狐雨
野は灰色に曇り、今朝の冷え込みは「秋の訪れ」を感じさせる。目に映るすべてのものが露で濡れている。
古びた台所には、戸が倒れ、狐の足跡がはっきりと残っていた。夜が明けても、栗鼠があちこちをうろついている。
「アア、寒いな……」
虚無僧は目を覚まし、広い台所の板の間に座り込んだ。夜明け前にヘトヘトになって帰ってきた彼は、尺八を手にしたままここで眠り込んでいたのだ。薄汚れた袷も袈裟も、夜通し野を歩いていたせいで草の実や露でぐっしょりと汚れていた。
昨日の残暑とは比べ物にならないほど涼しく、風邪を引いたのか、虚無僧は鼻をしわくちゃにして大きなくしゃみを一つ放った。薄い泥鰌髭の先に鼻水がついているが、彼はそれを気にする様子もなく、拭こうともしなかった。
「……そうだ、昨夜の濁り酒がまだ残っていたはずだな」
そう呟きながら立ち上がり、虚無僧は廊下を歩いて炉のある部屋へと向かった。そこも狐や妖怪が歩き回ったような足跡だらけだった。この空き家のような屋敷は、昼間になるとさらに広く感じられる。見つけられないほどではないにせよ、迷ってしまいそうな広さだ。
(おや?)
虚無僧は驚いた表情であたりを見回した。あるべき場所に酒の壺がない。だがすぐに炉のそばに倒れている壺を見つけた。壺は空っぽだった。そして、そのそばで肘枕をして、よだれを垂らしながらぐっすり眠っている男を見つけた。
「誰だ?」
虚無僧は腰を引きながら男を覗き込んだ。男は深い眠りの中で、撲られたとしても目を覚ましそうにない大鼾をかいていた。どうやら、酒を飲んだのはこの男に違いない――虚無僧はそう考えると、男の鼾に怒りを覚えた。
それだけではなかった。今朝の朝食として残しておいた鍋の飯が、見るとすっかり底を見せており、一粒も残っていなかった。
虚無僧の顔色が変わった。これでは自分が生き延びられない。
「おいっ!」
虚無僧は男を蹴飛ばした。
「う……うむ……」
寝ぼけた声を上げながら、又八は肘を外し、むっくりと頭を持ち上げた。
「おいっ!」
虚無僧はさらにもう一度、目覚まし代わりに男を蹴りつけた。
「何しやがる!」
目を覚ました又八は、青筋を立てながら怒りの声を上げ、のっそりと立ち上がった。
「俺を蹴りやがったな!」
「蹴ったくらいで腹は治らんわい。お前、誰に断ってこの雑炊と酒を食らったんだ?」
「お前のものか?」
「俺のだ!」
「そりゃあ悪かったな」
「『悪かった』で済むと思うなよ!」
「謝る」
「謝って済む問題じゃない!」
「じゃあ、どうしろってんだ?」
「返せ!」
「返せったって、もう腹の中だ。今日の命をつなぐために食ったんだから、どうにもならんだろ」
「俺だって生きていかねばならんのだ。一日中尺八を吹いて、家の門前に立っても、どうにかもらえるのは一炊の米と濁酒一合が限界だ。それを無断で、お前みたいな他人に食われて堪るか!返せ!返せ!」
虚無僧は飢えた顔に青筋を立て、餓鬼のように叫んだ。
「そんなみみっちいこと言うなよ」又八は虚無僧を軽蔑した目で見ながら、呟いた。「たかが鍋底の雑炊や、一合にも満たない濁り酒で青筋立てることもないだろう?」
虚無僧は怒りを抑えきれず、執拗に食い下がった。
「バカを言うな!残り飯でも、俺にとっては一日の糧だ、一日の命だ! 返せ!返さないなら――」
「で、何するつもりだ?」
虚無僧はグッと又八の腕を掴み、怒声を上げた。「ただじゃおかんぞ!」
「ふざけるな!」又八は腕を振りほどき、逆に虚無僧の襟を掴んで引き寄せた。
虚無僧は飢えた野良猫のように細く、骨ばった体つきだった。叩きつけてやろうと思ったが、虚無僧もまたしつこく、又八の喉に手を伸ばしてきた。驚くほどの粘り強さだ。
「こいつ……!」
又八は力を入れ直したが、虚無僧の足元は妙にしっかりしている。すると、逆に又八の顎が上がり、
「うッ……!」
奇妙な声を上げながら、ドタドタと次の部屋まで押し出され、壁に投げつけられてしまった。
屋敷の柱や根太はすっかり腐っており、又八は全身に壁土をかぶってしまった。
「ペッ、ペッ……」
又八は土を吐き出しながら立ち上がったが、虚無僧は一言も言わずに跳びかかってきた。虚無僧も、尺八を手に応戦したが、すぐに息が切れ、肩で荒い息をしている。それに比べ、又八はまだ若く、体力には余裕があった。
「ざまあ見ろ!」
又八は連続して斬りかかり、虚無僧に息をつく暇を与えない。虚無僧は鬼のような顔つきになり、体の動きも鈍く、何度もつまずきそうになるたびに、まるで死に際の叫びのような声を上げた。それでも虚無僧は、しぶとく逃げ回り、なかなか太刀を浴びせることはできなかった。
しかし、このしぶとさが、又八に油断を招かせた。虚無僧が猫のように庭へ飛び出した瞬間、それを追おうと又八が廊下を踏み込んだ途端、雨に朽ちていた縁板が「ミリッ」と割れ、片足を床下に突っ込んでしまった。又八が尻もちをついたのを見て、虚無僧は得意げに逆襲に転じ、
「うぬ、うぬ、うぬっ!」
と叫びながら、又八の胸ぐらを掴んで、顔や鬢に拳を叩きつけた。
片足が動かせず、又八は抵抗できなかった。彼の顔がみるみるうちに腫れ上がり、四斗樽のようになったかと思ったその時、揉み合いの中で又八の懐から金銀の小粒がこぼれ落ちた。撲られるたびに、小さな美しい音を立て、貨幣がそこらに散らばった。
「……やっ?」
虚無僧は手を止めた。
又八もようやく彼の手から逃れ、飛び退いた。
虚無僧は肩で息をしながら、地面に散らばった金銀に目を奪われていた。
「やいっ、畜生め……」
腫れた顔を抑えながら、又八は声を震わせて言った。
「なんだよ……たかが鍋底の雑炊や、一合ばかしの濁り酒が! こう見えても、俺は金なんて腐るほど持ってるんだよ! 餓鬼め、ガツガツすんな。それほど欲しいならくれてやる! でもな、その代わり、今俺を殴った分、次は俺が殴り返すから覚悟しとけ! さあ、冷飯と濁り酒代に利子をつけて返すぜ! 頭を出せ、頭をここに持ってこい!」
又八はどれだけ虚無僧を罵っても、相手はぐうの音も出さない。しばらくして、ようやく気を落ち着かせて虚無僧を見直すと、なんと虚無僧は縁板に顔を伏せて泣いていた。
「こん畜生、金を見たら急に哀れっぽくなりやがって」と、又八は毒づいたが、虚無僧の態度は先ほどまでとはまるで違っていた。
「あさましい……ああ、なんてあさましいんだ……俺はなんて馬鹿なんだ……」
虚無僧は、又八に向けているわけではなく、自分自身に向かって悔しそうに言っている。 その自己反省の激しさは尋常ではなく、まるで自分に対して裁きを下しているかのようだった。
「この馬鹿、貴様は一体いくつなんだ……こんなにまで世の中から落ちぶれて、まだ目が覚めないとは……」
虚無僧は、近くにあった黒い柱に自分の頭を何度も打ちつけながら泣いていた。自分の無様さを嘆く様子が痛々しい。
「お前、何のために尺八を吹いているんだ? 愚痴や邪念、迷い、執着、煩悩をすべて吹き飛ばすためだろう。それなのに、冷飯と酒の残りで命がけの喧嘩をするなんて……それも、息子ほどの年下の若者と……」
虚無僧の言葉は、痛烈な自己批判に変わっていた。その勢いは収まらず、自らの頭を柱に叩きつけ続ける。まるで、自分の頭が二つに割れるまで止まるつもりはなさそうだった。
その自責の念からの自己折檻は、又八を殴った数よりもはるかに多かった。又八はその様子を呆然と見つめていたが、虚無僧の額から血がにじみ出てくるのを見て、思わず声をかけた。
「ま、まあ……そこまでしなくてもいいだろ。そんな無茶な真似はやめた方がいいぞ」
「放っておいてくれ……」
「どうしたんだ?」
「どうもしない……」
「病気か?」
「病気じゃない」
「じゃあ、何だ?」
「ただ、この身が忌々しいだけだ。こんな肉体、鴉にでも喰わせてやった方がマシだが、この愚鈍のままで死ぬのも悔しい。せめて人並みに人生を全うしてから、野に捨ててやろうと思うが、自分の無能さが焦れったいんだ……病気だと言われれば、まあ、病気かもな……」
又八は、急に虚無僧が気の毒に思えてきた。そこらに散らばった金を拾い集め、いくらかを虚無僧の手に握らせながら言った。
「悪かったよ、これをやる。これで勘弁してくれ」
しかし、虚無僧は手を引っ込めて、きっぱりと言った。
「いらん、金なんていらん!」
さっきまで、鍋底の残り飯であれほど怒っていた虚無僧が、今度は金を汚物でも見るように拒絶し、膝まで後退した。
「変な奴だな、お前は」
「さほどでもない」
「いや、どう見てもおかしいところがあるぜ」
「どう思われようが勝手だ」
「虚無僧、お前、時々中国訛りが混ざってるな」
「姫路の人間だからな」
「ほう……俺は美作出身だ」
「作州か……」虚無僧は目を細め、じっと見つめながら言った。「で、作州のどこだ?」
「吉野郷だ」
「えっ……吉野郷とは懐かしいな。昔、日名倉の番所で目付役をしてたことがあるんだ。あの辺りのことはよく知っているぞ」
「じゃあ、お前は元姫路藩の侍だったのか?」
「そうだ、これでも以前は武士だった……青木……」
名乗りかけたが、虚無僧は今の自分を振り返り、名乗ることをやめた。
「嘘だ、今のは嘘だよ。……さて、町へ戻って尺八でも吹いてこようか」
そう言うと、虚無僧は立ち上がり、野へ向かって歩き去っていった。




