、おかに上がってすぐに清十郎たちに旅の経過を聞かれることが辛い。そして何よりも嫌なのは、この頭巾を取る瞬間である。


(何と言えばいい?)


 彼は、まげを失った頭がひどく気になっていた。侍としての誇りがある藤次にとって、人知れず恥をかくことは許せても、公然の恥は絶対に許せない。


「……仕方ない。住吉へ行こう、駕籠を連れてこい」


「やっと乗ってくれるのね!」


 お甲は嬉しそうに渡海場へ駆け戻っていった。



 その夕方、船で藤次を迎えに行くと言って出かけたお甲は、まだ戻ってこない。その間に、一緒に来た吉岡道場の一同は風呂に入り、旅館のどてらを羽織ってくつろぎ始めた。


「藤次とお甲が戻ってくるまで待つのもつまらんじゃないか」と誰かが言い出し、当然のように酒を飲んで待つことになった。


 最初のうちは、藤次が来るまでのつなぎとして酒を飲んでいたが、次第に膝を崩し、杯が乱れ始めると、もう藤次のことなど気にしなくなっていた。


「この住吉には、歌を歌う女はいないのか?」


「きれいなのを三、四人呼ぼうじゃないか。どうだ、みんな?」


 こうして酔いが回ると、次第に騒ぎが大きくなっていく。「やめておけ、つまらん」と制止する者は一人もいなかった。ただ、吉岡清十郎の顔色を多少気にしていたが、ある者が言い出した。


「若先生には、朱実が側にいるから、別の部屋に移ってもらおうじゃないか」


 清十郎はそんな横着な門人たちを苦笑しながらも、それが好ましかった。炬燵こたつのある部屋で朱実と二人きりで過ごす方が、この騒がしい一同と一緒にいるよりも、はるかに心地よいと感じていた。


「さあ、これからが本番だ!」


 門人たちは、清十郎が席を外した後、気兼ねなく騒ぎ出した。そしてしばらくすると、住吉名物の怪しげな唄を歌う女たちが笛や三味線を手に現れた。


「いったい、あんたたちは喧嘩するつもりかい? それとも酒を飲むのかい?」


 すでにかなり酔っていた一人が答えた。


「馬鹿言うな。金を払って喧嘩をする奴がいるか? お前たちを呼んだんだから、大いに飲んで遊ぶんだ!」


「じゃあ、もう少し静かにお酒を飲んだらどうかいな」


 手際よく女たちに扱われ、男たちは体勢を整え、ようやく宴が盛り上がり始めた頃、突然、小女がやってきて告げた。


「あの、お客様が船からお着きになりまして、ただ今、お連れ様と一緒にこちらへお越しになっています」


「何だって? 誰が来たって?」


「藤次と誰かだってさ」


「藤次か、冬至とうじじゃないのか?」


 お甲と祇園藤次は、呆れ顔で部屋の入り口に立っていた。誰一人として彼を待っていた様子はなく、藤次は一体何のためにこの年末に住吉までこの一行が来ているのかと疑った。お甲は自分を迎えに来たと言っていたが、誰一人迎える気配がないことに苛立ちを覚えた。


「おい、下女おんな!」


「はい」


「若先生はどこにいる? 若先生のいる部屋に行こう」


 藤次は廊下へ引き返しかけたが、その時、酔った門人の一人が立ち上がり、藤次に絡んできた。


「おい、先輩! 今戻ったのかよ? 一同待ってたんだぜ、お甲なんかと途中でよろしくやってるなんて、けしからんぞ!」


 酔っ払った門人は藤次に抱きつき、耐えられないような酒の臭いを放っていた。藤次が逃げようとしたが、酔っ払いは強引に藤次を座敷に引きずり込み、膳を踏みつけて一緒に倒れ込んでしまった。


「……あっ、頭巾が!」


 藤次は慌てて自分の頭巾に手をやったが、遅かった。酔っ払った門人が転んだ拍子に、藤次の頭巾が滑り落ちてしまったのだった。



「おや?」

 一座の目が一斉に藤次のまげのない頭に集中した。みんな奇妙なものを見るように驚いた顔をしている。


「頭をどうなさったのです?」

「ほう、これは変わった髪型ですな」

「一体どういうわけでござる?」


 無遠慮な視線が藤次に注がれ、彼は顔を真っ赤にして狼狽ろうばいし、急いで頭巾をかぶり直しながら言い訳をした。


「いや、ちょっと腫れ物ができたので……」


 だが、周りの連中は誰一人として信じる気配はなく、笑いが一気に広がった。


「わははは!」

「旅のお土産は、腫れ物とはね」

「腫れ物にふた」

「頭を隠して尻を隠さずってね」

「論より証拠だな」

「犬も歩けば――」


 次々と駄洒落だじゃれを飛ばしながら、誰も藤次の言い訳を真に受けない。その晩は、酒の力で何とかやり過ごしたものの、翌日になると態度が一変した。


 その一同は、旅館の裏手の浜辺に出て、天下の大事でも議論するように、肩を張り、唾を飛ばしながら、小松こまつが生えている砂浜に円になって座った。


「――その話、本当なのか?」

「この耳で聞いたんだ。俺が嘘を言うと思うのか?」

「まあ、そう怒るなよ。怒ったところでどうにもならんだろう」

「どうにもならんじゃすまん! 吉岡道場の名折れだ! これを黙って見過ごすわけにはいかん!」

「で、どうするつもりだ?」

「今からでも遅くはない。あの小猿を連れていた前髪の武者修行者を探し出す! 必ず見つけ出して、髷を切ってやる! それで藤次の恥も、吉岡道場の名誉も取り戻すのだ!――異議はあるか?」


 昨夜は酔っ払いでトラになっていた男が、今日は龍のごとく激昂している。その動機を探ると、こうだった。


 今朝、彼らが二日酔いを流そうと朝風呂に入っていたところ、堺の町人が船での出来事を話していた。小猿を連れた美少年が藤次の髷を切り落とした話が出ると、町人はその様子を面白そうに語り、手真似までしていた。


「なんでも、髷を切られた侍は、京都の吉岡道場の高弟だと言っていたが、あんなのが高弟じゃ、吉岡道場も情けないな!」


 町人のこの言葉を聞いた彼らの怒りが爆発したのだった。


 彼らは藤次を詰問しようとしたが、藤次は早朝に吉岡清十郎と話をした後、朝飯を食べ終わるとすぐにお甲とともに京都へ発ってしまったという。


 もはや、噂が事実であることは疑いようがない。腰抜けの先輩を追うのは愚かだが、代わりに美少年を捕まえて、吉岡道場の名誉を自分たちで取り戻してやろうという話になったのだ。


「――異議はあるか?」

「もちろん、ない!」

「では――」


 こうして、彼らは手筈を整え、袴の砂を払って立ち上がった。



 住吉すみよしの海岸は、まるで白い薔薇ばらつながれているかのように、穏やかな波が広がっていた。冬だとは思えないほど、磯の香が漂い、陽に煙っている。


 朱実あけみは、波打ち際で白いはぎを見せながら、貝殻を拾っては捨て、遊んでいた。そんな彼女の目の前で、吉岡よしおかの門人たちが、何やら慌ただしく各方向へ散っていくのを見て、朱実は不思議そうに首をかしげた。


「おや、何があったのかしら?」

 彼女は、波打ち際から立ち上がり、丸い目で門人たちを見送った。


 最後に駆けてきた門人が、彼女のすぐそばを通りかかると、朱実は声をかけた。

「どこへ行くんですか?」

 門人は足を止めて、

「おお、朱実か。おまえも一緒に探すか? 他の連中も手分けして探しに行ったんだよ」

 と、答えた。


「何を探しているんですか?」

「小猿を連れた前髪の若い侍さ」

「その人がどうしたんですか?」

「放っておけば、清十郎せいじゅうろう先生の名にも傷がつくからな」


 門人は祇園藤次ぎおんとうじの事件を話し始めたが、朱実は興味なさそうに答えた。

「皆さん、いつも喧嘩ばかり探してますね」

 たしなめるような口調だった。


「別に喧嘩が好きなわけじゃない。けど、そんな青二才あおにさいを黙って見逃せば、京流吉岡きょうりゅうよしおかの名折れだ」

「名折れになってもいいじゃないですか」

「ばかなことを言うな」

「男って、本当にくだらないことばかり探して、日々を無駄にしてるんですね」


「じゃあ、おまえはさっきから何を探してるんだ?」

 門人が聞くと、朱実は足元の砂に視線を落として答えた。

「わたしは貝殻を探しているの」


「貝殻? ……ほら見ろ、女のすることの方がよっぽどくだらない。貝殻なんて、星の数ほどこの浜辺に転がってるだろう?」

「わたしが探してるのは、そんなつまらない貝殻じゃないわ。わすれがいよ」

「わすれ貝? そんな貝があるわけないだろ」

「ほかの浜にはないけど、この住吉の海岸にはあるんですって」

「ないよ」

「あるのよ!」


 朱実はむきになって言い返し、門人の手を引いて、ほど近い松並木の下にある石碑を指差した。


 いとまあらば

 ひろひに行かむ住吉の

 きしに寄るてふ

 恋わすれ貝


 新勅撰集しんちょくせんしゅうにある古歌こかの一首がそこに刻まれていた。朱実は誇らしげに言った。

「どう? これでもないって言える?」


「それは伝説だよ。歌詠うたよみの作り話に過ぎないさ」

「住吉には、ほかにもわすれみずやわすれぐさなんてものもあるのよ」

「まぁ、あるとしておくけど、それが一体何の役に立つんだ?」

「わすれ貝をおびの中に隠しておくと、何でも忘れられるようになるんですって」

「それで、もっと忘れっぽくなりたいのか?」

「ええ、全部忘れてしまいたいの。忘れられないことがあるから、夜も眠れないし、昼間も苦しいのよ……だから探しているの。ねえ、あなたも一緒に探してくれない?」


「それどころじゃない!」

 門人は思い出したように足を向けて、どこかへ走り去ってしまった。



 ――忘れたい。


 朱実あけみは、苦しさに襲われるたびに、そう思わずにはいられなかった。だが、その一方で、心の中で別の声がささやく。


「忘れたくない……」


 朱実は、自分の胸を抱きしめ、そんな矛盾した感情の狭間に立っていた。もし本当に「わすれ貝」というものが存在するなら、彼女はそれを清十郎せいじゅうろうたもとにそっと忍ばせたいとさえ思っていた。そうして、自分という存在を彼から忘れてもらえたら――そう考えると、ため息が漏れた。


「執着が強すぎる……」


 ただ思うだけで、朱実の心はふさぎ込んでしまう。清十郎が、自分の青春を呪うかのように生きている気がして、心が重くなっていた。


 清十郎のしつこい求愛に気が滅入るたび、朱実はふと心の片隅で武蔵むさしのことを考える。武蔵が心にあることが、彼女にとっては救いでもあったが、同時に苦しみの種にもなっていた。それは、今の状況から抜け出して、夢の中へ逃げ出したくなる衝動をかき立てるからだ。


「……だけど?」


 彼女は何度もためらった。自分はここまで苦しみを抱えているが、武蔵の気持ちは分からなかった。彼が自分をどう思っているのかが見えないのだ。


「……いっそのこと、忘れてしまいたい」


 青い海は、彼女を誘うように輝いていた。朱実はじっと海を見つめ、自分の心に恐怖を感じた。今すぐにでも、ためらいなく海へ駆け込んでしまいそうな気がして、身震いする。


 こんなに深く苦しんでいることを、朱実の養母ははであるおおこうも、清十郎も知らない。彼らは朱実を快活で、お転婆てんばな娘だと思い込んでいる。それどころか、まだ恋愛を理解していない子供のように扱っているのだ。


 朱実はそんな周囲の人々を、心の中で赤の他人のように思っていた。表向きはどんな冗談でも言い、鈴のついたたもとを振りながら駄々っ子のように振る舞っているが、独りになると、熱い溜息をついていた。


「――お嬢さま、お嬢さま! さっきから先生がお呼びですよ。どこに行ったのかと、とてもご心配されています」


 宿の男が彼女を見つけ、息を切らして走ってきた。朱実が戻ってみると、清十郎は冬の冷たい風の音を閉じ込めた静かな座敷で、炬燵こたつの中に手を入れ、ぽつんとひとり座っていた。


 彼女を見るなり、清十郎は問いかける。


「どこに行っていたんだ、この寒い中で」

「まあ、お嫌ね。ちっとも寒くないわよ。浜には陽がいっぱい当たっているもの」

「何をしていたんだ?」

「貝殻を拾っていたの」

「まるで子どもみたいだな」

「だって、私はまだ子どもだもの」

「正月が来たら、いくつになると思うんだ?」

「何歳になっても子どもでいたいわ。それじゃダメ?」

「ダメだ。少しはおふくろのことも考えろ」

「お母さんなんて、私のことなんか考えてないわよ。自分がまだ若いと思ってるんだから」


「とにかく、炬燵に入れよ」

「炬燵なんて、逆上のぼせるから嫌いよ。私はまだ年寄りじゃないんだから」


 清十郎は、彼女の手首を掴み、膝に引き寄せる。

「今日は誰もいない。おふくろも、先に京都へ帰っていったし……」



 ふと清十郎の燃えるような眼を見て、朱実あけみは全身が硬直してしまった。


「…………」


 無意識に身を引こうとしたが、清十郎は彼女の手首をがっちりと握ったままだ。痛いほどに強く握りしめながら、彼は額に青筋を立てて低く言った。


「なぜ逃げる?」


「逃げてなんかいません」


「今日は皆いない。こういう機会は滅多にないんだ。分かっているだろう、朱実」


「何のことですか」


「そんなに刺々しくするな。もうお前と馴染んでから小一年になる。俺の気持ちは分かっているはずだ。おおこうだってとうに承知している。お前が俺に従わないのは、俺に腕がないからだとお甲は言っていた……だから今日は」


「ダメです!」

 突然、朱実は俯き、声を震わせて言った。


「――手を離してください、この手を、離して!」

「どうしても離せない」

「嫌、嫌、嫌です!」


 朱実の手首は捻じ切れそうに赤くなっていたが、清十郎は手を離さなかった。こういう場合に京八流きょうはちりゅうの兵法が応用されては、いかに朱実が抵抗しようと無駄だった。それに、今日の清十郎はいつもと少し違っていた。普段は酒に酔ってしつこく絡むことが多かったが、今日は酒気もなく、青白い顔をしていた。


「――朱実、おれをここまで意地にさせるのか? まだおれに恥をかかせるつもりか」


「知らない!」


 朱実はついに決心し、声を振り絞った。


「大きな声を出しますよ。離さないと、みんなを呼びますからね!」


「呼んでみろ……。この棟は母屋おもやから離れているし、誰も来るなと伝えてある」


「私は帰ります!」


「帰さない!」


「これは私の体です!」


「ば、ばかっ!……お前の養母に聞け。お前の体には、俺の手から身代金ほどの金が、お甲へ渡っているんだ」


「お母さんが私を売ったとしても、私は売られた覚えはありません! 死んだって、嫌な男なんかには!」


「なにっ!」


 突然、清十郎は炬燵こたつぶとんを朱実に押しかぶせた。朱実は、心臓が潰れそうな悲鳴を上げた。――いくら呼んでも、誰も助けに来なかった。


 薄陽が差し込む障子には、何事もなかったかのように松の影が映り、遠くの潮鳴りのように静かに揺れていた。外は、あくまでも静かな冬の日であった。どこからかチチ、チチと小鳥の声が聞こえていたが、それはこの無残な場面とは対照的なほど平和な音だった。


 ……しばらくして、障子の向こうからわっと号泣する朱実の声が漏れ聞こえた。


 ややしばらくして、清十郎が青白い顔をして障子を開け、外に姿を現した。彼は爪で引っ掻かれて血の滲んだ左手を抑えながら、痛みを我慢する様子を見せた。


 そしてその瞬間、朱実が障子を突き破るようにして外へ飛び出していった。


「あっ!」


 清十郎は驚いて体を伸ばし、手拭てぬぐいで手を巻きながら見送った――追いかける間もなく、朱実はまるで発狂したかのようなスピードで走り去っていった。


「…………」


 少し不安そうな顔をしたが、清十郎は追いかけなかった。朱実の影がやがて旅館の一室に駆け込み、庭の方から姿を消したのを見て、ほっと胸を撫で下ろすとともに、どこか満足げな笑みを浮かべていた。

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