怨敵
夜の町中にある森は、かすかに常夜灯が揺れている。お杉隠居は、又八の襟を掴んで、強引に往来から境内へと引きずり込んだ。
婆さんの凄まじい勢いに、ついてきていた野次馬たちも、すっかり怯えてついて来なくなった。鳥居の下で見張りをしていた権叔父も、やがて遅れてやってきて、
「婆さん、もう叱るのはよそう。又八だってもう子供じゃない」
そう言って、母子を引き離そうとするが、隠居は激しく肘で突き飛ばし、
「何を言っている! わしがわしの子を叱るのに、口出しなど要らん!」
そう言って、さらに又八の襟を地面に押し付け、容赦なく叩きつける。
涙を流して再会を喜ぶべき場面で、隠居は怒りに満ちた顔で、息子を小突き回していた。
「親の顔を見た瞬間に逃げるとは、なんたる恥知らずだ! お前は木の股から生まれてきたのか! わしの子ではないのか!」
そう叫びながら、まるで子供時代に戻ったかのように、又八の尻をぴしぴしと叩く。
「生きているとは思わなんだ! それなのに、この大坂にぬけぬけと生き延びていたとは、憎らしい! 何故、故郷に戻って先祖の供養をせんのだ! この母の顔も見ず、親類縁者も心配しているというのに!」
お杉は感情を抑えきれない様子で責め立てた。
「お、おふくろ……許してくれ、勘弁してくれ!」
又八はまるで赤ん坊のように母の叱責から逃れようとする。
「俺が悪かったのは分かっている。だからこそ帰れなかったんだ。今日も不意に会って、びっくりして、つい逃げてしまったんだ……。面目ない、面目ないよ! おふくろにも叔父さんにも、顔向けできないんだ」
そう言って、又八は両手で顔を覆った。
それを見て、ようやくお杉も目に涙を浮かべ、すすり泣いた。しかし、気丈な婆さんは、すぐに自分の涙を叱咤しながら、
「面目ないというからには、どうせ碌なことをしていないのだろうが」
と言った。
これ以上は見ていられなかった権叔父が、
「もういいだろう、婆さん。これ以上叱れば、又八が拗ねてしまうぞ」
と制止したが、お杉は振り向きざまに鋭い声で言い返した。
「また口を出すのか! お前は男のくせに甘すぎる! 又八には父親がいないのだから、わしが母親であると同時に、厳しい父親にもならねばならんのだ!」
そう言うと、再び又八を厳しく睨みつけ、
「まだまだ、これで済むと思うなよ! さあ、ここに座れ!」
と地面を指さした。
「はい……」
又八は、土まみれの肩を起こし、しょんぼりと地面に座り直した。
又八の母、お杉は怖い母親だった。他の母親と同じく甘い部分もあったが、すぐにご先祖様の話を持ち出してくるので、又八はいつも頭が上がらなかった。
「包み隠しても無駄じゃぞ。関ヶ原の戦いに出てから、あれ以来お前は何をしていたんだ。婆が納得するまで、すっかり話してみい!」
「……話します。」
隠すことはできなかった。又八は友達の武蔵と戦場から逃げ出し、伊吹山のあたりに身を潜めていたこと、年上の女、お甲に絡まれて数年間一緒に過ごした苦い経験、そして今ではそれを悔いていることなど、全てを話した。まるで腐ったものを胃から吐き出したかのように、話し終わると気が軽くなった。
「ふむ……」
と権叔父が唸ると、
「なんという子だ……」
とお杉も舌を鳴らした。
「それで今は、何をしておる? その身なりを見る限り、どうやら少しは飾っているようだが、仕官でもして少しは禄を取っているのか?」
「はい。」
うっかり返事をしてしまった又八は、すぐに露見するのを恐れ、
「いや、仕官はしておりませぬ。」
と訂正した。
「では、どうやって食べている?」
「剣……剣術を教えております。」
「ほう。」
お杉は初めて少し機嫌を直し、
「剣術か。それなら良い。剣術に精を出していたのなら、さすがわしの子だ。なあ、叔父御。やはりわしの子じゃ!」
このあたりで機嫌を直させたかった権叔父は、大きく頷いて、
「そうじゃ、ご先祖の血はちゃんと流れているのだ。一時の道を外れても、その魂さえ失わなければな。」
「それで又八よ。」
「はい。」
「この上方で誰に剣を学んでいたのだ?」
「鐘巻自斎先生に。」
「ほう……あの鐘巻先生にか。」
お杉は目を輝かせて喜んでいる。又八はもっと母を喜ばせたくなり、懐から印可の巻物を取り出し、末尾の「佐々木小次郎殿」の部分を隠して、
「御覧ください、この通りです。」
と常夜灯の明かりに広げて見せた。
「どれ、どれ。」
お杉が手を伸ばしてきたが、又八は渡さず、
「安心してください、おふくろ。」
と自信満々に言った。
「なるほど。」
お杉は首を振りながら、
「見たか、権叔父。大したものだ! 小さい頃から、あの武蔵よりずっと賢く、腕も立っていた。」
と、まるで誇らしげに笑っていた。しかし、巻物を巻きかけた時、隠していた「佐々木小次郎」という名が目に入ってしまった。
「待て、この『佐々木小次郎』とは何だ?」
「あ……これは仮名です。」
「仮名? 何故仮名など使う。本位田又八という立派な名があるではないか。」
「しかし、自分の恥を晒したくなかったので、先祖の名を汚さぬよう仮名を使っていました。」
「ほう、それは感心だ。――お前にはわからんだろうが、これから故郷のことを話してやろう。よく聞け。」
お杉はそう前置きしてから、宮本村で起こった事件や、本位田家の立場、さらに自分と権叔父が出郷することになった経緯、お通と武蔵を討つために長年二人の行方を探し続けていることなどを、誇張することなく語り続けた。話しながら何度も鼻をかみ、時折涙ぐんでいた。
又八は、じっと首を垂れ、老母お杉の烈々と吐かれる言葉に打たれていた。この瞬間、彼はまるで善良で神妙な息子のようだった。
だが、お杉が話している内容の重点は、もっぱら家名の名誉や侍としての意気にあったが、又八の心を強く打ったのはそこではなく、
「お通が心変わりした」
という初耳の話だった。
「おふくろ、それは本当なのか?」
又八が驚いて顔を上げると、お杉は、これが彼を奮い立たせたのだと思い込み、
「嘘と思うなら、叔父御にも聞いてみるがいい。お通阿女は、お前を見限って、武蔵の後を追って行ったんじゃ。――いや、もっと悪く言えば、武蔵はお前が当分帰らないことを知っていて、お通をだまして奪って逃げたとも言える。」
「そうだ、七宝寺の千年杉に縛りつけられていたのを、あのお通の手を借りて逃げたんだからな。そんな男と女、どうせろくでもない仲だ。」
権叔父もこう続けた。
これを聞いた又八は、まるで鬼と化したかのように怒りが湧き上がってきた。元々、彼は武蔵に対して妙な反感を抱いていたが、今やその怒りは頂点に達していた。
お杉の言葉は、まさに鞭を打つように、彼の感情を煽り立てた。
「わかったか、又八。この婆や権叔父が、故郷を出て、こうして諸国をさまよっている意気地が。――お前の嫁を奪って逃げた武蔵、そして本位田家に後足で砂をかけて去ったお通。この二つの首を討ち取らねば、婆はご先祖様の位牌に、そして故郷の人々に合わせる顔がない!」
「わかりました……よくわかりました。」
「それなら、お前もこのままでは故郷の土を踏めないじゃろう。」
「帰りません。もう、帰りません。」
「討ってやれ、怨敵を!」
「ええ。」
「もっと力のある返事をせんか! お前には武蔵を討つ力がないと思っておるのか?」
「そんなことはありません!」
権叔父も励ましの言葉をかけた。
「心配するな、又八。わしもついているぞ。」
「この婆もだ。」
「お通と武蔵、その二つの首を故郷への土産にして帰るんだ。そうしてお前には良い嫁を見つけて、本位田家の跡目を継いでもらう。そうすれば、武士としての面目も立つし、近郷の評判も上がる。吉野郷で負ける家は他にはない!」
「さあ、その気になったか、又八!」
「はい。」
「よい子じゃ。叔父御、褒めてやっておくれ。又八は武蔵とお通を討つと誓ったぞ。」
お杉はようやく満足し、寒さに堪えていた氷のような大地から身を起こし始めたが、
「ア……痛たたたた!」
「婆、どうした?」
「冷えて腰が……急に痛みが下腹にきたわ。」
「これはいかん。また持病が出たか。」
又八は背を向け、
「おふくろ、俺が背負ってやる。」
「え、わしを負うてくれるのか……負うてくれるのか!」
そう言って、お杉は子の肩に抱きつき、
「何年ぶりじゃろう、叔父御よ。又八がわしを負うてくれるとは。」
と、喜びの涙を流した。母の温かい涙が肩に伝わってくると、又八も何か無性に嬉しくなり、
「叔父御、旅籠はどこか?」
「これから探すのじゃ。どこでもよい、歩いてくれ。」
「承知だ!」
又八は老母を背負いながら、足を弾ませて歩き、
「おふくろ、軽いなあ……軽い、軽い! まるで石よりも軽いぞ!」
と、笑いながら歩いていった。




