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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
火の巻
35/165

幻術

「金が気になる……」

 そう思ったら最後、頭から離れなくなる。使ったらまずい金だとはわかっている。けれど、少しぐらいなら借りてもいいじゃないかと、また思う。


「どうせ、死者の頼みで、遺品を郷里まで届けてやるんだ。そのためには路銀ろぎんも必要だろう。そう考えたら、これぐらい使ったところで罪にはならないさ」


 そう自分に言い聞かせて、少しだけ心が軽くなった――が、それはもう既にいくらかの金を使い始めていた時でもある。


 だが、金の他に死者から預かっている「中条流ちゅうじょうりゅう印可目録」の巻物に記されている『佐々木小次郎』という名前が頭に残る。この小次郎、どこの出身なんだろう?


 多分、あの死んだ武者修行者が佐々木小次郎なんだろうが、牢人ろうにんなのか、持ちしゅもちなのか、それともどういう経歴を持った人物なのか、さっぱり分からない。何の手がかりもないのだ。


 唯一頼れるのは、佐々木小次郎に「印可目録」を授けたという剣術の師匠、鐘巻自斎かねまきじさい。この師匠の所在がわかれば、小次郎の素性もわかるだろう。そう思い、又八は伏見から大阪へ下る道中、茶店や飯屋、旅籠はたごで折に触れてはこう訊ねてみた。


「鐘巻自斎という剣術の達人を知ってるか?」


 だが返ってくるのは、皆口をそろえてこう言う。


「聞いたこともない名前ですねぇ」


「中条流の大家で、富田勢源とだせいげんの流儀を引いている人だって言うんだが……」


 そう言っても、誰も「はて?」と首をかしげるばかりだった。


 ある日、路傍で出会った侍が、多少兵法に詳しいらしく、こう言った。


「鐘巻自斎とかいう人なら、もしまだ生きているなら、かなりの老齢のはずだ。確か、関東に移り、晩年は上州のどこか山里に隠れたまま、世間に出なかったと聞いている。もし彼の消息を知りたければ、大坂城へ行って富田主水正とだもんどのしょうという人物を訪ねるといい」


 その名前を聞いて、又八は少しあいまいな気持ちになりながらも、とりあえず大阪へ行くつもりでいたので、早速市街に入ると、旅籠に泊まり、その侍が言っていた富田主水正について尋ねてみた。


「はい、富田勢源様のお孫様とかで、秀頼公の師範ではありませんが、城内で兵法を教えておられたお方がいらっしゃいました。ただ、数年前に越前えちぜんの国へお戻りになったと聞いております」


 宿の者の話は、前に聞いた話よりもずっと信頼できそうだった。


 その者はさらに、こう忠告してくれた。


「越前まで尋ねて行くのも大変ですし、主水正様が今もそこにいるかどうかもわかりません。ですから、近頃有名な伊藤弥五郎いとうやごろう先生を探された方が近道かもしれません。弥五郎先生も、確か鐘巻自斎の門下生として修行されていましたし、後に一刀流いっとうりゅうという独自の流派を開かれたそうですから」


 一理ある忠告だったが、今度はその伊藤弥五郎の居所を探してみると、これも最近まで京都の白河に一庵を結んでいたものの、今はどこか修行に出たらしく、京や大阪のあたりではその姿を見かけた者はいないとのことだった。


「ええい、面倒くせえ!」


 結局、又八はさじを投げた。そして自分に言い聞かせるように呟いた。


「まあ、そんなに急ぐことでもないだろうさ」



 大阪に来てからというもの、又八の眠っていた野心が再び目を覚ました。この街は、実力ある人材を求めている――そう、牢人ろうにんを集めて軍を組織しようという動きがあるらしかった。もちろん、公には言われていないけれど。


後藤又兵衛ごとうまたべえ様、真田幸村さなだゆきむら様、そして明石掃部あかしかもん様までが、秀頼公ひでよりこうからひそかに生活費を受け取っているらしいんだぜ」


 町人たちはそんな噂をささやいている。大阪城下では、どこの城下町よりも牢人が尊重され、住みやすい環境が整えられているという。長曾我部盛親ちょうそかべもりちかなどは、町外れのつまらない小路に家を借り、頭を丸めて「一夢斎いちむさい」と名乗りながら、風雅な生活を送りつつ、必要があれば、かつての太閤たいこうの恩義に応えて立ち上がる準備をしているとか。その背後には、七百や八百の牢人が控えていると噂され、その生活費も秀頼公の手元から出ているという話だった。


 又八は二月ほど大阪を見聞するうちに、ふと思った。


「ここだ……俺が出世できる場所は」


 関ヶ原を目指して村を飛び出したあの頃の野望が、久しぶりに彼の胸に蘇ってきた。しかも、最近は健康も回復しており、その野望はさらに燃え上がっていた。


「金は少しずつ減ってきたが、運が向いてきたって気がするぞ」


 そんな自覚が湧き上がり、毎日が明るく、愉快に感じられた。道で石に蹴つまずいても、その足元から何かいいことが起きそうな気がしてならなかった。


「まずは身なりだな」


 そう思い、上質な大小だいしょうを買い、さらに見栄えのいい小袖と羽織も手に入れた。もうすぐ冬の寒さが本格的に始まる晩秋である。旅籠はたごに泊まるのは不経済と考え、順慶堀じゅんけいぼり近くの馬具師ばぐしの家の離れを借りて生活を始めた。食事は外で済ませ、見たいものは自由に見て回る。家に帰ることもあれば帰らないこともあり、自分のペースで気ままに暮らしていた。


 その間、よい知己しるべを得たり、手がかりを探し、扶持ふちの口を見つけようと心がけていた。彼にしてみれば、今のこの生活は、かなり自戒を保って生まれ変わったような気持ちで過ごしているつもりだった。


「以前はあんなに泥臭い暮らしをしていた牢人たちが、今や大坂城で番頭ばんがしらをしている。順慶堀で土を運んでいた連中が、今や出世街道を駆け上がっているんだ」


 そんな羨ましい噂が町に流れていたが、又八が見て回るうちに、次第に世の中の現実に疲れてきた。


「この世の中ってやつは、まるで石垣だな。隙間なく組み合わさっていて、後から入り込む余地なんてない」


 少しやる気を失いかけたが、すぐに気を取り直した。


「いや、つるが見つからないだけだ。うまく割り込めれば、俺も大きく成り上がれるはずだ」


 馬具師の親父にも就職口を頼んでみた。


「旦那、まだ若いし腕もあるんだから、城の連中に頼めば、すぐにお抱えの仕事が見つかるでしょうよ」


 親父も軽く請け合ってくれたが、なかなか仕事は見つからなかった。そして、気づけば冬も十二月、ふところの金も半分になっていた。



 賑やかな町中の空き地に、毎朝真っ白な霜が降りる。それが溶けて道がぬかるむ頃になると、銅鑼どらや太鼓の音が鳴り響く。師走の忙しい時期とはいえ、意外にも人々の顔はのんびりしていて、冬の日差しの下で雑踏が広がっていた。


 いくつもの見世物小屋が矢来で囲われ、外から見えないようにむしろで覆われている。各所に紙旗や毛槍が立てられ、それぞれの呼び込みが客を奪い合っていた。その様子は、ただの見世物以上に、真剣な生存競争に思えた。


 安い醤油の香りが漂う中、串刺しの煮物をかじりながら、男たちが馬のように騒ぎ立てる。夜になれば、白粉おしろいを塗りこめた女たちが袖を引き、豆をかじりながら通りを歩いていく。酒を売る露店では、今しがたまで殴り合いが起きていて、勝者が誰なのかはわからないが、喧嘩の余波を残してその集団は町へと駆け去っていった。


「ありがとうございました、だんな様がいてくださったおかげで、器物が壊されずにすみました」


 酒を売っていた露店の主人が、何度も又八に礼を述べてくる。礼のつもりか、次に出てきた燗酒は絶妙な温度で仕上げられ、頼みもしない肴までつけてくれる。


 又八も悪い気はしなかった。町人同士の喧嘩とはいえ、もしこの貧しい露店が被害を受けるようなことがあれば、一喝してやろうと睨んでいたが、何事もなくすんだことで、露店の親父も自分もホッとしていたのだ。


「親父、人がよく出てるな」


「師走ですからね、人は多くても、財布の紐は固いもんです」


「天気が続いてるのはいいな」


 そう言いながら、又八は赤くなった顔を撫でる。ふと考え込む。


(そうだ、石曳きの頃に酒はもう飲まないって誓ったんじゃなかったか?)


 一瞬、他人事のように思い返すが、すぐに自分を慰めた。


(まあいい、人間、酒くらいは飲まねえとな)


「親父、もう一杯頼む」


 そう言って酒を追加する間に、又八のそばの床几しょうぎに一人の男が腰をかけた。ぱっと見て、牢人ろうにんだなとわかる出で立ちだった。長い刀を腰に下げ、大小だいしょうだけは立派だが、着ているのは襟垢えりあかのついたあわせで、胴衣や羽織も羽織っていない。


「おい、亭主。俺にも一合、熱めに頼む」


 片足をあぐらに乗せ、じろりと又八を見やる。その目が足元から顔まで到達すると、笑って言った。


「やあ」


 又八も軽く返した。


「やあ」


「燗がつく間にどうだ? 一杯どうぞ」


「これは――」


 すぐに手を伸ばし、酒を受け取る男。


「酒飲みってやつはいやしいもんだな。さっき尊台そんだいがここで一杯やってるのを見た途端、ぷーんといい匂いが鼻をついてな。どうにも我慢できなくなって、引き寄せられちまったよ」


 その飲みっぷりが見事で、豪快な性格がにじみ出ている。又八はそんな様子を見て、この男は何か大物かもしれないと思い始めていた。



 その男、よく飲む。又八が一合をやる間に、もう五合は超えているというのに、まったく乱れる様子はない。


「どのくらい飲めるんだ?」と訊いてみると、男は肩をぐっと張って答えた。


「一升くらいは軽く飲めるな。まあ、落ち着いて飲めば量なんて気にしないさ」


 そんな男と話をしていると、時局の話に及び、男は一気に熱を込めて語り始めた。


「家康なんて大したことはない。秀頼公を差し置いて、大御所だなんて名乗ってるが、馬鹿らしい話だ。本多正純や、彼の幕僚たちがいなけりゃ何もできやしない。狡猾さと冷酷さがあるだけで、武人としての才は乏しいってもんさ。石田三成には勝たせたかったが、あいつはあまりに潔癖すぎたし、身分も足りなかったな」


 そして突然、又八に向かって問いかけた。


「もし関東と上方が戦になったら、どっちにつく?」


 又八はためらわずに答えた。


「大坂方だ」


 その言葉を聞くや、男は勢いよく杯を持って立ち上がり、


「よし、仲間だ! 俺たちの同士よ。さあ、もう一杯捧げようじゃないか。ところで、お前さんはどこの藩士だ?」


 と言いながら、すぐに自分の名前を名乗り出した。


「いやいや、まず俺から名乗らせてもらおう。俺の名は蒲生がもう浪人の赤壁八十馬あかかべやそまだ。塙団右衛門ばんだんえもんとは刎頸ふんけいの友、つまり首を預け合うほどの仲だ。今は大坂城の錚々(そうそう)たる連中とも関わりがある。薄田隼人兼相すすきだはやとかねすけとも、漂泊時代を共にしたことがあるし、大野修理亮しゅりのすけとは三、四回会ったことがある。もっとも、あいつは少し陰気すぎるがな」


 その後もペラペラと喋り続けたが、ようやく気がついたのか、ふと顔を引き締めて、


「さて、君のことはどうなんだ?」


 と改めて尋ねてきた。


 又八は男の話がすべて本当かどうか半信半疑だったが、妙に圧倒されたような気持ちもあり、自分も一発大きな嘘をかましてやろうと決意した。


越前宇坂之庄えちぜんうさかのしょう浄教寺村じょうきょうじむら富田流とみたりゅう開祖、富田入道勢源せいげん先生をご存じか?」


「名は聞いたことがあるな」と赤壁が返す。


「その道統を継ぎ、中条流の一派を立ち上げた無欲無私の大隠、鐘巻自斎かねまきじさいという方が、俺の師匠だ」


 だが、赤壁は特に驚いた様子もなく、ただ杯を向けてきた。


「じゃあ、君は剣術の使い手というわけか」


「その通りだ」


 又八は、自分の嘘がすらすらと出ることが妙に楽しくなってきた。大胆に嘘をつくほど、酔いが回ってさらに気分が高揚する。


「多分だが、さっきからそうじゃないかと思っていた。鍛えた体は違うものだな。して、その鐘巻自斎の門下で、君の名は何というんだ?」


「佐々木小次郎ささきこじろうという者で、伊藤弥五郎一刀斎いとうやごろういっとうさいは俺の兄弟子だ」


「えっ!」


 突然、相手の男が驚いたような声を上げたので、今度は又八が焦った。(あ、これはさすがに冗談だって言わなきゃ…)と思ったが、次の瞬間、赤壁八十馬が地に膝をついて頭を下げているのを見て、今さら冗談とは言い出せなくなってしまったのだった。



「申し訳ありません!」

 赤壁八十馬あかかべやそまは何度も頭を下げて謝る。

「佐々木小次郎殿といえば、その道の達人として有名です。知らなかったとはいえ、先ほどの無礼、どうかお許しください」


 又八は、内心ホッとした。もし相手が本当の佐々木小次郎を知っていたら、今頃は嘘がばれて、大変なことになっていただろう。だが、運よくばれずに済んだ。


「いやいや、どうかお頭を上げてください。そんなに改まられては、こちらも挨拶のしようがありません」


「いや、それにしても、先ほどから大きなことばかり言ってしまい、耳障りだったでしょう」


「何をおっしゃる、私こそまだ仕官もせず、世間を知らない若輩者でして」


「それにしても、剣の腕は確かですな……いや、佐々木小次郎というお名前はあちらこちらでよく耳にしますぞ」


 赤壁八十馬はそうつぶやき、酔った様子でどろんとした目で又八を見つめた。


「それでいて、まだご仕官されていないとは、惜しい話だ」


「ただ剣一筋に打ち込んできたもので、世間に知己がなく……」


「なるほど、そういうことか。しかし、まったく仕官のお望みがないわけでもないのですね?」


「もちろん、いずれは主人を持たねばと考えておりますが……」


「それなら話は簡単だ! 実力があれば、見つかるものだ。だが、黙っていてはその実力も見出されぬ。こうしてお会いして初めて、そのお名前を聞いて驚いたぐらいですから」


 そう言いながら、赤壁はどんどん話を進めていく。


「お世話しようではありませんか。実は私も、大坂城での人脈がある薄田兼相すすきだかねすけに頼んでいます。今の大坂では、禄を問わず、有能な者を抱え入れようとしている。貴方のような人物を推薦すれば、すぐにでも採用されるでしょう。どうか、私にお任せいただけませんか?」


 赤壁八十馬はすっかり乗り気だ。しかし、又八は内心焦っていた。実は佐々木小次郎ではないことがバレるのではないかと心配していたのだ。だけど、今さら本名の本位田又八ほんいだまたはちと名乗っても、相手はがっかりするに違いない。結局、佐々木小次郎という名が功を奏したのだ。


「待てよ」と又八は心の中で考えた。「何もそんなに心配することじゃない。だって、佐々木小次郎はもうこの世にいないんだ。伏見城の工事現場で殺された武者修行が、小次郎だったじゃないか。あのことを知っているのは俺だけだ」


 死者が持っていた唯一の証拠である「印可目録いんかもくろく」も自分が預かっているし、調べようにもその手がかりはないはずだ。しかも、佐々木小次郎が乱暴者として殺されたなんて、誰も興味を持たないだろう。


「分かるわけがない!」

 又八の頭に、大胆でずる賢い考えがひらめいた。死んだ佐々木小次郎になりきるしかない、と決心したのだ。


「おやじ、勘定だ」


 又八は金を出し、席を立とうとした。すると、赤壁八十馬が慌てて立ち上がった。


「今の話はどうするんだ?」


「もちろん、ぜひご尽力をお願いしたい。ただ、こんな路上では十分な話ができません。座敷のある場所で話を続けましょう」


「そうか、それもそうだな」

 赤壁は満足そうに頷き、又八が自分の分だけでなく、赤壁の飲み代まで支払っているのを当然のように見ていた。



 裏通りに入った途端、又八はその雰囲気に圧倒された。もっと高級な酒楼に行くつもりだったが、赤壁八十馬が「こんなところで金を無駄にするな、もっと面白い場所がある」と熱心に誘うものだから、ついてきた結果、すっかり飲み込まれてしまった。

 その場所は「比丘尼横丁びくによこちょう」と呼ばれ、どこを見ても女たちが笑顔を浮かべて男を誘っている。ここには、一夜に百石の油を灯すと言われるほどの繁盛があり、賑わっている。


 黒い堀の近くには、どこからともなく船虫や河蟹かわがにが這い回っていて、不気味な雰囲気が漂う。しかし、その一方で、女たちの中には美しい者もいて、中には40近い年齢の女性も、比丘尼頭巾びくにずきんを被り、夜寒に震えている姿が、どこか物悲しさを感じさせる。


「なかなか良い場所だな……」

 又八が呟くと、八十馬は得意げに笑った。


「だろう? へたな茶屋や歌妓よりもずっといい。売女ばいじょという響きは悪いかもしれないが、冬の一夜をここで過ごして、彼女たちの身の上話を聞いてみろ。みんな、最初から売女だったわけじゃない」


 八十馬は往来の人々に肩をすれ合いながら、語り続ける。


「例えば、室町将軍に仕えていた比丘尼びくにや、武田の家臣の娘、松永久秀の縁者まで、ここにはさまざまな背景を持つ女たちがいるんだ。昔の平家の没落を思い出させるように、今の時代もまた、盛衰が繰り返されている。浮世の底には、こんなふうに落ちぶれた者たちが集まってくるんだよ」


 二人は、ある一軒の家に上がり、八十馬に遊びの仕方を任せた。彼の遊び方は手馴れていて、酒の頼み方や女たちとの接し方にそつがない。その手腕に又八も感心し、裏町の遊びの楽しさを実感した。


 そして、とうとう夜を明かしてしまった。昼が過ぎても、八十馬はまだ飽きる様子がない。又八も、普段は日陰者だった鬱憤をここで晴らしたのか、ようやくこう言った。


「もう……もう酒はいい! 帰ろう」

 しかし、八十馬はまだ帰る気がない。


「もう少しつきあってくれ。晩までだ」


「晩まで? 何をするんだ?」


「今夜、薄田兼相すすきだかねすけの屋敷に行く予定がある。今から行っても時間が中途半端だし、それに……お前の希望をもっとちゃんと聞いておかないと、先方に話ができんだろう」


ろくなんて、最初から高望みしても無理だろう」

 又八はそう弱気になるが、八十馬は首を振る。


「ダメだ、自分から安い条件を出すようなことを言ってはダメだ。中条流の印可を持つ佐々木小次郎といえば、相手も驚くだろう。そんな侍が『禄はいくらでもいいから仕官させてくれ』なんて言ったら、軽んじられるに決まっている。五百石は要求しておけ。自信のある侍ほど、大きな手当や待遇を求めるものだ。ここは遠慮せずに堂々と振る舞え!」



 谷間のように見える場所に、大坂城の巨大な影が覆いかぶさる。すでに夕方になり、日が落ちて寒さが増してきた。

「ほら、あれが薄田すすきだの屋敷だ」

 赤壁八十馬あかかべやそまが指差す方向に、立派な角屋敷が見える。二人はほりの端に立って、寒さに震えていた。昼間からずっと酒を飲んでいたが、ここに来るとその酔いも吹き飛んでしまった。鼻先が冷えすぎて、水っ鼻が出そうだ。


「あの大きな腕木門か?」

「いや、その隣の角屋敷だ」

「ふむ……見事な邸だな」

「出世したもんだよ。30代の前半までは、薄田兼相すすきだかねすけなんて名前を知る者はいなかったが、いつの間にかこれだ」


 八十馬が話すのを、又八はそら耳で聞いていた。別に疑っているわけではない。ただ、もうこの男に対する信頼は絶大だった。――そして、眼前の巨大な大坂城やその周辺に並ぶ大名の屋敷を見つめながら、胸の中に抑えきれない野望が膨らんできた。


「今夜、兼相に会って、しっかり貴公を売り込んでやるさ」

 八十馬は自信たっぷりにそう言い、続けて、

「ところで、例の金のことだが……」

 と、少し催促するように尋ねた。


「そうだったな」

 又八は懐から革の巾着を取り出した。気がつけば、もう中身の三分の一ほどしか残っていなかった。残りをかき集めて、

「これだけあれば足りるか?」

 と、八十馬に手渡した。


「十分だ。問題ないさ」

「何かに包んで渡さなきゃならないんじゃないか?」

「いや、心配するな。仕官の取りなしを頼む時の献金なんてものは、どこでもやっていることだ。そんなに気を使う必要はないよ。じゃあ、預かっておく」

 八十馬はそう言って、又八からほとんどの金を受け取った。


 だが、又八は少し不安になり、八十馬が歩き出したのを見て、追いすがりながら言った。

「ちゃんと頼むぞ」

「大丈夫だ。もし、兼相が渋った顔をしていたら、金を渡さずに持って帰ればいいさ。大坂には、兼相だけじゃないんだ。他にも、大野や後藤など、頼りにできる者はいくらでもいる」


「返事は、いつ分かる?」

「そうだな、ここで待っててもいいが、寒いだろ? それに、怪しまれたら困る。明日会おう」


「明日? どこで?」

「例の人寄せの空地で。あの酒売りのおやじのところで待っていてくれればいい」


 二人は時刻を打ち合わせて、八十馬は堂々と薄田兼相の屋敷へと入っていった。その背中を見て、又八は

(あの様子なら、確かに薄田兼相とは旧友だろう)

 と安堵した。翌日が待ち遠しく、心が踊った。あくる朝、又八は霜が溶け始めた道を踏みしめながら、人寄せ場の空地へと向かった。


 今日も師走の寒風が吹きつけていたが、それでも多くの人々が集まっていた。



 三日目になっても、またしても赤壁八十馬あかかべやそまは姿を見せなかった。

「何かの都合だろう……」

 又八またはちは自分にそう言い聞かせて、例の野天の酒売りのところで、今日も座って待っていた。しかし、その日も結局、彼の姿を見ないまま夜を迎えた。


 三日目の夕方、少し気まずい思いでまた酒売りの前に座ると、酒売りのおやじが、さすがに不思議に思ったのか声をかけてきた。

「お客さん、毎日誰かを待ってるみたいだが、一体誰を待ってるんだい?」

 又八は、ここで出会った赤壁という牢人と仕官の手続きをしてもらう約束をしているのだ、と事情を説明した。


 すると、酒売りのおやじは目を丸くして驚いたように言った。

「えっ!? あの男に金を預けたのかい?」

「取られたわけじゃない。頼んで、薄田殿に渡すお金を預けているだけだ」

 又八はきっぱりと答えたが、酒売りのおやじは呆れたように頭を振った。


「お客さん、あの男はとんだ悪党さ。あの空地にはああいう連中がたくさんいてね。少しでも甘い顔を見せたら、すぐにたかってくるんだ。忠告しようかと思ったが、まさかあんたまであんな風態の男に騙されるとは思わなかったよ……」


 その言葉に、又八は背筋が凍る思いだった。まさか自分が騙されるなんて、少しも思っていなかった。怒りと失望が一気に胸に押し寄せ、呆然と空地の人々を見つめた。


「むだだとは思うが、幻術めくらましの囲いに行ってみるのもいいかもな。あそこに集まっているガチャ蠅どもが賭け事をしてるだろうから、もしかすると赤壁が顔を出しているかもしれないよ」

 酒売りのおやじがそう教えてくれた。


「そ、そうか……」

 又八は慌てて腰を上げ、

「その幻術めくらましってのはどこだ?」

 と尋ねると、老爺おやじが指差す方に大きな矢来が見えた。どうやらそこが、幻術者たちが興行をしている場所らしい。入口には、たくさんの見物客が押し寄せている。


 又八が近づいてみると、

「ちょちょんがちょっ平ぺい!」

変兵童子へんぴょうどうじ!」

果心居士かしんこじの一弟子でござる!」

 などと怪しげな掛け声が響き渡り、旗に有名な幻術師の名が書かれている。中では妙な音楽が鳴り響き、見物客の拍手が湧き上がっていた。



 又八またはちは幻術の見世物の裏手に回って、見物客がいない別の入口を見つけた。そこで入口を守っている男に「賭場とばに行くのか?」と尋ねられ、無言でうなずくと、男は「入れ」とでも言うような顔をして、又八は中に入った。


 中では、天井もない露天で20人ほどの浮浪者たちが集まって車座になり、博打ばくちを打っていた。又八が立ち止まると、皆が白い眼でじろりと彼を見上げた。しばらくして、一人が無言で彼の前に席を開けたが、又八は焦ってこう言った。


「この中に、赤壁八十馬あかかべやそまという男はいるか?」


 一人が答える。

赤馬あかうまか? そういえば、しばらく見てねぇが、どうしたんだろうな。」


「ここに来るか?」

「さぁな。そんなもんわかるかよ。ま、座れや。」

「いや、博打に来たんじゃない。その男を探しに来ただけだ。」

「おいおい、ふざけんなよ。博打もせずに賭場に何しに来たんだ!」

「す、すまん。」

すねを掻っ払うぞ!」

「すまん!」


 又八はほうほうの体で外へ逃げ出したが、一人のガチャばえが追いかけてきた。


「待て、野郎。ここは『すまん』じゃ済まねぇ場所だぞ。場代ばだいを置いてけ!」

「金なんかない!」

「金もねぇのに賭場をのぞきに来やがって、さては銭でもさらおうと企んでたんだろ、この泥棒野郎!」

「なんだと!」


 又八が刀の柄に手をかけると、相手は笑いながら敢えて喧嘩を買ってきた。


「べら棒め、そんな脅しでビビってたらこの大坂で生きていけねぇんだよ。さあ、斬るなら斬ってみろ!」

「斬るぞ!」

「斬れよ、わざわざ断る必要なんかねぇだろ!」


「俺を知らんのか?」

「知るわけねぇだろ!」

越前宇坂之庄えちぜんうさかのしょう浄教寺村じょうきょうじむらの流祖、富田五郎左衛門とみたごろうざえもんの門人、佐々木小次郎ささきこじろうとはこの俺のことだ!」


 そう言えば相手も驚いて逃げるだろうと思ったが、相手は腹を抱えて笑い出し、周りにいたガチャ蠅たちを呼び集めてこう言った。


「おい、みんな来いよ! こいつオツな名乗りを上げやがったぜ! 一丁腕前を見せてもらおうじゃねぇか!」


 その瞬間、又八は素早く抜き打ちをくらわせ、相手の尻を斬った。


「畜生っ!」


 相手の叫び声と同時に、周囲から大勢の怒号が聞こえた。又八は血のついた刀を下げ、すぐに人混みの中へ逃げ込んだ。


 できるだけ人が多い場所を選んで歩いていたが、すべての顔がガチャ蠅に見えてきて、危険を感じ始めた。もうこのままではうろついていられない。


 ふと目の前に大きな虎の絵が描かれた幕が垂れ下がっているのが見えた。木戸には鎌槍かまやりと蛇の目の紋、そして旗印が立てられ、町人が空箱に乗ってしゃがれた声で叫んでいる。


「虎だ、虎だっ! 千里行って、千里帰る、これは朝鮮渡りの大虎! 加藤清正公かとうきよまさこうが手捕りの虎――!」


 又八は手早く銭を払い、中に飛び込んだ。少しほっとしながら虎を探したが、正面にあるのは戸板に貼りつけられた一枚の虎の皮だけだった。



 死んだ虎の皮を見せられても、見物客たちは誰も怒らなかった。むしろ、みんな神妙な顔をして眺めている。


「これが虎かいな?」

「でっかいなぁ」


 感心しながら、みんなは入口から出口へと流れていく。


 又八またはちは、時間を潰そうと考え、虎の皮の前に立ち続けていた。その時、突然、彼の目の前に旅装の老夫婦が立ち止まった。老婆が言う。

権叔父ごんおじよ、この虎、死んでおるんじゃろう?」


 爺侍じじざむらいは竹の仕切り越しに手を伸ばし、虎の毛に触れながら答えた。

「当たり前じゃ、皮じゃもの、死んでおるさ。」

「でも木戸きどで呼び込みの男は、生きているように言うてたがの。」

「これも、幻術げんじゅつの一つじゃろうな。」


 爺侍は苦笑していたが、婆のほうは苛立たしげに唇を曲げて振り返り、

「なんや、幻術なら幻術と看板に書いておけばええのに。死んだ虎を見るくらいなら絵を見たほうがマシじゃわ。木戸に戻って銭を返してもらおう。」


「婆、婆。人が笑うぞよ。そんなことわめかんでもええ。」

「なにが笑うじゃ。お前が嫌なら、わしが言うてくる!」


 その時、見物客を押し分けて婆が戻ろうとした瞬間、人混みの中に姿を隠そうとする者がいた。爺侍が大声で叫んだ。

「やっ、又八!」


 お杉隠居すぎいんきょは目が悪く、何が起きたか分からない。

「な、なんじゃ、権叔父?」

「見えんかったか? 婆のすぐ後ろに、又八がおったぞ!」

「げっ、本当か?」

「逃げおった!」

「どっちへ?」


 二人は木戸の外へ飛び出した。


 もう空地は夕暮れに包まれ、雑踏が広がっていた。又八は何度も人にぶつかり、そのたびにくるくると舞い、後ろも見ずに町のほうへ逃げていった。


「待て、待て、せがれ!」

 振り返ると、母親のお杉が狂気じみた様子で追いかけてきていた。権叔父も手を振り上げ、

「馬鹿者! なんで逃げるんじゃ! 又八、又八!」


 それでも又八が足を止めないので、お杉隠居は首を前に突き出し、

「泥棒、泥棒、泥棒っ!」

 と夢中で叫んだ。


 すると町の者たちは、暖簾棒のれんぼうや竹竿を持ち出し、又八を蝙蝠こうもりを叩くように打ち倒した。

「捕まえた!」

「ふてぇ奴だ!」

「どうする!」

「ぶっ殺してやれ!」


 足が出る、手が出る、唾を吐きかける。


 後から権叔父とともに追いついたお杉隠居は、その光景を見ると群衆を押しのけて叫んだ。

「ええ、むごいことを! おぬしら何をしやるんじゃ、この者に!」

 弥次馬やじうまは訳も分からず、

「婆さん、こいつは泥棒だよ!」

「泥棒じゃない、これはわしの子じゃ!」

「え、あんたの子か?」

「おお、ようも足蹴あしげにしやったな。町人風情が、侍の子を足蹴にしやがって!」


 怒り心頭のお杉は、小脇差こわきざしつかに手をかけて、牙を剥いた。


「婆が相手だ。さあ、も一度同じ無礼をしてみやい!」

「冗談じゃない! じゃあ、先刻『泥棒、泥棒』と叫んでたのは誰だよ?」

「叫んだのはわしじゃが、おぬしらに蹴らせろと言うた覚えはない! 親心で止まらせようと思って言うたんじゃ。それも知らんで、殴ったり蹴ったりするとは何事じゃ、このあわて者めが!」

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