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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
水の巻
17/165

 石ころだらけの坂道に沿って、少し古びた家々が並んでいた。


 屋根の端には苔がびっしり生えていて、まるで悪い歯並びのように不格好だ。


 どこかから、魚を焼く匂いが漂ってくる。


 お昼過ぎの強い日差しが照りつける中、突然、一軒のボロ屋から聞こえてきた。


「おい! あんた、奥さんと子供をほったらかしにして、また酒を飲んでたんだろう! どの面下げて帰ってきたんだ、この飲んだくれの馬鹿親父!」


 ヒステリックな女の声だ。


 それに続いて、ガシャーンと音が響き、割れた皿の破片が道に散らばる。


 その後には、五十歳前後の職人風の男が転がり出てきた。


 女房が、裸足で髪を乱しながら、まるで怒り狂った牝牛のように胸をあらわにして飛び出してきた。


 そして、その男のまげをつかんで、ぽかぽかと殴りつけ、噛みつかんばかりの勢いで責め立てる。


 近くで子供が火がついたように泣き叫び、犬までキャンキャンと騒ぎ立てる。


 その騒動に、近所の人たちが仲裁に駆け寄ってきた。


 武蔵は、その様子を見て、ふっと微笑んだ。


 笠の中で苦笑を浮かべながら、彼は振り向いたのだ。


 だが、すぐにまた、その目は、先程から見入っていた陶器師すえものしの作業場へと戻った。


「……」


 彼は完全に作業に見とれていた。


 しかし、作業している二人の陶器師は武蔵に気づいている様子もなく、粘土をこねる作業に没頭していた。


 まるで、粘土に自分の魂を込めているかのように、陶器作りの世界に没入している。


 武蔵はしばらくその場に立ち止まり、彼らの作業をじっと見ていた。


 心の中で、「自分もあの粘土をこねてみたい」と思い始めていた。


 幼い頃から、彼にはそういう創作的なことに魅力を感じる部分があったのだ。


「茶碗くらい、俺にも作れるんじゃないか」なんて軽く考えていた。


 だが、そのうちの一人、六十歳近い陶器師が、器用に指先で粘土を操って茶碗を形作っているのを見て、武蔵は自分の考えが甘かったと気づいた。


(これは、簡単には真似できないな。あれほどの技を身につけるには相当な時間が必要だ)


 武蔵はしみじみと感じた。


 最近、彼はしばしばこうした感動を覚えることがあった。


 人が持つ技や芸に対して、心から敬意を抱くようになっていたのだ。


(俺には、到底及ばない)


 そう、彼ははっきりと思った。


 作業場の片隅には、陶器師が作った皿や瓶、酒盃さかずきや水入れが並べられ、清水寺に参拝する客に向けて、安い値段で売られていた。


 たった二十文や百文の値段がつけられた雑器でも、それを作るには、驚くほどの職人魂と集中力が込められていると感じた武蔵は、自分が目指す剣の道が、まだまだ遠いものだと痛感した。


 ここ二十日ほど、武蔵は吉岡道場をはじめ、さまざまな名門道場を回っていた。


 だが、思った以上に簡単に勝ててしまうことが多く、彼は次第に自分の力に自信を持ち始めていた。


(俺が強いのか、それとも相手が弱すぎるのか……)


 武蔵はまだ、その答えがはっきりとは分からなかった。


 もし、これまで戦った兵法家たちが、今の剣術界の代表だとするなら、武蔵は「この世は大したことないな」と疑いたくなるほどだった。


 しかし――彼は思った。


(そんな簡単に天狗になるわけにはいかない)


 目の前のおきながわずか二十文や百文で売る雑器を作る姿さえ、見ているだけで彼は強烈な芸術と技の力を感じた。


 しかも、その翁の生活は決して裕福ではない。


 むしろ貧しく、食うや食わずの状態だ。


 そんな現実を前にして、武蔵は心の中で「世の中は甘くないな」と再確認した。


「……」


 黙って、武蔵は心の中で粘土まみれの翁に頭を下げた。


 そして、そこの作業場を後にし、坂の上に見える清水寺の崖道を仰ぎ見た。



 武蔵が三年坂さんねんざかを登り始めた時、不意に後ろから声がかかった。


「おい、御牢人ごろうにんさん。――御牢人!」


「ん? 俺か?」と、武蔵は振り向いた。


 そこにいたのは、竹杖たけづえを一本持ち、着古した布一枚を腰に巻いただけの男。


 髭の隙間から顔を覗かせ、ニヤリと笑った。


「旦那さん、宮本様でいらっしゃいますか?」


「そうだが?」


「武蔵様ですね?」


「そうだ」


「ありがたい。確認できました」


 男はそう言うと、そっぽを向いて、あっという間に茶わん坂の方へと降りて行った。


 武蔵はその男が向かった先をしばらく見ていたが、男は茶店らしき軒の中に消えた。


 辺りには駕籠かごを待つ駕籠かきたちが集まっているのを、武蔵はさっきも見かけたが、あの男は一体誰の指示で自分の名前を尋ねに来たのか?


 ――すぐに本人が現れるだろう、と武蔵は少しの間、坂道で佇んでいたが、誰も出てこなかった。


 それを見て、武蔵は再び坂を登り始め、頂上にたどり着いた。


 千手堂や悲願院といった寺の棟をぐるりと見回し、彼は祈った。


(故郷に残る姉上が無事でありますように)


 そしてさらに、自分に向けても。


(この愚か者、武蔵に苦難を与えたまえ。死を迎えるか、それとも天下一の剣を手にするか、どうかその運命を示してくれ)


 神仏への礼拝を済ませた後、武蔵はいつも感じる清々しい気持ちを味わった。彼は師である沢庵たくあん和尚から、無言の教えを受けてきた。そして、それを知識で補うための書物も読み込み、少しずつ理解を深めていた。


 武蔵は崖のふちに笠を置き、そのそばに腰を下ろした。そこから見渡す京の街は一望でき、膝を抱えた彼のそばには土筆つくしが顔を覗かせている。


(偉大な存在になりたい――)


 単純でありながら力強い野望が、武蔵の胸を熱くさせた。


(人間として生まれたからには――)


 そんなことを考えている彼の目の前を、参拝者や遊山客たちがのんびりと通り過ぎていく。


 だが、彼の描いている夢とはあまりに違いすぎた。


 彼は、平将門たいらのまさかど藤原純友ふじわらのすみともが、もし成功すれば日本を二つに分けようと誓い合ったという古い伝説を思い出していた。


 書物でその話を読んだときは、ただの無謀な笑い話だと感じていたが、今の自分にその話が少し重なって見える。


(信長もそうだった――)


 武蔵はそう思いを巡らせる。


(秀吉だって、そうだった)


 しかし、時代は既に変わった。


 かつての戦乱は、もはや過去の夢に過ぎない。


 人々は長らく渇望していた平和を求め、その答えを徳川家康とくがわいえやすが忍耐強く築いた。


 その家康の手腕を考えると、夢を持つことすら難しい時代に変わりつつあるのだ。


 だが、武蔵の生きる慶長の時代は、これからが勝負だ。


 信長を目指すにはもう遅いし、秀吉のような生き方を真似するのも無理だろう。


 それでも――夢を持つことは自由だ。


 誰にだって、どんな者にだって夢を持つ権利はある。


 たとえ、さっき駕籠を担いでいた若者たちにだって。


 しかし――


 武蔵はふと夢から覚め、考え直した。


(俺の道は、剣にある)


 信長も秀吉も家康も、彼らが生きた時代の中で、それぞれの文化と生活が栄えた。


 しかし、家康が天下を平定し、もう荒々しい改革や前進は必要ないところまで時代を仕上げてしまったのだ。


 東山から見下ろす京都の風景は、関ヶ原の戦い以前のような緊張感や嵐の兆しは、もはや感じられない。


(違うな――世の中は、もう信長や秀吉が求められる時代ではない)


 武蔵は剣と社会、そして剣と人生を結びつけ、若い夢に思いを馳せた。


 そこへ――


「や。あそこにいやがる!」


 さっきの駕籠かきの男が、再び崖下から武蔵の顔を指差したのだ。



 武蔵は、崖の下に集まる駕籠かごかきたちを睨みつけた。


「おい、あいつ、こっちを睨んでやがるぞ!」


「おいおい、歩き始めたぞ!」


 彼らが騒ぎ出し、崖を這うように武蔵に近づいてきた。


 武蔵は気にせず歩き出そうとしたが、前方にも同じような駕かきたちが現れ、腕を組んで竹杖を突きながら、まるで遠巻きに囲むように道を塞いだ。


 武蔵は立ち止まった。


「…………」


 彼が振り向くと、駕かきたちも足を止め、白い歯を見せて笑っていた。


「あいつ、がくなんか見てやがるぞ!」


 武蔵は本願堂の前に立ち、そこに掲げられている「本願」という文字をじっと見上げていた。


 ――不愉快だ。一発大声で怒鳴ってやろうかとも思ったが、駕かきを相手にしても無駄だ。何かの間違いなら、やがて彼らも去るだろうと、彼は耐えていた。懸額かけがくの「本願」の二文字を見つめ続けていると、駕かきたちがざわめき始めた。


「あっ、来たぞ!」


「ご隠居様が現れた!」


 駕かきたちの視線は一斉に後方へ向けられ、騒ぎ始めた。


 武蔵がふと後ろを見ると、清水寺の西門周辺は、いつの間にか人でいっぱいになっていた。


 参拝者、僧侶、そして物売りたちが、何か面白いことでも起こるのかと期待に満ちた目で、遠巻きに武蔵を取り囲んでいた。


 その時――


「わっしゃ!」

「おっさ!」

「わっしゃ!」

「おっさ!」


 三年坂の下から、威勢のいい掛け声が響いてきた。


しばらくすると、境内の一角に現れたのは、駕かきの背中に負ぶさった一人の老婆だった。老婆は六十を超えているように見え、その後ろには五十をとうに越えた田舎風の老武士が控えていた。


「もういい、もういい」


 老婆は、駕かきの背中から軽やかに降り、後ろの老武士に向かって声をかけた。


ごん叔父よ、しっかりしておくれよ」


 この老婆は「お杉ばば」と呼ばれる人物で、老武士は淵川権六ふちかわ ごんろくだった。


二人とも、まるで死出の旅に出るような覚悟で身支度を整えていた。


「どこにだ?」


「相手はどこだ?」


 二人は刀の柄を確認しながら、人垣を割って進んだ。


 駕かきたちは老婆に気を使いながら言った。


「ご隠居、相手はこちらでございます」


「急ぎなさらずに、敵はなかなかしぶとそうです」


「しっかりお支度をして臨んでください」


 周囲の人々は驚いた様子で噂を交わした。


「え、あのお婆さんが、あの若い男と果し合いをしようとしてるのか?」


「そうらしいな……」


「助太刀の方も、だいぶ年老いてるようだ。何か特別な事情があるんだろうな」


「だろうね。あれ、どうやら連れの者に怒っているようだ。気が強い婆さんだな」


 お杉ばばは今、駕かきの一人から受け取った竹柄杓たけびしゃくの水を一口飲んでいた。そして、それを権叔父に渡しながら言った。


「何をそんなに慌てるんだ。相手はたかが鼻垂れ小僧。多少剣の腕を学んだところで、大したことはない。落ち着きなされ」


 ――そう言うと、お杉ばばは自ら本願堂の前に進み、ぺたりと地面に座り込んだ。そして懐から数珠じゅずを取り出し、武蔵も、周囲の大勢の目も無視して、しばらくの間、静かに祈り始めた。



 お杉ばばが祈りを終え、手を合わせると、権叔父もそれに倣って掌を合わせた。二人の悲壮な様子があまりにも過剰だったため、群衆の中からはクスリと笑いが漏れた。


「誰だ、笑いやがったのは!」


 駕かきの一人が、怒りを込めて群衆に向かって怒鳴った。


「おい、何がおかしいんだ。笑いごとじゃねぇぞ。このご隠居様はな、遠く作州さくしゅうからわざわざ出て来てんだ。なんでかって? 自分の息子の嫁をさらって逃げた野郎を討つためだ! それでここ清水寺に日参して、今日がその五十何日目なんだ。で、偶然その野郎が茶わん坂で現れたのさ。そこにいるヤツだよ!」


 駕かきがそう説明すると、別の駕かきも口を開いた。


「いやぁ、侍ってのはやっぱり違うもんだな。あの歳で孫でも抱いて楽隠居してるはずなのに、家名の恥を雪ごうってんだから、頭が下がるよなぁ」


 すぐに他の駕かきたちも口々に言い出した。


「俺たちだってな、別にご隠居様から毎日酒代を貰ってるから肩入れしてるわけじゃねぇんだ。あの年で、若い牢人ろうにんを相手に戦おうってんだから、その心意気がたまらねぇんだよ! 弱い方につくのは人情ってもんさ。もしご隠居様が負けたら、俺たち全員であの牢人にかかってやるさ、なぁ!」


「そりゃそうだ!」


「婆さんを討たせてたまるか!」


 駕かきたちの熱弁に群衆も同調し、次第に騒がしくなってきた。


「やれ、やれ!」


「でもさ、その婆さんの息子はどうなったんだ?」


 一人が疑問を口にすると、駕かきの仲間は誰も答えられなかった。


おそらく息子は既に死んでしまったのだろうという者もいれば、息子の行方をまだ探しているのだと知ったかぶりで説明する者もいた。


 ――その時、お杉ばばが数珠を懐にしまい込んだ。すると、駕かきも群衆も静かになった。


「――武蔵!」


 ばばは、腰の脇差に左手を当てて、鋭く武蔵を呼んだ。


 武蔵は、その場に黙って立っていた。距離にして三間(約5.5メートル)ほど離れたところで、棒のようにじっと立っていた。


 権叔父も隣から足を構え、首を突き出して叫んだ。


「やいっ!」


「…………」


 武蔵は、どう返事をすればいいか分からなかった。ただ立ち尽くし、かつて姫路の城下で沢庵たくあん和尚からの注意を思い出していた。そして、駕かきたちが群衆に広めていた話を耳にし、心外な気持ちが湧き上がってきた。


 彼には、本位田家の者たちが自分に対して抱いている恨みの理由が、どうしても腑に落ちなかった。結局のところ、それは狭い郷土での面子や感情の問題に過ぎない。本位田又八がここにいれば、すべては簡単に解決することだろうと武蔵は思った。


 だが今、武蔵は困惑していた。この老人たちの挑戦をどう受け止めればいいのか――このよぼよぼの婆さんと、老い朽ちた古武者を相手にすることが、武蔵にとって大いに戸惑うものだった。彼の無言は、ただひたすら迷惑きわまりないという表情を示すだけだった。


 駕かきたちは、そんな武蔵の態度を見て叫んだ。


「ざまあみろ!」


「竦んでやがる!」


「男らしく、ご隠居に討たれちまえ!」


 口汚く応援する駕かきたちに、お杉ばばは癇に障ったのか、目をバチバチと瞬かせて強く顔を振った。そして振り返って、駕かきたちに向かって一喝した。


「うるさい! お前たちは証人として立ち会ってくれればそれでいい。もしわしらが討たれたら、骨は宮本村に送ってくれ。それだけを頼んでおく。無駄な口出しや助太刀はいらん!」


 そう言い放ち、ばばは脇差の鍔を押し出し、一歩前に踏み出して武蔵を睨みつけた。



武蔵たけぞうっ!」お杉ばばが再び武蔵を呼びつけた。


「お前は村では『武蔵むさし』と呼ばれていたが、今では名前を変えて宮本武蔵と名乗っているそうじゃの。なんとも偉そうな名前じゃないか…ホ、ホ、ホ」ばばは皺だらけの首を振りながら、まだ刀を抜かずに、まずは言葉で斬りかかるように挑発した。


「名前を変えたところで、このばばには見つからないと思ったか? 浅はかよのう! 天道様は、お前がどこへ逃げようとしっかり照らしておるぞ。さあ、ばばの首を取るか、それともお前の命をもらうか、勝負しようじゃないか!」


 権叔父も次に声を張り上げた。


「お前が宮本村を出てから、もう五年が経った。どれだけお前を捜すのに骨を折ったことか。この清水寺に日参してようやくお前に巡り会えた。老いたとはいえ、この淵川権六が、お前のような若造に遅れを取るわけがない。覚悟しろ!」


 そして太刀をギラリと抜き、権叔父が言った。


「ばば、危ない! 後ろに下がっていろ!」


 しかし、お杉ばばは逆に権叔父を叱り飛ばした。


「何を言っておる! 足元がおぼつかないのはお前のほうじゃろう! わしはまだまだいけるぞ!」


「なに、我らには清水寺の諸菩薩ぼさつがついておる!」


「そうじゃ、権叔父。さらには本位田家のご先祖様たちも後ろから助太刀しておられる。怯むな!」


「――武蔵! いざ、勝負じゃ!」


「いざ!」


 二人は遠方から切っ先を合わせ、挑みかかろうとした。しかし武蔵はそれに応じず、唖のように無言で立ち尽くしていた。そんな武蔵の様子にお杉ばばは、


「怯んだか、武蔵!」


 と言い、ちょこちょこと横に駆け回って斬りかかろうとした。しかし、石に躓いたのか、彼女は武蔵の足元へと転んでしまった。


「ああっ! 斬られるぞ!」


 周りの人垣が一斉に騒ぎ立て、


「早く助けてやれ!」と叫んだが、権叔父すらも度を失って、武蔵の顔色を窺うばかりだった。


 ――しかし、お杉ばばは気丈な婆であった。自ら刀を拾い上げ、すぐに立ち上がると、権叔父のそばに戻り、再び武蔵に構えを向け直した。


「この阿呆が! その刀は飾りものか? 斬る腕がないのか!」


 無表情で仮面のように冷たい顔をしていた武蔵だったが、その時、初めて大きな声で言い放った。


「ない!」


 武蔵は歩みを進め、権叔父とお杉ばばは驚いて両側に跳び避けた。


「ど、どこへ行く気じゃ、武蔵!」


「ない!」


「待てい、待たぬか!」


「ない!」


 武蔵は三度も同じ言葉を投げかけた。振り向くこともせず、ただ真っ直ぐに群衆の中を割って歩き続けた。


「逃げるぞ!」


 お杉ばばが慌てると、


「逃がすな!」


 駕かきたちは一斉に駆け寄って、武蔵の行く手を塞ごうと囲みを作った。


「……あれ?」


「おや?」


 囲みを作ったものの、武蔵の姿は既にそこにはなかった。


 ――その後、三年坂や茶わん坂をちらちらと帰る群衆の中で、誰かが言った。


「あの時、武蔵は西門の袖塀に、まるで猫のように跳び上がり、築土ついじの上を越えて姿を消したんだ」


 そう語る者がいたが、誰も信じなかった。もちろん、権叔父やお杉ばばが信じるはずもない。彼らは日が暮れるまで、御堂の床下や裏山を狂ったように捜し回っていた。


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