円
京へ、京へと道のりは縮まる。
どうやら愚堂は京の妙心寺へ向かっているようだ。妙心寺は、彼にとっても縁深い総本山でもある。
しかしながら、いつ着くかは誰にもわからない。彼の旅は風任せ。雨に閉じ込められては木賃宿に篭もり、そこでは又八に灸を据えていることもある。
美濃に来た時も、禅寺に何日も滞在し、湖畔の寺でまた数日。どこに泊まっても、武蔵は愚堂のそばに寄り添うようにして寝泊まりし、ただひたすら一言の教えを求めていた。まるで教えを追い詰めるように。
ある秋の夜、湖畔の寺の山門で寝転がっていると、いつの間にか秋が来ていることに気がついた。振り返れば、自分の姿はまるで乞食のようで、伸び放題の髪には櫛も入れず、風呂も入らず、髭も剃らずにいた。服はボロボロになり、腕も胸も松の皮のようにカサカサだ。
吹き落ちていく星の光、秋の夜風が身に沁みる。
「何をしてるんだ、俺は……」
その夜、武蔵はふと冷静に、今の自分をあざ笑った。一体、自分は何を知ろうとしている? 愚堂に何を求めている?
本当にここまでして追い求めないと生きていけないのか……。
自分が哀れになり、こんな愚か者にすら宿っているシラミさえも不憫に感じる。
愚堂は言った。「無一物」と。何も持たないということだ。
何もないものに、無理に求めようとしているのは馬鹿げている。どれだけ追いかけても、彼が振り返ってくれないからといって、恨む道理もない。
武蔵は髭の中から空を見上げた。山門の上には、秋の月が淡く浮かんでいた。
「分からない……」
何かひとつだけ、どうしても分からないものがある。それさえ解ければ、剣に対する迷いや行き詰まっているものが一気に解ける気がするのに、どうにもならない。
もしこの道が、ここで終わるなら、むしろ死んだほうがいい。生きてきた意味が見出せない。寝ても眠れない夜が続くばかりだ。
では、その「分からないもの」とは一体何なのか? 剣の修行か、それだけではない。世を生き抜くための道筋か、それも違う。お通のことか?いや、恋一つで男がこんなにも消耗するものか。
全てを包み込む大きな何かがそこにある。しかし、天地の大きさから見れば、それもまたケシ粒ほど小さなことなのかもしれない。
武蔵はむしろを身に巻き、蓑虫のように石の上に寝転がった。――又八はどんな風に眠っているのだろう。苦しみを避けて生きる彼と、苦しみを求めてさまよう自分を思い比べると、ふと羨ましくなった。
「……?」
ふと何かを見つけたのか、武蔵は起き上がり、じっと山門の柱を見つめた。
山門の柱に掲げられた長い聯の文字に、武蔵の目がじっと向けられていた。月明かりの下、彼はその言葉を読み取っていく。
汝等請ウ其本ヲ務メヨ
白雲ハ百丈ノ大功ヲ感ジ
虎丘ハ白雲ノ遺訓ヲ歎ズ
先規茲ノ如シ
誤ッテ葉ヲ摘ミ枝ヲ尋ヌルコト莫シ
「……誤ッテ葉ヲ摘ミ、枝ヲ尋ヌルコト莫れ」
この部分が、武蔵の心に深く沁みた。枝葉――そうだ、あまりに多くの人が葉や枝の先ばかりにとらわれ、そこに煩わしさを育てている。
(自分もか……)
そう自省し、彼は急に体が軽くなった。なぜ一身が一剣に成りきれないのか? なぜ脇を気にするのか? なぜ澄み切らないのか?
「あれはどうか、これはどうか……」
要らぬ右顧左眄。ただ一つの道を突き進むのに、何の傍目が必要だろうか。とはいえ、その道が行き詰まっているからこそ、迷いが生じ、愚かにも葉を摘み枝を尋ねてしまうのだ。行き詰まりをどう打開するのか、その核心に至り、核を破るにはどうすればよいのか。
自笑十年行脚事
痩藤破笠扣禅扉
元来仏法無多子
喫飯喫茶又著衣
これは愚堂和尚が自らを嘲った偈だ。武蔵は、初めて妙心寺で愚堂に会った十年近く前を思い出していた。愚堂は、彼が初めて来たときにいきなり、
「汝、何の見地があって愚堂門の客とならんとするか」
と、ほとんど足蹴にせんばかりに大喝で追い払ったのだった。その後、ようやく愚堂の心に認められ、室に入って教えを受けた折、彼はこの偈を見せて、
「修行修行といってるうちは、まあ駄目じゃろう」
と、笑っていたのだ。
自笑十年行脚事
――愚堂は十年も前から、彼にこのことを教えていた。それにもかかわらず、今もなお道をさまよっている自分を見て、愚堂は「救い難い愚物」と見放してしまったのかもしれない。
武蔵はぼんやりと立ち尽くしていた。そして寝もせず、山門のあたりを歩き回っていると、不意に、寺から出て行く人影が目に入った。山門を出ていくのは、又八を連れた愚堂である。
いつになく急いでいる。何か本山に急ぎの用事でもできたのか、彼は寺の見送りも断って、瀬田の大橋へ向かってまっすぐ進んでいく。
武蔵はもちろんのこと、
「――遅れてはならぬ」
と、白い月の下に浮かぶその影を追って、果てなくその背中を慕って行った。
町の軒先が静まり返っていた。昼間はにぎやかな大津の絵屋も、旅人で混み合う旅籠も、薬の看板さえも、すべてが戸を閉ざし、誰一人いない深夜の道を、月だけが恐ろしいほど白く照らしている。
大津の町。
その町を通り過ぎ、道は次第に登り坂になる。三井寺や世喜寺の山には、静かに夜霧がかかっていた。人とすれ違うことは稀で、ほとんど誰もいない。
やがて、峠の頂上にたどり着いた。
「……」
先を歩く愚堂が立ち止まっていた。彼は又八に何か話しかけて、月を仰ぎ見て一息ついている。
京の都はもう眼下に広がっている。振り返れば、琵琶湖もひと目で見渡せる高さ。だが、月以外はすべてが同じ色に包まれている。雲母のように輝く夜霧の海が一面に広がっているのだ。
少し遅れて武蔵がその場所に到着した。愚堂と又八の姿が近くに見える。その影を間近に見られたことに、武蔵は何ともいえない緊張を感じた。
愚堂は無言のまま。
武蔵も、言葉を発することができない。
だが、こうして視線が交わるのは、何十日ぶりのことだった。
武蔵は咄嗟に、
「今だ――」
と、思った。
目の前には京都がある。もし愚堂が妙心寺の禅洞に入ってしまえば、再びいつ会えるかもわからない。
「……もしっ!」
武蔵はとうとう叫んだ。だが、あまりに思い詰めていたせいか、声が詰まり、まるで子が親に言い出しにくいことを告げるように、前へ進むことさえもためらう。
「……?」
何だ? とは尋ねられない。
愚堂の表情は乾漆のように無機質だが、その白い眼だけが鋭く武蔵を見据えている。
「もしっ、和上っ……」
二度目の叫び声は、武蔵にとっても最後の叫びのようだった。燃えるような気持ちで愚堂の足元に飛び込んで、
「一言、一言を!……」
そう言って大地に頭を伏せた。
武蔵は全身で愚堂の言葉を待ったが、いつまでも、実にいつまでも答えは返ってこなかった。
堪え切れずに、やっと声を上げかけたとき、
「聞いておる」
愚堂は初めて口を開き、
「又八坊から、毎晩のように、聞いておるので万承知じゃ。……女子のことも」
その最後の一言に、武蔵は頭から冷水をかけられたような気持ちになった。顔を上げることもできず、ただ地に伏したまま、言葉を失った。
「又八、棒切れを貸せ」
愚堂が又八に頼むと、彼は拾った棒を愚堂に手渡した。武蔵は覚悟を決め、頭上に三十棒の叱りが降りかかるのを待ったが、棒は彼の頭に降りることはなかった。
愚堂は棒の先で、地面に大きな円を描いたのだ――その円の中に、武蔵の姿が収まっていた。
「行こう」
そう言って、愚堂は手にしていた棒を捨てた。そして又八を促し、すたすたと歩み去っていく。
武蔵はその場に取り残されたままだ。岡崎のときとは違い、今度は怒りがこみ上げてくる。これまでの数十日、真心を尽くし、必死の思いで教えを乞おうとした自分に、あまりに慈悲がない。無情で冷酷、まるで人を弄んでいるかのようだ。
「……くそ坊主め」
遠ざかる二人をにらみつけながら、武蔵は唇をかみしめた。「無一物」などと言っていたのは、何もない空っぽな頭を、まるで深みがあるかのように見せかける坊主の口実にすぎないのか?
「見ていろ、もうお前なんか頼るものか」
もう、誰かに教えを求めた自分が愚かだったとさえ思える。道は自分で切り開くほかない。彼もまた人、自分も人、世に名を残した先人たちも皆、人間だ。もう誰にも頼らないと決めた。
ぬっと立ち上がり、怒りに任せて突っ立ったまま、遠く月の向こうをにらんでいたが、やがてその怒りが冷めると、自分の足元に目をやった。
「……ん?」
彼は、周囲を見回して気がついた。
自分が立っているその場所に、ぐるりと円が描かれているのだ。
「あの坊主が…」
愚堂がさっき地面に棒の先をつけていた。そのとき、こうして自分を囲むように円を描いていたのかと、ようやく気づく。
「この円…何を意味してる?」
動かずにじっとその場に立ちながら考えた。
円。
どこまでも果てなく、屈折もなく、迷いのない完全な円。それを大きく広げれば天地そのものであり、縮めれば自己の中心点でもある。
「……!」
武蔵はその瞬間、手に持った刀を振り上げ、円の中で立ち尽くして凝視した。月明かりに浮かぶ自分の影は、片仮名の「オ」のように地面に映り、しかし天地の円は変わらずに厳としてそこに在る。自分の影はその一部だが、異なる形で映るだけにすぎない。
「影だ…」
武蔵は見定めた。影は自分の実体ではない。そして行き詰まっていると感じていた道の壁も、また影でしかなかったのだ。迷いの心が作り出した影にすぎない。
「えいっ――!」
空を一閃した。左手に構えた短刀が影を作り、形を変えるが、天地の象は変わらない。二刀も一刀も、一つの円なのだ。
「ああ……」
目の前が開けたように感じた。仰ぎ見ると、そこには満ちた月が浮かんでいる。その大円の月は、剣の象そのものであり、人生を歩む心の象でもあるように見えた。
「おお!……和上!」
武蔵は疾風のように駆け出し、愚堂の後を追いかけた。しかし、もはや愚堂に何も求めるつもりはなかった。ただ一時でも恨んだことを詫びたかったのだ。
――だが、立ち止まった。
「それも、枝葉にすぎない……」
そう呟き、蹴上のあたりで茫然と立ち尽くしていると、京の町の屋根や加茂の水が霧の底からうっすらと明け始めてきた。