般若野
「城太郎。」
武蔵が足を止め、振り返りながら声をかけた。
「はい。」
城太郎は、眉をぴんと上げ、返事をする。
もう奈良の町は遠ざかり、東大寺も見えなくなっている。月ヶ瀬街道を進みながら、杉の木々の間を抜け、やがて近づく**般若坂への緩やかな春の傾斜地が見えてきた。その風景の先には、右手の空に膨らむ三笠山**の胸のあたりが、やけに近く感じられる。
「なんですか?」
七町ほど歩いたが、城太郎は一度も笑顔を見せず、黙々と武蔵の後ろをついてきた。彼の一歩一歩が、まるで死地に向かうかのように、どんよりとした気持ちにさせる。
さっき、湿った東大寺の横を通った時、木の枝から落ちてきた雫が首元に触れた瞬間、城太郎は思わず「きゃっ」と小さな悲鳴をあげそうになった。さらには、平然と人の足音に動じない鴉の群れにさえ、不気味な感じがして、彼は武蔵の背中が薄く見えるような気さえしていた。
「山の中やお寺の中に隠れることはできるし、逃げることだってできるはずだ。それなのに、どうしてわざわざ宝蔵院衆が待っているかもしれない般若野に足を向けるんだ?」
城太郎は心の中でそう思っていた。自分には理解できない。
「もしかして、謝りに行くのか?」
彼はその程度の想像を巡らせる。もし謝るのなら、自分も一緒になって宝蔵院衆に頭を下げようと考えていた。誰が正しいかとか、そんなことは問題ではない。
武蔵が足を止めて「城太郎」と呼んだとき、城太郎は訳もなくドキッとした。そして、青ざめた自分の顔を武蔵に見られまいと、空を見上げた。
武蔵も同じように空を見上げている。城太郎の心は、世の中にぽつんと二人だけ取り残されたような、そんな心細さに包まれた。
しかし、次に武蔵が口にした言葉は、そんな状況にもかかわらず、普段と変わらぬ穏やかな調子で放たれた。
「いいなあ、これからの山旅は、まるで鶯の声を踏んで歩いていくみたいだ。」
「え? なんですか?」
城太郎はぼんやりとした声で返事をした。彼の少年らしい唇はどこか硬直しているのを、武蔵は感じ取った。かわいそうな子だ、と武蔵は思う。この旅が、もしかしたら最後になるかもしれない――そんな考えが頭をよぎる。
「般若野はもうすぐだな。」
「ええ、奈良坂も過ぎました。」
城太郎は、鶯の声が響く中、ただ寒々しいものを感じていた。彼の目はぼんやりと曇り、武蔵の顔を見上げているが、その瞳はどこか虚ろで、ついさっきまで鬼女の仮面を嬉々として追いかけ回していた少年とは思えないほど静かだった。
「もうすぐだ。ここでわしと別れるのだぞ。」
「…………」
「わしから離れろ。でないと、お前も巻き添えを食って怪我をすることになる。お前にはそんな必要はない。」
城太郎の目からポロポロと涙がこぼれ、頬を伝って白い筋を描いた。彼は手の甲でそっと涙を拭い、肩を震わせながらすすり泣いた。
「何を泣いている。お前は兵法者の弟子じゃないか。」
武蔵は静かに言った。「万が一、わしが血路を開いて逃げたら、お前もその方へ逃げろ。もし、わしが倒れたら、元の京都に戻って、また居酒屋で奉公を続ければいい。――だから、お前は離れて、小高い場所から見ているだけでいいんだ。分かったな、これ……」
「なぜ泣く?」
武蔵が静かに問いかけると、城太郎は涙で濡れた顔を上げ、必死に武蔵の袂を引っぱった。
「おじさん、逃げよう!」
城太郎は震える声で訴える。
「逃げられないのが侍というものだ。おまえも、侍になるのではないか?」
「怖い…死ぬのが怖いよ…」
城太郎は恐怖に震えながら、懸命に武蔵を引き止めようとする。
「お願いだよ、逃げよう…おらを可哀そうだと思って、逃げようよ…」
武蔵は一瞬、彼の言葉に心を揺らした。
「ああ、それを言われると、おれも逃げたくなるな。おれも幼いころから親に恵まれなかった。おまえも、同じように親の縁に薄い…逃げてやりたいが――」
「さあ、今のうちに!」
城太郎はさらに懇願するが、武蔵は首を横に振り、しっかりと答えた。
「おれは侍だ。そして、おまえも侍の子ではないか。」
その言葉に、城太郎は力尽き、その場に座り込んでしまった。顔を手で擦ると、黒い涙がぼたぼたと地面に落ちていった。
「だが、心配するな。おれは負けないつもりだ。いや、きっと勝つ。勝てば問題ないだろう。」
武蔵の言葉に城太郎は慰められることはなかった。彼の頭には、宝蔵院の衆が十人以上も待ち伏せていると聞いており、弱いと感じている自分の師匠がその全員に勝てるわけがないと思い込んでいたからだ。
死地に向かうためには、それに対して十分な心構えが必要だった。武蔵はすでにその覚悟を決めていたが、城太郎の存在が彼を苛立たせ、焦れったく感じさせていた。
突然、武蔵は激しい声で叱りつけた。
「だめだ!貴様のような奴は、武士にはなれん。居酒屋へ帰れ!」
その厳しい言葉に、城太郎の魂は震えた。涙を止め、はっとした表情で立ち上がり、武蔵の背中を追いかけるように見つめたが、声を上げるのを堪えた。そして、近くの杉の木にしがみつき、両手で顔を覆った。
武蔵は振り返らなかった。しかし、城太郎のすすり泣きが耳にこびりつき、後ろに残してきた孤独な少年の姿が、どうしても頭から離れない。
「余計な者を連れて歩いて…」
彼は心の中で悔しさを噛みしめた。
まだ未熟な自分の身一つさえ、持て余しているのに――孤独な剣士として、明日さえも知れないこの身で、道連れなど必要ないのだ。
「おーい、武蔵どの!」
いつの間にか杉林を抜け、広い野原に出ていた。野原というより、山裾に広がる斜面だ。武蔵を呼んだ声の主は、三笠山の方から裾野へ出てきたらしく、二度目の呼びかけをしながら、親しげに肩を並べてきた。
それは、以前、観世の後家の家にやって来た牢人者の一人、山添団八だった。
来たな。
武蔵はすぐに見破った。しかし、表情を変えずに、
「おう、先日は。」
「いや、過日は失礼を…」
団八は慌てて丁寧な挨拶をし、上目遣いに武蔵の様子を窺いながら続けた。
「その節のことは、どうか水に流して、お許しいただきたい。」
宝蔵院で武蔵の実力を目の当たりにした山添団八は、武蔵に対して恐れを抱きつつも、まだ完全に彼を尊敬しているわけではなかった。彼から見れば、武蔵は田舎育ちの若者にすぎず、自分とそう大差ないと思っていた。
「武蔵どの、これからどちらの方面へ向かわれるのですか?」
「伊賀を越えて、伊勢路へ参ろうと思う。――貴公は?」
「私は、ちょっと用があって月ヶ瀬まで。」
「柳生谷は、あのあたりにありますな?」
「はい。これから四里ほど先に大柳生、さらに一里ほど進むと小柳生があります。柳生殿の城は、笠置寺からそれほど遠くありません。あそこにも寄ってみてはどうです? もっとも、大祖宗の柳生厳宗公は今、隠居されていて、息子の柳生但馬守宗矩(やぎゅう たじまのかみ むねのり)殿も江戸で徳川家に仕えていますが。」
「私のような一介の遍歴の者でも、教えを授けてもらえるのでしょうか?」
「紹介状でもあれば確実でしょう。――そういえば、月ヶ瀬には私が懇意にしている鎧師がいて、柳生家にも出入りしている老人です。もしよければ、その者に頼んで紹介してもらいましょうか?」
団八は、武蔵の左側に意識的に寄り添いながら歩いていた。道は開けており、所々に杉や槙の木が立ち並んでいるだけで、視界は広がっていた。地形は緩やかな起伏が続き、丘を越えると次第に般若坂に近づいていた。
その時、遠くの丘の向こうに、茶褐色の煙が立ち上るのが見えた。
武蔵は足を止め、
「これは…?」
と、目を細める。
「何か?」
団八が問いかける。
「どうも、あの煙には不穏な気配が感じられる。貴公には、どう見える?」
「不穏な気配ですか?」
団八は、緊張しながら武蔵に寄り添い、表情が少し硬くなった。
武蔵は煙を指さし、
「まるで…」
と言いながら、今度はその指を団八の顔に向けた。
「汝の瞳に漂うものと同じだ!」
「えっ?」
団八は驚き、反射的に後ろに飛び退いた。
その瞬間、静かな春の野原に鋭い悲鳴が響き渡った。団八の体が飛び退き、武蔵も一瞬で距離を取った。
どこからか、
「あっ!」
という声が聞こえた。
丘の上には二人組の影が現れ、こちらを見つめていた。彼らはすぐに、何かを叫びながら逃げていった。
「やられた!」という叫びが遠ざかる中、武蔵はゆっくりと立ち上がった。彼の手には、低く構えた刀がキラキラと光を反射している。
一方、団八は倒れたまま動かない。武蔵の刃からは、血が鎬を伝って垂れていた。
武蔵は静かにその場を後にし、焚火の煙が立ち上る丘を目指して歩み続けた。
春の微風が、まるで女の手で優しく撫でるように、武蔵の髪をかすめる。しかし、彼の全身は緊張で硬くなり、まるで鉄のように引き締まっていた。
武蔵はゆっくりと丘に立ち、眼下を見渡す。そこには広々とした野の沢が広がっていた。焚火が、その沢の中ほどで焚かれている。
「来たっ!」
叫んだのは、焚火を囲んでいた大勢の者ではなく、丘の反対側から駆け足で迂回してきた二人の男だった。武蔵の足元に倒れている山添団八の仲間――野洲川安兵衛と大友伴立であることは、もう明らかだった。
「来たっ?!」
焚火の周りにいた者たちは、口々に応じ、一斉に立ち上がった。そこには約三十名近い者たちが集まっており、その半数は僧侶で、残りは雑多な牢人者たちだった。彼らは、丘の上に現れた武蔵を認めると、緊張の空気が漂った。
しかも、武蔵の手には既に血に染まった剣が握られている。戦いは、彼らが待ち伏せる前に既に始まっていた。武蔵の側から、先に一戦を仕掛けていたのだ。
野洲川と大友は、
「山添が、山添が…」
と早口で叫び、仲間の一人が武蔵に斬られたことを大袈裟に伝えているように見えた。
牢人たちは憤り、宝蔵院の僧たちは、
「生意気な…」
と、武蔵を鋭く睨みつけた。宝蔵院衆の十数名は全員が槍を持ち、片鎌槍や笹穂槍といった様々な槍を携え、黒衣の袖を背中に結びながら、
「今日こそ…」
と、彼らの無念と名誉を取り戻そうと意気込んでいた。まるで地獄の番人たちが並んでいるかのような光景だった。
牢人たちは彼らとは別に一団を作り、武蔵が逃げ出さないよう包囲していたが、中にはげらげらと笑っている者もいた。しかし、その包囲も必要ないようだった。武蔵は一歩も逃げる素振りを見せなかった。
武蔵はただ、歩いていた。ゆっくりと、一歩一歩、粘る土を踏むように、やわらかい若草の崖を下りながら――まるでいつでも鷲のように飛び掛かるかもしれない体勢を保ちながら――目の前の敵の集団に、いや、死地に向かって確実に近づいていくのであった。
――来るぞっ。
もはや声に出して言う者はいない。だが、片手に剣を垂らし、徐々に近づいてくる武蔵の姿は、まるで暗雲のように相手の心に恐怖を浸透させていたことは明らかだった。
一瞬の静寂が辺りを包む。互いが死を意識する瞬間だ。武蔵の顔は蒼白になっており、まるで死神が彼の顔を借りて「誰から先に命を奪おうか」と、相手を選んでいるかのような冷たい光がその瞳に宿っている。
宝蔵院の僧侶たちや牢人たちは、圧倒的な人数で武蔵を囲んでいたが、武蔵ほど顔色を失っている者はいなかった。彼らの中には、集団の力を頼みに楽天的な気持ちを抱いている者もいたが、ただ、死神に最初に狙われないよう警戒しているだけだった。
その時――
宝蔵院衆の槍隊の端にいた一人の僧が合図をしたかのように、十数名の僧侶たちが「わっ!」と一斉に叫び、列を崩さずに武蔵の右側へ駆け寄った。
「武蔵――ッ!」
僧の一人が叫んだ。
「聞いたところによれば、汝は自分の腕を誇り、我が門下の阿巌を倒しただけでなく、宝蔵院を悪し様に言いふらし、さらに辻々に落書を張らせて我々を嘲笑したということだが、これは確かなのか?」
その言葉に、武蔵は冷静に答えた。
「違う!」
その一言は簡潔で明瞭だった。武蔵は続けて言った。
「物事は、眼で見るだけじゃなく、耳で聞くだけでもない。肚で観ろ、坊主ともあろう者が」
この言葉に、僧たちの怒りが一気に燃え上がった。
「なにッ!」
胤舜が何か言う前に、他の僧たちが口々に叫んだ。
「問答無用!」
それに呼応するように、左側にいた牢人たちが騒ぎ出した。
「そうだ、無駄口を叩かせるな!」
彼らは武蔵を罵り、刀を抜いて振りかざし、宝蔵院衆に攻撃を煽った。
しかし、武蔵は牢人たちの軽薄さを見抜いていた。口ばかりで結束力もない彼らに対し、彼は一言で決着をつけようとした。
「よし、問答は無用だ。――誰が相手だ?」
武蔵の鋭い視線が牢人たちに向けられると、彼らは思わず一歩後退した。しかし、二、三名の者が勇敢にも前に進み出て、大刀を構えた。
「おれだ!」
その言葉が終わるか否かのうちに、武蔵は瞬時に飛びかかり、まるで軍鶏のような素早い動きで一人に襲いかかった。
「どぼっ!」
という音と共に、血が宙を舞い、生命と生命がぶつかり合う響きがその場に響き渡った。単なる気合でも、言葉でもない、獣が吠えるような原始的な声が彼らの喉から漏れ出ていた。
武蔵の剣が骨を斬り、そのたびに彼の腕に伝わる振動が心臓に響いた。彼の刃先からは虹のように血が噴き出し、脳漿が撒き散らされ、指のかけらが飛び、まるで生の大根のように、人間の腕が草むらへと投げ出された。
その場は、まるで地獄のような光景に変わっていった。
初めから牢人たちには、どこか軽い気持ちや楽天的な雰囲気が漂っていた。
「どうせ戦うのは宝蔵院衆、俺たちは人殺しの見物さ」――そう思っていたのだろう。
だが、武蔵はその集団の脆弱さを見抜き、容赦なく彼らに突っ込んでいった。これは戦略として当然だった。
しかし、牢人たちはあまり慌てていなかった。彼らの頭には、「宝蔵院の槍衆が控えている」という絶対的な信頼があったからだ。
だが、事態は変わり始めていた。
すでに戦闘は始まり、彼らの仲間が二人、三人と倒されていく。にもかかわらず、宝蔵院側は槍を横に並べたまま、まるで無関係のように眺めているだけで、武蔵に向かって突きかかる者はいない。
「くそっ、くそっ……!」
「やっちまえ、早く!」
「うわぁっ……!」
刀の音や叫び声が混ざり合い、武蔵に対して無力感を募らせる牢人たちは、宝蔵院の僧たちに助けを求め続けたが、僧たちは微動だにしない。まるで水の壁のように、槍を整列させたまま静観していた。
「これでは約束が違う!」
「俺たちは第三者だって言ったじゃないか!」
牢人たちにはそんな言葉を吐く暇すらなかった。彼らは酒に酔った泥鰌のように、戦場の血に溺れていた。仲間同士で斬り合い、人の顔が自分の顔に見えてしまうほど錯乱し、もはや武蔵の姿すらまともに捉えられなくなっていた。
だが、武蔵自身も、自分が何をしているのか、どこか無意識の領域にいた。
彼の体は全ての感覚を刀に集中させ、幼少期に父の厳しい訓練で叩き込まれた技や、関ヶ原の戦場での経験、さらには山中での修行の成果が、彼の五体に宿っていた。それら全てが、まるで火花を散らすように彼の刀から放たれていた。
武蔵は、その瞬間、人間を超越した「風」のような存在となっていた。
「死生一如」――生死の境界を超越した人間の姿がそこにあったのだ。
一方、牢人たちは、「斬られたくない」「死にたくない」という雑念に囚われながら、必死に刀を振り回していた。だが、その雑念が足かせとなり、武蔵を斬り倒すどころか、むしろ自分たちが倒されていくばかりだった。彼らは盲目に刀を振り、味方同士で斬り合い、哀れにも死んでいく。
宝蔵院の僧たちは、その様子を黙って見ていた。彼らの一人が、自分の呼吸を数える時間――わずか十五秒から二十秒の間に、武蔵は数多くの牢人を斬り伏せていた。
武蔵の全身は血に染まり、残っている牢人たちも血まみれだった。地面も草も、全てが赤く染まり、その血腥い匂いが周囲を満たしていた。やがて、耐えきれなくなった牢人たちは、一斉に叫び声を上げ、四方八方へと逃げ出した。
その時、ついに宝蔵院の槍衆が一斉に動き出したのである。
「神さま!」
城太郎は両手を合わせ、空に向かって祈っていた。
「――神さま、どうか加勢してください! お師匠様は今、この下の沢で、たった一人であんな大勢の敵と戦おうとしているんです。お師匠様は弱いけど、悪い人間じゃないんです!」
武蔵に言われて離れたものの、彼を見捨てることはできず、城太郎は遠くから様子を見守っていた。彼は今、般若野の沢の上にある丘の上に座り込み、仮面も笠も脇に置いて、何度も何度も神に祈っていた。
「――八幡様、金毘羅様、春日の宮の神さま達! お師匠様は今、一歩一歩敵の前に進んでいっています。正気じゃないんです。朝からちょっとおかしくなっちゃってるんです。そうでなければ、あんなに大勢の前にたった一人で向かうなんて、普通じゃありえません! どうか、神さま達、助けてください!」
城太郎は百拝、千拝と繰り返し、ついには声を上げて祈り続けた。
「――この国に神さまはいないんですか? もし卑怯な大勢が勝って、正しい一人が斬られたり、正義じゃない者が好き勝手するなら、昔からの言い伝えは嘘だったってことになるじゃないですか。もしそうなったら、俺、神さま達に唾を吐いてやる!」
理屈は幼いものだが、その瞳には怒りが宿り、まるで大人の叫びにも匹敵するような強烈な祈りとなって空に響いていた。
しかしそれだけでは済まなかった。城太郎の目に、遠くの芝地の沢で、武蔵が刃に囲まれた敵の集団に一人立ち向かう姿が見えると――
「――畜生っ!」
拳を握りしめ、飛び上がるように叫んだ。
「卑怯だ!」
彼は絶叫し、地団太を踏みながら涙を流した。
「馬鹿っ、馬鹿っ!」
彼は丘の上を駆け回りながら泣き叫び、
「――おじさぁん! おじさぁん! 俺はここにいるよ!」
ついには彼自身が神になったかのように叫んだ。
「――獣だ! 獣どもめ! お師匠様を殺したら、俺が許さないぞ!」
そんな中、彼の目には、敵の真っ黒な刃の渦の中で、武蔵が戦っているのが見えていた。
ぱっと血しぶきが上がり、一人また一人と敵が倒れていく様子に――
「やった! おじさんが斬った! お師匠様は強いぞ!」
城太郎は初めて、人間同士が命をかけて戦い、獣のように狂乱する姿を目の当たりにした。そして、その壮絶な光景に酔いしれ、体が興奮で震えた。
「――ざまぁ見ろ! どんなもんだい。お師匠様はこんなに強いんだ! 宝蔵院なんて、槍を並べてるだけで、何もできないじゃないか!」
だが、事態は急変した。静観していた宝蔵院衆の槍隊が、ついに動き出したのだ。
「あっ、いけない! 総攻めだ!」
武蔵の危機が訪れたと、城太郎にもはっきりわかった。今が最期の時だ。
その瞬間、彼は自分の身の程を忘れ、火の玉のように怒りを爆発させて、丘の上から岩が転がるかのように駆け下りた。
宝蔵院初代の槍法を受け継ぎ、隠れもない達人とされる二代目胤舜は、その瞬間、すさまじい声を上げて、今まで静観していた十数名の門下僧たちに号令を下した。
「よしッ、やれ!」
白い槍の光が蜂の群れのように、瞬く間に八方へ散らばった。坊主頭たちの野蛮な力が解き放たれ、各々が得意とする槍を手に、まるで血に飢えた獣のように襲いかかった。
「ありゃあっ!」
「えおうっ!」
彼らの野彦の叫び声が響き渡り、その槍先の幾つかは、すでに血を浴びていた。今日こそは絶好の実戦稽古の日のようだ。
武蔵は瞬時にその異変を感じ取って、飛び退った。
「(新手か!)」
しかし、その脳裏に浮かんだのは、彼自身の限界だった。彼はもう疲れ果て、脳は霞みかけていたが、それでも刀の柄をしっかりと握り、汗と血で視界を覆われたまま、前方の槍を睨んでいた。しかし、奇妙なことに、槍は彼に向かってこなかった。
「……や?」
その場で起こっている光景は、まるで理解を超えていた。茫然としながらも、武蔵は周囲を見回した。坊主頭たちが、まるで獲物を争う猟犬のように襲いかかっているのは、なんと彼らの味方であるはずの牢人たちだったのだ。
逃げて助かったと思っていた牢人たちも、
「待てっ!」
という声に立ち止まると、不意に槍で突かれ、宙に放り投げられてしまった。
「やい、何をしてるんだ! 相手が違うだろ、馬鹿坊主!」
逃げ惑いながらも、彼らは仲間を刺す狂気の光景に驚愕していた。槍は無慈悲に彼らを襲い、仲間を次々に串刺しにしていく。
その場は、まさに屠殺場と化し、瞬く間に牢人たちは全員倒れた。そして、不気味な静寂が野を覆った。太陽すらその光景に耐えられないかのように、雲がかかっていた。
それは、まさに皆殺しだった。牢人たちは一人残らず、この般若野の沢で命を散らしたのだ。
武蔵は、信じられなかった。手に握った刀も、張り詰めていた気も、すべてが茫然としたまま、力を緩めることができなかった。
「(なぜ? 彼ら同士が……)」
彼は全く理解が追いつかなかった。武蔵自身も、まだ戦いの熱狂の中にいたが、目の前で行われた虐殺を目の当たりにし、ようやく人間らしい感情を取り戻しつつあった。
その時、武蔵は自分の足にしがみついて、泣きじゃくっている城太郎の存在に気づいたのだった。
「初めてお目にかかる。――宮本殿といわれる方か?」
つかつかと歩み寄ってきた長身で白皙の僧が、丁寧な礼をして武蔵の前に立った。
「お……」
武蔵は、思わず我に返り、刃を下げた。
「お見知りおきください。私が宝蔵院の胤舜です。」
「む、あなたが……」
「ああ、過日は、せっかくお訪ねくださったのに、不在でお会いできず、残念でした。さらに、その折、門下の阿巌が醜態をさらしたこと、師として恥じ入っております。」
武蔵はしばらく黙っていた。何が起こっているのか、耳を澄ませて理解しようとしていた。胤舜の言葉は、丁寧で礼儀正しく、彼に対する怒りや敵意を感じさせない。それに加え、宝蔵院の門下が先ほど行った行為――彼らが、牢人たちを次々に槍で刺し殺した理由も理解できない。武蔵に向けられるはずの刃が、何故か味方を襲ったのだ。
自分がまだ生きていることすら、不思議に感じていた。
「血の汚れをお拭きになって、少し休息されてはどうですか。――さ、こちらへ。」
胤舜はそう言い、焚火のそばへと武蔵を誘導した。武蔵は従い、城太郎もその袂を離れずについてきた。
宝蔵院の坊主たちは、既に槍を拭きながら、日常のような雑談を始めていた。奈良晒布を裂き、血を拭っている様子を見て、武蔵はさらに困惑していた。
「――見ろよ、あんなに」
一人が空を指さした。
「もう鴉が血の匂いを嗅ぎつけて、この野に転がる死骸に群がろうとしてる。」
「――まだ降りて来ないな。」
「俺たちが去れば、争うように死骸へ降りるだろう。」
そんな暢気な話題まで出てくる。武蔵の疑問は、誰も口にしなければ解決しそうにない。
そこで、武蔵は胤舜に向かって問うた。
「実は、拙者はあなた方こそ今日の敵だと思い、一人でも多く冥途へ連れていこうと覚悟していたのですが、むしろお味方くださった上に、このようにもてなされるとは、まったく理解できないのです。」
胤舜は笑って答えた。
「いや、貴公にお味方した覚えはない。ただ、少々手荒ではありましたが、奈良の大掃除をしたまでです。」
「大掃除、とは……?」
その時、胤舜は指を遠くの方へ向け、
「そのことについては、私が話すよりも、あなたをよく知る先輩の日観師が、親しくお話しくださるでしょう。――ご覧なさい。野末の方から、豆粒ほどの人馬の一群れが見えるでしょう。あれが日観師とその一行です。」
武蔵は胤舜の指す方向を見つめた。
「――老師、早いな」
「そちらが遅いのじゃ」
「馬より速いぞ」
「あたりまえだ」
猫背の老僧、日観が駒の足をしり目に歩いていた。彼の目指すのは、般若野の煙だ。その後ろを騎馬の役人が五人、石ころを蹴り上げながら進んでいく。
近づくと、坊主たちは囁きあいながら一列に並び、厳かな儀式のように日観と騎馬役人を迎えた。
「片づいたか?」
日観の最初の言葉がこれだった。
「はい、仰せの通りに」
胤舜が礼を正して答えると、日観は騎馬役人に向かって言った。
「ご苦労です」
役人たちは鞍から降り、一応死体を確認しながら覚え書きを取り、簡単な処理を終えると馬上へ戻り、言い残した。
「後は役所から片づけさせる。これで退去してよいぞ」
彼らが去ると、日観が坊主たちに命じた。
「おまえたちも戻れ」
僧たちは礼をして野を歩み去り、胤舜も師礼を行いながら武蔵に別れを告げて帰っていった。
人が減ると、途端に鴉がぎゃあぎゃあと飛び降りてきて、死体に群がった。
「うるさい奴らだ」
日観はつぶやきながら武蔵のそばに来て、軽く言った。
「この前は失礼したな」
「あ、その節は……」
慌てて武蔵は礼を尽くそうとしたが、日観はそれを制した。
「手を下ろせ。野原の中でそんなに堅苦しいのもおかしいだろう」
「はい」
「どうだ? 少しは勉強になったか?」
「教えていただきたいのです。なぜこのようなご配慮を?」
「それもそうだな。実はな……」
日観は語り始めた。
「さっきの役人たちは、奈良奉行、大久保長安の与力衆だ。奉行は新任で、まだ土地に慣れていない。そこを狙って悪い牢人どもが悪さをしていたのだ――強盗、賭試合、ゆすり、後家を脅すなど、ろくでもないことばかりだ。奉行も手を焼いていた。山添団八、野洲川安兵衛あたりが、その悪党の中心だった」
「なるほど……」
「おぬしに敵意を抱いていた山添たちは、宝蔵院を利用して復讐を企んだ。彼らはおぬしの悪評を広め、宝蔵院に責めさせようとしたのだ。だが、私を盲目だと思ったのが彼らの間違いだ」
武蔵の顔に微笑が浮かんだ。
「これを好機と見て、奈良の大掃除をしようと思ったのだ。胤舜に策を授けて、坊主たちも喜び、奈良奉行も助かり、そして……この野の鴉たちが一番喜んだ。アハハハハ!」
日観は、武蔵にとって最初の敵ではなく、策を授けた先導者だった。
鴉だけではなく、もう一人喜んでいる者がいた。それは、日観の話をそばで聞いていた城太郎だ。これで彼の疑念や恐怖は一気に晴れ、飛び跳ねながら駆けていくと、信じられないほど大きな声で歌い出した。
「大掃除! 大掃除だ!」
武蔵と日観が振り向くと、城太郎は顔に例の笑い仮面をかぶり、腰の木剣を抜いて鴉を蹴散らしながら、死骸の間を舞うように駆け回っていた。
「なあ、鴉! 奈良だけじゃないぜ! 大掃除は時々必要なんだよ! 自然の理だろ? そうすれば新しい春がやってくる! 落ち葉を焚き、野を焼いて、時々雪が降るように、時々大掃除も必要なんだ! なあ、鴉! 今日はお前たちの饗宴だ! 人間の眼球のお吸い物、赤いどろどろのお酒! でも、食べ過ぎて酔っ払うなよ!」
「おい、子供!」
日観が呼びかけると、城太郎はすぐに振り向き、踊りをやめた。
「はいっ!」
「そんな気狂いじみたことをしてないで、石を拾え。ここに石を持ってこい」
「こんな石でいいんですか?」
「もっとたくさんだ!」
「はい、はい!」
城太郎が石を拾い集めると、日観はその石に一つ一つ「南無妙法蓮華経」と書き、城太郎に言った。
「さあ、その石を死体の上に撒け」
城太郎は言われた通りに石を四方に投げた。日観は法衣の袖を合わせ、静かに経を唱えていたが、それが終わると、こう言った。
「よし、それでいい。お前たちも先へ進め。私は奈良へ戻るとしよう」
飄然とした日観は猫背の姿を風のように向こうへと歩み去っていった。武蔵はその後ろ姿を見つめ、思わず追いかけた。
「老師! お忘れ物です!」
日観は立ち止まり、振り返った。
「忘れ物とは?」
「せっかくこのようにお会いできたのです。どうか一手、御指南をお願いしたい!」
すると、日観の口から、乾いた笑い声が響いた。
「――まだ分からんのか。お前さんに教えることは一つ、強すぎるということじゃ。だが、その強さを誇って進んでいくと、三十歳までは生きられんだろう。すでに今日も命がなかったかもしれん。そんなことで、自分という人間をどうするつもりだ?」
武蔵は黙り込んだ。
「今日の働きなど、まるでなっておらん。若いから仕方ないが、強さだけで兵法を考えるのは大間違いだ。私など、まだ兵法を語る資格はない。柳生石舟斎殿、そして上泉伊勢守殿――そういう方々の歩んだ道を、お前さんもこれから歩いてみることだ」
武蔵がうつむいていると、ふと日観の声が途絶えた。顔を上げると、もう彼の姿はどこにもなかった。




