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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
水の巻
22/165

奈良の宿

「負けた……おれは負けた……」


 武蔵は暗い杉林の小道を歩きながら、独りごちた。時折、彼の足音に驚いた鹿の群れが、木陰を疾走する。


「強さでは勝っているはずだ。それなのに、なぜこんなにも敗北感を抱えているんだ……形では勝ったが、心では負けたような気がする……」


 心の中で納得がいかない。武蔵の足取りは重く、悔しさが胸に渦巻いていた。


「あ……」

 何かを思い出したように、武蔵は急に立ち止まり、振り返った。宝蔵院の門灯がまだ見えている。彼は駆け戻り、先ほど通った玄関に立った。


「ただ今戻りました。宮本武蔵です」


 玄関の坊主が顔を出し、彼に応じる。


「おお、何かお忘れ物でも?」


「いや、そうではありません。もし明日か明後日、私を尋ねてくる者がありましたら、猿沢の池のあたりに滞在していると伝えてください。その者は城太郎という名の少年ですので、確実に伝言をお願いしたい」


「承知しました」


 しかし返事はどこか上の空だった。武蔵は少し不安に感じたが、再び道を引き返しながら、呟いた。


「やはり、おれは負けたんだ……城太郎の伝言を忘れて戻ってきただけでも、あの老僧・日観に完全に負けた気がする……」


 武蔵の頭の中は、どうすれば「天下無敵」の剣士になれるのか、その思いでいっぱいだった。勝利を手にしながら、どうしてこの苦々しい未熟さがこびりついてくるのだろう。何をしても心が晴れない、そんな気分だった。


 彼の足はいつの間にか猿沢の池畔に辿り着いていた。池を中心に、天正の頃から新しく建てられた民家が乱雑に立ち並んでいる。近くには、徳川家の手代・大久保長安が設けた奈良奉行所もある。この地域では、中華からの帰化人である林和靖の後裔が開いた宗因饅頭の店も繁盛していた。


 武蔵はその宵の灯を眺めながら、どこに泊まるかを考えあぐねていた。旅籠はそこかしこにあるが、財布の中身も気になるし、城太郎が後から訪ねて来ることも考慮すると、あまり分かりにくい場所には泊まりたくない。


 ふと、宗因饅頭の店先を通りかかると、武蔵は急に食欲を覚えた。饅頭を一つ取り上げてみると、皮に「林」の字が焼き込まれている。彼は宝蔵院で食べた瓜漬けの味を思い出しつつ、饅頭を口に運んだ。今回はしっかりとその味を楽しむことができた。


「旦那さま、今夜はどちらにお泊まりですか?」


 茶汲み女が話しかけてきたので、武蔵は旅籠探しに困っていることを伝えた。すると彼女はすぐに、「それなら、うちの知り合いが宿屋をやっていますよ。ぜひそこに泊まってください。すぐに主人を呼んできます」と言って、まだ武蔵が何も返事をしていないうちに奥へ走り去った。すぐに若い女房を呼び出してきて、二人は彼を迎え入れる準備を整えた。



 宗因饅頭の店から少し離れた静かな小路に、ひっそりと佇む素人の家。案内してくれた青眉あおまゆの女房が、小さな門の戸を軽く叩いた。中から返事が聞こえると、彼女は振り返り、武蔵に静かに言った。


「ここは私の姉の家ですから、ご心配なさらずに」


 中から小女が出てきて、女房と何やら囁き合っている。どうやら全て心得ているようで、武蔵はそのまま2階に通された。女房は笑顔で軽くお辞儀をし、


「では、ごゆっくりお過ごしくださいませ」


 と言って去っていった。


 武蔵が通された部屋は、旅籠はたごにしては少し上等すぎる。調度品も立派で、逆に落ち着かない。食事は済んでいるので、風呂に入り、あとは寝るだけだ。だが、なぜこの家がこんなに裕福そうな造りなのに、旅人を泊めているのかが気にかかり、武蔵は寝付けずにいた。


 小女に尋ねても、ただ笑って答えることはなかった。


 翌朝になり、武蔵は話を切り出した。


「後から仲間が尋ねてくるはずだから、もう一泊させてもらいたい」


 すると、小女はすぐに階下の主人に伝えたらしく、しばらくして美しい女主人が挨拶に現れた。彼女は30歳くらいの肌のきめ細かい美人だった。武蔵がさっそく不審を尋ねると、彼女は笑いながら答えた。


「実は、私は観世かんぜという能楽師の後家です。この奈良には、今、素性のわからない浪人が多く住んでいて、風紀が非常に乱れているんです」


 彼女はさらに詳しく話してくれた。牢人たちのために、木辻あたりには怪しげな飲食店や白粉おしろいの女たちが急増しているが、そんなところでは彼らは本当に楽しむことができない。それどころか、彼らは「後家見舞い」と称して、男手のない家を襲って歩くのが流行っているという。


「関ヶ原の戦いが終わって少しは平穏な時代が戻ったかと思いきや、各地に浪人が増え、夜な夜な悪事が横行しています。この悪風は、豊臣秀吉の朝鮮出兵が原因だと恨む者も多いんです」


 そんな事情から、女主人はこう結んだ。


「だから、武蔵様のような武士に泊まっていただければ、何かの魔除けになると思いまして」


「なるほど、そういうわけでおれを泊めてくれたのか」


 武蔵も彼女の話に納得し、少し苦笑いを浮かべた。


「まあ、おれがいる間は安心していていい。ただ、仲間がここを探してくる予定だから、目印を出しておいてもらえないか」


「かしこまりました」


 女主人は紙に「宮本様お泊まり」と書いて、外に貼り出した。


 その日も、城太郎は姿を見せなかった。そして次の日、武蔵のもとに3人の武芸者が訪れてきた。彼らは頑なに帰ろうとせず、無理やり上がり込んできた。


「宮本先生にお会いしたい」と口にしながら現れたその3人は、宝蔵院で武蔵が阿巌あごんを打ち倒した試合を見ていた者たちだった。


「やあ、あのときはすごかったな」


 彼らはまるで旧知の仲のように、馴れ馴れしく武蔵を囲んで座り込んだ。



「いや、まったく驚かされましたよ!」


 座るなり、その三人は調子よく、武蔵を褒めちぎり始めた。まるで武蔵を持ち上げるためだけに来たかのようだった。


「いやあ、宝蔵院を訪ねた者の中で、あそこの七足たちと呼ばれる高弟を一撃で倒したなんて話、今までに聞いたことがありませんよ。特に、あの傲慢な阿巌あごんが、うなり声をあげたかと思ったら、血の混じったよだれを垂らして倒れたなんて、最高に痛快でした!」


「いやいや、俺たちの仲間でも、あなたの話題で持ちきりですよ。一体、宮本武蔵とは何者なのか、みんな噂してますよ。それに、宝蔵院もすっかり看板に泥を塗られたって話です」


「いやー、もう、あなたは天下無双と言ってもいいでしょう!」


「それに、まだ若い! これからの伸びしろがすごいって、みんな言ってます」


「失礼ながら、そんな実力を持ちながらも、まだ浪人とは、もったいない!」


 三人はお茶が出てくるとガブ飲みし、菓子が出ると膝にこぼしながらも、むしゃむしゃと食べる。そして、口々に武蔵を称賛し続け、武蔵はどう反応していいかわからず、ただ相手が話し終わるのを待っていた。だが、彼らは一向に話を終わらせる気配がない。


「ところで、皆さんのご姓名は?」

 武蔵がようやく切り出すと、三人は思い出したように自己紹介を始めた。


「おっと、これは失礼。私は元蒲生がもう家の家臣、山添団八やまぞえ だんぱち


「こちらは大友伴立おおとも ばんりゅう卜伝流ぼくでんりゅうを究め、少しばかり野望を抱いてる者です」


「俺は、野洲川安兵衛やすかわ やすべえ。織田家の元家臣で、牢人の子から牢人になった、はははは!」


 これで一通り自己紹介は終わったが、武蔵は彼らが何の目的で自分を訪ねてきたのか、依然として見当がつかなかった。


「ところで、ご用件は?」

 ようやく隙を見つけて尋ねると、三人は「ああ、そうだった」と今さら気づいたように膝を進め、真面目な顔で話し始めた。


「実は、相談があって来たんです。今、我々は奈良の春日の下で武術の興行を企てているんです。興行と言っても、能芝居や見世物じゃありません。民衆に武術の素晴らしさを伝えるための賭け試合です。小屋も建て始めてますが、前評判も上々。でも、実は人数が少し足りなくてね。どんな豪傑が挑んでくるかわかりませんし、一勝負で利益をさらわれるのも怖い。そこで、宮本殿にも一枚加わってもらえないかと」


「もちろん、利益は山分けですし、その間の食事や宿代もこちらで負担します。一儲けして、次の旅の資金にされてはいかがでしょう?」


 三人は熱心に説得しようとするが、武蔵は飽き飽きとした表情でにやにやと聞いていた。そして、ついに堪忍袋の緒が切れたように、


「いや、そのような話なら、これ以上は無用です。ごめんこうむる」


 あっさりと断ると、三人は驚いたように、


「なぜです?」

 と詰め寄ってきた。


 その瞬間、武蔵の表情が一変した。若き剣士の怒りが静かに滲み出し、鋭い口調で言い放つ。


「俺は博打打ちじゃない。飯は箸で食う男だ。木剣で食うような男じゃない」


「なんだと?」

 三人は顔をしかめた。


「わからんのか? 宮本武蔵は、痩せても枯れても剣士だ。くだらないことはやめて帰れ!」


 武蔵の声が冷たく響き、三人はその迫力に言葉を失った。



 ふふん、と一人が唇に冷笑を浮かべ、もう一人は顔を赤らめて怒りを抑えきれない様子だった。そして、彼らは一言、「忘れるなよ」とだけ捨て台詞を残した。


 三人は束になっても武蔵に勝てないことをよく理解していた。悔しそうな表情を浮かべながら、無言のまま、彼らはただ跫音あしおとと態度で「これで終わりじゃないぞ」という意思を示し、どやどやと外へ出て行った。


 その頃、夜の風はぬるく、朧月夜が続いていた。武蔵が泊まっている間、階下に住む若い女主人は「あなたがいてくれる間は安心です」と、丁寧に接待してくれた。昨日も今夜も、彼女のもてなしを受け、武蔵は心地よく酔い、灯りのない二階の一室に体を横たえ、若い体を思う存分伸ばしていた。


「残念だ…」

 そんな中、武蔵の頭には、またしても奥蔵院の日観にっかんの言葉が浮かんでくる。


 自分の剣で倒した相手は、たとえ半死半生に追いやった者であっても、武蔵はすぐにその相手を忘れてしまう。しかし、自分よりも少しでも優れていると感じた者には執着が消えない。生霊のように、その相手に勝つことができない自分を思い続ける。


「残念だ…」

 寝転がりながら、髪をぎゅっと掴む。どうしたらあの日観を超えることができるのか。あの不気味な目に一切の恐怖や圧力を感じない自分になれるのか。


 昨日も今日も、武蔵はこの問いから逃れることができなかった。この「残念だ」というつぶやきは、他人を呪うためのものではなく、自分自身に向けられた呻きだった。


 時折、武蔵は考える。

(俺は駄目なのか?)


 日観のような人間に出会うと、自分がどこまで成長できるのか疑わしくなる。もともと、武蔵の剣は誰かに正式に学んだわけではなく、独学の道だった。だからこそ、彼は自分の力がどれほどのものか、自分自身でも正確に測ることができなかった。


 それに、日観が言った言葉が頭にこびりついている。

(強すぎる。もう少し、弱くならないといけない)


 あの言葉の意味がまだよく理解できない。兵法者であるならば、強さこそが絶対の優位性であるはずなのに、なぜそれが欠点になるのか。


(待てよ…あの老僧は何を言っていたんだ?)

 もしかしたら、彼はただ俺を若造としてからかい、わけのわからない理屈をこねて煙に巻いたのかもしれない。それで後から笑っている可能性もある。


(書物なども、読むことが良いかどうかも分かったものじゃない)

 武蔵は最近、そんなことを考えるようになっていた。姫路城の一室で三年間も書を読んだ後、何かにつけて物事を理論で解決しようとする癖がついてしまった。理論的に納得できないことは、心から受け入れることができなくなっているのだ。


 それが原因で、かつての勇猛さが弱まったのではないかと思うこともある。だが、日観はそんな武蔵に対して「まだ強すぎる」と言った。あれは腕力の話ではなく、武蔵の本質的な野性や闘争心を指していたことは理解している。


「兵法者に書物なんて不要の知恵だ。半端に他人の心や気持ちの動きを敏感に感じ取るようになって、かえってこちらの手が鈍くなっている。日観なんて、目を閉じて一撃で叩き潰せば、実はただの土偶のようなものかもしれない」


 そんなことを考えながら、誰かが二階へ上がってくる階段の音が武蔵の耳に届いた。



 階下にいた小女が顔を出し、その後ろから城太郎が駆け上がってきた。城太郎の顔は、旅の垢でますます黒く、髪は河童のように埃まみれで白くなっていた。


「おう、よく来たな。よくここが分かったな」

 武蔵が胸を広げて迎えると、城太郎はその前にどさっと腰を下ろし、汚れた足を投げ出した。


「ああ、疲れた…」

「だいぶ探したか?」

「探したよ、そりゃもう、大変だったんだから…」

「宝蔵院で聞いてみたんだろう?」

「それがさ、あそこの坊さんに聞いても、全然分からないって言うんだよ。多分、おじさん、伝言を忘れちゃったんだろうな」

「いや、ちゃんと頼んだはずなんだけどな…まあいい、ご苦労だったな」


 城太郎は首から竹筒を外して、武蔵に返書を手渡した。


「これは吉岡道場からの返事。それから、もう一つの使いのほうだけど、本位田又八って人には会えなかったんだ。だから、そこの家の人にしっかりと伝言だけは頼んできたよ」


「大儀、大儀。さあ、風呂にでも入って、階下で飯を食べてこい」

「ここって宿屋?」

「まあ、宿屋みたいなものだ」


 城太郎が降りて行った後、武蔵は吉岡清十郎からの返書を開いてみた。


 ――再度の試合は当方の望むところである。もし約束の冬までに来訪がない場合、貴公を臆病者と見なし、天下にその卑劣を笑いものにする。――


 代筆らしく、文は拙く、ただ威勢のいい言葉が並んでいた。武蔵は手紙を破り、それを燭台の火にかざして焼いた。手紙は黒く焼け、蝶のようにふわふわと灰が畳に落ちた。


(試合とはいえ、この手紙のやり取りはほぼ果し合いの約束だ。この冬、この手紙の誰がこういう灰になるのか…)


 武蔵は兵法者として、命の危うさは常に覚悟していた。朝に生まれ、夕方にはどうなるか分からない人生。それが武士の宿命だ。だが、もし本当に今年の冬までの命しかないとしたら、彼の心は決して穏やかではいられなかっただろう。


(やりたいことがたくさんある。兵法の修行もそうだが、人としてやりたいことはまだ何もやっていない)


 武蔵は内心でそう叫んでいた。兵法の達人、上泉伊勢守や塚原卜伝のように、鷹を肩に駒をひかせ、堂々と天下を歩きたい。そして、立派な家を持ち、良き妻と共に温かい家庭を築くことを夢見ていた。


 ――いや、そうした人生を歩む前に、世の女性に触れてみたいのだ。今まで、剣術のことしか頭になく、童貞を守ってきたが、最近、京都や奈良の町を歩いていると、ふと美しい女性たちに目を奪われ、彼女たちの存在が自分に響いてくることがあった。


 そんな時、彼はふと おつう を思い出す。


 遠い過去のように感じながら、常に近くで結ばれているような気がするお通。彼女を思い浮かべるだけで、武蔵は無意識のうちに孤独と流浪の生活に慰めを見つけていた。


 しばらくして、城太郎が戻ってきた。風呂に入り、腹を満たし、任務も果たした安心感から、すっかり疲れ果てたのだろう。小さくあぐらを組み、両手を膝の間に突っ込み、涎を垂らして心地よさそうに居眠りしていた。



 朝――

 城太郎はもう雀の声とともに目を覚まし、さっと起き上がっていた。武蔵も今朝は早く奈良を立つ予定だと、すでに宿の女主人に伝えてあったため、旅支度に取り掛かっていた。


「まあ、お急ぎなのですね」

 能楽師の若い後家が少し寂しそうにしながら、一重の小袖を抱えてやってきた。そして、武蔵の前にそれを差し出して、こう言った。

「失礼ですが、これは私が餞別として、一昨日から縫い上げた小袖と羽織です。お召しになっていただけると嬉しいのですが、いかがでしょうか?」


「え、これを…?」

 武蔵は驚いた。旅先の餞別にこんな贅沢なものをもらう理由がない。しかし、断ろうとすると後家はこう続けた。

「いえいえ、大した品ではございません。家には古びた能衣装や男物の小袖がたくさんあって、役にも立たずに押し込んであるのです。ですから、修行中のあなたのような若い方に着ていただければと思って、心を込めて縫ったものです。せっかく体に合わせて作ったのですから、どうぞお召しくださいませ」


 そう言いながら、後家は武蔵の後ろに回り、強引に着せかけてくれた。迷惑に感じるほどそれは贅沢な品で、特に袖なしの羽織は舶来の織物のようで、豪華な模様に金襴が施され、裏地には羽二重が使われていた。紐には葡萄染めの革がついており、細部にまでこだわりが感じられた。


「まあ、よくお似合いです」

 後家と共に城太郎もその姿に見惚れながら、無遠慮に言った。

「おばさん、オレには何をくれるの?」


「ホホホ。だって、あなたはお供でしょう?お供ならそれでいいじゃありませんか」

「着物なんか欲しくないさ」

「では、何が欲しいのですか?」


「これが欲しい!」

 城太郎は次の間の壁に掛けてあった仮面をいきなり外して、喜び勇んで自分の頬にそれをすりつけた。ゆうべ一目見てから、ずっと欲しかったものらしい。


 武蔵はその瞬間、城太郎の眼力に驚いた。実は彼も、この家に泊まってからこの仮面に心を奪われていたのだ。誰が作ったものかはわからないが、少なくとも室町時代のものではなく、鎌倉期の作品で、能に使われたもののようだった。彫られた鬼女の顔は、圧倒的な迫力で、のみの先でまるで命を吹き込まれたかのようだった。


 ただ、それだけなら特別気を引かれることはなかったかもしれない。だが、この仮面には他の能仮面にはない不思議な魅力があった。通常の鬼女の仮面は青隈で塗られて奇怪なものが多いが、この仮面は美しく端麗な顔立ちで、上品な色白の顔をしていた。どう見ても美人なのだが、その美人が恐ろしい鬼女に見える理由は、唇元にあった。


 左側にキュッと彫り上げられた三日月形の唇、その笑みのラインには何とも言えない凄みが込められていた。武蔵も、この仮面は実際に生きていた狂女の表情を写し取ったに違いないと感じていた。


「あっ、それはダメです!」

 この家の後家にとっても、その仮面は大事なものであったらしく、城太郎の手から取り返そうとする。しかし、城太郎は頭の上に仮面を掲げ、

「いいじゃないか、オレがもらったんだから!」

 と、踊りながら逃げ回り、どうしても返そうとしなかった。



 子どもというのは、調子に乗ると止まらないものである。武蔵が後家に迷惑をかけまいと気遣って、

「こらっ、なぜそんなことをする!」

 と叱っても、城太郎は浮かれ調子のまま止まらず、今度は仮面を懐に入れて、

「いいだろ、おばさん!おいらにくれってば!」

 と言いながら、はしごを降りて階下へ逃げてしまった。若い後家は、

「いけない、いけないわよ」

 と言いつつ、子どもの振る舞いなので怒るわけにもいかず、笑いながら追いかけて行ったが、しばらくしても戻って来ない。


 やがて、階段から城太郎だけが、ゆっくりと上がってくる音が聞こえた。武蔵は、来たら叱ってやろうと、厳しい表情で階段の方を見据え、膝を立てて待っていた。


 すると、

「――ばあっ!」

 不意に現れたのは、例の鬼女の笑い仮面だった。長く伸びた腕の先にそれが見えた瞬間、武蔵は思わず身体をピクリと震わせた。自分でも何がそんなに衝撃だったのか分からない。しかし、薄暗い階段の口元に浮かぶ笑い仮面を見つめてすぐに気づいた。――それは仮面の持つ名匠の気迫である。白い顎から左耳にかけて鋭く笑っている三日月形の唇、その妖しい美しさが隠し持つ、得体の知れないものだった。


「さあ、おじさん、もう出かけましょう」

 城太郎は仮面を手に言った。


 だが、武蔵は立たず、

「まだ返していないのか。そんなもの、欲しがるんじゃない」

 と一喝した。


「でも、いいって言ったんだよ。もう、くれたんだよ」

「よいとは言っていない。階下のお方に返して来い」

「ううん、階下で返すって言ったら、今度はおばさんの方が『そんなに欲しければあげる。その代わり大事に持ってくれるか?』って言うから、『絶対大事にするよ!』って約束したんだ。だから本当に貰ったんだよ」


「困ったやつだな…」

 武蔵はため息をついた。この家にとって大事そうな仮面や小袖まで、理由もなく貰っていくことに、どうしても釈然としないものを感じた。何かお礼をしていきたい気持ちはあるが、家も裕福そうで、代わりにあげられるものも持っていない。


 武蔵は階下に降り、改めて城太郎の無作法を詫び、仮面を返そうとした。しかし、若い後家は笑顔でこう言った。

「いいえ、考え直したら、あの仮面はかえって私の家にない方が、私も気が楽かもしれません。それに、あんなに欲しがるので、どうか叱らないでくださいませ」


 そんな言葉を聞くと、武蔵はますますあの仮面が何か歴史を秘めたもののように思えてならなかった。それでも強く返そうとしたが、城太郎はもう大満足で、わらじを履いて外で待っていた。


 仮面のことよりも、若い後家は名残惜しそうに、

「また奈良にお越しの際は、どうぞ幾日でもお泊りください」

 と繰り返し伝えた。


「では…」

 武蔵は結局、その好意に甘え、わらじの紐を結びかけていた。その時、門の方から息を切らせて駆け込んできたのは、宗因饅頭の女房だった。彼女は驚いた様子で言った。

「お客さま、まだいらっしゃいましたか?大変です!今すぐ二階へ戻ってください!怖ろしいことが起きています!」



 武蔵は、草鞋の紐をしっかりと締めてから、静かに顔をあげた。


「何ですか?大変とは?」


「それがですね、あなたが今朝ここを出発することを知った宝蔵院のお坊様たちが、槍を持って十人以上連れ立って、般若坂はんにゃざかの方へ向かったのです!」


「ほう…」


「しかもその中には、宝蔵院の二代目様もいて、町の人々がざわついていました。何か重大なことが起きているのだろうと、私の主人がそのお坊様の一人に聞いたら、『宮本という男が、この数日うちに親戚の家に泊まっていて、今日奈良を離れるらしいから途中で待ち伏せするのだ』と聞いたんです!」


 宗因饅頭の女房は、青くなった眉を震わせながら、「命を捨てに行くようなものですから、今は二階に隠れて夜を待って逃げた方がいい」と、声を震わせながら伝えた。


「なるほど…」

 武蔵は上がりかまちに腰を下ろしたまま、動こうともしない。


「般若坂で拙者を待ち伏せる、そう言ったのですか?」


「場所まではよく分かりませんが、その方向へ行きました。私の主人も驚いて、町の噂を聞きまわったら、宝蔵院のお坊様だけでなく、奈良の辻々には牢人たちが集まっていて、今日は宮本という男を捕まえて宝蔵院に引き渡すつもりだと言っているそうです。もしかして、あなたは宝蔵院の悪口を言いふらしたのですか?」


「いや、そんな覚えはない」


「でも、宝蔵院の方々は、あなたが奈良の辻々に落首を書いて貼らせたと怒っているそうです」


「知らんな。それは人違いだろう」


「ですが、こんなことで命を落としては、つまらないではございませんか…」


 武蔵は、空を見上げたまま返事もせず、ふと頭に浮かんだことを思い返していた。――そういえば、昨日だったか一昨日だったか、彼の頭からはもう遠い出来事のように感じていたが、春日かすがの下で賭け試合を興行しようと誘ってきた三人の牢人がいた。


 確か、山添団八やまぞえ だんぱち野洲川安兵衛やすかわ やすべえ、そして大友伴立おおとも ばんりゅうという名前だった。あの時、帰って行く彼らの顔には何か不穏なものがあった。それが、後にこうして復讐の機会を狙っていたのかもしれない。宝蔵院の悪口や落首も、あの三人の仕業かもしれない。


「行こう」

 武蔵は立ち上がり、荷物をまとめて胸の前で結び、笠を手に取った。そして、宗因饅頭の女房と観世かんぜの若い後家に向かって、深々と礼をして言った。


「くれぐれもご親切をありがとうございます。しかし、夜を待って逃げてしまうと、かえってご迷惑をおかけしますから、今立ちます」


「それでも…」


 後家は涙ぐみそうな目で見つめ、心配そうに言った。


「夜まで待てば、きっと何事もなくここでお過ごしになれます。どうぞ、命を大切に…」


「いや、私がここにいる限り、かえってご迷惑をおかけすることになります。もう、立ちます」

 武蔵は決意を示し、城太郎に向かって言った。


「城太郎、お礼を言いなさい」


「おばさん、ありがとうございました」

 城太郎はしっかりと頭を下げたが、彼の顔にはどこか元気がない。別れを惜しむためというよりも、宝蔵院の槍術の名手たちが待ち伏せしていると聞いて、子どもながらに不安を感じていたのだ。彼は、武蔵の実力を本当には知らないし、京都では弱い武者修行と聞かされていたため、宝蔵院の武者たちとの対決に、どこか悲壮な気持ちを抱いているのだろう。

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