魚歌水心
潮は満ちていて、海峡の流れは激しく、まるで川のように勢いよく進んでいた。
風は後ろから押してくれるように吹き、小舟は赤間ヶ関の岸を離れると、真っ白な水しぶきを浴びながら進んでいた。櫓を操る佐助には、この日の櫓を漕ぐ役目が誇らしかったようで、その気持ちは櫓を漕ぐ力強い動きに現れていた。
「だいぶかかるだろうな」
前方を見据えながら、武蔵がつぶやく。
小舟の中央で、武蔵は膝を広げて座っていた。
「いえ、この風と潮の流れなら、そこまで時間はかかりません」
「そうか」
「ですが……出発がだいぶ遅れましたね」
「うむ」
「もう辰の刻を過ぎています」
「そうか。すると船島に着くのは」
「巳の刻でしょうか。いや、巳の刻を過ぎるかと」
「ちょうどよい」
その日、巌流が見上げ、武蔵も見上げた空は深い青で、長門の山に白い雲が旗のように流れるほか、影一つない晴天だった。門司ヶ関の街や風師山の険しい山の皺までもがくっきりと見えた。向こう岸には、たくさんの人々が黒い影のように集まり、見えない何かを見ようと群がっていた。
「佐助」
「へい」
「この櫂の割れた部分、もらってもいいか?」
「それですか? 捨てるつもりだったので構いませんが、どうされます?」
「手頃な長さだ」
武蔵は、割れた櫂を手に取り、片手で水平に持って自分の腕の線に合わせて眺めた。少し水を吸って重くなっているが、割れて捨てられたものとしては使えそうだ。武蔵は小刀を取り出すと、膝の上で櫂を削り始め、気に入る形になるまで無心に作業を続けた。
佐助でさえ何度も赤間ヶ関の浜や平家松の方角を振り返ったが、武蔵には微塵も迷いや後ろ髪を引かれる気配が見えなかった。佐助には、その冷静さが少し冷たすぎるようにさえ感じられた。
櫂を削り終えた武蔵は、袴や袖に残った木屑を払いながら再び呼びかけた。
「佐助」
「はい、どうされました」
「着るものを借りたい。蓑でもいい」
「寒いのですか?」
「いや、しぶきが背中にかかる」
「それでしたら、私の足元に綿入れが一枚あります」
「ありがたい、借りるぞ」
綿入れを羽織り、武蔵はまた空を見上げた。まだ船島はかすんでいる。武蔵は懐から紙を取り出し、紙縒を作り始めた。何十本も縒り合わせて襷を作る。作り方も早く、その仕上がりの見事さに、佐助は目を見張った。
武蔵はその襷をかけ、さらに綿入れを背中に羽織り直し、目の前に広がる島影に目をやった。
「あれが船島か?」
ついに、武蔵の視界に島が見えてきた。
「いえ、あれは母島の彦島でございます。船島は、もう少し行かないと見分けがつかないでしょう。彦島の北東に五、六町ほど離れて、洲のように平らに浮かんでいるのがそれです」
「そうか。こんなにたくさん島が見えると、どれがどれかわからなくなるな」
「そうですね。この辺りには六連、藍島、白島など、いくつも島があります。その中でも船島は小さな島です。ちょうど伊崎と彦島の間にある狭い海峡、ここが『音渡の迫門』と言われてます」
「そして西は、豊前の大里の浦か」
「左様でございます」
「思い出した。このあたりの浦々や島々は、元暦の昔、九郎判官殿や平の知盛卿たちの戦があった場所だな」
武蔵がそう話すのを聞きながらも、佐助は舟を漕ぐ手が震え、肌に鳥肌が立つほどの緊張に包まれていた。まるで、自分が試合をしに行くかのように昂ぶってしまうのだ。
今日は命を懸けた試合。今乗せている武蔵を、果たして帰りも乗せて戻れるのだろうか。戻るとしても、無事とは限らないのだ。
佐助には、武蔵の淡々とした姿が理解できなかった。彼には、まるで空を漂う一片の白雲のように見えた。
その間、武蔵は何も考えずに座っていた。彼にとっては、日常のすべてがただ無為に過ぎているかのような感覚だった。櫂も削ったし、襷も作り終えた。すでに考えるべきことが何もなくなったのだ。
ふと、武蔵は舷から真っ青な海面に目を落とした。水は底知れぬほど深く、絶えず動いている。
「水は生きている。形を変えながらも永遠の命を持っているようだが、人が形に囚われている限り、その真の生命には至れないのだろう」
武蔵はそう思った。彼にとっては、目の前の生も死も、ただの泡沫のように過ぎ去るものに過ぎなかった。
その冷静な境地の一方で、体の毛穴は緊張して逆立ち、筋肉は知らず知らずのうちに張りつめていた。心と体が完全には一致しない――その一抹の不安を、水と雲の影がかき消していった。
「――見えてきた」
「ようやく、今頃ですか」
目の前に見えてきたのは、船島ではなく、彦島の勅使待の浦だった。そこには三、四十名の侍たちが集まり、海を見つめていた。彼らは皆、佐々木巌流の門人で、大半が細川家に仕えている者たちだった。彼らは高札が立つや否や、試合当日の船止めを越えて島に渡り、こうして待ち構えているのだ。
「万が一、師の巌流先生が敗れたら、武蔵を生きて帰すわけにはいかぬ」
そう心の中で誓い合い、藩の命令を無視して二日も前からここに陣取っていたのだ。
しかし今朝、長岡佐渡や岩間角兵衛といった奉行や警備の藩士が上陸すると、彼らはすぐに発見され、厳しく戒められて、隣の彦島・勅使待の浦へ追いやられてしまったのだった。
その日の禁令があったものの、試合を見守る役人たちは、形ばかりの対応をしていただけであった。藩士の多くは、同じ藩の者として巌流に勝ってほしいと祈り、巌流を支える門下生たちの行動に内心同情を寄せていた。
一応、役目として門下生たちを船島から追い払ったが、すぐ隣の彦島にいることには目をつぶっていた。そして試合が終わり、万が一巌流が敗れた場合には、武蔵が船島を離れた後であれば、どう行動しようと役人たちは関知しないという構えだったのだ。
門下生たちは、役人たちの考えを見抜いていた。彼らは漁村から小舟を集め、約十数艘を彦島の勅使待浦に並べた。そして試合の様子を知らせるため、山の上に見張りを立たせ、もし巌流が敗れた際には三、四十人で海上に出て、武蔵の帰り道を阻んだり、必要に応じて彼の舟を覆して海に葬り去る手筈を整えていたのだ。
「――武蔵か」 「間違いない、武蔵だ」
彼らは声を掛け合い、見張りのため小高い場所に駆け上がり、陽光でぎらつく海面をじっと見つめていた。
「今朝から船は止められている。だからあれが武蔵の舟に違いない」 「一人か?」 「一人のようだ」 「身に何か羽織って座っているな」 「きっと下に小具足でも着込んできたのだろう」 「手配をしておけ」 「見張りは山に行ったか?」 「もう登っている。問題ない」 「なら、皆、舟の準備を」
三、四十人の門下生たちは、舟を出す準備を整え、それぞれの小舟に散って隠れた。各舟には一本ずつの長槍も伏せてあり、巌流や武蔵の両者に負けぬ迫力が漂っていた。
一方、武蔵の舟が近づいているという知らせは、船島にも当然届いていた。
船島では、波の音や松のざわめき、雑木や姫笹のそよぐ音だけが聞こえ、全島が静寂に包まれていた。長門領の山々から漂う白雲が、太陽にかかると全島の木々が一瞬暗くなり、また陽が差すとぱっと明るくなる。島は狭く、北の丘には松が茂り、そこから南に向かって浅瀬が海へと続いていた。
丘の懐の平地から磯にかけて、今日の試合場が設けられていた。奉行以下、足軽までが、磯からかなり離れた位置で幕を張り、巌流に不利にならぬように気を配りつつ控えていた。
試合の時刻はすでに一刻以上も過ぎており、二度も飛脚舟で催促が出されていたため、場には静けさの中にも焦燥と反感が漂っていた。
「武蔵どの! 見えましたっ!」
磯に立っていた藩士が、遠くから幕のある方に向かって叫びながら駆け寄ってきた。
「――来たか」
岩間角兵衛は、思わずつぶやき、身を乗り出して床几から立ち上がった。彼は、今日の立会人として長岡佐渡と共に派遣されてきた役人ではあるが、彼が相手にするのは武蔵ではなかった。しかしその言葉には、自然と感情がにじみ出ていた。
周りに控えていた従者や下役たちも、同じように目を輝かせて立ち上がった。
「お! あの小舟だ!」
角兵衛は役人としての公平さを守ろうとすぐに気づき、周りの者を戒めるように声を低くして言った。
「控えろ」
自分も腰を落ち着け、冷静を取り戻した角兵衛は、巌流のいるほうへさりげなく視線を送った。
しかし、巌流の姿は見えず、ただ山桃の木々の間に、彼の家紋である龍胆の紋がついた幕がひらめいているだけだった。幕のそばには、新しい竹柄の柄杓が添えられた手桶がひとつ置かれている。巌流は早めに島に着き、武蔵の到着を待ちながら水を飲んでいたようで、今はその幕の陰で休んでいるようだったが、姿は見えなかった。
その幕のさらに向こう、土坡の先には長岡佐渡が座していた。彼の周りには警護の藩士と従者たちが控えており、その中に伊織の姿もあった。
「武蔵が見えた!」という声が磯から響き、警備の者の中に一人駆け込んでくると、伊織の顔が急に青ざめ、唇まで白くなった。
佐渡は、ふと隣に目をやり、静かに声をかけた。
「伊織」
「……はい」
伊織はすぐに膝をつき、佐渡の顔を見上げた。全身が震え、どうしようもないほどの緊張が伝わってくる。
「伊織――」佐渡はじっと彼の目を見つめ、低い声で言葉を続けた。「よく、見ておくのだ。うつろな目で見逃してはならぬぞ。武蔵が命をかけて、そなたに伝えようとしているものがあるのだから」
伊織はその言葉にうなずき、佐渡の言葉通り、視線を鋭くして磯のほうを見つめた。
磯までは、一町ほどの距離があり、波の白いしぶきが眼に沁みるほど遠い。人影は小さくしか見えず、試合が始まっても動作や息遣いまでは分からないだろう。しかし、佐渡が「よく見よ」と言ったのは、単なる技の一部を指すのではない。天地の気が交わる一瞬、また、その場に臨む者の心構えを、後学のために心に刻めという意味であった。
草が波のように揺れ、青い虫がときおり飛び、弱々しい蝶が草を頼りにどこかへ飛び去っていく。
「――あ、見えた」
伊織の目に、徐々に近づいてくる小舟の姿が映り込んだ。時刻は、予定よりも約一刻遅れていたが、ようやく武蔵の小舟が磯へと近づいてきたのだった。
島全体が、昼の太陽に静まり返っていた。
そのとき、佐々木巌流が小高い丘の上から姿を現し、ゆっくりと磯のほうへ歩き始めた。待ちわびていた巌流は、一人で丘に上り、そこから海を眺めていたらしい。
彼は礼儀正しく立会役たちに一礼し、静かに草を踏みしめながら、武蔵を迎えるために歩を進めていった。
太陽は、もうほぼ真上にあった。小舟が島の磯に近づくと、入江に入ったせいか、波が穏やかになり、浅瀬の水底が透けて青く見える。
「――どの辺に?」
佐助は櫓の動きを緩め、周りを見渡しながら武蔵に尋ねた。磯には誰もいない。静かに見渡す中、武蔵は羽織っていた綿入れを脱ぎ捨て、冷静に答えた。
「真っ直ぐに――」
舳先はそのまま進んだが、佐助の手が思うように動かず、櫓をこぐ勢いが落ちてしまう。静寂に包まれた島には、鵯の鳴き声が高く響き渡っていた。
「佐助」
「へい」
「浅いなあ、この辺りは」
「ここは遠浅なんです」
「無理に進む必要はない。浅瀬で舟底を傷つけるといけないからな。――それに潮も、そろそろ引き始めるころだ」
佐助は返事を忘れ、島の内の草地を見つめていた。松の木がぽつんと立っていて、かすかに痩せた姿が見える。その陰に、ちらりと猩々緋の袖なし羽織がはためいていた。
――あれだ、巌流がいる。
そう思い、指さそうとしたが、武蔵の視線もすでにその方向に向かっている。
武蔵はじっとその方向を見つめたまま、帯に挟んでいた渋染の手拭を取り出して四つに折り、潮風で乱れる髪を撫で上げ、鉢巻にした。
小刀は帯に差したまま、大刀は舟の中に置いていくつもりらしい。蓆で覆い、飛沫がかからないように舟底に置いた。そして、右手には自作の木剣として削った櫂をしっかり握りしめ、立ち上がった。
「もうよい」
武蔵は佐助にそう告げた。
まだ磯の砂浜までは水面二十間ほどの距離がある。佐助は一言二言交わしながらも、やはり気を引き締めて櫓を漕ぎ、舟を岸に寄せた。舟が浅瀬に到達すると、底がどすんと響き、止まった。
その瞬間、武蔵は袴の裾を高く持ち上げ、軽やかに海に飛び降りた。膝下までの水深だが、飛沫はほとんど上がらず、静かに海水の中に立った。
ざぶ、ざぶ、と歩を進め、白い水泡を蹴りながら武蔵は磯へ向かって歩いていく。
五歩、十歩と進む中、佐助は武蔵の後ろ姿を見つめていたが、恐怖に凍りついたように動けなくなっていた。
その時、はっと気づくと、松の陰から猩々緋の袖が風に舞い、巌流が水際まで駆け寄ってくるのが見えた。大きな業物の鞘が陽光を反射し、まるで銀の尾のようにきらめいている。
……ざぶ、ざぶ、ざぶ……
武蔵はまだ海水の中を歩いていた。
(早く!)
佐助は内心で叫んだが、武蔵が磯に上がる前に巌流が目の前まで来てしまったのを見て、自分が真っ二つに裂かれるような恐怖に襲われ、舟底に伏せたまま震えていた。
「武蔵か」
巌流が低く呼びかけ、先に水際に立ちはだかった。彼の立ち姿は、まさに大地を占め、決して一歩も譲らぬ覚悟がにじみ出ている。
武蔵は、海水の中に立ち止まり、少し微笑んだような表情で答えた。
「小次郎よな」
武蔵の握る櫂の木剣は、波に洗われながらも、静かに構えられていた。水と風に身を任せるかのように、ただ一本の木剣がその場に存在しているだけの姿だった。
しかし――
武蔵の渋染の鉢巻にかすかに引き締まった眦は、いつもの穏やかさを捨て去っている。武蔵の眼差しは、射すような力ではなく、湖のように深く、相手の精気を吸い取るかのように吸引する。その瞳の奥に秘められた静かな威圧は、相手の命を脅かすかのようだった。
一方で、小次郎の目はまるで炎が走るように殺気がこもっている。その目は、鋭く相手を射抜き、威圧でねじ伏せようとする。眼は心を映す窓というが、二人の視線は、それぞれの生き様を如実に表していた。
「――武蔵っ!」
小次郎が再び名を呼ぶが、武蔵は静かに応じたまま、その場を動かない。
「武蔵っ!」
二度目の呼びかけに、海鳴りが響き、足元にも潮がざわめく。焦りを隠せぬ小次郎は、声をさらに張り上げた。
「遅れてきたか、策か?どちらにせよ卑怯だ。――約束の刻限はとっくに過ぎているぞ!」
小次郎は続けた。
「一乗寺下り松の時も、三十三間堂の折も、お前は常に策を弄して約束の刻をずらし、相手の隙を突く。――だが今日はその手には乗らん!卑怯な手を使わず、潔く終わらせに来い!さあ来い、武蔵!」
小次郎はそう叫ぶと、手に持っていた大刀「物干竿」を一気に抜き、鞘を勢いよく海に投げ捨てた。
武蔵は、相手の言葉が終わるのを待ち、波音が収まるのを見計らって、静かに返した。
「小次郎っ。負けたり!」
「なにっ」
「今日の試合は、すでに勝負があった。汝の負けと見えたぞ」
「だまれっ。なにをもって」
「勝つ身であれば、なんで鞘さやを投げ捨てむ。――鞘は、汝の天命を投げ捨てた」
「うぬ。たわ言を」
「惜しや、小次郎、散るか。はや散るをいそぐかっ」
「こ、来いッ」
「――おおっ」
その瞬間、武蔵が踏み出し、水音が立った。
小次郎も一歩、浅瀬に踏み込み、物干竿を大きく振りかぶり、武蔵に向かって構えた。
だが武蔵は、一瞬で潮を蹴り上げながら、白い泡を描きつつ、巌流の左側の岸へと疾風のように駆け上がっていった。
武蔵は、水を切りながら岸へと斜めに駆け上がっていった。
その動きに応じるように、巌流は波打際に沿ってその姿を追いかけた。
武蔵がようやく磯の砂地を踏んだその瞬間、巌流はその全身ごと、飛び魚のように武蔵に向かって襲いかかる。
「喝ッ!」
鋭い声とともに巌流の剣が、武蔵に打ち込まれようとしていた。
海水から足を抜いたばかりの武蔵は、まだ完全に構えを整えたわけではない。
物干竿の長刀が頭上から襲いかかる瞬間、武蔵はわずかに前かがみの体勢を保ちながら駆け上がったままだった。
――だが。
武蔵の手には、櫂を削り作り上げた木剣がしっかりと握られ、右脇から背中へ隠すように深く構えられていた。
「……ムむ!」
それは音にならないが、武蔵の気迫が、巌流の表情に冷たい風のように吹きかけた。
巌流の長剣は頂点から一気に振り下ろされるかに見えたが、刀は武蔵から九尺ほど手前で止まり、逆に巌流自身が身を横にそらして距離をとった。
不可能を悟ったのだ。
武蔵の構えが、巌流にはまるで岩のごとき不動のものに見えたからである。
「…………」
「…………」
二人の位置は――その向きを変えている。
武蔵は、水の中から、二、三歩あがったままの波打際に立って、海を背後うしろに、巌流のほうへ向き直った。
巌流は、その武蔵に直面し――また、前面の大海原に対して、長剣物干竿を諸手もろてに振ふりかぶっていた。
「…………」
「…………」
――二人の息遣いが静寂の中で響き合う。
武蔵も無念。
巌流もまた無想。
この場には、まるで何もない真空のような空間が生まれていた。
その静寂を破るのは、波の音や風に揺れる草の音だけであった。
しかし、離れた場所から、無数の者が二人の息をのむ対峙をじっと見守っている。
巌流を信じる者たちが、彼を惜しみ、祈りを捧げる。
武蔵にも、祈る者がいた。
遠く赤間ヶ関の渚には、お通やばば、権之助。
小倉の松ヶ丘には、又八や朱実が。
誰もが、それぞれの場所で、ただ天に祈っていたのだ。
だが、ここには彼らの祈りも、涙も届かない。
偶然も奇跡もない。
ただ、無私の青空が広がっているだけだった。
本当の無念無想の境地とは、この青空のように、全てを捨てた澄みきった心であろうか。
だが、白刃が交わるこの場で、命ある者がその心境に至ることの難しさは当然だった。
「――――」
「――――」
武蔵はふいに心の中で叫んだ。
満身の毛穴が、敵に対し、針のように逆立っているのが自分でもわかる。
筋肉、爪、髪の毛、睫毛一本までが、敵を感じ取り、己の生命を守ろうと立ち向かっていた。
その中で、心のみが、天地と共に澄みきろうとすることは、暴雨の中に、池の月影だけ揺れずにあろうとするよりも至難であった。
波の音が五度か六度、寄せては返す。
そんな短い時間の中、二人の気配が激しくぶつかり合い、静寂を破る声が響いた。
その声は、巌流から放たれたものだったが、武蔵も同時に息を吐き、まるで怒涛が岩を打つように、二つの精神がぶつかり合った。
次の瞬間、巌流の長刀「物干竿」が虹のような軌跡を描き、武蔵の頭上に向かって振り下ろされた。
武蔵は、左肩を前に下げ、上半身を少し傾けることで斬撃をかわした。
右足を引き、両手に構えた木剣を風に乗せるように動かし、巌流の刀が眉間を割ろうと迫る中、その一瞬を凌いだ。
「……」
「……」
一瞬のもつれの後、二人は再び距離を取った。
武蔵は波打際から十歩ほど離れ、正眼に構えた木剣の先には、巌流が跳びのいて構えている。
武蔵が背に海を抱え、巌流はその前に立ちはだかる――二人の間には、槍さえ届かないほどの間隔があった。
武蔵が海を背負い続けたのには理由があった。
正午の陽光が水面に反射し、巌流の視界を奪う。
この位置に立つことで、自然に武蔵が有利な戦況を作り出していたのだ。
「よし…」
巌流は内心で地歩を再び整え、武蔵へとじりじり間隔を詰める。
彼の歩みは敵の隙を探りつつ、自身を鍛え上げた金剛身のように引き締めるための慎重なものだった。
しかし、武蔵は逆に、堂々と巌流の方へ歩み出す。
正眼に木剣を構え、無造作に巌流の眼の前へと迫ってきたのだ。
その動きに、巌流は思わず歩みを止め、武蔵の姿を見失いかける。
次の瞬間、武蔵の木剣が宙高く振り上げられ、六尺の体がまるで四尺ほどに縮こまり、空中で浮遊するかのように見えた。
「――あッ!」
巌流は思わず頭上に構えた長剣で大きく斬り上げた。
切っ先から、武蔵の額に巻かれた柿色の手拭が真っ二つに裂け、ひらりと宙に舞い上がる。
巌流の目に映るその手拭は、まるで武蔵の首そのもののように見え、血飛沫が舞ったかのような錯覚を抱かせた。
瞬間、巌流は満足げに微笑む。
だが――その刹那。
巌流の頭蓋は、武蔵の木剣の一撃によって砕け散っていた。
砂地に倒れた巌流の顔は、まるで敗北を感じていないかのような穏やかな表情をしていた。
唇の端から血がこんこんと噴き出す中、巌流の死顔は、まるで武蔵の首を斬り飛ばし、海中に落としたと信じるかのような微笑を浮かべていた。
「…あ、あっ…」
「巌流どのが…」
遠くの床几場から、そんな声が漏れた。
観ていた者たちも、われを忘れ、立ち上がり、巌流の敗北を目の当たりにして悽惨な表情を浮かべていた。
しかし、そばにいる長岡佐渡や伊織が落ち着いているのを見て、角兵衛たちは動きを抑え、じっとしていた。
だが――敗北の影がはっきりと感じられ、巌流の勝利を信じていた者たちの心を重く包み込んでいた。
それでも一瞬、彼らは目にした現実を疑い、未練がましい思いで放心していた。島の中は静寂に包まれ、無心な風だけが人の無常を感じさせるかのように吹いていた。
その時、武蔵は、ふと空を見上げ、一朶の雲を見ていた。
その雲を眺めることで、彼は戦いから自分を取り戻し、現実に帰ってきたのだ。
その視線の先、十歩ほどの距離には、佐々木小次郎が倒れていた。彼の顔は横たわり、長剣を握りしめたままの手にはまだ力が残っていたが、その顔は決して苦悩に歪んではいなかった。小次郎の表情には、自分の全てをかけて戦った満足が浮かんでいた。どんな戦いも、戦い抜いた者にはこうした満足感が宿るものだ。
武蔵は、地に落ちた自分の鉢巻に目を落とし、胸に粟立つものを感じた。
「生涯にもう一度、こういう敵に出会えるかどうか…」
その思いに、武蔵は小次郎への愛惜と尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
同時に、小次郎に対して感謝も湧き上がった。小次郎は剣技において、純粋な強さでは自分を超える存在だった。そのおかげで、自分もまた高みを目指せたのだ。
だが、この戦いで自分が得たものは何なのか。
それは技術の差か、それとも天の助けか。
いや、そうではない。
この勝利は、力や技ではなく、巌流が信じた「技の剣」と武蔵が信じた「精神の剣」のわずかな違いだったのだ。
武蔵は、静かに小次郎の元へ歩み寄り、膝を折ってその鼻息を確かめた。微かに呼吸がある。
「手当て次第では…」
命の灯がまだ消えていないことを感じ、彼は心の中で少し安堵した。試合は一時のもの、もし命を繋ぐことができるならば、この敵が消え去らずに済むのだと。
「おさらば」
そう呟き、武蔵は床几場にいる者たちにも別れの礼をして、血に染まらぬ木剣を手に北磯へと走り、小舟に跳び乗った。
その後、武蔵がどこへ向かい、どこへ辿り着いたのか――巌流の門下の者たちが待つ彦島に至り、弔い合戦が行われたという話も残っていない。
人の生きる限り、憎悪や執着を避けることは難しい。
時間が経とうとも、感情の波は途絶えることなく続いていくものだ。
武蔵の行動について、人々は言い伝えた。
「あの時、武蔵も逃げ場を確保しようと狼狽していたんだ。証拠に巌流に止めを刺さずに立ち去ったじゃないか」
それもまた世の中の風潮だ。波に乗り、雑魚たちが歌い踊るように騒ぐ。
だが、百尺の深さにある水の心を、誰が知っていただろうか。その底知れぬ深さを。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
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今後もところどころ手直しはしていきたいと思います。
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