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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
火の巻
37/165

美少年

 藍染めの紙が船の大部分の積み荷になっていた。他には、禁制品のタバコも船底に隠されているらしい。もちろん、秘密だが、その独特な匂いで何となくわかる。

 月に数回、阿波あわの国から大坂へ定期的に往来している便船。乗客は年の暮れに商用で大坂へ向かうか、大坂から戻る商人たちがほとんどだ。


「どうですか、儲かってますか?」

「いやぁ、全然ダメですよ。さかいは景気がいいって話もあるんですけどね」

鉄砲鍛冶かじが足りなくて困ってるって聞きましたけど」

 別の商人が話を続けた。

「俺は戦道具とか、旗差物はたさしもの具足ぐそくなんかを納めてるんですが、昔ほど儲からなくなってきましたよ」

「そうですか?」

「最近の侍は、昔よりもそろばんを弾けるようになったってことですかね」

「ハハァ、なるほど」

「昔は、野武士が戦場で手に入れた戦利品を、そのまま染め直したり、塗り直したりして、また戦場に納めるっていう、まあ言うなればリサイクルみたいなもんでしたからね。金銀の支払いも大体目分量みたいな感じで」


 船の上では、こんな商売の話が多く交わされていた。中には、

「今の内地じゃ、もう儲かることは期待できませんよ。呂宋るそん助左衛門とか、茶屋助次郎みたいに、リスクを取って海を渡らないと」

 なんて、外国へ行けば富が手に入ると夢見る者もいた。


 さらに別の者が、

「それでも、俺たち町人ちょうにんは侍に比べれば、まだ遥かに割の良い暮らしができてますよ。侍ってのは、飯の味もわからないし、大名が贅沢してると言っても、町人から見ればちょっと甘いくらい。いざという時には、鎧を着て戦に行かないといけないし、普段は面目や武士道に縛られて、好き勝手できないですからね」

 と嘲笑うように言った。


「そうなると、やっぱり景気が悪いとはいえ、町人の暮らしが一番ってことですかね」

「そりゃそうですとも。気楽に生きてるのが一番ですよ。頭を下げてりゃ、まあそれで済むんだから。気分が悪くなったら金で埋め合わせできるしね」

「この世を存分に楽しむのが一番ですな」

「そうそう、何のために生きてるかなんて言ってやりたい奴もいるけどね」


 この船に乗っている商人たちは、明らかに中以上の階層の者たちだった。舶載品の上に広げられた豪華な毛氈もうせんは、彼らの富を象徴しているようだ。


 中を覗くと、なるほど、今の大名たちの豪華さは、太閤の時代ほどではなく、町人たちの中に移っていることがわかる。酒器の豪華さ、旅の装いの絢爛さ、持ち物のこだわり――侍の千石取りですら、この贅沢には及ばない。


「ちょっと退屈だね」

「暇つぶしにやろうか?」

「やろうやろう。幕を張ってさ」


 こうして小袖幕の中に隠れると、彼らはめかけや手代に酒を注がせながら、南蛮船が最近日本に持ち込んだ「うんすん骨牌かるた」を始めるのだった。そこでやり取りされる一掴みの黄金があれば、一村の飢えた人々を救えるだろうというほどの額が、まるで冗談のように行き交っていた。


 こういった裕福な商人たちに比べ、船に乗り合わせている山伏や浪人者、儒者、坊主、武芸者たちはまるで別世界の住人のようだった。彼らは商人から見ると、

「いったい何のために生きてるんだ?」

 と、まるで意味がわからない存在のように思われている。荷物の陰に隠れるようにして、味気ない顔で冬の海を見つめていた。



 その、なんとも味気ない顔つきの人々の中に、一人だけ、少年が混じっていた。


「こら、じっとしてろ」

 荷物に体を預けながら、少年は膝の上に何か毛だらけの丸いものを抱えていた。彼の視線は、冬の海に向けられている。


「おや、小猿か。可愛いな」

 隣にいた男が覗き込み、そう声をかけた。


「よく懐いてるじゃないか」

「はい」

「長いこと飼っているのか?」

「いえ、ついこの間、土佐から阿波に越えてくる山中で」

「捕まえたのか?」

「ええ、ただ、その代わり親猿の群れに追いかけられて、ひどい目に遭いましたけどね」


 そんな会話をしながらも、少年は顔を上げることなく、小猿の毛の中に手を入れて、ノミを取っていた。前髪に紫の紐をかけ、派手な小袖と緋色の胴羽織を纏っているその姿は、少年と見えるものの、年齢を考えると「少年」と呼んでいいかは微妙なところだ。


 太閤たいこう張りという流行の煙管きせるがあったように、この派手な風俗も桃山時代の遺風だった。二十歳を超えても元服せず、二十五、六歳になっても、まだ童子髪を結い、金糸をかけて見栄を張る者がいる。だから、この少年も、その見た目だけで未成年者と断定することはできない。


 体つきも堂々としており、色白な肌に丹唇たんしん明眸めいぼうと、はっきりとした美しい顔立ち。だが、眉毛が濃く、眉の端が目尻から上に向かって跳ねている。その顔つきには、なかなか厳しい印象があった。


 しかし――

「じっとしてろ」

 少年は小猿の頭を軽く叩きながら、ノミを探し続けていた。そんな様子は、どこかあどけなさも感じさせる。年齢を細かく詮索する必要もないが、あれこれと考え合わせると、だいたい十九か二十歳くらいだろうと推測できる。


 さて、この美少年の身分だが、旅姿であることや、革足袋かわたびにわらじを履いていることからして、藩士ではなく、浪人のようだ。しかし、他の山伏や傀儡師くぐつし、乞食のような粗末な侍たちと違って、彼には立派なものが一つあった。それは、彼が背中に革紐かわひもで斜めに背負っている大太刀だった。反りがなく、まるで竿のように長い。


 この刀は大きく、見事な拵え(こしらえ)なので、少年のそばに寄った者たちは、すぐに目を引かれるのだった。


「――立派な刀を持っているな」

 少し離れたところにいた祇園ぎおん藤次も、その刀に見とれていた。

みやこでも、こんな刀はちょっと見られないぞ」

 そう思った。


 優れた刀を見ると、その持ち主の経歴までが思い浮かんでくる。祇園藤次も、この美少年に機会があれば、話しかけてみたいと考えていた。


 ――冬の昼霧が薄くかかる中、陽が当たっている淡路島が、船のともの向こうに、だんだんと遠ざかっていく。船上の百反帆が、まるで生き物のように潮風を切って音を立てていた。



 藤次とうじは、旅に飽き飽きしていた。

 退屈のあまり、生欠伸なまあくびが出る。――長く続いた旅に飽きた時ほど、周りの世界が他人事に感じるものはない。祇園ぎおん藤次も、そんな飽き飽きした旅を、もう十四日も続けてきた末に、この船に乗っていた。

「――飛脚ひきゃくが間に合っただろうか……間に合えば、大坂の船着場には迎えが来ているに違いない」

 そうつぶやいて、彼はふと、おおこうの顔を思い浮かべた。せめてもの慰めとして。

 かつて、室町将軍家の兵法所へいほうしょに出仕して、名誉も財産も手に入れていた吉岡家よしおかけだったが、清十郎せいじゅうろうの代になると、彼の放蕩ほうとうの生活がたたり、家の財産は傾き始めた。四条の道場まで抵当に入れてしまい、この年末には町人の手に取られるかもしれないという状況だった。

 年末が近づくにつれ、あちこちから借金の催促が来る。藤次が清十郎に相談された時には、その額はもうとんでもない数字に膨らんでおり、父が築き上げた拳法の遺産を全て差し出しても足りないほどにまで追い詰められていた。

(どうしたものか)

 清十郎はそう相談してきた。この若い先生を甘やかして散財させた責任の一部は、藤次自身にもある。

(任せてください。うまく整理してお見せしましょう)

 そう言って彼がひねり出した案が、西洞院にしのとういんの西の空き地に吉岡流兵法の振武閣しんぶかくを建てるというものだった――時代を見れば、武術はますます盛んになっており、諸大名たちも武術家を求めている。今こそ道場を拡大し、流祖の遺業を天下に広めるべきだ。それは我々弟子たちの義務でもある――そんな趣旨の書簡を清十郎に書かせ、それを持って藤次は中国、九州、四国の吉岡流拳法門下の者たちを歴訪してきたのだ。もちろん、振武閣建築の寄付を募るために。

 先代が育てた弟子たちは、各地の藩で侍として立派な地位を得ている者も多かった。

 しかし、そうした相手に寄付を求めても、藤次の期待通りに寄進してくれる者は少ない。

(いずれ書面で)

 とか、

(いずれ上洛の際に)

 などといって、現金を出してくれる者はほとんどいない。結局、藤次が持ち帰る金は、予定していた額のほんの一部に過ぎなかった。

 だが、それが自分の金ではないため、藤次は気にせずに、さっきから清十郎の顔よりも久しぶりに会うお甲の顔を思い浮かべて、気を紛らわせていた。それにも飽きてしまい、再び退屈な体に生欠伸が襲ってきた。船の上でどうにも持て余している。

 そんな時、藤次が羨ましく思ったのは、さっきから小猿ののみを取っている美少年だった。いい暇つぶしを持っているものだと感じた。藤次はとうとうその少年に話しかけることにした。

「お若いの、大坂まで行くのか?」

 小猿の頭を抑えながら、美少年は大きな目をじろりと藤次に向けた。

「はい、大坂に向かっています」

「ご家族が大坂にお住まいなのか?」

「いえ、特にそういうわけではありません」

「では、阿波あわのご出身か?」

「それも違います」

 この若衆わかしゅはつっけんどんである。そう答えると、また小猿の毛を掻き分けながら、無心に蚤を探していた。


 ちょっと話が途切れた。

 藤次とうじは一度黙ったが、すぐにまた口を開いた。

「いい刀を持っているな」

 今度は少年の背にある大太刀おおだちを褒めた。すると、美少年は急に膝を藤次の方へ向け、褒められたことが嬉しそうで、

「これは、家に代々伝わるものでして」

 と笑顔を見せながら話し出した。

「この刀は陣太刀じんだちなので、大坂おおさかの腕のいい刀匠とうしょうに預けて、差料さしりょうに作り直そうと思っているんです」

「差料にしては、少し長すぎないか?」

 藤次がそう尋ねると、少年は自信ありげに笑みを浮かべ、

三尺さんじゃくですから、これくらいは必要です」

「確かに長剣だな」

「このくらいの長さがなければ、私には合わないんです」

 美少年はそう言いながら、笑みを浮かべて藤次の方を見た。その表情は、まるで自信がみなぎっているかのようだった。

「確かに、三尺でも四尺でも差せるなら大したものだが、実際に使いこなすのは簡単なことではない」

 藤次は少年の自信満々の態度を少したしなめるように言った。

「大太刀をかんぬきに横たえて歩く姿は、見た目は格好いいが、逃げる時には刀を肩にかつぐようなやつもいる。――失礼だが、貴公きこうはどの流派を学ばれたのか?」

 剣術の話になると、自然と藤次はこのまだ若い少年を見下ろすような態度になった。

 美少年は一瞬、藤次の尊大な表情に鋭い目を向け、

富田流とだりゅうです」

 と答えた。

「富田流なら、小太刀こだちを使うはずだが」

「小太刀です。――けれども、富田流だからといって必ずしも小太刀を使わねばならないというわけではありません。私は人の真似が嫌いで、師匠とは逆の道を進んで大太刀を工夫したんです。そしたら、師匠に怒られて破門されました」

「若い頃は、そういう反骨心を誇りたがるものだ」

 藤次は少し冷ややかに言ったが、美少年は気にする様子もなく続けた。

「それで、越前えちぜん浄教寺村じょうきょうじむらを飛び出して、富田流を出た後に中条流ちゅうじょうりゅうを立てた鐘巻自斎かねまきじさいという先生の元を訪ねました。すると先生は『それは気の毒だ』と私を入門させてくださり、四年ほど修行して『もうよかろう』とまで言っていただけました」

「田舎の師匠というのは、簡単に目録や免許を出すからな」

「しかし、自斎先生は簡単には許しを出しませんでした。先生が印可を許したのは、私の兄弟子である伊藤弥五郎いとうやごろう一刀斎いっとうさいただ一人だと聞いています。――ですから、私も印可を何とかしていただこうと臥薪嘗胆がしんしょうたんの修行を続けていましたが、母が亡くなったとの報せが届き、功を半ばにして帰国することになりました」

「お国は?」

周防すおう岩国いわくにの出身です。――帰国後も毎日、練磨を怠らず、錦帯橋きんたいばしのほとりでつばめを斬り、柳を斬りながら独自に修行を続けていました。母が亡くなる際に、家に伝わる刀『長光ながみつ』を大切に持てと言われました」

「ほう、長光か」

「銘はありませんが、そう伝えられています。故郷では有名な刀で、『物干竿ものほしざお』という異名まであります」

 無口だと思っていた美少年は、好きな話題になると止まらなくなるようだった。自分の経歴や刀の話になると、相手がどう感じているかも気にせずに話し続ける。

 その様子からも、彼の姿に似合わぬ強い自己主張のある性格が伺えた。



 美少年はしばらく黙り、ひとみに雲の影を映しながら、何か物思いにふけっていた。

「――けれど、その鐘巻かねまき先生も、去年、天寿を全うして、ご病気で亡くなられました」

 彼は、まるで独り言のように呟き、

「私は、周防すおうにいるとき、同門の草薙天鬼くさなぎ てんきからその知らせを受け、師恩に感泣しました――草薙天鬼は私よりもずっと先輩で、師の自斎じさいとは叔父甥おいの間柄なのですが、その天鬼には印可を与えず、遠く離れた私を思ってくれて、生前に印可目録を書き遺して、一目会って手渡したいと仰ったそうです」

 美少年の目は潤み、今にも涙がこぼれそうだった。


 祇園藤次ぎおんとうじは、この感情豊かな美少年の話を聞いても、一緒に感傷に浸る気にはなれなかった。だが、退屈を紛らわせるには悪くないと考え、

「ふむ、なるほど」

 と、熱心に聞いているように装うと、美少年は鬱憤うっぷんを吐き出すように語り続けた。

「その時、すぐに師匠の元へ行けばよかったのです。けれども、私は周防にいて、師は上州じょうしゅうの山奥、何百里もの距離があります。その上、私の母もその前後に亡くなったため、結局、師の死に目に会うことはできませんでした」

 ――船が少し揺れ始めた。冬雲が日を隠すと、海は急に灰色に染まり、時折、船べりに波しぶきが寒々と立ち上がる。


 それでも美少年は話をやめなかった。彼の口調はますます感情豊かになっていく――彼の話を総合すると、彼は今、故郷の周防の家を畳み、師の甥であり同門の友である草薙天鬼とどこかで落ち合おうとしているらしい。

「師の自斎には身寄りがありませんでした。なので、甥の天鬼にはわずかな遺産を、そして、私には中条流ちゅうじょうりゅうの印可目録を遺してくれました。天鬼がそれを預かって、諸国を修行しているのですが、来年の彼岸ひがんの中日には、上州と周防のちょうど中間にあたる三河みかわ鳳来寺山ほうらいじさんで、互いに登り、対面する約束を文書で交わしているんです。そこで私は天鬼から師の形見を受け取ることになっているので、それまでは近畿をのんびり修行しながら見物して回ろうと思っています」

 ようやく話が終わると、美少年は藤次に向かって改めて尋ねた。

「あなたは大坂ですか?」

「いや、京都だ」

 それきり美少年は黙り、しばらく波の音に耳を傾けていたが、

「では、あなたも兵法で身を立てようと考えているのですか?」

 藤次は先ほどから少し軽蔑したような表情だったが、今もややうんざりした口調で言った。この時代、小生意気な兵法家たちが次々と出現し、すぐに「印可」だの「目録」だのを誇っているのが、藤次には小賢しく思えて仕方なかった。

(そんなに簡単に達人が増えてたまるものか。第一、俺だって吉岡家に二十年もいてようやくこの程度だというのに――)

 藤次は自分と美少年を比べて、

(こんな奴らが、将来どうやって飯を食っていくんだか)

 と思った。


 膝を抱えたまま灰色の海をじっと見つめていた美少年は、再び口を開いて、

「――京都ですか?」

 と、藤次の方を見つめ直した。

「京都には、吉岡拳法の後継者、吉岡清十郎よしおかせいじゅうろうという人物がいると聞いていますが、今でも健在なのでしょうか?」



 話が進むにつれ、美少年はどんどん口が滑らかになっていく。そんな様子を見て、藤次は美少年の前髪が妙に気に食わず、少々イラついていた。


 しかし、ふと冷静に考え直してみる。この美少年は、まだ自分が吉岡道場の高弟である祇園藤次だと知らない。もし知ったら、今までの大言壮語を恥じて驚くに違いない。そんな考えが藤次の中に浮かび、さらにからかいたくなった。


「――さて、四条の吉岡道場も、相変わらず盛況らしいが、そなたはあの道場を訪れたことがあるか?」


「京都に行ったら、一度は吉岡清十郎と立ち会ってみたいと思っていますが、まだ訪ねたことはありません」


「ふっ……」

 藤次は思わず笑いをこらえられなかった。顔を歪め、軽蔑をたっぷり込めて続ける。


「あそこへ行って、無事に帰ってこれる自信があるのか?」


「なんの!」

 美少年は即座に反論する。その強気な返事に、藤次はますます笑いがこみ上げた。


「大きな門構えだから世間では過大評価されているが、初代の拳法は確かに達人だっただろう。だが、現当主の清十郎も、その弟の伝七郎でんしちろうも、たいしたことはないらしい」


「だが、実際にぶつかってみなければわからんだろう」


「諸国の武芸者たちの噂だよ。もちろん、噂だからすべて真実とは限らない。だが、京流吉岡も、そろそろ終わりじゃないかとよく聞くね」


 このあたりで美少年に釘を刺したくなった藤次は、少しばかり名乗ってやろうかと思ったが、ここで名乗るのはまだ早いと考えた。大坂に着くまではまだ時間がある。


「なるほど、このごろは諸国にも天狗てんぐが多いからな。そういう評判もあるだろう。ところで、さっき言っていたな、郷里では毎日のように錦帯橋きんたいばしのほとりで燕を斬り、大太刀の使い方を工夫していたと」


「言いました」


「じゃあ、この船で時々飛んでくる海鳥を、その大太刀で斬り落とすことも容易だろうな」


「…………」

 美少年は、藤次が含んでいる悪意をようやく感じ取ったのか、一瞬、藤次の唇をじっと見つめた。やがて、静かに言った。


「できたとしても、そんなくだらないことはやらない――あなたはそれを私にやらせようというつもりなんだろう?」


「だが、京流吉岡を見下すほどの自信がある腕なら、それくらいできてもおかしくないだろう」


「吉岡をけなしたことが気に入らなかったようですね。あなたは吉岡の門人か、縁者か?」


「いや、ただの京都の人間だ。だから、京都の吉岡を悪く言われるのは面白くない」


「ははは、あくまで噂ですよ、私がそう言ったわけではない」


「若衆」

「なんです?」


「『生兵法なまびょうほう』という諺を知っているか? 忠告しておくが、世間を甘く見ると、出世はできんぞ。中条流の印可目録を持っているだの、燕を斬るだの、大太刀の工夫だのと言って、人を見くびるのはよせ。いいか、法螺ほらを吹くなら、相手を見て吹けよ」


 藤次の言葉には、いらだちと冷笑が交じり、若い美少年に対する軽蔑があふれていた。



「俺を法螺ほら吹き呼ばわりしたな」

 美少年が念を押すように藤次に詰め寄る。


「ああ、言ったが、それがどうした?」

 藤次は胸を反らしてわざと美少年に近づき、さらに挑発するように言った。


「お前の将来のために言ってやったんだ。若いやつの見栄も少しは愛嬌だが、度を越せば見苦しいぞ」


 美少年は黙っていたが、その沈黙がただの静寂でないことは、藤次にもわかっていた。


「最初から何を聞いても、ふむふむと頷いてばかりいたから、俺のことを舐めて駄法螺を吹き始めたのだろう。だがな、俺は吉岡清十郎の高弟、祇園藤次だ。このことを知った以上、これからは吉岡道場の悪評を広めるようなことは許さんぞ」


 周囲の船客たちが二人のやり取りを興味深そうに見守っている。藤次は自分の立場を明らかにし、その場の権威を強調しつつ、

「最近の若いやつは、まったく生意気で仕方がない」

 とつぶやきながら、ゆっくりと船のともに向かって歩き去った。


 ――だが、美少年もその後を静かに追ってくる。


(どうやら、このままでは終わらなそうだな)

 船客たちは二人の動向を興味津々で見守り、首を伸ばしていた。藤次は喧嘩を好む性分ではなかったが、大坂に着いたらおおこうに会う予定だ。若い男とくだらない争いをして人目を引くのは避けたい。気にしないふりをして船べりに肘をかけ、青黒く渦巻く海をじっと見ていた。


「もし」

 美少年はそんな藤次の背中を軽く叩いた。どうやら相当しつこい性格らしいが、怒りで興奮しているわけではなく、極めて静かな声だった。


「もし……藤次先生」

 さすがに無視はできない。藤次は仕方なく振り向き、


「なんだ?」


「あなたは、さっき私を法螺吹きと呼ばれましたが、私もこのままでは面目が立ちません。ですから、さきほどおっしゃった芸をここで披露させていただこうと思います。どうか見届けてください」


「俺が何を求めたって?」

 藤次は、さも覚えていないというふりをしたが、美少年は冷静に答えた。


「忘れるはずがありません。あなたは、私が周防すおう錦帯橋きんたいばしのほとりで飛燕ひえんを斬ったという話をしたとき、海鳥を斬ってみせろとおっしゃいましたよね」


「ああ、言ったな」


「その海鳥を斬ってお見せすれば、私が嘘ばかりついているわけではないことがわかるでしょう」


「それは……なるほどな」

 藤次は半ば冷笑しながら、


「無理をして笑い者になるのはつまらんぞ」


「いや、やります」


「止めはしないがな」


「では、立ち会ってください」


「よし、見届けよう」

 藤次は声に張りをこめて答えた。美少年は船の艫の真ん中に立ち、船板をしっかりと踏みしめながら、大太刀「物干竿ものほしざお」のつかに手をやった。


「藤次先生、藤次先生」

 と美少年は呼びかける。


 藤次はその姿をじっと見つめながら「何の用だ」と遠くから答えた。


 美少年は真剣な表情で言った。


「恐れ入りますが、海鳥を私の前に呼び寄せていただけませんか。何羽でも斬ってお見せします」


 その言葉に船客たちは驚きの表情を浮かべ、藤次も美少年の無鉄砲な挑戦を静かに見つめた。



 美少年は、一休和尚の機知をそのまま使って、藤次に一泡吹かせたらしい。藤次はあからさまに愚弄され、侮辱されたことに気がついた。人を小馬鹿にするにもほどがある。藤次は烈火のごとく怒った。


「ふざけるな! あんな空を飛んでいる海鳥を、思いのままに目の前に呼び寄せられるなら、誰でも斬れるわ!」

 美少年は、涼しげな顔で応じる。

「海は千万里、剣は三尺。近づかないものは、私にも斬れませんよ」


 その言葉に、藤次はニヤリと笑いながら、二、三歩前に出て言った。

「言い訳を並べるな。出来ないなら、素直に謝れ」


 しかし、美少年はさらに挑発するように言う。

「謝るくらいなら、こんな構えはしませんよ。海鳥の代わりに、別のものを斬ってお見せしましょう」


「何を斬るんだ?」

 藤次が問い返すと、美少年は一歩前に出て、

「藤次先生、もう少しこちらに近づいていただけませんか」

「何のつもりだ?」

「あなたの首を拝借したいと思います。法螺吹きかどうか、試してみろと言ったのはあなたです。罪もない海鳥を斬るより、あなたの首の方が相応しいでしょう」


「ばっ、ばか言うな!」

 藤次は思わず首をすくめた。すると美少年は肘を弦のように跳ね上げ、一瞬で背負った大剣を抜いた。空気を斬る音が「バッ」と響く。三尺の長剣がまるで針のように鋭く、速かった。


「な、何をするつもりだ!」

 よろめきながら藤次は首に手をやった。首は無事についている。どこにも異常は感じない。


「わかりましたか?」

 美少年はそう言って、荷物の陰へと立ち去った。


 藤次は、自分の顔が土気色になっていくのを感じながらも、何も言えなかった。しかし、その時、自分の身体の一部が切り落とされていることにまだ気づいていなかった。


 美少年が去った後、ふと船板に目をやると、奇妙なものが落ちている。それは刷毛のような小さな毛の束だ。ハッと気づき、藤次は自分の髪に手をやった。そこには……まげがない。


「や、やったな!」

 藤次は驚愕の表情を浮かべ、髪を撫で回す。その瞬間、元結もとゆいがほどけ、びんの毛がばらばらと顔に落ちてきた。


「やったな、この青二才!」

 藤次の胸には怒りがこみ上げ、全身が棒のように突っ張った。美少年が語っていたことが嘘でも法螺でもないことを、痛感させられた。若いくせに、これほどの技を持っているとは……。だが、頭ではそう感嘆しても、腹の底から湧き上がる憤怒は別物だ。藤次は美少年が先ほどの席に戻り、何かを探している隙を見逃さなかった。――刀の柄糸に唾をつけ、固く握りしめた。今度こそ、奴の髷を斬り払ってやる!


 ――だが藤次には、髷だけを見事に斬り落とす自信はなかった。顔にかかってもいいし、頭を横に割っても構わない。とにかく斬ってやる。


 藤次がその意志を固め、全身に赤い怒りが膨れ上がっていた時、船の中央で博打をしていた商人たちが騒ぎ出した。


ふだが足りない!」

「どこへ飛んだ?」

「そっちを探せ!」

「いや、こっちにもないぞ!」


 騒いでいた商人の一人がふと空を見上げ、指をさして叫んだ。

「やっ、小猿が! あんな高いところに!」



 ――なるほど、猿だ、猿がいる。

 三十尺もある帆柱のてっぺんに、小さな猿がひょっこり姿を見せていた。

 下では、船客たちがみな海の旅に飽きていたため、ちょっとした騒ぎでもあれば面白いと、空に視線を向けていた。


「おい、何かくわえてるぞ!」

骨牌カルタの札だな」

「ははあ、あの金持ち連中がやってた骨牌を猿が奪っていったのか」

「見ろよ、小猿が帆柱の上で、札をめくる真似をしてるじゃないか」


 そう言うと、一枚の札がヒラヒラと空から舞い落ちてきた。

「畜生!」

 堺の商人が慌ててそれを拾い上げたが、

「まだ足りない。あと三、四枚持ってるはずだ」

 他の連中も口々に言い出す。


「誰か、あの猿から札を取り返してこい! 博打ができんじゃないか」

「どうやって登れっていうんだ、あんな高いところに」

「船頭なら登れるだろう」

「金を出して船頭に頼んでみよう」


 そこで、船頭は金をもらい、了承したが、その前に一応責任の所在を明確にしようという態度で、

「お客衆、あの小猿は誰の飼い猿じゃ? 飼い主はここに出てきてもらおう」

 と、荷物の上に立って、船客たちを見回した。


 しかし、誰も自分の猿だと名乗り出ない。だが、船客たちは皆、例の美少年が飼い主だと知っているはずだ。

 船頭もおそらくそれを分かっていたが、業腹ごうはらが煮えくり返るのを抑えられなかったのだろう、さらに声を張り上げて言った。

「飼い主はいないのか? いないならいないで、こちらで処分するが、後で文句は言わせんぞ」


 美少年は、黙然と荷物にもたれかかり、何かを考えているように見えた。まるで周囲の騒ぎには無関心といった態度だ。


「……なんて図々しいんだ」

 誰かが囁き、船頭も美少年を睨みつける。博打を邪魔された商人たちは、苛立ちを隠せず悪口を言い始めた。

鉄面皮てつめんぴだな、あいつは」

「耳が聞こえないんじゃないのか?」

「いや、つんぼ(耳が遠い)か」


 だが、美少年は膝を少し横にずらして座り直すだけで、どこ吹く風といった風情であった。


 船頭はますます苛立ち、

「海の上にも猿が住むとはな。飼い主がいない猿なら、どう処分しようが構わんだろう。――皆の衆、証人になってくれよ。あとで文句を言われないようにな」

「いいとも、俺たちが証人になってやる!」

 旦那連中が怒りの声を上げる。


 船頭は段梯子を下り、しばらくすると火のついた火縄と種子島銃たねがしまじゅうを持って戻ってきた。


(――これは本気で怒ったな)

 同時に、船客たちは、あの美少年がどう出るのか注目していた。



 小猿は、まったくのんきそうに帆柱のてっぺんで骨牌かるたを見ていた。それがいかにも人間をからかっているかのように見えた。

 だが、突然、白い歯を剥き出して「キッ、キッ、キッ」と鳴き始めると、帆柱の横木を駆け回ったり、帆柱の先端に飛び移ったりと、急に狼狽し始めた。


 ――その時、下では船頭が、火縄銃の銃口を空に向けて小猿をじっと狙っていた。

「ざまあ見ろ、慌てやがって……」

 酒の入った旦那連のひとりが、そんなことを呟いた。


「しっ……」

 堺の商人がその旦那のたもとを引っ張った。その瞬間、これまで静かにしていた美少年がすっと立ち上がり、

「船頭」

 と一言、声をかけた。


 船頭は、あたかも聞こえなかったふりをしていたが、火縄は既に煙硝えんしょうに点火されていた。――だが、間一髪のところで――

「ドカン!」

 銃声が空に響き渡った。しかし、火縄銃は美少年の手に奪われていた。

 船客たちは耳を押さえ、身を伏せた。その頭上を越えて、銃は船の外へ投げ捨てられ、海中の渦潮に消えていった。


「な、なにしやがる!」

 怒り心頭の船頭は、美少年の胸ぐらにしがみついた。


 しかし、屈強な船乗りとはいえ、美少年の前ではまるで子供が大人にしがみつくようなもので、その逞しい体つきには敵わなかった。

「お前こそ、何をするつもりだ。無心の小猿を飛び道具で撃ち落とそうとするとは」

「そうだ! だが、すでに断ってあるぞ」

「どう断った?」

「お前は耳が遠いのか、それとも目が見えんのか?」

「黙れ。わしは客だ、武士だぞ。船頭風情が客よりも高い場所から命令するなど無礼ではないか」

「言い訳をするな。何度も言っただろう。それに気に入らないとしても、他の客たちが迷惑していたのに、何もせずに黙っていたお前はどうなんだ?」

「他の客? あの博打をしていた町人どもか?」

「そうだ、あの連中は普通の客よりも三倍も高い船賃を払っているんだ」

「その町人どもこそ不届きだ。公然と賭博をして酒に酔い、好き勝手に振る舞っている。その小猿が骨牌を奪ったことも、わしが命じたわけではない。ただ猿があの連中の真似をしただけだ。それをわしが詫びる理由はない」


 美少年は、言葉の途中から、その血気盛んな顔を町人たちに向け、皮肉たっぷりの笑みを浮かべていた。

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