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おとし櫛

 土足のまま、どやどやと家に上がり込んできた。


 寝込みを襲われた形だ。


 辻風典馬の手下たちは、納戸や押し入れ、床下を分担して家中をかき回し始めた。


 炉端に腰を下ろした典馬は、そんな様子を眺めながら言った。


「いつまでかかってるんだ? 何かあっただろう?」

「何もありませんぜ、何も」

「本当にないのか?」

「はい」

「そうか…まあ、ないのが当然だな。もうやめろ」


 別の部屋では、お甲が背を向けて座り込んでいた。どうにでもしろ、というような捨て鉢な姿勢だった。


「お甲」


「何だい」


「酒でも燗つけてくれないか?」


「そこらにあるだろう。飲むなら勝手に飲みな」


「そんな冷たいこと言うなよ。久しぶりに俺が訪ねてきたんだからさ」


「これが訪ねてきたっていう挨拶かい?」


「怒るなよ。そっちにも非があるんだろ。火のないところに煙は立たないって言うじゃねえか。蓬屋の後家が子供を使って、戦場の死体から金を稼いでるって噂、俺の耳にも届いてるんだぜ」


「証拠でも見せてみな。どこにそんな証拠があるんだい?」


「証拠を探す気なら、朱実に知らせてなんかいねえさ。野武士には野武士の掟がある。だから形だけ家探しをしてるが、今回は大目に見てやってるんだ。感謝しな」


「誰が感謝するもんか」


「こっちに来て、一杯くらい酌をしてくれよ、お甲」


「……」


「物好きな女だな。俺に頼ればこんな生活しなくても済むってのに。どうだ? 考え直してみちゃどうだ?」


「親切すぎて身に染みるよ」


「嫌か?」


「私の旦那が誰に殺されたか、知ってるかい?」


「だからよ、復讐したいなら俺も力を貸してやるさ」


「しらばっくれるんじゃないよ」


「なんだと?」


「辻風典馬がお前だって、世間じゃとっくに噂になってるんだ。どんなに落ちぶれたって、亭主を殺した奴に世話になるほど私は堕ちちゃいないよ」


「言ったな、お甲」


 典馬は苦笑いを浮かべながら、茶碗に入った酒を一気に飲み干した。


「そのことは口に出さないほうが、てめえら親子のためだと思うがな」


「朱実を一人前に育てたら、きっと仕返ししてやるから覚えておきな」


「ふ、ふ…」


 典馬は肩で笑いながら、あるだけの酒を飲み干すと、肩に槍をかけて立ち上がり、土間の隅に立っていた手下に向かって命じた。


「おい、槍の尻でこの天井を5、6枚ぶっ飛ばしてみろ」


 手下の男が槍の石突きを天井に向けて突き始めた。板の隙間から雑多な武具や品物が次々と落ちてくる。


「見ろよ、これが証拠だ」


 典馬は立ち上がり、声を低くした。


「野武士の掟だ。この後家を引きずり出して、見せしめにかけろ」


 女一人なら簡単だと踏んで、野武士たちはお甲に向かって踏み込んだ。

 しかし、彼らは部屋の入口で立ち止まり、まるで棒でも飲み込んだかのように硬直した。

 お甲に手を出すのを躊躇しているようだった。


「何をしている! 早く引きずり出せ!」


 土間で焦れる辻風典馬が叫んだ。


 しかし、手下たちは部屋の入口でお甲と睨み合い、一歩も進もうとしなかった。


 典馬は苛立ちながら舌打ちをし、自ら部屋を覗き込んだ。

 お甲のそばに近づこうとしたが、彼もそのしきいを越えられなかった。

 炉端からは見えなかったが、お甲の他に二人の逞しい若者がそこにいたのだ。


 武蔵は黒樫の木剣を低く構え、一歩でも踏み込めば相手のすねを打ち砕こうとしていた。


 又八は壁の陰に立ち、刀を振りかざして、敵の首が少しでも入口に入れば、一刀両断しようと狙っていた。


 朱実の姿は見えなかったが、怪我をさせまいとして押し入れにでも隠したのだろう。


 お甲が落ち着いていたのは、この二人の若者が後ろ盾になっているからに違いなかった。


「そうか…」


 典馬は何かを思い出し、呻くように言った。


「いつぞや、朱実と山を歩いていた若造がいたな。一人はそいつか…もう一人は何者だ?」


「……」


 武蔵も又八も、一言も発しなかった。彼らは腕で語ろうとしている。


 それが逆に不気味な雰囲気を漂わせていた。


「この家に男なんかいるはずがない。察するに、関ヶ原崩れの落ち武者だろう。無茶なことをすると自分の身のためにならんぞ」


「……」


「不破村の辻風典馬を知らない奴は、この近郷にいないはずだ。落ち武者風情が生意気な真似をするとは、見ていろよ…どうするか」


「……」


 典馬は手下たちを振り返り、手で合図をした。

 邪魔だ、下がれという意味だ。


 手下の一人は後ろに下がった拍子に炉に足を突っ込み、「あっ」と叫んだ。


 松薪の火の粉と煙が天井に向かって広がり、部屋中が煙に包まれた。


 典馬は部屋の入口に目を据え、

「くそっ!」

 と叫びながら猛然と突入した。


「よいしょっ!」


 待ち構えていた又八が刀を振り下ろしたが、典馬の突進はあまりにも速かった。


 又八の刀は典馬の刀の柄の部分にカチッと当たるだけだった。


 お甲は隅へ退き、そこに武蔵が黒樫の木剣を構えて待っていた。


 そして、典馬の脚を狙い、体を半身にして強烈に払った。


 ――空気を切る音が響く。


 しかし、典馬はその一撃をかわし、岩のような胸板を武蔵にぶつけてきた。


 まるで大熊に襲われたような衝撃だ。


 武蔵が今まで出会ったことのない圧力だった。


 咽喉のどに拳を押し付けられ、武蔵は二度、三度と殴られた。


 頭蓋骨が砕けたかと思うほどの痛みだったが、武蔵はじっと息を溜め、満身の力で吐き出すと、辻風典馬の巨体が宙を舞い、家が揺れる音とともに壁にぶつかった。


 一度狙いを定めたら、決して逃がさない――相手を徹底的に屈服させるまで戦う。


 武蔵の性格は、幼少期からそのようなものだった。


 彼の血には、古代日本の原始的な野性が色濃く流れていた。


 文明の光も、学問の知識もまだ備わっていない、生まれながらの強さだった。


 それが、時に父・無二斎でさえも手を焼く原因となっていたのだ。


 父が武士らしい厳しい折檻を繰り返すたび、逆に武蔵はますますその野性を強めていった。


 村の人々が彼を「乱暴者」として嫌うほど、武蔵はますます逞しく成長し、郷土の山野をわがもの顔で支配するようになっていった。


 関ヶ原の戦いは、そんな武蔵にとって初めての「実社会」との接触だった。


 だが、彼の夢は見事に打ち砕かれた。しかし、もともと何も持たない身である。だからといって、青春の一歩をつまずいたとか、未来が閉ざされたとか、そんなことは微塵も感じていなかった。


 そして今夜、武蔵は思いがけない「獲物」に出会った。


 野武士の頭領、辻風典馬だ。


 こんな相手を、武蔵は関ヶ原でもどれほど探し求めたことだろう。


「卑怯者っ! 卑怯者め! 待てぇっ!」


 叫びながら、武蔵は真っ暗な野を韋駄天のように駆けていた。


 前方には、典馬が宙を飛ぶように逃げている。


 武蔵の髪は逆立ち、耳元を風が切り裂く。


 彼の血は、まるで獣のような歓喜に躍り、心臓が高鳴るのを感じていた。


 ――ぎゃっ!


 武蔵の影が典馬の背中に重なり、黒樫の木剣が一閃すると、凄まじい悲鳴が響いた。


 典馬の巨大な体は地響きを立てて倒れ、頭蓋骨はまるでこんにゃくのように柔らかくなり、二つの眼球が顔の外に浮き出ていた。


 さらに二撃、三撃と木剣を振るうと、折れた肋骨が皮膚の下から白く飛び出した。


 武蔵は額の汗を腕で拭き、冷静な声で言った。


「どうだ、大将…」


 颯爽と振り返り、武蔵は何事もなかったかのように後ろへ戻っていった。


 彼にとっては、ただ勝ち続けるだけのことだった。


 先に強者がいるなら、自分はその強者に後れを取るだけだという覚悟を持っていた。


「――武蔵か?」


 遠くから又八の声が聞こえた。


「おう」


 のんびりとした声で返事をし、辺りを見回していると、駆け寄ってくる又八の姿が目に入った。


「どうした?」


「殺った。…おぬしは?」


 武蔵が尋ねると、又八は刀の柄糸まで血で汚れた刀を示しながら誇らしげに答えた。


「俺もやった。…残りの奴らは逃げたぜ。野武士なんて弱いもんさ!」


 二人はまるで赤ん坊が泥遊びをして喜ぶかのように笑い合った。

 血に濡れた木剣と刀をぶら下げながら、何か元気に話しながら、二人は遠くに見えるよもぎの家の一つ灯りへ向かって帰って行った。




 野馬が窓に首を突っ込み、家の中を覗き込んできた。鼻を鳴らし、大きく息を吹きかけたので、寝ていた二人は目を覚ました。


「こいつめ!」


 武蔵は馬の顔を平手で軽く叩き、又八は大きく伸びをしながら天井を突き上げるように腕を伸ばした。


「よく寝たなあ」

「陽が高いじゃないか」

「いや、もう日暮れだろ?」

「まさか」


 一晩寝たら、昨日のことなんてすっかり忘れている。今日と明日のことしか考えていない二人だ。武蔵はさっそく裏に飛び出し、上半身をはだけて清らかな川の水で体を洗い、顔を拭いた。太陽の光と澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、仰向けに大きく伸びをする。


 一方、又八は寝起きのまま炉端に向かい、お甲と朱実に声をかけた。


「おはよう!」


 わざと明るい声で言いながら、


「おばさん、なんだか鬱々としてるじゃないか」

「そうかい?」

「どうしたんだい? おばさんの旦那を殺したっていう辻風典馬は討ち取ったし、その手下も懲らしめたのに、何をそんなに暗くしてるんだ?」


 又八は不思議そうに尋ねた。昨晩、朱実は手を叩いて喜んだが、お甲はむしろ不安げな表情をしていた。その不安は今日まで続き、炉端で沈み込んでいる。又八にはその理由が全く理解できなかった。


「なぜだい、おばさん?」


 朱実が淹れてくれた渋茶を飲みながら、又八は膝を組んだ。お甲は微笑んだが、それは若者の無邪気さを羨むような笑みだった。


「――だって、又さん。辻風典馬にはまだ何百という手下がいるんだよ」


「えっ、なるほど。奴らの仕返しを恐れてるのか。でもそんなの心配することないさ! 俺と武蔵がいれば――」


「だめよ」


 お甲は軽く手を振った。


 又八は肩をぐっと持ち上げて、「だめなことなんかない。あんな虫けら、何人来ようと関係ないさ。それとも、おばさん、俺たちが弱いと思ってるのか?」


「まだまだ、お前さんたちは嬰児みたいなものだよ。典馬には弟の辻風黄平こうへいがいて、この黄平が来たら、お前さんたち束になっても敵わないよ」


 その言葉に、又八はショックを受けた。


 けれども、お甲の話を聞いているうちに、彼も次第に納得し始めた。


 辻風黄平は、木曾の野洲川で大きな勢力を持っているだけでなく、兵法の達人でもあり、忍者としても高名だった。


 黄平に狙われた人間が無事に天寿を全うすることはなかったという。


 正面から挑んでくるなら防ぐこともできるだろうが、寝首をかく名人相手では防ぎようがないとされていた。


「そいつは厄介だな…寝坊の俺には特に」


 又八は顎をつまんで考え込んだ。


 お甲はもう観念したのか、この家を畳んで他国へ移るしかないと語った。


 そして、又八に「お前さんたちはどうするつもりだい?」と尋ねた。


「武蔵に相談してみるよ。――あいつはどこ行ったんだ?」


 外を探しても武蔵の姿は見当たらなかった。


 遠くを見渡すと、野馬の背に飛び乗り、伊吹山の裾野を乗り回している武蔵の姿が小さく見えた。


「のん気な奴だな」


 又八は呟き、両手を口にかざして叫んだ。


「おーいっ! 帰って来いよー!」


 枯れ草の上に、二人は寝転がっていた。友達っていいものだ。こうやって寝転びながら話すのも悪くない。


「じゃあ、やっぱり俺たち、故郷に帰るって決めるか?」


「帰ろうぜ。いつまでもあの母娘と一緒に暮らすわけにもいかないしな」


「うん」


「女は嫌いだ」


 武蔵がそう言うと、又八は同意して仰向けにひっくり返り、青空を見上げて叫んだ。


「帰ると決めたら急に、お通の顔が見たくなった!」


 脚をバタバタさせながら、


「見ろよ! あの雲、お通が髪を洗った後みたいな雲があるぜ!」


 武蔵はそんな又八を横目に、自分が乗り捨てた野馬の尻を見つめていた。

 野に住む生き物にもいい性質を持つものがいるように、馬も野馬のほうが気だてが良い。

 用が済めば、何も求めずに一人でどこへでも去っていく。


 その時、朱実の声が聞こえてきた。


「ご飯ですよー!」


「飯だ!」


 二人はすぐに起き上がり、


「又八、駆けっこしようぜ!」

「くそっ、負けてたまるか!」


 二人が駆け出すと、朱実は手を叩いて笑いながら、草ぼこりを立てて走ってくる二人を迎えた。


 ――だが、朱実は午後から急に沈んでしまった。

 二人が故郷に帰ると決めたことを聞いてからだ。

 この楽しい日々が、この先もずっと続くと思っていた朱実にとって、その決断はあまりにも急なものだった。


「おバカさんだよ、お前は。何をメソメソしてるんだい?」


 夕化粧をしながら、お甲は朱実を叱っていた。そして、鏡越しに武蔵を睨みつける。


 武蔵はふと、昨晩の後家のお甲が枕元に忍び寄ってきたときのささやきと、甘酸っぱい髪の香りを思い出して横を向いた。隣には又八がいて、棚から酒壺を取り出し、自分の家の物のように勝手に酒を注いでいる。


「今夜はお別れだから、たっぷり飲もうぜ!」

 又八は楽しげに言い、酒壺を三つも空にした。お甲は又八に甘えて寄りかかり、武蔵が顔を背けるのを見て悪ふざけのように笑った。


「もう歩けない…」


 甘えた声で、又八の肩を借りて寝所へ向かって行った。そして、お甲は面当てのように、


「武さんは、そこらで一人で寝てね。一人が好きなんだから」


 そう言われた武蔵は、そのまま横になって眠ってしまった。


 かなり酔っていたし、夜も遅かった。


 そして目が覚めたのは、すでに陽がカンカンに照りつけている頃だった。


 ――起き上がった武蔵が最初に気づいたのは、家の中ががらんとしていることだった。


「おや?」


 昨日、朱実とお甲がまとめていた荷物が消えている。

 衣装や履物もすべてなくなっていた。

 そして何より、母娘の姿はもちろん、又八の姿すら見当たらない。


「又八っ!…おいっ!」


 裏にも小屋にも、どこにもいなかった。ただ、開け放しになっている入口の敷居の際に、後家のお甲がさしていた赤い櫛が一つ落ちているだけだった。


「あ…? 又八め…」


 武蔵は櫛を手に取ると、鼻に近づけて香りを嗅いでみた。


 その香りが、あの夜のお甲の誘惑を思い出させた。


 又八はそれに負けたのだ。なんとも言えない寂しさが胸を突き上げた。


「馬鹿め…お通さんをどうするつもりだ…」


 武蔵は櫛を地面に叩きつけた。自分の腹立たしさよりも、故郷でお通が又八を待っていることを思い、涙が出そうになった。


 憮然としたまま、台所に座り込んでいた武蔵を見て、昨日の野馬がのっそりと軒下から顔を出した。


 いつもなら鼻を撫でてもらえるはずが、今日はそうしてもらえない。


 仕方なく、馬は流し台の飯粒をぺろりと舐め回していた。

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