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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
水の巻
28/165

太郎

 犬の吠え声は、一向に止む気配がない。その声はただのものではなく、異常事態を告げるように響き渡っている。


「何かあったのだろうか? 失礼ながら、武蔵どの、少しの間中座させていただきます。どうぞごゆるりとお過ごしください」


 そう言って、出淵孫兵衛が席を立ち、外へ出て行った。続いて、村田与三と木村助九郎も、


「暫時、ごめんを」


 と軽く会釈を残し、出淵の後を追った。


 遠い闇の中で、犬の吠え声はますます緊迫感を帯び、何か急を知らせているようだ。三名が去った後、静寂が再び訪れたが、その遠吠えがより一層凄惨に響き渡り、室内の灯りはまるで不気味な鬼火のように揺れていた。


 城内の番犬がこのように異様な声を上げるということは、何か重大な異変が起こっているに違いない。時は泰平とはいえ、決して油断できない時代。どこの城下にも密偵や野心を抱く者が潜んでいるのだ。


「はて、何事か……」


 庄田喜左衛門も不安げな様子で、じっと短檠たんけいの火を見つめ、遠吠えがますます耳に残る様子を伺っていた。


 その時、一際怪しげな吠え声が途切れ、静けさが戻る。


「……あっ」


 喜左衛門が武蔵を見た。武蔵もまた、


「……あっ」


 と、低く声を漏らし、同時に膝を打って言った。


「死んだな」


「太郎がやられたな」


 二人の直感が一致した。喜左衛門はもうじっとしていられず、


「解せぬことじゃ」


 と言って、立ち上がった。


 武蔵も何かを察したように、


「私の連れて参った城太郎という童は、そこに控えておりますか?」


 と、新陰堂の外にいる小侍に向かって尋ねた。


 しばらくして小侍が返事をする。


「お下僕の姿は見えませんが……」


 武蔵はハッとした様子で、


「さては……」


 と呟き、喜左衛門に向かって、


「どうやら心配事ができたようです。犬が倒れている場所に行きたいのですが、ご案内願えますか」


「お安いご用です」


 喜左衛門は先に立って、二の丸へ急いだ。


 そこにはすでに四、五本の松明が集まり、周囲は明るく照らされていた。村田や出淵も、すでにその場に到着していた。足軽や宿直の者、番士たちが黒く固まって何か騒ぎ立てている。


「お!」


 武蔵はその人々の背後から、松明の明かりに照らされた光景を見て、驚愕した。


 そこに立っていたのは、まるで鬼の子のように血まみれになった城太郎だった。


 木剣を手に握りしめ、歯を食いしばり、肩で息を荒くしながら、周囲を取り囲む藩士たちを白い目で睨みつけている。


 その足元には、真っ黒な毛を持つ紀州犬の太郎が、無念そうな表情を浮かべ、牙を剥き出しにしたまま、横たわっていた。


「……?」


 しばらくの間、誰も声を発する者はいなかった。犬の眼は松明の光を鋭く見つめたままだが、口から流れ出る血を見る限り、完全に息絶えていた。


 城太郎が血まみれで立っている現場に、居合わせた者たちは呆然としてその様子を見ていたが、やがて誰かが低く呟いた。


「おお、ご愛犬の太郎だ……」


 その声が引き金となり、ひとりの家臣が茫然としている城太郎に詰め寄った。


「お前か、太郎を殺したのは!」


 激しい怒りを込めて、家臣は手のひらを横に振り上げたが、城太郎はその手を交わして叫んだ。


「おれだ! おれが殺した!」


「なぜ殺した?」


「殺す理由があったからだ!」


「理由とはなんだ?」


「復讐だよ! おれの復讐を果たしたんだ!」


 この言葉に、周りの者たちは意外な表情を見せた。家臣だけでなく、周りで騒ぎを見守っていた人々も驚いている。


「誰の復讐だ?」


「おれのだ! あの犬めが、二日前に使いに来たとき、この顔を引っ掻いたんだ。それで、今日こそは殺してやると思って探していたら、あいつが床下で寝ていたんだ。そこで、ちゃんと勝負を挑んで戦った。結果、おれが勝ったんだ!」


 城太郎は、決して卑怯な戦いをしたのではないということを、顔を真っ赤にして主張した。しかし、彼を責め立てる家臣たちや周囲の者たちは、犬と少年の戦いそのものが問題なのではなかった。問題は、この太郎という犬が、現在江戸にいる主人・柳生但馬守宗矩やぎゅうたじまのかみむねのりが非常に可愛がっていた犬であることだった。特に、紀州頼宣公きしゅうよりのぶこうから譲り受けた牝犬「雷鼓らいこ」の子であり、その素性が大切にされていた犬だったのだ。


 そのため、犬を殺したという行為は、簡単に許されることではない。太郎には世話係の侍が二名もついており、彼らの顔は血相を変えて城太郎に詰め寄っていた。


「黙れっ!」


 再び拳が振り上げられ、今度は城太郎の耳のあたりを捉えた。鈍い音が響き、城太郎は片手で耳を押さえながら、逆立つように髪を振り乱して叫んだ。


「何するんだ!」


「お犬を殺したからには、その罪でお前も犬同様に打ち殺してやる!」


「おれはただ、この間の仕返しをしただけだ! 仕返しをされて、また仕返しをするのかよ? 大人ならそれくらいの理屈は分かるだろ!」


 城太郎は死を覚悟して行動したのだ。侍にとって、顔に傷を負わされることは最大の恥辱であり、彼はその誇りをかけて行動した。もしかすると、誉められると思っていたのかもしれない。


 だから、家臣がいくら彼を責め立てようとも、彼はひるまなかった。むしろ、不当な扱いだと憤り、逆に反論した。


「やかましい! いくら童とはいえ、犬と人の区別がつかない年ではあるまい。犬に復讐するなんて何事だ! お前を犬のように処分してやる!」


 家臣は城太郎の襟をつかみ、周囲の者たちに目を向けて同意を求めた。自分の役目として、当然の処置だということを示している。


 藩士たちは黙ってうなずいた。四高弟たちも困惑した表情を見せながらも、黙ったままだった。


 ――武蔵も、無言でその様子を見つめていた。


「さあ、吠えろ、小僧!」


 城太郎は、数回襟を振り回され、目が回ったかと思うと、大地に叩きつけられていた。太郎の世話役の家臣は、樫の棒を振り上げ、怒鳴りつけた。


「やい、わっぱ! お前が太郎を撃ち殺したように、今度はお前を撃ち殺してやる。吠えて来い、噛みついて来い!」


 城太郎は、歯を食いしばり、大地に手をついて徐々に体を起こした。木剣を握りしめ、子供ながらも、その目には決死の覚悟が宿っていた。河童のような赤い髪は怒りで逆立ち、その姿はまるでこんがら童子のように凄まじいものだった。


「やってみろ、殺してみろ!」


 彼は低く唸った。それは虚勢ではなかった。城太郎は、「俺のやったことは正しい」 と心から信じていた。大人の怒りは時に反省を伴うが、子供の怒りは純粋で、時に手がつけられない。特に、樫の棒を見せられた城太郎は、まさに火の玉のように燃え上がっていた。


「殺せ! 殺してみろ!」

 彼の叫びは、泣き叫ぶようでありながら、呪いのようでもあった。その怒りに、家臣も容赦なく応じた。


「くたばれ!」


 樫の棒が唸りを上げ、一撃が城太郎に振り下ろされた。大きな音が鳴り響き、その瞬間、人々は城太郎がそこで死んだかのように感じた。だが、奇妙なことに、城太郎の木剣が空中に吹き飛んでいた。彼は無意識に、その一撃を木剣で受けていたのだった。しかし、手がしびれ、木剣は離れてしまった。


 次の瞬間、城太郎は目を閉じ、家臣の帯際に噛みついた。


「この畜生!」


 死にもの狂いで噛みつく城太郎の歯と爪は、相手の急所をしっかりと押さえ込んで離さなかった。家臣が振り下ろす樫の棒は、空を切った。城太郎をただの子供と侮ったのが、家臣の大きな誤算だった。城太郎の顔は、まるで鬼のように凄まじく、口を裂いて相手の肉を食い込み、爪は衣を突き破っていた。


「このガキめ!」


 別の家臣が背後から現れ、城太郎の腰を狙って樫の棒を振り下ろそうとした。その時だった。今まで黙って腕を組んでいた武蔵が、ついに動いた。周囲の者が感じる間もなく、彼は素早く前に進み出た。


「卑怯な!」


 瞬間、二本の脚と樫の棒が宙に舞い、家臣はまるで鞠のように遠くへ転がった。


「この悪戯者め!」


 武蔵は城太郎の腰帯をつかみ、彼を自分の頭上に高々と持ち上げた。そして、棒を構え直す家臣に向かって、冷静に言った。


「最初から見ていたが、どうも取り調べに不備があるようだ。これは拙者の下僕だが、貴公らは罪をこの小僧に問うつもりか、それとも、主人である拙者に問うつもりか?」


 家臣は激昂して叫んだ。


「言うまでもなく、双方に糾してやる!」


「よろしい。ならば、主従揃ってお相手しよう。さあ、これを渡してやろう!」


 その言葉とともに、武蔵は城太郎の体を家臣に向かって投げつけた。



 先ほどから、周囲の人々は、武蔵の行動を見て戸惑っていた。自分の下僕である城太郎を頭上に差し上げ、一体何をするつもりなのかと誰もが考えていた。すると、武蔵は、そのまま城太郎を宙天から相手に向かって投げつけた。


「えっ――」


 人々は驚きの声をあげ、思わず後ろに跳び退いた。武蔵が人間をもって人間にぶつけるという、あまりにも無茶な行動に、皆がその場の雰囲気に圧倒されていたのだ。


 武蔵に投げられた城太郎は、まるで雷神の子のように、手足を縮め、油断していた相手の胸に「わっ」とぶつかった。相手は驚愕の声をあげ、城太郎の勢いに押されて後方へまっすぐ倒れ込んだ。


「ぎぇッ!」

 不気味な声をあげたその者は、城太郎がぶつかった瞬間、後頭部を強打したのか、それとも城太郎の固い頭が肋骨を砕いたのか、とにかく口から血を吐き、動かなくなった。城太郎はそのまま相手の胸の上で一回転し、さらに転がっていった。


「や、やったな!」

「どこの素浪人だ!」


 その瞬間、柳生家の家臣たちは一斉に武蔵を非難し始めた。彼らの多くは、今夜の客として招かれていた武蔵が、あの宮本武蔵だとは知らず、ただの素浪人と見て怒りをあらわにしていた。


「さて――」


 武蔵は落ち着いた様子で向き直り、周囲を見回した。


「皆さん」


 彼が何を言おうとしているのか、誰もが注目した。武蔵は、城太郎が落とした木剣を拾い上げ、それを右手に持ちながら続けた。


「小僧の罪は主人の罪だ。何なりと、ご処罰を承るつもりだ。ただし、私も城太郎も、いささか侍として剣をもって誇りを守る者だ。犬のように棒で打ち殺されるわけには参りません。ここで一応、お相手願おうかと思います。左様、ご理解いただきたい」


 これは謝罪でもなく、明らかな挑戦だった。もし武蔵がここで城太郎に代わって頭を下げ、弁明し、家臣たちの怒りをなだめていれば、事態はもっと穏やかに収まったかもしれない。四高弟たちも、「まあ、まあ」と仲裁に入る余地があったはずだ。


 しかし、武蔵の態度はそれを拒み、むしろ彼自身が対立を望んでいるかのようだった。これに対し、庄田、木村、出淵など四高弟は、眉をひそめ、武蔵の態度を非常に不快に感じていた。そして、彼らはその場を避け、鋭い視線で武蔵をじっと見守っていた。



 もちろん、武蔵の挑発的な言葉に対して、四高弟をはじめ、周囲の者たちは一斉に怒りをあらわにした。彼らは武蔵が何者かも分からず、そして彼の真意を測りかねていた。そんな中、武蔵の言葉は彼らの怒りに火をつけ、まさに爆発寸前だった。


「なにをッ!」

「不逞な奴め!」

「どこぞの諜者まわしものか、縛ってしまえ!」

「いや、斬り捨てろ!」


 そんな声があちこちから上がり、武蔵と城太郎は白刃に囲まれ、今にも命を狙われそうな状況だった。


「待てッ!」

 この混乱の中、庄田喜左衛門の鋭い声が響いた。さらに、村田与三と出淵孫兵衛も立ち上がり、

「危ない!」

「手を出すな!」


 四高弟がついに動き出し、事態を鎮めようと前に出た。

「ここは我々に任せろ。皆、自分の持ち場に戻れ!」

 四高弟の威厳ある言葉に、周囲の者たちは徐々に引き下がっていった。


「この男には何か企みがある。我々が誘いに乗って負傷者を出せば、主君に顔向けできぬ。お犬の件も確かに重大だが、人命はもっと重い。我々四人が責任を取る、貴公たちは心配せずに立ち去れ。」


 こうして、再び場に残ったのは、最初の招待客である武蔵と、四高弟だけとなった。しかし、もはや主客の関係ではなく、武蔵は明らかに敵として見なされていた。


 出淵孫兵衛が一歩前に出て、冷静に言った。

「武蔵とやら、残念ながらそちらの策は破れた。見たところ、何者かに頼まれてこの城を探りに来たか、城内を攪乱するために来たのだろう。」


 四高弟の目は、鋭く武蔵を追い詰めていた。いずれも剣の達人であり、武蔵がこの場を脱しようとするならば、それは極めて困難であることは明らかだった。


 出淵はさらに進み、刀の柄に手をかけながら言葉を続けた。

「よし、武蔵。ここで潔く自決するのが武士の値打ちだ。この城に堂々と入り込んできた不敵さは褒めてやる。一晩の友情もある。だからこそ、腹を切れ。準備の時間はやる。武士としての意気を見せてみろ。」


 四高弟たちは、これが最も穏便な解決策だと考えていた。彼らの主君に無断で武蔵を招いたこともあり、事態を闇に葬ろうとする意図が明らかだった。


 しかし、武蔵はその提案に応じることはなかった。彼は肩を揺らし、笑いながら言った。

「なに、この武蔵に腹を切れと言うか? 馬鹿げている! 馬鹿なことを!」


 昂然とした態度で、武蔵は四高弟たちに向けて笑った。その笑いは、四高弟たちの怒りと驚きをさらに深めるものだった。



 武蔵は、あくまで相手の感情を煽り、戦いを挑もうとしていた。ついに、四高弟の者たちも眉間に険しい表情を浮かべ、出淵孫兵衛が静かに、しかし断固とした口調で言った。

「よろしい。こちらが慈悲を持って接しておれば、つけ上がるとはな…。」


 その言葉に続き、木村助九郎が短く言い放つ。

「多言無用。」

 そして、武蔵の背後に回り、背を強く突いて言った。

「歩め。」

「どこへ?」

「牢へだ。」


 武蔵はうなずいて歩き出したが、彼の足取りは自らの意思で運ばれ、本丸の方へ向かっていた。

「どこへ行く?」

 助九郎がすぐさま武蔵の前に立ちはだかり、両手を広げて遮る。

「牢はこっちじゃない。後へ戻れ。」

「戻らぬ。」


 武蔵は、側にぴったりとついてきている城太郎に向かって言った。

「お前は、あちらの松の木の下にいるがよい。」


 その場所は本丸の玄関に近く、綺麗に手入れされた庭の中、堂々たる男松が植えられていた。城太郎は武蔵の言葉を聞くや否や、松の木へと走り込み、そこを盾にして構えた。彼は、武蔵がこれから何か壮絶なことをやり出すだろうと期待し、身を引き締めていた。


 その間に、庄田喜左衛門と出淵孫兵衛が武蔵の左右に回り込み、武蔵の両腕を逆に取って押さえ込もうとしていた。

「戻れ。」

「戻らぬ。」

 同じやり取りが繰り返された。


「どうしても戻らぬか?」

「うむ、一歩も戻らぬ。」

「ぬぅ…!」


 前方にいた木村助九郎が、ついに我慢の限界を超え、刀の柄を激しく打ち鳴らした。年長の庄田と出淵はすぐにそれを制しながら言った。

「待て、落ち着け。戻らぬなら戻らぬでよい。しかし、お前はどこへ行こうとしている?」

「当城の主、石舟斎に会いに参る。」


 四高弟の面々は驚愕し、その表情を変えた。この若き剣士が石舟斎に会おうとしているとは、誰一人として思っていなかったからだ。

 庄田が畳みかけるように尋ねる。

「大殿に会って何をするつもりだ?」

「兵法修行中の若輩者として、一生の教えを得るため、大祖・柳生石舟斎より一手の教えを乞わんがためだ。」

「ならば、なぜ順序を踏んで、我々にそう申し出なかったのだ?」

「石舟斎殿は、一切の者に会わず、また修行者には授業を行わぬと聞いたゆえ。」

「もちろんだ。」


 武蔵は続けた。

「ならば、試合を挑むほか道はあるまい。試合を挑んでも、容易に余生の安寧を乱すことはないだろう。だが、それゆえに拙者は、この城を相手に戦いを挑むことを決めた。」


 四高弟たちは呆れたように顔を見合わせた。

「何だと、合戦を?」

 彼らは武蔵を再び見つめ直し、まるで狂人でも相手にしているかのような表情を浮かべた。


 武蔵は、空を見上げた。暗闇の中で、何かがバサバサと羽ばたく音が聞こえたからだ。四名もその音に気づき、空を見上げた。すると、笠置山の闇から一羽の鷲が現れ、星をかすめるようにして城内の籾蔵の屋根の上に降り立ったのだった。


 この異様な光景の中、武蔵の言葉と行動が、さらに不可解であり、かつ恐ろしく映っていた。それでも武蔵は自らの信念に従い、石舟斎との対決に向けて、その一歩を進める覚悟を固めていたのだった。

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