春風便
恋風がふと吹いて、袖に絡まるように寄り添ってくる。
「はぁ、恋風ってやつは、重いもんだわ……」
朱実は、そんなことを小唄にのせながら、家の裏で高瀬川の水に洗濯物を投げ入れていた。
川に漂う花びらが、洗濯物に混ざって寄ってくる。
「おばさん、歌が上手だね」
川のほとりから声がした。
振り返ると、そこには大きな笠を背負い、長い木刀を携えた小僧が立っている。
朱実がじろりとにらむと、小僧は人懐っこい笑顔を浮かべ、白い歯を見せた。
「おまえ、どこの子? おばさんだなんて、私はまだ若い娘だよ」
「じゃあ、娘さん」
「ったく、小さいくせに生意気言っちゃって……。まったく、女をからかうのはまだ早いんじゃないの?」
「だって、聞きたいことがあるんだもん」
「何よ、私が話してる間に洗濯物が流れてっちゃったじゃないの!」
「取ってきてやるよ!」
そう言うと、小僧は川下に流れていった布を追いかけ、長い木刀を器用に使って拾い上げた。
「ありがと。で、何を聞きたいっての?」
「この辺に“よもぎの寮”ってお茶屋さんがある?」
「よもぎの寮なら、そこが私の家だけど?」
「おぉ、やっと見つけた!」
「おまえ、どこから来たの?」
「んー、あっちから」
「“あっち”じゃ分からないよ」
「おらにもよく分かんないんだよ」
「ほんと変わった子だね」
「誰がだよ」
「はいはい。で、何の用でうちに来たの?」
「本位田又八って人、いるだろ? 吉岡道場の人が教えてくれたんだ」
「いないよ」
「嘘だ!」
「ほんとにいないの。前はうちにいたけど、今はどこにいるか知らないよ」
「そっか……困ったなぁ」
「誰の使いで来たの?」
「お師匠様の」
「お師匠様って?」
「宮本武蔵」
「手紙とか持ってきたの?」
「ううん」
城太郎は首を振り、途方に暮れたように足元の水面を見つめた。
「……なんだか妙な使いだね。来た場所も分からないし、手紙もないなんて」
「言伝があるんだ」
「どういう言伝? もしかして、帰ってこないかもしれないけど、戻ってきたら伝えてあげてもいいけど?」
「そうしてもらおうかな……」
「それでも困るのはあなた自身よ。自分で決めなさいよ」
「じゃあ、お願いするよ。あのね、又八って人にどうしても会いたいんだって」
「誰が?」
「宮本さんがさ。来年の一月一日から七日まで、毎朝五条大橋で待ってるから、その間に一回でもいいから来てほしい、って言ってたんだ」
「ホホホ、ホホホホ……。まぁ、気の長い話ね。あなたのお師匠さんも、あんたに負けず劣らずの変わり者なんだね……。アハハ、お腹が痛くなっちゃった!」
城太郎は、頬をぷっとふくらませて怒ったように言った。
「何がおかしいんだよ! おたんこ茄子!」
彼の肩が少し怒りで上がった。
朱実はその瞬間、驚いて笑いがぴたりと止まった。
「……あら、怒っちゃったの?」
「当たり前だろ! こっちは真剣に頼みごとしてるんだぞ!」
「ごめん、ごめん。もう笑わないから。今の言伝は、もし又八さんが帰ってきたら、ちゃんと伝えておくよ、約束する」
「本当に?」
「ええ」
朱実は笑いをこらえながら、真面目に頷いて見せた。だが、微笑を押し殺すのが少し難しそうだ。
「でも……その言伝を頼んだ人、なんて名前だったっけ?」
「忘れっぽいなぁ。宮本武蔵だよ!」
「どうやって書くの、その“武蔵”って?」
「“武”はね、武士の武……」
城太郎は足元の竹の小枝を拾い、川の砂地に字を書いて見せた。
「ほら、こんな感じさ」
朱実は、砂に書かれた字をじっと見つめた。
「あ……これって、“武蔵”って読めるんじゃない?」
「違うよ! ‘むさし’だってば!」
「でも“たけぞう”とも読めるよね?」
「強情だなぁ!」
城太郎は竹の小枝を放り投げ、流れゆく川の水面に消えていった。それでも朱実は、じっと川砂に書かれた文字を見つめ続け、思いにふけるように動かなかった。
やがて、彼女はその視線を城太郎に戻し、改めて彼の姿をじっくりと見つめ直しながら、ため息混じりに訊いた。
「……もしかして、その武蔵って人、美作の吉野郷の出身じゃない?」
「そうだよ。おらは播州、お師匠さんは宮本村だから、隣の国だ」
「それに、背が高くて、髪を剃らない、そうよね、いつも月代を剃らない人でしょう?」
「よく知ってるなぁ」
「昔、子供の頃に頭に疔っていう腫れ物ができたことがあって、その痕が醜いから、髪を伸ばして隠してるんだって、話してくれたことがあったの」
「それって、何日ごろの話?」
「もう、五年も前……関ヶ原の戦いがあった年の秋ね」
「そんな前から、おめぇはおらの師匠を知ってんのか!」
朱実は答えなかった。言葉にする余裕もないほど、彼女の心は過去の思い出でいっぱいだった。
(……武蔵さんだ!)
彼女の胸の中に湧き上がる感情が、その思い出を蘇らせる。
今まで母の行動や、又八の変わり果てた姿を見てきた彼女は、心のどこかで初めから武蔵を選んでいたことに、確信を抱いていた。
そして、彼女の心は密かに「自分は正しかった」と誇っていたのだ。
又八とは違う――武蔵こそが彼女の本当の道だと。
そして、彼女の処女性は、これまで多くの男性を見てきたが、そのどれにも惹かれることなく、五年前に会った武蔵の姿だけを胸の奥深くにしまい、彼への想いをひそかに温めていた。
「じゃあ、お願いね。又八って人が見つかったら、必ず、今の言伝をしてくれよ」
用が済むと、城太郎は急いで堤に向かって駆け上がった。
「待って!」
朱実は慌てて追いかけ、彼の手を掴んだ。
何かを言おうとしたその瞬間、城太郎の目に映る彼女の顔は、頬を紅潮させ、美しい輝きに満ちていた。
「ねえ、あんたの名前は?」
朱実が熱っぽく訊ねる。
城太郎は、ちょっと不思議そうな顔をしながら答えた。
「城太郎だよ」
彼女の興奮した様子を、戸惑いながら見上げている。
「じゃあ、城太郎さん。あんたはいつも武蔵さんと一緒にいるのね?」
「武蔵様だろう?」
「あ、そうそう、武蔵様ね」
「そうだよ」
「わたし、あのお方にどうしても会いたいんだけど、どこにいるの?」
「家なんてないよ」
「え、どうして?」
「武者修行してるんだもん」
「じゃあ、どこに泊まってるの?」
「奈良の宝蔵院に行けば分かるよ」
「まさか……京都にいると思ってたのに」
「来年は来るよ。一月になったらね」
朱実は、何か考え込むような表情をしていた。
すると、彼女の後ろの家の勝手口から、母親のお甲の声が飛んできた。
「朱実! いつまでそんな子ども相手に話してるの! 早く仕事を終わらせなさい!」
その声に、朱実は不満げに振り返る。
「この子が又八さんを探しに来たんだから、ちゃんと説明してたんじゃない。人を奉公人みたいに扱って!」
お甲はイライラした眉を見せ、病気でも出たかのように怒っている。
「又八? ……又八なんてもう知らないよ。家の者じゃないんだから、いないって言えばいいのに。そんな小さな子どもに頼んで何か言わせたんだろうけど、相手にしないでおきなさい!」
城太郎はそのやり取りに呆然として、思わず呟いた。
「馬鹿にするなよ。おれ、お菰の子なんかじゃねえぞ」
お甲は、その言葉を聞こえなかったかのように朱実に向かって、
「朱実、もう中に入りなさい」
「でも、まだ洗濯物が川に残ってるんだけど」
「後は下の者にさせなさい。あんたはお風呂に入って、お化粧してなきゃダメよ。急に清十郎様が来て、そのままの姿を見られたら、嫌われてしまうわよ」
朱実は顔をしかめて言い返す。
「ちっ……清十郎なんて、嫌われてくれた方が嬉しいわ!」
彼女はその言葉を残して、怒りながら家の中に駆け込んで行った。お甲も姿を消すと、城太郎は閉まった窓を見上げて呟いた。
「けっ、ばばあのくせに白粉なんかつけやがって、変な女だ!」
その瞬間、また窓がバンっと開いた。
「なんですって! もう一度言ってみなさい!」
「うわ、聞こえた!」
城太郎は慌てて逃げ出したが、その頭に――薄い味噌汁みたいな鍋の水がバシャッとかかる。
身震いしながら、襟にくっついた菜っ葉を摘まみ捨てると、腹立たしそうな顔をして、逃げながら大声で歌い出した。
「本能寺の
西の小路は
暗いげな
あずさの姥が
白粉してやがる!
あやめこ産んだり
紅毛子産んだり
タリヤンタリヤン!
タリ、ヤン、タン!」
そう叫びながら、城太郎はさっさと去っていった。