佐々木小次郎
何を思ったのか、武者修行中の男がその場にどっかりと腰を下ろした。面積一坪ほどの平らな石の前だ。座ってみると、ちょうど机くらいの高さになり、肘を楽に置ける感じだ。
「ふっ……ふっ……」
焼けた砂を息で吹き飛ばす。その勢いで蟻の列までも一緒に飛んでいく。
二つの肘をついて、編笠を頬杖に乗せたまま、男はじっと動かない。太陽が真上にあり、石は照り返し、草の熱気が顔にまとわりついてくるが、まるでその暑さを気にする様子もない。彼はただ黙々と、伏見城の工事を見つめていた。
少し離れた場所にいる又八の存在も気にかけていないようだった。又八もまた、自分に関係のないことだとばかりに、背を向けて休んでいた。頭も胸も重く、不快感にさいなまれながら、時折、胃からこみあげる生唾を吐き出していた。
――と、その苦しげな息を聞き取ったのだろうか。編笠の男がふと動き、声をかけた。
「石曳きよ、どうした?」
「へい……暑さにやられたみたいで」
「苦しいのか」
「少しは落ち着きましたが……まだ吐き気がするんです」
「薬をやろう」
男は印籠を開けて、黒い粒を手のひらに取り出し、立ち上がって又八の口にそれを入れてやった。
「すぐに楽になる」
「ありがとうございます」
「苦いか?」
「いや、そんなに苦くはないです」
「まだそこで休んでいるのか?」
「へい……」
「誰か来たら、俺に声をかけてくれ。小石を投げて合図してもいいぞ。頼む」
そう言って男は元の場所に戻り、今度は矢立から筆を取り出し、懐中手帖を石の上に広げて、何かを書き始めた。
笠のつば越しに彼の視線が城に向かったり、また城の外に移ったり、時には城の後ろにある山や川の位置、そして天守を見渡したりしている。どうやら伏見城の地形や構造を緻密に絵図に描き写しているようだった。
伏見城は、関ヶ原の戦いの直前に西軍の浮田勢や島津勢に攻められ、多くの部分が破壊された。しかし、今では太閤時代の姿をさらに鉄壁のように強化し、まるで一衣帯水の大坂城を睥睨しているかのようだ。
編笠の男が熱心に描いている地図を覗いてみると、どうやら彼は以前に伏見山や大亀谷から城を俯瞰し、裏側からの地図も描いていたようだ。その絵図は非常に精密なもので、城の細かな部分までもが描かれているようだった。
「……あっ」
又八が小さく声を漏らした時、編笠の男の背後には、草鞋を履いた侍が黙って立っていた。彼は半具足を着け、太刀を革紐で背に負っている。侍が現れたことを、武者修行中の男はまだ気づいていない。
――すまないことをした。又八は心の中で謝った。だが、もう遅い。石を投げて合図することも、声をかけることもできなかった。
その時、武者修行の男は馬蠅を払おうと手を動かし、ふと振り返って驚きの声を上げた。
「――あ?」
侍はじっと男を見つめ返し、黙って石の上に広げられた絵図に手を伸ばした。
炎天下で汗だくになりながら、苦労して描き上げた伏見城の見取り図。それが無言で、いきなり肩越しに伸びてきた手に掴まれ、奪われそうになった瞬間、武者修行中の男はまるで火薬が爆発したかのように叫んだ。
「何するかッ!」
怒声を上げると同時に、相手の手首をつかんで立ち上がった。その相手は、工事を監督している侍だったが、男が描いた見取り図を奪われまいと必死に掲げたまま言い放った。
「見せろ」
「無礼者ッ!」
「役目だ」
「何の役目だろうが関係ない!」
「見ては悪いものか?」
「悪いに決まってるだろうが!貴様には理解できないものだ!」
「とにかく、これは預かる」
「いかん!」
二人の力がぶつかり、見取り図は引っ張り合いの末、真っ二つに裂かれた。二人は半分ずつを握りしめ、睨み合う。
「引き立てるぞ。大人しくしなければ」
「どこへだ?」
「奉行所だ」
「貴様、役人か?」
「そうだ」
「どこの役人だ?誰に仕えている?」
「そんなことは貴様には関係ない。こちらは工事場の見回り役だ。不審と見て調べている。誰の許可でお城の地勢や普請を写し取ったのか?」
「俺は武者修行中だ。後学のために諸国を巡り、築城技術を学んでいる。それの何が悪い?」
「そんな口実でうろついている敵の間者は、蠅や蟻ほどいるのだ……とにかく、この写図は返せない。貴様も一度取り調べを受けろ。さあ、こちらへ来い」
「こちらとはどこだ?」
「工事奉行のお白洲だ」
「俺を罪人扱いするつもりか?」
「黙って来い」
「役人、こらっ!――貴様、そんな権威を振りかざして、愚民を驚かせる癖がついてるな」
「歩け!」
「歩かせてみろ」
男は一歩も動かない。見回りの侍は青筋を立て、握りしめていた写図の破れた断片を地面に投げ捨て、踏みにじった。腰から二尺余りの長い十手を抜き、身構えた。
武者修行の男が刀に手をかけたら、その肘に十手で打撃を入れるつもりだったのだろう。だが、男は刀を抜くそぶりも見せず、代わりに一歩前に出た。
瞬間、大きな声を上げたかと思うと、侍は首根っこをつかまれていた。武者修行の男は片手で侍の腰をつかむと、
「この、虫けらめ!」
と言い放ち、巨石の角へ向かって侍を投げ飛ばした。侍の頭は、まるで先ほど石曳きの男たちが割った西瓜のように砕け散り、その場で絶命した。
「……アッ!」
又八は顔を押さえた。真っ赤な何かが飛び散り、彼の近くまで跳ねてきたのだ。
しかし、まるで何事もなかったかのように平然としているのは、向こう側にいる武者修行の男だった。どうやらこんな殺人には慣れているのか、あるいは、一度激しい怒りを爆発させてから冷静さを取り戻したのか、彼は焦ることなく散らばった写図の断片や反古を拾い集め始めた。そして、相手を投げ飛ばした際に飛んで行った編笠を、静かな目で捜している。
「…………」
又八は、凄まじい恐怖に打たれていた。その男の圧倒的な力を目の当たりにして、全身の毛穴が逆立つような感覚に襲われた。見るところ、この男はまだ三十歳にも届いていないようだ。日焼けした骨太の顔には薄いあばたがあり、耳の下から顎にかけては奇妙な刀傷が残っている。まるで顔の一部がないかのように見えるほど、刀で斬られた痕が歪んで縮んでしまっていた。耳の裏にも黒い刀傷があり、さらに左手の甲にも深い傷跡が見える。きっと肌着を脱げば、体中に同じような刀傷が残っているのだろう。
その顔には、近寄りがたい猛々しさが漂っていた。
編笠を拾って、怪異なその顔を隠すと、武者修行は一気に足を速めた。まるで風のように、その場から彼方へと走り去った。当然、そこまでの一連の出来事は非常に短い時間でのことだった。何百人もの石曳きの労働者たちや、彼らを叱咤する監督たちも、誰一人として気づく暇がなかったほどだ。
だが、この広い工事場を常に高所から見渡している者がいた。それは、丸太で組まれた櫓の上にいる棟梁や作事奉行の与力だった。突然、櫓の上から大きな声が響くと、櫓の下で湯呑み場の板小屋にいた足軽たちが、一斉に動き出した。
「なんだ?」
「また喧嘩か?」
彼らは外へ飛び出していった。
その時、作業場と町屋の境にある竹矢来の門のあたりに、真っ黒な人だかりができ、怒号が飛び交っていた。黄土色の埃に包まれながら。
「間者だ!大坂のスパイだ!」
「また懲りずに現れやがった!」
「ぶっ殺せ!」
口々にそう叫びながら、石工や土工、工事奉行の配下たちは、まるで自分の敵でもいるかのように駆け集まっていく。
捕まったのは、半分顎のない武者修行だった。竹矢来の外に出ようとして、牛車の陰に隠れ、木戸を素早くすり抜けようとしたが、そこで番衆に挙動を怪しまれ、刺叉という道具でいきなり足を絡め取られたのだ。
そこへ櫓の上からも、「その編笠を引っ捕えろ!」という声がかかり、理由も聞かずに取り押さえにかかった。しかし、武者修行は顔つきを変え、まるで野獣のように死にもの狂いで反撃を開始した。
刺叉を引っ奪られた番衆の一人は、得物の先で髪を引っかけられて倒れた。四、五人を叩き伏せると、武者修行は腰に差していた大太刀を一閃させた。その太刀は普通の差し物にしては頑丈すぎるが、陣太刀としては手ごろなものである。
額の真っ向にその大太刀を振り上げ、
「こいつらッ!」
と睨みをきかせただけで、周りの者たちは一瞬ひるんで退いた。武者修行はその隙を逃さず、血路を開こうと駆け込んでいった。
すると、危険を避けて群衆は四方へ散ったが、途端に八方から無数の小石が降ってきた。
「やっちまえ!」
「ぶっ殺せ!」
臆した侍たちは近づこうとしなかったが、武者修行という者に対して無産の者たちは、日頃の憎しみを爆発させていた。彼らは労働者であり、少しばかりの知識や学問を鼻にかけて世間を威張って歩く侍や武者たちに、常々反感を抱いていたのだ。
「やっちまえ!」
「のしちまえ!」
四方から無数の石つぶてが飛んできた。
「この凡下どもめ!」
武者修行は叫びながら突っ込むが、その度に敵はわっと散っていく。彼の目は、もはや自分の生きる道を探すのではなく、ただ石を投げる者たちを睨みつけ、その理智を超えた本能で動いていた。
多くの怪我人、そして何人かの死者が出たが、それも一瞬の出来事だった。すぐに工事場の広大な空間は、まるで何も起こらなかったかのように元通りに戻っていた。石曳きの人々は再び石を曳き、土工たちは土を運び、石工たちは鑿で石を割っていた。
石を割る鑿が火花を散らす鋭い音、霍乱を起こして暴れ狂う馬のいななき、そして午後の残暑がますます鼓膜を麻痺させるほどの熱さとなり、伏見城から淀に向かってそびえ立つ雲の峰も、しばらく動きを見せなかった。
「もう九分九厘、こいつはくたばっているが、御奉行が来るまでこのまま置いておけ。お前はここにいて、こいつを見張っていろ。死んだら死んだで構わん」
人足頭や目付の侍からそう命じられたことを、又八はぼんやりと思い出していた。だが、頭の中が混乱しているのか、先ほど見た凄惨な光景と、その後に命じられたことがまるで悪夢の中にいるかのようで、目や耳では理解しているが、心の奥底には届いていなかった。
「……人間なんて、つまらねえもんだな。さっきまで、あそこで城の見取り図を写していたあの男が……」
又八の鈍い目は、十歩ほど先の地面に横たわる一つの物体をじっと見つめていた。その虚ろな目には虚無的な考えが広がっていた。
「……もう死んじまってるらしいな。まだ三十前だろうに」
そう心の中でつぶやく。
顎の半分がない武者修行の男は、太い麻縄で縛られ、土と血で黒く汚れた顔を無念そうにしかめたまま、横たわっている。縄の端は近くの大きな石に巻きつけられていた。死んでいる体をそんなに大げさに縛っておく必要もなさそうだと、又八は冷めた目で見ていた。
「何で撲られたんだろうな……」
破れた袴から露出している脚の脛は、肉が弾けて骨が飛び出しており、髪は血で固まり、その血には虻が群がっていた。手や脚にはすでに蟻が這い回っている。
「武者修行に出たからには、何か望みがあっただろうに……。故郷はどこだ? 親はいるのか、いないのか」
そんなことを考えると、又八は嫌な気持ちになった。死んだ男の一生を思うのか、それとも自分の将来を考えるのか、よくわからなくなってきた。
「望みを抱くにしても、もっと賢く出世する方法があっただろうに」
又八はぼそっとつぶやいた。
時代は若者たちに野望を抱かせ、「夢を持て」「立ち上がれ」と鼓舞する時代だった。又八ですら、その社会の空気を感じるほどだった。今や、裸一貫から一国一城の主を夢見ることができる時代なのだ。
若者たちは次々と故郷を離れ、家族も顧みずに旅立っていく。その多くが武者修行の道を選ぶ。武者修行をすれば、どこに行っても衣食に困ることはない。田舎の人々でさえ武術に関心があり、寺に頼れば渡り歩くこともできる。運が良ければ地方の豪族の客となり、大名の「捨て扶持」や「蔭扶持」を得ることさえある。
しかし、そんな幸運に巡り合う者はごくわずかだ。功成り名を遂げ、一人前の禄を得る者は、一万人中で二、三人に過ぎない。それにもかかわらず、武者修行の道には終わりがない。成功の道は険しく、卒業もない。
(馬鹿馬鹿しい……)
又八は、自分の同郷である宮本武蔵が選んだ道を心の中で哀れんだ。将来、奴を見返すにしても、こんな愚かな道は取らないと決意する。そして今、目の前にいる顎のない武者修行の死体を見ても、そう思わずにはいられなかった。
「……おやっ?」
突然、又八は飛びのいて驚愕した。なぜなら、死んだものだと思っていたその武者修行の男が、蟻まみれの手を動かし始めたのだ。縄目の間から手首がすっと出て、地面に手をつくと、腹を上げ、顔を上げ、次にずるりと一尺ばかり前に這い出してきたのだ。
ぐ……っと生唾を飲み込んで、又八はさらに後ろへずり下がった。腹の底から感じる恐怖に、声すら出なかった。ただ目を大きく見開き、目前の現実に茫然としていた。
「……ひゅっ……ひゅっ……」
何かを言おうとしている――それは顎の半分がない武者修行の男だった。完全に死んでいると思っていたこの男は、まだ生きていたのだ。
……ヒュッ、ヒュッと断続的に喉から鳴る息音が、かすかに響く。唇は黒く乾いており、もはや言葉を発するのは不可能に見えた。それでも必死に何かを言おうとして、呼吸が割れた笛のような音を出していた。
又八が驚いているのは、この男が生きていたからではなかった。彼が縛られた両手で地を這ってきたからだ。それだけでも驚くべきことだが、さらに驚くべきは、その男が引きずっている巨石――何十貫もあるその石が、彼の瀕死の力で、ズル、ズル……と一尺二尺と動いていることだった。
まるで化け物のような怪力だ。この工事場には力自慢の労働者が多く、十人力、二十人力を自称する者もいるが、こんな怪力の持ち主は一人もいない。
しかも、今まさに死なんとしている男がこれほどの力を発揮しているのだ。死の淵に立つ者には、人間離れした力が湧き出るのかもしれない。しかし、その飛び出しそうな目が自分を見据えて這い寄ってくるのを目にした又八は、恐怖で腰が抜けてしまった。
「……しょっ……しょっ……お、お、おねがい」
また何かを言おうとしているようだ。言葉はほとんど意味をなしていないが、その血走った目には、死の間際の哀願がこもっていた。目の中にはかすかに涙が浮かんでいた。
「……たっ……た……たのむ……」
その瞬間、男はがくりと首を前に垂れた。今度こそ本当に息が絶えたのだろう。見る間に、首の皮膚が青黒く沈んでいった。すでに草むらの蟻が白っぽい髪にたかり、鼻の穴をのぞき込んでいた。
「? ……」
何を頼まれたのか、又八はぼんやりと立ち尽くしていた。しかし、この怪力の武者修行の最後の念が、自分に何かの責務を課しているような気がしてならなかった。――自分の病気を見て薬をくれたり、誰かが来たら合図してくれと言われたのに、それを怠ってしまったことが、妙に深刻な宿命のように思えてきた。
――遠くで石曳き唄が聞こえていた。伏見城は夕靄にかすみ、町には早い灯りがぽつぽつと点り始めていた。
「そうだ……何かこの中に」
又八は、死者の腰に結びつけられた武者修行の風呂敷をそっと触ってみた。――中を見れば、この男の出身や家族のことがわかるかもしれない。
(故郷に遺物を届けてくれということかもしれないな……)
そう思い、風呂敷と印籠を死者の体から取って自分の懐に入れた。そして、遺髪でも切って持ち帰ろうと考えたが、死者の顔を見た途端、恐怖が襲ってきた。
――その時、足音が聞こえた。
石の陰から覗くと、奉行の配下の侍たちがこちらへ近づいていた。又八は、死者から無断で取った品が自分の懐にあることを思い出し、危険を感じた。そこに居続けることはできなかった。
背を低くして、石陰から石陰へと、野鼠のように逃げ去っていった。
夕暮れの風はもう秋の気配を漂わせていた。糸瓜はすでに大きく成長しており、その下で駄菓子屋の女房が、盥の湯に浸かっていた。家の中の物音に反応し、戸板の陰から白い肌を覗かせて声をかけた。
「誰だえ。又八さんかい?」
又八はこの家に同居していた。
あたふたと帰ってきた彼は、戸棚を掻き回し、一枚の単衣と一腰の刀を取り出して急いで身支度を整え、手拭いで頬を覆いながら草履を穿こうとしていた。
「暗かろ、又八さん」
「いや、大丈夫だ」
「今すぐ灯りをつけるよ」
「そんな暇はない、出かけるんだ」
「行水は?」
「いらん」
「体でも拭いて行ったら?」
「いらん!」
急いで裏口から飛び出していった。と言っても、垣も戸もない草原の続きだ。又八が長屋を出たのと入れ違いに、数名の人影が萱の彼方を通って、駄菓子屋の裏表へと入っていくのが見えた。工事場の侍も混じっていた。又八は思わず呟いた。
「あぶないところだった……」
顎の半分がない武者修行の死体から、包みや印籠を取ったことがすぐに発見されたのだろう。自分が側にいたため、盗人として疑われたに違いない。
「だが、俺は盗みなんてしていない。あの武者修行の頼みでやむを得ず預かったんだ」
又八は自分が何も悪いことをしていないと強く思った。懐にはその品を持っているが、あくまで「預かった」ものだと認識していた。
「もう石曳きには戻れないな……」
明日からの放浪生活に、なんの当てもなかった。しかし、こういう転機がなければ、何年でも石を曳いていたかもしれないと思うと、かえって未来が明るく感じられた。
萱の葉が肩にかかる。夕露が溢れ、遠くから見つかる心配もなく逃げるには好都合だった。さて、どこへ行こうか?どこへ行こうと、体ひとつである。何か良い運や悪い運が待っているかのように思えた。今、どちらの方向へ向かうかで、人生が大きく変わるだろう。偶然に身を任せて進むしかない、と考えた。
大坂、京都、名古屋、江戸――行く先々を考えてみるが、知り合いがいるわけでもなく、賽ころの目を頼るように心細い。賽ころに必然がないように、又八の人生にも必然はなかった。何か偶然が起こるなら、それに引かれて進むしかない。
だが、伏見の里の萱原を歩いても、何の偶然にも出会わなかった。虫の音と露が深まるばかりだ。単衣の裾はびっしょりと濡れて足にまとわりつき、草の実がついて脛がむず痒い。
又八は、昼間の病苦を忘れた代わりに、すっかり空腹になっていた。胃液すら空っぽだった。追手の心配がなくなると、急に歩くことが苦痛に感じられた。
「……どこかで寝たいな」
その思いが、彼を無意識に一軒の屋敷に運んでいた。遠くに見えたその屋敷は、かつて貴人の別荘であったかもしれないが、今は荒れ果て、垣も門も風で倒れたまま起こされることもなく放置されている。
又八は無門の門を通り、中へ入った。秋草に埋もれた離れや母屋を見渡し、ふと西行の和歌を思い出した。
「わけて入る袖にあはれをかけよとて露けき庭に虫さへぞ啼く」
そんな一節を思い浮かべながら、肌寒げに立ちすくんでいると、当然のように誰も住んでいないと思っていた屋敷の奥から、風に揺られて炉の火がぱっと赤く輝いた。しばらくすると、尺八の音がそこから聞こえ出した。
虚無僧らしき人物が、炉の火の前で一夜を明かしているようだった。炉の赤い火が立ち上がり、大きな人影が壁に映る。彼は独り、尺八を吹いていた。それは誰かに聞かせようとしているわけでもなく、自己陶酔のためでもなかった。秋の夜の孤独を、無我の境地で静かに過ごしているのだ。
一曲が終わると、虚無僧はぽつりと独り言を漏らした。
「四十不惑というが……俺は四十を七つも過ぎてから、あんな失策をやらかしてしまった。禄を失い、家名を潰し、挙げ句の果てに一人息子まで他国へ流浪させる羽目になった……。考えれば慚愧に耐えない。死んだ妻にも、生きている子にも、会わせる顔がない……」
虚無僧は尺八を前に置き、その歌口に両手を重ね、天井を見上げながら語り続けた。
「四十不惑なんてのは、聖人の言葉だ。凡人にとって、四十代ほど危ういものはない……特に女のことに関してはな……」
彼の声は、自分を責めるように低く落ち着いていた。
「二十代や三十代の頃は、女のことで失敗しても、人は許してくれたし、それが生涯の汚点になることもなかった……だが、四十代となると違う。女に対して臆面のない振る舞いが、今度は世間に許されない。それが致命的な外聞となり、禄も家も、わが子も失う結果になってしまった……」
彼の声はどこか寂しげだった。
「二十代や三十代の頃の失敗なら、まだ取り返せるかもしれないが、四十代の失敗は、二度と芽を出すことが難しい……」
虚無僧は盲人のように俯いて、自嘲するような声を漏らし続けた。
――その場にいた又八は、彼の話に耳を傾けつつ、恐怖に打たれていた。炉の火に浮かび上がる虚無僧の痩せ衰えた頬や尖った肩、油気のない乱れた髪を見つめながら、彼の独白を聞いていると、まるで夜の鬼の姿を見ているようで、話しかける勇気など到底湧かなかった。
虚無僧は、天井を仰いで言葉を続けた。
「俺はいいさ、こうして懺悔の中で、自然の中に生きていられるからな……だが、許されないのはわが子に対してだ。俺の失敗は、俺に返ってくるよりも、あの城太郎の方へ祟っている……。もし俺が、まだ藩士として誇り高く生きていれば、城太郎も千石侍の息子として誇れるはずだった。それが今では、故郷を離れ、父を離れ……」
虚無僧はしばらく顔を両手で覆い、深い悔しさに沈んでいた。
「……城太郎が成人して、この父が四十代で女のことで藩から追放されたと知る日が来たら……俺はどうすればいいんだ。子に会わせる顔がない……」
彼はそう言いながら、静かに涙を流していた。
しばらくの沈黙の後、何かを思い立ったかのように、虚無僧は炉のそばを立ち上がり、
「もう愚痴はやめよう……月が出たな。野へ出て、愚痴も煩悩もすべて捨ててこよう」
そう言って、彼は尺八を手に取り、外へと出て行った。
虚無僧は妙な男だった。よろよろと立ち去る様子を、物陰から見ていた又八は、その鼻の下に薄い泥鰌髭が生えていたことを思い出した。歳はそれほど取っているわけではないのに、足元はひどくよろけていた。
虚無僧は外へ出て行ったきり、なかなか戻ってこなかった。少し精神に異常があるのだろうと、又八は不気味に感じる一方で、哀れな気持ちも抱いていた。それよりも気がかりだったのは、炉に残された火であった。ぱちぱちと夜風に煽られて、燃え折れた柴が床を焦がしていた。
「あぶねえ、あぶねえ……」
又八は炉に駆け寄り、土瓶の水を火にかけて消した。ここが野中の荒れ果てた屋敷だからよかったものの、もしも飛鳥朝や鎌倉時代の貴重な寺院だったらどうなっていたことか、と思いを巡らせた。
「あんなのがいるから、奈良や高野でも火事が起こるんだ……」
彼は虚無僧が去った後、がらにもない公徳心を感じながらそう呟いた。
浮浪者たちは、家産も妻子もない代わりに、社会への公徳心も持ち合わせていないようだった。彼らには火が危険だという観念がないから、平然と金堂の中で火を焚いたりする。己の寒さを凌ぐためだけに火を燃やすことを当然と考えているのだ。
「でも……浮浪者だけを責めるわけにもいかねえな……」
又八は自分も浮浪者であることを思い出し、考えた。今の世の中ほど浮浪者が多い社会はない。それは、戦が生み出したものだ。戦によって地位を占める者がいる一方で、捨てられてゆく者も多い。これが次の時代の文化の手枷や足枷となるのも、避けられない自然の因果だろう。
「……ほ、洒落たもんがあるぞ」
ふと横を見ると、又八はそう呟いた。ここは破れた屋敷だが、炉や床の間を見る限り、かつては茶屋として使われていたような閑雅な造りだった。そこに置かれた物が彼の目を引いた。
高価な花瓶や香炉ではなく、口の欠けた徳利と黒い鍋だった。鍋には食べ残した雑炊が半分残っており、徳利を振るとごぼごぼと音がして、欠けた口から酒の匂いが漂ってきた。
「ありがてえ……」
こういう状況では、他人の所有権など気にする暇はない。又八は徳利の濁り酒を飲み干し、鍋の雑炊を食べ尽くした。
「ああ、腹がいっぱいだ……」
満腹になると、彼は炉の前にごろんと横になり、トロトロと眠りに落ちかけた。野外の虫の音が雨のように響き、夜は深まっていった。外だけでなく、壁も天井も破れた畳までもが鳴き始めた。
「そうだ……」
何かを思い出したように、又八はむくりと起き上がった。懐にある一つの包み――あの顎の半分がない武者修行から、死に際に託された包み――を開けてみようという気になったらしい。
彼は包みを解いた。中から出てきたのは、蘇芳染の汚れた風呂敷に包まれたものだった。中には、洗いざらしの襦袢や、旅人が持ち歩くような日用品が詰まっていた。しかし、その着替えの中に、大事そうに油紙で包まれた巻物と、重みのある路銀の入れ物がどさっと膝の前に落ちた。
又八が手にしたのは、紫色の革の巾着だった。その中には金と銀が混じっており、かなりの額が入っていた。又八はそれを数えているうちに、心が恐ろしくなり、思わず声を漏らした。
「これは他人の金だ……」
もう一つの油紙に包まれていたものを開いてみると、それは一軸の巻物だった。軸には花梨の木が使われ、表装には金襴の古い裂れが使われていて、何とも言えない神聖な雰囲気が漂っていた。
「何だろう……?」
見当がつかない品物だった。巻物を下に置き、端から徐々に広げてみると、そこには次のような文字が記されていた。
印可
一 中条流太刀之法
一 表
電光、車、円流、浮き舟
一 裏
金剛、高上、無極
一 右七剣
神文之上
口伝授受之事
月 日
越前宇坂之庄浄教寺村
富田入道勢源門流
後学 鐘巻自斎
佐々木小次郎殿
その後には、さらに「奥書」と題された紙片が貼り足されており、そこには一首の極意の歌が書かれていた。
掘らぬ井に
たまらぬ水に
月映さして
影もかたちもなき
人ぞ汲む
「……ははあ、これは剣術の皆伝の目録だな」
そこまでは又八にも理解できたが、鐘巻自斎という人物については、何の知識もなかった。
もっとも、伊藤弥五郎景久といえば、すぐに「一刀流を創始した達人、一刀斎」と合点がいっただろうが、その伊藤一刀斎の師である鐘巻自斎という人物は、全く知られていなかった。
「――佐々木小次郎殿……か。ああ、そうか。あの伏見の城工事で無残に死んだ武者修行者の名前だな」
又八はここで頷き、続けて言った。
「強いはずだ。この目録を見れば分かるが、中条流の印可を受けているのだからな。惜しい死に方をしたもんだ……きっとこの世に未練があったんだろう。あの最期の顔は、死にたくないという顔つきだった……そして俺に頼んだのは、やはりこの品を託したかったんだろうな。これを郷里にでも届けてくれと言いたかったに違いない」
又八は、死んだ佐々木小次郎のために口の中で念仏を唱えた。そして、この二つの品を必ず死者の望む場所へ届けてやろうと心に誓った。
その後、彼は再びごろりと横になり、寒さを感じながら炉に柴をくべて、火の温もりに包まれながらウトウトと眠りについた。
外からは、奇妙な虚無僧が吹いているであろう尺八の音が、遠い野面から響いていた。彼が出て行く時に呟いていたように、愚痴や煩悩を捨て去ろうとする必死さがその音色に滲み出ているのかもしれない。尺八の音は、夜通し物狂おしいほどに野をさまよい続けたが、疲れ切った又八はそのまま熟睡し、尺八の音も虫の声も、すべて夢の中で遠ざかっていった。




