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風便り

 夕べ、龍野たつので宿を取ったおおつう万兵衛まんべえの道中には、何の変わりもなく、親切な万兵衛の言葉にお通も安心して旅を続けていた。


 そして今日、彼らが佐用さよ三日月みかづき村に到着したのは、もう夕暮れ近く。秋の気配がじわじわと迫る夕べだった。


「万兵衛さま」


 少し疲れた様子のお通が、前を歩く万兵衛に声をかけた。


「ここはもう三日月ではございませんか。――あの山を越えれば、すぐ宮本村でございますね?」


 万兵衛が足を止め、振り返ると、穏やかな顔で頷いた。


「そうじゃな。あの山の向こうに、宮本村も七宝寺しっぽうじもある。懐かしい場所じゃろう?」


 お通は、万兵衛の問いかけにただ頷くことなく、沈んだまま山を見つめていた。夕暮れの空に黒々と連なる山々。そこに待つべき人がいないという現実が、ただ自然すぎて、あまりに寂しい。


「もう少しじゃよ。くたびれただろうが」


 万兵衛がそう言い、歩き出すと、お通も後について歩を進めた。


「どういたしまして。万兵衛さまこそお疲れでしょう」


「いや、わしはしょっちゅうこの道を通っておる。平気じゃよ」


「そうですか……。おおぎん様のお宅はどちらでしょう?」


 万兵衛はあたりを指さして、


「あちらじゃ。お吟様も待っておられるはずじゃ。さ、もう一息だ」


 二人は足を早め、やがて宿場に差し掛かると、そこには数軒の茶屋や旅籠が見えた。それらも通り抜け、万兵衛は少し険しい山道へと向かい始めた。


「ちと登り道になるぞ」


 お通は、静かに森の中を歩きながら不安そうに尋ねた。


「万兵衛さま……ここは本当に道が合っているのでしょうか。家が見当たりませんが……」


「いや、ここで少し待っていてもらおうと思うてな。お吟様へ呼んで来る間、御堂みどうの縁で休んでおくれ」


「お呼びに行かれるのは……?」


「そうじゃ。お吟様が、家に不都合な客がいるかもしれんと言っておられたのでな。少し離れたところで待っていてもらうんじゃ」


 そのまま万兵衛は、暗くなり始めた杉林の中を足早に消えていった。


 疑うことなど知らないお通は、そのままほこらの縁に腰をかけ、夕空を眺めてじっと待っていた。


 時が過ぎ、空が暮れてゆくと、周囲に秋風がしんしんと吹き始め、ひとひらの落ち葉がふわりと彼女の膝に舞い落ちた。お通はそれを手に取り、くるくると回しながら待ち続けていた。


 その時、不意に背後からげらげらと嘲笑する声が聞こえてきた。



「――?」


 驚きのあまり、おおつう御堂みどうえんから飛びのいた。めったに人を疑うことがない彼女だが、想定外の出来事に打たれたせいか、驚き方は普通の人よりも激しく、恐怖におびえやすかった。


 その瞬間、堂の裏から響く、笑い声が急に止むと同時に、不気味でしゃがれた老婆の声がこう響いてきた。


「お通っ、動くでない!」


 あまりにも鋭く、凄みを帯びたその声に、お通は思わず両手で耳を覆った。逃げればよいものを、彼女はその場に立ち尽くし、雷鳴かみなりにでも打たれたかのように恐怖で震え、身動き一つできずにいた。


 その時、ほこらの陰から数人の人影が姿を現し、御堂の前に立ちはだかった。目を閉じ、耳をふさいでも、彼女にはその中のひとりが際立って恐ろしく映った。夢の中でよく見る、白髪の老婆だった。


「万兵衛。ご苦労じゃったのう。礼は後でな。――さて、皆の者よ。あやつが悲鳴を上げぬうちに、さっさと猿ぐつわをかませ、下ノしものしょうの屋敷まで引っ担いで行ってくだされ!」


 お杉ばばはお通を指さし、まるで地獄の閻王えんおうかのように命じた。残りの四、五人の男たちは、みな郷士ごうし風の格好をしており、どうやら彼女の身内らしい。


 ばばの言葉に応じて声を張り上げると、群れなす狼のようにお通に襲いかかり、あっという間に彼女を縛り上げた。


「近道を行け!」


「急げ!」


 そんな声とともに、彼らはお通を抱え込み、すぐに走り去った。


 お杉ばばは、にやりと笑みを浮かべながら、少し後に残っていた。万兵衛へ駄賃を渡すためであろう。帯から金を取り出し、準備していた報酬を渡しながら称賛の言葉をかけた。


「よう連れ出してくれたのう。巧くいくか案じていたが」


 万兵衛は金を受け取り、満足げな顔で答えた。


「いやいや、これも御老婆様の計画がうまくいったおかげでございます。それに、まさかあなた様がここにいるとは夢にも思っていなかったでしょうから」


「今のお通の驚きよう、見たか。逃げもせずに立ちすくんでおったのが痛快であったわ」


「まったく、逃げることすらできぬ様子でしたな。とはいえ、少々罪深いことをした気もしますが……」


「罪じゃと? わしにとって何が罪であろうぞ!」


「ええ、その恨み話は先日も聞かせていただきましたが」


「では、この話も程経た後にまたな。下ノ庄の屋敷へ遊びに来やい」


「道中の間道かんどうは悪路ですので、お気をつけて」


「お前も人前に出たら口に気をつけやい」


「はいはい。口の堅い万兵衛でございます、どうぞご安心を……」


 そう言いながら万兵衛は別れ、暗い石段を慎重に降り始めたが……


 その矢先、突然「ぎゃッ!」という短い叫び声を上げ、地面に崩れ落ちた。


 お杉ばばは驚き、振り返って呼びかけた。


「どうした? 万兵衛?万兵衛……」



 ――万兵衛が答えることは、もうなかった。彼は既に、この世の息をしていないのだ。


「……あ、あ?」


 お杉ばばは息を呑み、万兵衛の横たわる側にぬっと現れた人影に目を凝らした。


 それは、血に染まったやいばを引き下げた男だった。


「……だ、誰じゃ?」


「…………」


「誰じゃ。……名を、名を吐きおろう!」


 ばばは、無理に声を張り、乾いた叫びをあげた。だが、その年にもかかわらず虚勢を張るその姿は、相手には全く通じないようだった。闇の中で相手は微かに肩を揺らすだけだった。


「わしだよ……おばば」


「え?」


「わからぬか」


「わ、わからぬ。聞いたこともない声だ……物盗りか?」


「ふ、ふ、ふ。物盗りなら、お前のような貧乏ばばには目もつけぬ」


「何じゃと……では、わしを狙って来たというのか?」


「その通りだ」


「――わしに?」


「くどい。万兵衛ごときを斬るためにここまで追ってきたわけではない。お前に思い知らせるためだ」


「ひぇっ」


 喉が震えたような声を漏らし、ばばはよろめきながらつぶやいた。


「ひ、人違いではないか。わしは本位田家の後家、お杉という者じゃ」


「おう、その名が出ただけで憎しみが蘇るわい。ばばよ、俺が誰か覚えているか? この城太郎じょうたろうを忘れたか」


「……げっ? ……城……城太郎じゃと?」


「三年も経てば赤子も成長する。お前は枯れ木、俺は若木。もう、あの頃の小僧扱いはさせぬ」


「……おう、おう、確かにお前は城太郎じゃ……」


「よくも師匠である武蔵さまを苦しめてくれたな。お前のことを年寄りだと思えばこそ、武蔵さまも相手にしなかったというのに。それをいいことに、江戸中を巡って悪名を広め、彼の道を邪魔した」


「…………」


「それだけではない。お前の執念深さで、お通さままでも苦しめた。ようやく引退して故郷に戻ったと思えば、また麻屋の万兵衛を使ってお通さまを狙うとは!」


「…………」


「憎んでも憎みきれぬばばよ。斬るのは容易いが、今の俺は浪人の身ではない。父・青木丹左あおきたんざも、今は姫路城に帰参し、再び池田家の家臣として立派な地位に戻っている。これ以上、父の名に傷をつけるわけにはいかんゆえ、命だけは助けてやろう」


 そう言いながら、城太郎は一歩前に進んだ。


 命は助けると言ったものの、右手に下げた血塗れの刀はまだ鞘に戻っていなかった。


「……?」


 ばばは、じりじりと後退し、隙を見て逃げ出そうと、機をうかがっていた。



 ばばは隙を見つけ、杉林の小道へとさっと駆け出したが、追いかけてきた城太郎に首根っこをつかまれ、


「どこへ逃げるつもりだ」



 ばばは振り向きざま、脇差を抜き、城太郎の脇腹を狙って横に斬りつけた。だが、城太郎はさっと身を引いてかわし、逆にばばの体を前へ突き返した。


「この小童め、やりおったな」


 草むらに頭を突っ込みながら、ばばは叫んだが、彼女の心には未だに城太郎を「小童」と見下す意識があった。だが城太郎もまた、かつての小さな子供とは違っていた。


「黙れ」


 城太郎は叫び、ばばの背中に足を乗せ、その細い腕を苦もなくねじ上げた。ばばは歯を食いしばり、もがいたが、城太郎はそれを容赦なく抑え込み、彼女の背骨に足をかけて動きを封じた。


 彼はもう十八、九歳。立派な若者であるものの、未だに少しばかり青臭い部分もあり、長年積もったばばへの怒りが湧き上がっていた。


「どうしてくれようか」


 城太郎はばばを引きずり、山神の祠の前に叩きつけた。年老いた体ながらも、なおも闘志を失わないばばに困惑しつつ、彼はばばを殺してしまうのはまずいと考え、何とか生かして懲らしめる方法を思案していた。


 だが、今はそれよりも、ばばが命じて手先に使った者たちが、お通をどこかの屋敷へ連れ去ってしまったことが気がかりだった。


 そもそも城太郎が、お通が飾磨の染屋にいることを知ったのは偶然だった。


 父・丹左衛門とともに姫路に住むようになり、浜奉行の使いとして度々訪れていたおかげで、ある日、たまたま垣間見た女性がお通に似ていることに気づいたのだった。


(これも神の導きだ)


 城太郎は偶然の出会いに感謝するとともに、お通に対するばばの執念深い迫害に怒りを新たにした。


(このばばをどうにかしない限り、お通さんは安らかに生きていけない)


 城太郎は一瞬殺意を抱いたが、父の丹左が姫路城に帰参したばかりという事情もあり、今ここで事を荒立てるべきではないと冷静に判断し、懲らしめるだけに留めることに決めた。


「ウーム、ちょうどいい隠居所がある。おばば、こっちに来い」


 城太郎はばばの襟首をつかみ立たせようとしたが、ばばは地にべたりと這いつくばって動こうとしない。


「仕方ない」


 とつぶやき、彼はばばを抱え上げて御堂の裏へ駆けていった。そこには、祠を建てるために削った崖があり、その下に人がぎりぎり入れるくらいの洞穴が口を開けていた。



 佐用の部落であろう、遠くに一つ、灯がポツンと見えていた。周囲は山も桑畑も河原も、ただ広がる闇。彼らが今越えてきた三日月峠も、すでに暗闇に沈んでいた。


 石を踏みしめる足音、佐用川の水音が耳に響く中、一人の男が声をあげた。


「おい、ちょっと待て」


 前を進む二人が立ち止まり、振り返る。彼らは、お通を後ろ手に縛り、囚人のように引き立てている。


「さっき後から来ると言っていたおばばが、まだ追いつかないな」


「確かに。もう来てもいい頃だが」


「ばばは気は強いが、あの上り坂が骨だったんだろう。遅れてるに違いない」


「ここらで一休みするか? それとも、先に佐用まで行って二軒茶屋で待つか」


「どうせなら、二軒茶屋で一杯やりながら待つか。こんな荷物付きで歩いてるんだ、骨休めもいいだろう」


 三人は川の浅瀬を探りながら渡ろうとしていたその時、不意に遠くから声が響いた。


「おーいっ!」


 三人は顔を見合わせ、耳を澄ます。


「おばばか?」


「いや、違う。男の声だ」


「おれたちを呼んだわけじゃないだろうが」


「まあ、そうだろうな。おばばがあんな声を出すわけもないし」


 冷たい川の水が、お通の足をさらに震わせる。その時、背後から足音が駆け寄ってきた。耳にしたときには、すでにその影が三人のすぐ側に現れ、


「お通さん!」


 叫び声とともに水しぶきをあげて一気に渡り、川の向こう岸まで駆け抜けたのだった。


「――あっ?」


 水しぶきに驚き、三人は一瞬立ちすくんだ。川を越えた城太郎が、彼らの行く先を塞ぐようにして水際に立ち、両手を広げて叫んだ。


「待て!」


「やい、何者だ、おのれは」


「誰でもいい。お通さんをどこに連れて行くつもりだ?」


「さては、お通を取り返しに来たな」


「その通りだ」


「つまらぬ所へでしゃばれば、命はないぞ」


「お前たちはお杉ばばの一族だろう。おばばの命令で、ここでお通さんを引き渡せ」


「何だと?おばばの命令だと?」


「そうだ」


 三人の郷士たちは、馬鹿にしたように嘲笑した。



「嘘ではない、これを見ろ」


 城太郎は立ちふさがったまま、一枚の紙を突き出した。そこにはおばばの筆跡が記されていた。


 不首尾、今更せんもなし

 お通の身、ひとまず

 じょう太郎の手にかえし

 わが身を連れに引っ返さるべく候


「……何だこれは?」


 郷士たちは紙を読み、眉をひそめた。その後、城太郎をじっくりと見上げ、そして河原の岸に足を上げて集まった。


「見て分からないのか? 文字が読めないとはな」


「黙れ。この城太郎というのが、お前だな?」


「ああ、拙者は青木城太郎だ」


 その名乗りに、お通が驚愕の声を上げ、思わず前に崩れかけた。彼女は彼を疑いつつも見つめていたが、彼が自ら「城太郎」と名乗った瞬間、叫びが自然と漏れてしまった。


「おい、猿ぐつわが緩んだぞ。締め直せ」


 郷士の一人がそう言ってお通に近づくと、再び紙に目を戻しながら問うた。


「なるほど、おばばの筆跡だ。しかし『わが身を連れに引っ返さるべく候』とあるが、それはどういうことだ?」


 城太郎は落ち着いた様子で答えた。


「人質に取ってあるのだ」


「お通さんを渡せば、おばばの居場所も教えてやる。否か応か、さあ答えろ」


 郷士たちは互いに顔を見合わせ、少し戸惑っていたが、城太郎の若さを見下して嘲笑した。


「ふざけるな、どこの青二才か知らんが、俺たちを侮辱する気か。下ノ庄の本位田といえば、姫路の藩士なら誰でも知っている名だ」


「面倒だ。否か応か、それだけだ。否なら、おばばの身はそのままにしておくまでだ。山で飢え死にさせるがいい」


「こいつ……!」


 郷士の一人が跳びかかり、城太郎の腕を捻じり上げ、もう一人が刀の柄を握って斬りかかる構えを見せた。


「戯言を言うな、首を落とされたいのか! おばばの居場所を吐け!」


「お通さんを渡せ」


「渡さぬ!」


「では、拙者も何も言わぬ」


「どうしてもか?」


「そうだ。お通さんを返せば、双方無事に終わる」


「この青二才めが!」


 男が城太郎の手を捻じり上げ、足を絡めて前へ倒そうとしたが、城太郎は逆にその力を利用し、相手を肩越しに投げ飛ばした。


 だがその瞬間、城太郎も尻もちをつき、右の太ももを押さえた。


「くっ……!」


 男の抜き打ちが城太郎の太ももをかすめ、一太刀浴びせられていたのだ。



 城太郎は投げ技を知ってはいたが、まだ「人を投げる際の間合い」については理解が浅かった。


 敵も生身の人間、ただ投げられるだけで終わるわけがない。倒れた途端に反撃してくるかもしれないのだ。しかし、彼は足元に叩きつけるように相手を投げ、その後ろへ退くことを怠った。

(やったぞ)

 と思ったその瞬間、太ももを鋭く薙ぎ払われてしまった。痛みが襲い、城太郎は膝をつき、負傷した足を押さえた。


 幸い傷は浅かったらしく、彼はすぐに跳ね起きた。対する敵も立ち上がり、他の郷士が声を張り上げた。

「斬るな! 手捕にしろ!」


 城太郎を生け捕りにしようとするのは、彼からお杉ばばの居場所を聞き出すためだった。城太郎もまた、ここで相手に大きな怪我を負わせるのは避けたいと考えていた。藩に迷惑をかけぬため、父に累を及ぼさないために。


 だが、いざ戦いになるとそんな冷静な思考はあっという間にかき消される。三人の郷士に囲まれ、蹴られ、押さえつけられそうになると、怒りに堰を切られて、彼の血気が一気に沸き上がった。


「小生意気な奴め!」

「このガキが!」

「覚悟しろ!」


 城太郎は捻じ伏せられまいと、反撃のために脇差を抜くと、一人の腹部に一気に突き通した。


「……ぐっ!」

 敵の体に刀を深々と突き刺し、刃が肩近くまで赤く染まる。城太郎は激昂し、頭の中が真っ白になる。


「くそっ、次はお前だ!」


 立ち上がると、もう一人の真っ向に向かい、刀を振り下ろした。刃が骨に当たり、斜めに裂けた傷口から肉片が飛び散る。

「ぎゃあっ、やられた!」


 相手は痛みに悲鳴をあげるが、抜き打ちで反撃する間もない。郷士たちは油断し、城太郎の若さを見くびっていたため、その圧倒的な勢いに驚き、狼狽していた。


「こいつら、まとめてやってやる!」


 城太郎は怒りと共に刀を振り下ろし、残る二人にも次々と向かっていった。彼に確固とした剣術の型はなかったが、血を浴びても動じない度胸と無謀さは、奈良井の大蔵のもとで培った生存の技術に裏打ちされたものだった。


 郷士たちは必死に応戦するが、負傷者も出ており、次第に劣勢に追い込まれていく。城太郎もまた、太ももから血を流しながらも、斬りつ斬られつの死闘に身を投じていた。


 その間、お通は絶望に駆られ、河原を駆けながら神に助けを求めた。


「誰か、来てください! あの年若いお侍を、どうかお助けを!」



 お通の叫び声も虚しく、辺りはただ十方の闇と河の水音、そして風の声しか答えない。しかし、そんな状況で、お通は自分の力に気づいた。人の助けを求める前に、まず自分でできることがあることに、はっと思い当たったのだ。


「――ちイッ」


 お通は河原に腰を下ろし、岩の角で自分を縛っている縄をこすりつけた。それは、郷士たちがその場で拾った藁縄に過ぎず、すぐにぷつりと切れた。自由になったお通は両手に小石を掴み、城太郎と郷士たちが斬り合っている方へ駆け出した。


「城太さん!」


 お通は叫びながら、城太郎の相手の顔に向けて小石を投げた。


「わたしもいる! もう大丈夫よ!」


 さらに小石をもう一つ、また一つと投げるが、どれも相手には当たらずに外れてしまう。それでも諦めずに新しい石を拾い、再び構えたその時、郷士の一人が彼女の方を見て叫んだ。


「あっ、この阿女あまが!」


 その男は城太郎から離れてお通に向かって跳びかかり、刀の峰で打ちかかろうとした。


 その瞬間、


「こいつめ!」


 城太郎の脇差は相手の背から腹まで突き通り、刀の鍔と拳が相手の体に止まる形になった。


 しかし、その勢いで脇差が相手の体に深く食い込んで抜けなくなってしまう。もしも今、残りの郷士が城太郎に跳びかかってきたら、どうなるかは明白だった。


 だが、残った郷士はすでに負傷しており、仲間が倒れるのを見て狼狽していた。その男は、傷を負った体を引きずりながら、蟷螂(かまきり)のようによろよろと逃げ出した。城太郎はそれを見て冷静さを取り戻し、足で相手の体を踏んで脇差を引き抜いた。


「待てッ!」


 勢いに駆られ、さらに破れかぶれの心境で駆け出そうとしたその時、お通が叫んだ。


「およしなさいっ。……およしなさい。逃げて行く者を! ……あんなに傷を負っている者を!」


 その切迫した声に、城太郎は驚き、少し冷静さを取り戻した。ここまで自分たちを苦しめてきた相手をなぜかばうのか、理解が追いつかないまま、お通の方を見つめた。


「それよりも、いろいろと話したいことがあるの。それに、一刻も早く、ここを離れましょう」


 ――確かに、その通りだ。


 城太郎も異議はなかった。ここからそう遠くない場所に讃甘さぬもの山が迫っている。もしもこの騒ぎが下ノ庄に伝われば、郷士たちが大勢で襲ってくるのは間違いない。


「駆けられるか、お通さん?」


「ええ、大丈夫!」


 二人は、まるで昔の小娘と小童だった頃を思い出しながら、闇の中を全力で駆け抜けた。息が切れるまで、暗闇を突き進んでいった。



 三日月の宿で、まだ起きている家は数えるほどしかなかった。


 そのうち一軒、わずかな明かりが宿場唯一の旅籠はたごからもれていた。商人や僧侶たちがひとしきり騒ぎ、今はそれぞれ眠りについている。旅籠の隅にある小さな部屋に、宿の年寄りが一人住んでいたが、彼女はお通と城太郎のためにその部屋を空けてくれた。


「城太さん、それじゃあ、江戸でも武蔵様には会えなかったんですね?」


 城太郎の話をひとつひとつ聞くうち、お通は悲しげに問いかけた。城太郎も、木曾路きそじで離れ離れになって以来、彼女がいまだに武蔵に会えていないことを聞いて、胸が痛んだ。


「…でも、お通さん、あまり嘆くことはないよ。最近、姫路でこんな噂を聞いたんだ」


「どんな噂でしょう?」


 藁でも噂でも、今のお通にはすがりたい思いだった。


「武蔵様が近いうちに姫路へ来るかもしれないんだ」


「姫路へ…それは本当ですか?」


「ただの噂だから、どこまで本当かは分からないけれど、藩の中ではかなり信じられているらしい。細川家の師範である佐々木小次郎と約束している試合のために、小倉に向かうらしいんだ」


「その話は私もちらっと耳にしたことがありますが、本当のところ、誰も武蔵様の居場所を知っている人はいません」


「いや、藩の間で流れている話には、もう少し信憑性があるんだ。妙心寺からの情報によれば、細川家の家老、長岡佐渡ながおかさどが小次郎からの試合の招待状を武蔵様に届けたらしい」


「では、その試合は近々行われるのでしょうか?」


「さあ、そのあたりは分からない。だが、武蔵様が京都の近くにいるのなら、豊前の小倉へ向かうには、きっと姫路を通るはずだ」


「でも、船で行かれることもあるかと…」


「いや、おそらく船は使わないと思う」


 城太郎は首を振りながら答えた。


「武蔵様が通る際には、姫路や岡山、そして他の山陽の各藩でも必ず一泊してもらおうと待ち構えているんだ。武蔵様の人物を見ようとしたり、仕官の意向があるかどうか探ろうとしているようで、姫路の池田家でも沢庵坊に書状を送ったりしているらしい。もし武蔵様が通りかかったらすぐ知らせるようにと、各宿駅にまで指示が出されているそうだ」


 お通はそれを聞くと、かえってため息をついた。


「それでは、なおさらです。武蔵様が陸路を選ばれるとは思えません。そんな大騒ぎが各城下で待ち構えているようでは…」


 彼女は絶望したようにそうつぶやいた。



「噂話でも喜ぶだろう」と思って話したことが、お通にはあまりに儚い夢に過ぎないようだった。


「――城太さん、それなら、京都の花園妙心寺へ行けば、もう少し確かなことがわかるでしょうか」


「そうかもしれないが、噂だからなあ」


「でも、まるで根拠がないわけでもないでしょう?」


「もう、行くつもりか?」


「ええ、そんな話を聞いたら、明日にでも出発したい気持ちです」


「いや、待てよ」


 城太郎は、以前とは違って、今は彼女にも意見を言えるようになっていた。


「お通さんが武蔵様に会えないのは、何か噂や影でも見えると、すぐにそれを頼りに飛び出してしまうからじゃないか。時鳥ほととぎすを探すなら、鳴き声の先を見なければ姿は見えないのに、お通さんは追いかけすぎて道に迷ってしまっているように思えるんだ」


「それは、そうかもしれませんが…理屈で心を納得させられないのが恋というものでしょう」


 お通は、城太郎に対してなら何でも話せたが、「恋」という言葉を口にした瞬間、彼の姿を見て、ふと気まずくなった。城太郎もまた顔を赤く染め、戸惑った表情を浮かべた。


 今や彼は、恋の話を軽く受け取って返すような少年ではなかった。自分自身もまた、恋に悩む年齢になっていたからだ。


 それに気づいたお通は、慌てて話を切り替えた。


「ありがとう。もう少し考えてみます」


「そうしてください。そして一度、姫路に戻ってください」


「ええ」


「ぜひ、僕たちの屋敷に来てください。父も一度お通さんに会いたいと言っていましたから」


 お通は黙り、燃え尽きそうな灯に目を向け、ふと破れたびさし越しに夜空を見上げた。


「…あ、雨が」


「雨ですか…明日は姫路まで歩く予定なのに」


「いいえ、みのかささえあれば、秋の雨くらいは大丈夫です」


「激しくならないといいが」


「…ああ、風も」


「閉めましょう」


 城太郎が立ち上がり、雨戸を引き寄せた。部屋にこもるむし暑さの中、お通のほのかな香りが漂ってきた。


「お通さん、どうぞ楽にお休みください。僕はこのままで――」


 そう言って木枕を取り、窓の下の壁に向かって横になった。


「…………」


 お通はまだ起きたまま、ひとり雨音を聞いていた。


「寝ておかないと、明日がつらいぞ。まだ眠れないのか」


 背を向けたまま、城太郎が言うと、顔まで寝具を引き上げて目を閉じた。

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