西瓜
伏見桃山の城をぐるりと取り囲む淀川の水は、そのまま何里も流れて、遠く大坂城の石垣にも届いている。だから、京都あたりの政治的な動きがあれば、それは敏感に大坂にも伝わるし、大坂側の動きもまたすぐに伏見に影響を与える。まるで、川を通じて情報が流れているみたいだ。
そして今、この淀川を挟んで、摂津と山城の国では、日本の文化が大きな変化の中にあった。かつての太閤、豊臣秀吉が亡くなった後、その息子・秀頼と淀君の大坂城は、まるで沈む夕日のように、その権力の名残を誇示していた。一方、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、伏見に居を構え、戦後の大計画を進めている。そしてこの二つの大きな勢力、すなわち豊臣と徳川、二つの文化の流れは、まるで川の水が合流するように、時には衝突し、時には混ざり合っていく。それは、船や町を行き交う人々の服装や、流行歌にまで反映され、さらに、職を探している浪人たちの表情にさえ現れていた。
「これからどうなるんだ?」
「どうなるって、何の話だ?」
「世の中さ。変わるのか?」
「もちろんだ。変わらない世の中なんて存在しない。そんなもの、藤原道長の時代から今日まで、一日だってあったためしはないぜ。源氏や平氏が政権を取るようになってからは、さらに早く変わるようになった」
「つまり、また戦争になるってことか」
「今さら戦のない平和な時代に戻そうとしても、もう無理だな」
「大坂でも諸国の浪人たちを集めているらしい」
「……そうだろうな。あんまり大きな声では言えないが、徳川様も南蛮船から銃や弾薬を大量に買い込んでいるって話だ」
「それにしても、大御所様の孫娘、千姫を秀頼様に嫁がせたのはどういうことだ?」
「天下人のすることは、凡人には理解できないものさ」
焼けるような暑さだった。河の水は沸騰しているように見え、秋が近づいているはずなのに、この夏の暑さはさらに厳しさを増していた。淀の京橋口の柳はぐったりと垂れ下がり、狂ったような油蝉が一匹、川を横切って町屋の中に飛び込んでいった。その町はもう夕暮れの灯火さえ消えたように静まり返り、灰をかぶったかのように乾いた板屋根が並んでいた。橋の上下には無数の石船が停まっていて、見渡す限り石ばかり。川も陸も石だらけだった。
その大きな石の上には、労働者たちが無感覚に寝転がったり、腰を下ろしたり、仰向けに横たわったりしていた。昼飯を食べた後の休憩を楽しんでいるところらしい。材木を下ろしている牛車の牛も、蠅にたかられながら動かずにじっとしている。
伏見城の修築工事が進んでいた。だが、この工事は家康が伏見に滞在しているからではない。これは徳川の戦後政策の一環だった。
譜代大名たちの気を引き締めるために――そして、外様大名たちの経済力を削ぐために。さらには、一般の民衆に対して、徳川の政策を示すために、全国各地で土木工事が行われていたのだ。下層民に仕事を与え、金を回すことが目的でもあった。
今、江戸城、名古屋城、駿府城、越後高田城、彦根城、亀山城、大津城など、全国各地で大規模な城普請が行われていた。
伏見城の土木工事には、日雇いの労働者が毎日千人近く集まっていた。その多くは、新しい城郭の石垣を積み上げる作業に従事していた。伏見の町は、その影響で急速に賑やかになり、売女や物売り、そして馬蠅のような連中が増えた。
「いやぁ、これは大御所様の景気だねえ」
人々は徳川の政策を称賛していた。その上で、町人たちは戦争が起こる可能性を感じ取り、利を見据えた動きも活発になっていた。社会の出来事すべてをそろばん勘定に乗せて、「ここで儲けるチャンスだ」と無言のうちに商品が動いていた。それらの大部分は、言うまでもなく軍需品だった。
庶民たちの心は、すでに太閤時代の文化を懐かしむよりも、大御所様の政策に心酔しかけていた。誰が支配者であろうと構わない。自分たちの小さな欲望が満たされさえすれば、不満はなかったのだ。
家康は、そのような愚かな民衆心理を裏切ることはなかった。子供にお菓子を撒くよりも簡単に彼らを操ることができた。しかも、徳川家の金を使わずに、外様大名たちに工事を課して、彼らの力を程よく削りつつ、効果を上げていったのだ。
このような都市政策が進む一方で、大御所の政治は農村にも目を向けていた。従来のような放漫な徴発や国持ちまかせのやり方を許さず、徳川式の封建政策を少しずつ布いていた。
その方針は、次のような理念に基づいていた。
「民に政治を知らせてはならぬ。政治に頼らせることこそが肝要である」
「百姓は、飢えない程度に生かし、気ままをさせぬことこそが慈悲である」
こうした方針により、徳川中心の長期的な安定が図られていた。この政策は、大名や町人にも同じように適用され、将来孫子の代に至るまで、封建的な統制の鎖として残ることになる。だが、そんな遠い未来のことを考える者はいなかった。ましてや、城の石を運んで稼ぎに来ている労働者たちなど、明日のことさえ考えていなかった。
昼飯を食べれば、彼らの望みはただ一つだった。
「早く晩になれ」
それでも、時勢に関する話題は尽きなかった。
「戦争になるのか?」
「なるとしたら、いつごろだ?」
そんな時局の話題が、盛んに交わされていた。しかし、彼らの心にはどこか冷めた思いがあった。
「戦争になったところで、俺たちはこれ以上悪くなりようがねぇ」
そういう感覚だった。真剣に時局を憂うわけでも、平和の岐路を案じるわけでもなく、ただ日々を過ごしていた。
「――西瓜いらんか?」
昼休みになるとやって来る百姓娘が、西瓜を抱えた籠を持って声をかけてきた。石の陰で博打をしていた労働者たちの中から、二つ売れた。
「こちらの衆、西瓜どうだい?西瓜買ってくれなはらんか」
娘が他のグループにも声をかけていると、群れの中から野次が飛んだ。
「バカヤロー、銭がねえんだよ」
「ただなら食ってやるぜ」
そんな声ばかりが響いた。
すると、ひとりの若い労働者が、石と石の間に寄りかかって膝を抱えながら、力のない目を上げた。
「西瓜か」
痩せこけた体に、くぼんだ目。日焼けで顔は変わり果てていたが、その労働者は本位田又八だった。
又八は、手のひらの上で土のついた青銭を数え、西瓜売りに渡して西瓜を一つ手に入れた。それを抱え込むと、石に寄りかかったまま、ぐったりと俯いて動かない。
「げ……げ……」
突然、片手を地面につき、まるで牛のように唾を吐いた。西瓜は膝から転がり落ちたが、それを拾おうとする気力もなく、食べるつもりで買ったわけでもなさそうだった。
「…………」
又八は、虚ろな目で西瓜を見つめていた。その目はまるで虚無のようで、何の意思も希望も感じられなかった。息をするたびに肩がわずかに動く。
「……畜生」
心に浮かんでくるのは、呪いたくなるような人物たちばかりだった。お甲の白い顔や、武蔵の姿が頭をよぎる。今のような逆境に陥っている自分の過去を振り返ると、武蔵がいなければ、あるいはお甲と会わなければ、こんなことにはならなかったのだと考えてしまう。
あの一歩が誤りだったのは、関ヶ原の戦いの時だ。その次は、お甲の誘惑だった。もしあの二つがなければ、自分は今も故郷にいて、本位田家の当主として、美しい嫁をもらい、村の人々から羨まれる身であったはずだ。
「お通は、今頃自分を恨んでいるだろうな……。どうしているだろうか」
彼の今の生活で、唯一の慰めは、お通のことを思い浮かべることだった。お甲という女の本性を理解してからは、お甲と暮らしている間にも心はお通へと戻っていた。そして、お甲の家を追い出されるように去ってからは、ますますお通を思うことが多くなった。
その後、洛内の侍たちの間で噂になっている新進の剣士、宮本武蔵が、かつての友、武蔵だと知った時、又八はじっとしていられなかった。
(よしっ、俺だって!)
彼は酒をやめ、怠けた生活を捨てた。そして、新たな生活に向かおうと決意した。
(お甲のやつ、見返してやる!――見ていろよ)
だが、すぐに適当な仕事が見つからなかった。五年も世間を知らず、年上の女に養われていた自分の愚かさがようやく痛感されてきたが、もう遅かった。
(いや、遅かない。俺はまだ二十二だ。これからどんなことだってできる……!)
これは誰にでも感じる程度の興奮だったが、又八にとっては運命を越えるほどの決意を胸に抱き、この伏見城の土木作業に身を投じた。そして、夏から秋にかけての炎天下で、驚くほどの忍耐で働き続けていた。
(俺だって、一人前の男になってやる!武蔵のやっていることくらい、俺にできないわけがない。今にあいつを尻目にして、出世してみせる。そしたら、お甲にも黙って復讐できる……見ていろ、十年以内には!)
だが――と、又八はふと思った――十年経ったら、お通は何歳になるだろうかと。
武蔵や自分より一つ年下の彼女は、今から十年経つうちに三十を越えてしまう。
(それまで、お通は独りで待っているだろうか?)
故郷のことは何も知らない又八だった。そう考えると、十年は長すぎる。少なくとも五、六年以内には身を立てて、故郷に戻り、お通に詫びて迎えに行かなければならない。
「そうだ……五年か、六年のうちに」
西瓜を見つめていた又八の目に、少し光が戻った。その時、大きな石の向こうから仲間の一人が肘をついて声をかけてきた。
「おい、又八、何をひとりでぶつぶつ言ってるんだ?……おや、なんだか青い顔をしてるじゃねぇか。どうしたんだ?腐った西瓜でも食って腹を壊したのか?」
又八は、無理に元気を装い、薄く笑った。しかし、すぐに不快感がこみ上げてきて、生唾を吐き、顔を振った。
「な、なあに、大したことはないんだ。ただ、ちょっと暑さにやられただけで……。すまないが、午後から一刻ほど、休ませてもらうよ」
「意気地のねえやつだな」
たくましい石曳き仲間が、あわれむように嘲笑った。
「なんだよ、その西瓜。食えもしねえのに買ったのか?」
「みんなに悪いから、せめて仲間に食べてもらおうと思ってさ」
「気が利いてるじゃねえか。おい、又八の奢りだぞ。食ってやれ!」
その男は、西瓜を手に取り、石の角に叩きつけた。たちまち、周りの仲間が蟻のように集まり、赤い汁が滴る西瓜の甘い果肉を奪い合った。
「おい、仕事の時間だぞ!」
石曳きの小頭が石の上に立ち、大声で叫んだ。監督の侍も鞭を手に、陽除け小屋から出てくる。すぐに汗の匂いが漂い、馬蠅までがぶんぶん飛び回り始めた。
巨大な石がテコやコロに乗せられ、太い綱でゆっくりと引っ張られていく。その様子は、まるで雲の峰が動くかのようだった。
このような築城時代に、全国で流行ったのが「石曳き歌」だ。ここでも、その歌を人足たちが歌い出した。
阿波の城主、蜂須賀至鎮が城の工事の際に、国表へ送った書信にも、こう記されている。
「――昨夜、ある場所で習った歌を、名古屋の石曳き歌として記録して送ります」
その歌詞には、
われが殿衆は
藤五郎様じゃに
粟田口より
石また曳きゃる
エイサ、エイサ
コロサと曳きゃる
お声聞くさえ
四肢がなゆる
まして添うたら
死のずよの
(老いも若きも、皆この歌を囃して歌っております。これなくしては、浮世が成り立たぬように見えます)
労働歌は、しばしば庶民の心を癒す存在だった。蜂須賀侯のような大名でさえ、夜の余興にこの歌を口ずさむことがあったという。
歌が街で流行りだしたのは、何といっても太閤の世盛りからだ。室町将軍の頃にも歌はあったが、その多くは暗く、退廃的なもので、子どもが歌う歌ですら悲観的な内容が多かった。しかし、太閤の世になってからは歌も明るくなり、希望に満ちたものへと変わった。民衆は太陽の下で汗を流しながら、明るい歌を歌うことを楽しむようになったのだ。
だが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康が力を増すにつれ、歌も変わってきた。太閤の頃のような豪快さは薄れ、徳川家の付属作者が作った歌が民衆に提供されるようになっていった。
「……ああ、苦しい」
又八は、頭を抱えた。頭はまるで火のように熱い。仲間が歌う石曳き歌が、虻の群れのように耳障りだった。
「……五年、五年。ああ、五年働いていたら、どうなるんだ。毎日稼いでは、毎日食べ、休めばその日を飢えで過ごさなければならない」
生唾も出尽くし、青ざめた顔を俯いていた。
――すると、いつの間にかそこに現れた一人の若者が目に入った。少し離れた場所に立ち、粗い藁編み笠を眉深くかぶり、袴腰に武者修行用の風呂敷を巻いた背の高い男だ。半開きにした鉄扇を笠のひさしにかざしながら、伏見城の工事を熱心に見つめている。




