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苧環

 一体何者か?

 目の前にいる2、3人の人影を見て、武蔵には特に心当たりがなかったが、いかなる時でも、自分の命を狙う敵に対する心構えは常に持っていた。


 この時代を生きる者にとっては、日々の心構えが当たり前だ。


 戦乱の余波がまだ完全に収まっていないこの社会には、人々が互いに疑心暗鬼になり、妻すらも信じられないような状況が続いている。そんな混乱した社会の中で、武蔵もまた、他の者たちと同様に自分の命を常に警戒しなければならなかった。

 ましてや、これまでの戦いや決闘の中で、武蔵によって命を落とした者、その家族や親類、彼の手によって世間から追いやられた者まで含めれば、武蔵に恨みを抱く人間の数は相当なものだったに違いない。たとえ正当な理由や試合であっても、討たれた側にとって武蔵は永遠に敵であり続けるのだ。例えば、又八の母がその典型である。


 このような時代背景の中で剣の道を目指す者にとっては、命を賭けた修行は当たり前であり、一つの危険を乗り越えることで、次の危険が生まれる。その連続の中で、敵の存在そのものが師としての存在になり、危険はまた、剣を磨く砥石ともなるのだ。


 こうした中で、剣の道の究極の目標とは、ただ人を倒すことではない。自分の剣によって人を生かし、世を平和に導き、自己の心をも菩提の安らぎに至らせ、人々と共にその喜びを分かち合うことを目指すのだ。だが、その険しい道を進む中で、時に虚無に陥り、自分が進むべき方向を見失い、敵がふいにその影を現すことがある。

 今、武蔵は矢矧川の橋桁の陰に身を潜め、敵が近づくのを待っていたが、その瞬間に感じたのは、命の危機に晒されることによる覚醒であった。


「……はて?」

 敵を近くまでおびき寄せ、その正体を確認しようとじっと息を潜めていたが、どうやら敵たちは武蔵の死体が見当たらないことに気づき、警戒を強めた様子で、物陰から橋の袂を不気味に見つめ直していた。


 その動作を観察し、武蔵はある違和感を感じ取った。敵の動きは異様に素早く、その黒い装いにしても、刀の作りや足元の構えからも、ただの野武士や浮浪の徒とは思えなかった。

 この地域の武士であれば、本多家や徳川家が考えられるが、彼らから危害を受ける理由が思いつかなかった。人違いかもしれない――だが、人違いにしては、ここ最近、裏の藪や露地口で怪しい者の姿が目撃されていた。やはり、武蔵の存在を知り、その隙を狙っている者がいるに違いない。


「ははあ……橋の向こう側にも仲間がいるな」


 武蔵がそう考えながら見つめていると、物陰に潜んでいた三人の影は火縄を付け直し、河の対岸に向かってその火縄を合図のように振っていた。



 敵は飛び道具を持ってこちらに潜んでいるうえ、橋の向こうにも仲間がいるようだ。

 相当な準備をして、今宵こそ武蔵を仕留めようと待ち構えているに違いない。


 武蔵が八帖寺へ通うたびに、この橋を頻繁に渡っていたから、敵もそれを把握して、地の利を活かして万全の配置を整えていたのだろう。

 橋桁の陰から武蔵は出られない。飛び出した途端に弾を放たれるのは明白だったし、敵を無視して一気に橋を駆け抜けようとしても、さらなる危険を招くのは明らかだ。

 じっとしていても、火縄で合図を交わし合っている様子から、事態が次第に自分に不利な状況に向かっていることが見て取れる。


 だが、武蔵には即座にとるべき手が浮かんでいた。

 兵法に頼らずとも、実戦の場では瞬時の判断が必要だ。考えている暇などない。その判断はただ一つ、「勘」だった。

 理論が常に「勘」の基礎を作っているが、理論自体は遅く、実際の場では瞬時に間に合わない。


 特に、今のような命がけの場面では。


 屈んだまま武蔵は、敵に向かって大きな声で呼びかけた。

「隠れていても無駄だぞ、火縄が見えている。用があるなら出てこい。この武蔵はここだ! ここにいるぞ!」


 激しい川風が声をかき消すかと思われたが、返事の代わりに第二の鉄砲弾が、武蔵のいた場所を狙って飛んできた。

 だが、武蔵はもうそこにはいなかった。橋桁に沿って身を移動させていた武蔵は、弾丸が飛んでいった逆方向に向かって一気に跳び出した。


 敵の三人は鉄砲に弾を込める暇もなく、慌てふためきながら刀を抜いて武蔵を迎えたが、焦った様子で連携も取れていなかった。


 武蔵は三人の間に割って入り、正面の男を大刀で一閃して斬り倒すと、左側の男を左手の脇差で横薙ぎに斬り裂いた。

 残った一人は逃げ出し、慌てた様子で橋桁の袂にぶつかりながら、盲とんぼのように矢矧橋を転げるように駆けていった。



 ――それから、武蔵は平常通りの足取りで、欄干に身を寄せながら、ただ静かに大橋を渡って行った。何も起こらなかった。

 しばらく佇んで誰か来るのを待ってみたが、何事もなく、そのまま家に帰って眠りについた。


 翌々日。


 無可むか先生として手習いを教えている最中、彼自身も一脚の机に向かい筆を取って習字に没頭していると――


「ごめん――」


 軒先から侍の声がして、二人組の男が顔を覗かせた。土間の入口には子供たちの履物が散らばっていたので、二人は木戸のない裏口から回って縁先に立った。


「――無可殿はご在宅か。我々は本多家の家中の者で、あるお方の使いとして参ったのだが」


 子供たちの中から顔を上げた武蔵が応じる。


「無可は私ですが」


尊公そんこうが、無可と名乗っている宮本武蔵殿であらせられるか?」


「ええ」


「隠さずにお答えを」


「いかにも武蔵で相違ござらぬが、お使いの趣旨は」


「藩の侍頭さむらいがしら亘志摩わたりしま殿をご存じだろうか」


「はて、知り合いではござらぬが」


「先方では、よく知っておられるようだ。そなたは当岡崎で二、三度ほど、俳諧の席に顔を出したことがあるだろう」


「誘われて俳諧の集まりに参加したことがありました。無可は仮名ではなく、俳諧の席でふと思いついた俳号でござる」


「そうか、俳名だったか。――それはまあ構わぬが、亘殿も俳諧がお好きで、家中にも吟友が多い。静かな一夜、話を交わしたいとおっしゃっておられる。お越しいただけるか」


「俳諧のお誘いなら、他にふさわしい方がござろう。私は雅事がじを解さぬ野人でござるゆえ」


「いや、俳諧のためというわけではない。亘殿は、特別な理由でそなたに会いたいのだ。武辺の話でも聞き、語らいたいのかもしれぬ」


 手習い中の子供たちはみな手を止め、先生と侍の顔を不安そうに見比べていた。


 武蔵はしばし考え、決心したようにうなずいた。


「分かった。お招きに甘え参上いたそう。日にちは?」


「よろしければ今夕にでも」


「亘殿の屋敷はどの辺か?」


「いえ、お越しいただけるなら、その時刻にかごをお迎えに参上する」


「ならば、待っていよう」


 侍二人は顔を見合わせてうなずき、


「それでは、お授業中に失礼いたした。相違なくその時刻までにご準備を」


 と挨拶して去って行った。


 隣の筆屋の女房が台所から心配そうに覗いていたが、客が帰ると、武蔵は子供たちに向かって笑いながら言った。


「人の話に気を取られて手を休めてはならんぞ。さあ、勉強せい。先生も一緒にやるぞ。人の話も、蝉の声も、耳に入らぬくらい集中するんだ。小さい時に怠けていると、この先生みたいに大きくなってからも手習いをしなければならんぞ」


 墨だらけの手や顔をした子供たちを見渡しながら、武蔵は優しく笑った。



 夕暮れが迫る頃、武蔵は支度を整えていた。はかまをしっかりと締めて。

 その間、隣のかみさんが縁先まで来て、泣き出しそうな顔で言う。


「やめておいたほうがいいですよ。何か理由をつけて、断れば……」


 しかし間もなく、迎えのかごが路地口に到着した。それは、普通の町駕とは違い、塗りの籠で、侍二人と小者が三人ほど付いている。


「何事だ?」と、近所の人々が興味津々で見守る中、武蔵が侍たちに案内されて駕に乗り込むと、早くも噂が立ち始める。


「寺子屋のお師匠さんが、偉い出世をしたらしいぞ」

「先生はすごいんだ。あんな駕に乗れるのは、偉い人だけだよ」

「どこへ行くんだろう?」

「もう戻らないのかな……?」


 侍が駕の戸を閉め、「こら、退け退け」と道を開けさせ、「急げ」と駕仲間に指示する。

 夕焼けが町の空を赤く染め、噂もその赤に溶け込んでいくようだった。

 人々が散っていく中、隣のかみさんは怒りを込めてうりの種やふやけた飯粒が混じった汚水を撒き散らした。


 そこへ、若い弟子を連れた坊さんが現れた。彼は法衣をまとい、明らかに禅家の雲水うんすいである。黒い皮膚に深く凹んだ目、四十から五十ほどの年齢であろうが、禅僧の年齢は凡人には計りかねるものがある。

 彼の体つきは小柄で贅肉一つなく、痩せているが声は太かった。


「おい、おい」

 連れている白瓜しろうりのような顔の弟子を振り返って、

「又八坊や」


「はい、はい」


 あたりを探し歩いていた又八は、慌ててその雲水の前に戻り、頭を下げた。


「分からぬのか?」

「今、探しております」

「一度も来たことはないのか」

「はい、いつも山に来ていただいていましたので」

「その辺で尋ねてみなさい」

「そういたしましょう」


 又八は歩き出しかけて、すぐに戻って来て、

愚堂ぐどうさま、愚堂さま」


「なんだ?」


「分かりました! すぐそこの路地口に、看板が出ております。――『童蒙道場どうもうどうじょう、手習指南、無可むか』と」


「うむ、そこか」

「訪ねてみましょうか? 愚堂さまはこちらでお待ちになりますか」


「いや、わしも行こう」


 おとといの夜、武蔵と別れ際に交わした話が気にかかっていた又八は、この知らせに歓喜した。

 二人して待ち焦がれていた愚堂和尚ぐどうおしょうが、旅の汚れもそのままに、ふらりと八帖寺はちじょうじに現れたのである。


 早速、又八が武蔵のことを伝えると、和尚は彼のことをよく覚えており、

「会ってやろう。呼んで来い。いや、彼ももう一人前の男だ、こちらから出向いて行こう」


 そうして八帖寺で少し休むだけで、またすぐに又八を案内に町へ下りて来たのだった。



 岡崎にいる本多家の重臣、亘志摩わたりしまについては、武蔵もその名を聞いたことがあったが、その人物については何も知らなかった。


 ――一体、なぜ自分にわざわざ迎えをよこしたのか?


 武蔵にはその理由が思い当たらなかったが、強いて考えるなら、昨夜、矢矧やはぎの辺りで黒装束の侍二人を斬り捨てた件が影響しているのかもしれない。あるいは、日頃から武蔵を狙っていた何者かが、手に負えず、ついに亘志摩という背後の人物を通して表立って処理しようと企んでいるのかもしれない。


 どちらにせよ、良い話でないことは明白だった。しかし、迎えが来た以上、武蔵も覚悟を決めていた。


 その覚悟とは何か?


 もし問われるなら、武蔵は一言で「臨機」と答えるだろう。現場に行ってみなければわからないことだし、先に推測を巡らせるのは得策ではない。すべては機を見て瞬時に決断する、それが武士の道だと武蔵は心得ていた。


 駕籠かごの外は闇に包まれ、風が松の葉を揺らす音だけが響いていた。おそらく、岡崎城の北郭から外郭の松林を抜けているのだろう。


「…………」


 武蔵はその暗い駕の中で目を半眼に閉じ、うとうとと眠り込んでいるように見えたが、その内心には冷静な覚悟が備わっていた。


 やがて、ギィという門が開く音で駕籠が静かに止まり、家人たちのささやき声が微かに聞こえる。灯影がほのかに映る中、武蔵は駕籠から降り立ち、案内されるまま広間へと通された。四方にすだれが巻き上げられ、涼しい松風が吹き抜けている。


「亘志摩でござる」


 対面の相手は五十がらみの男、亘志摩その人だった。剛健で、いかにも三河武士らしい厳格な雰囲気を漂わせている。


「――武蔵です」


 礼を尽くし、正面に座る。


「……お楽に」


 志摩は軽く会釈し、そして沈着な面持ちで話し始めた。


「一昨夜、我が家中の若侍二人が、矢矧の大橋で斬り捨てられたそうな。……事実でおざろうか」


 質問は直球であり、武蔵に考える余地も与えなかった。しかし、武蔵も隠すつもりは毛頭ない。


「事実でござります」


 それからの志摩の反応に武蔵は注視した。志摩の顔には何の動揺も見られず、そのまま続けてこう言った。


「それについて……お詫びせねばならぬ。武蔵どの、まず許されい」


 志摩は軽く頭を下げた。しかし、武蔵はその言葉を額面通りに受け取るわけにはいかなかった。



「今日、初めて耳にした話だが……」


 亘志摩わたりしまは前置きしながら話を続けた。


「藩に、矢矧やはぎの辺で若侍二人が斬られたと報告が上がった。その相手が貴公であるとわかった。実のところ、貴公の名は以前から承知していたが、まさか城下に住まわれていたとは思ってもみなかった」


 志摩の言葉に嘘は見えなかったため、武蔵も素直に耳を傾けた。


「――それで、なぜ貴公を襲おうとしたのか調べさせたところ、藩の客分である三宅軍兵衛みやけぐんべえの門人たちが、仲間数人とともに謀っていたことがわかった」


「……なるほど」


 武蔵は眉をひそめつつも、その説明に少しずつ納得していった。亘志摩の話によれば、三宅軍兵衛の弟子の中にはかつて京都の吉岡家にいた者がおり、さらに本多家の侍の中にも吉岡家門下の者が多くいたのだという。


 そして、城下で「無可むかと名乗る浪人が、かつて京都で吉岡一門を倒し、ついには吉岡家を断絶に追い込んだ宮本武蔵だ」という噂が広まり始めていた。今なお武蔵を恨む者が「奴が目障りだ」と呟き、「討つしかない」と囁かれた末、ついに襲撃が計画されたのだった。


 吉岡流の名は未だに尊敬されている。諸国に広まった門下生の影響力は大きく、本多家にもその流れを汲む者が多くいた。武蔵は、話の真相にうなずき、襲撃を受けた理由にある程度の理解を示した。


「――それゆえ、彼らの軽率な行動については、城内で厳重に叱責を加えておいた。それから三宅軍兵衛殿も、自らの門人が関わっていたことに申し訳なさを感じ、ぜひ貴公にお詫びをしたいと望まれているのだ。どうかな、ご迷惑でなければこちらに呼んでお引き合わせしよう」


「軍兵衛殿がそのような心中であるならば、兵法者として路傍の出来事と捉え、謝罪など必要ありません。しかし、道を語る同士としてお会いすることには異存はございません」


「実は軍兵衛殿も、まさにそのことを望んでおられる。――では、早速お呼びしよう」


 亘志摩はすぐに家臣を呼び、三宅軍兵衛を招くよう伝えた。三宅軍兵衛はすでに別の部屋で待機していたようで、ほどなくして弟子数名とともに現れた。弟子たちもまた、本多家の重臣たちであった。



 危惧は去ったように見えた。とりあえず、緊張も解け、亘志摩が三宅軍兵衛らを紹介してくれると、軍兵衛は丁寧に頭を下げ、


「先夜の件については、どうか水に流していただきたい」


 と門人たちの過ちを詫び、それからは互いに打ち解けて武勇の話や世間話で座が賑わい始めた。


 武蔵は尋ねた。


「東軍流というのはあまり耳にしたことがありませんが、御流派は貴殿の創始か?」


 すると、軍兵衛が答えた。


「いや、拙者の創始ではござらぬ。拙者の師匠は越前の出身で、川崎鑰之助かわさきかぎのすけという。上州の白雲山に籠もり、一派を開かれたと伝書にあるが、実際には天台宗の僧、東軍坊とうぐんぼうという人から技を学んだと聞いております」


 そして、改めて武蔵の姿をしげしげと見つめながら続けた。


「かねてより貴公の噂は聞いておりましたが、年配かと思っていたところ、こうして見るとお若い。ぜひこの機に一度、手合わせを願いたいのだが」


 武蔵は軽くかわして、


「機会があればいつか」


 と答えた。そして志摩に向かい、「道案内を」と礼を述べかけると、志摩は手を振り、


「まだお早いですぞ。帰りは城下町の入口まで誰かお供させましょう」


 と言って引き止めた。


 その時、軍兵衛が再び話を持ち出した。


「実は、貴公の門人二人が矢矧やはぎの橋元で斬られたと聞き、拙者も駆けつけてその場を確認した。だが、二人の死骸の位置と刀の傷痕がどうも一致しないのだ」


 そして、逃げ帰った門人からも話を聞いたと言う。


「はっきりとは見えなかったようだが、確かに貴公は左右に二本の刀を持ち、同時に構えていたという。となると、これは二刀流とでも呼ぶべきか?」


 武蔵は微笑して答えた。


「いえ、自分はまだ意識して二刀を使ったことはありません。一体一刀のつもりですし、二刀流などと名乗ったこともないのです」


 しかし、軍兵衛たちはそれを謙遜と受け取り、


「いやいや、御謙遜を」


 と譲らなかった。彼らはさらに二刀の技について色々と尋ね、どういった訓練を積み、どれほどの力があれば自由に二刀を使えるのかといった幼稚な質問をぶつけてきた。


 武蔵は内心、早く帰りたくてたまらなかった。しかし、こういう相手に限って質問に満足しなければ、解放してくれそうにない。そこで、ふと床の間に立てかけられていた二挺の鉄砲に目を留め、主である亘志摩に申し出た。


「あれを少し拝借できましょうか?」



 武蔵は、主の許しを得て床の間から二挺の鉄砲を取り、座の中央に進み出た。


「……これは?」


 人々は怪訝な表情で見守っていた。二刀についての質問を、鉄砲でどう答えるつもりなのか見当もつかない様子だ。


 武蔵は鉄砲の筒を左右の手に持ち、片膝を立てて構えながら言った。


「二刀も一刀。一刀も二刀。左右の手はあれど、体は一体。すべてにおいて、道理はひとつであり、理の極みにおいては、流派の違いなどは存在しません。――その理を今、目にお見せいたしましょう」


 そう言って両手に握った鉄砲を一礼と共に掲げると、突然、勢いよく矢声をかけて振り回し始めた。


 轟くような風が座を吹き抜け、武蔵が振るう二挺の鉄砲は苧環おだまきのように渦を描きながら旋回していた。


「……」


 その圧倒的な迫力に、人々は言葉を失い、全員が硬直したかのように白けた表情で見つめていた。


 やがて武蔵は、腕を収めて鉄砲を元の位置に戻すと、軽く微笑んで「失礼いたした」と一言だけ告げ、二刀についての説明も加えずそのまま席を立った。


 その場にいた者たちは呆然としており、「帰りは誰かをつけてお見送りさせる」と言っていた志摩でさえ、武蔵が門を去る際、誰も送る者を出さなかった。


 武蔵は門を出て振り返り、さっさと闇夜に溶けていく松の風に耳を澄ませると、ふっと安堵した。今夜の屋敷の門は、白刃の囲みに負けず劣らず危険な「虎口」であった。姿のない、底知れぬ敵意を持つ者に対し、策も講じられぬままであったからだ。


 とはいえ、今や岡崎での滞在は望ましくなくなった。今夜のうちにこの地を去るのが賢明かもしれない。だが、


「……しかし、又八との約束もある。どうするべきか?」


 そう考えながら、松風の闇の中を歩いていた時、岡崎の町の灯りが街道の突き当りにちらりと見え出した。その時、路傍の辻堂から声がかかった。


「おお、武蔵どの!……ずっと待っていたんだ!」


 驚くべきことに、そこには又八がいて、無事を喜んでいた。武蔵は、


「どうしてこんなところにいるんだ?」


 と疑問に思いつつ、ふと辻堂の縁に腰かけている人影に気がつくと、すぐに身を進め、額を地につけて挨拶をした。


「禅師ではございませんか!」


 その人影――愚堂和尚が、じっと武蔵を見つめた後、ややしばらくの間を置いて静かに言った。


「久しぶりだな」


 武蔵も顔を上げ、


「本当にお久しゅうございます」


 と応じた。


 その短い言葉に、二人の間には無限の想いが込められていた。


 武蔵にとって、長らく続く無為の苦しみから救ってくれるのは、沢庵かこの愚堂和尚だけだと待ち続けていたのだ。


 愚堂和尚の姿を仰ぎ見た武蔵の胸には、まさに闇夜に現れた月を見るような感動が広がっていた。



 愚堂も又八も、武蔵が今夜無事に帰ってくるかどうかを案じていた。ひょっとすると、武蔵が亘志摩の邸から帰らぬ者になるかもしれない――そんな不安が頭をよぎり、居ても立ってもいられず、彼らはここまで迎えに来ていたのだった。


 夕方、武蔵が出かけた後、隣家の筆職人の女房から話を聞き出したところ、日頃から武蔵の身辺に心配事があると感じていたことや、今日も侍の使者が来ていたことを教えてもらったという。これに気づいた二人は、亘志摩の邸の周辺をうろつきながら武蔵の帰りを待っていたのだと又八は話した。


 武蔵は、それを聞いて深く感謝し、


「そんなに心配をかけていたとは……ありがたく存じます」


 と答えたが、それでも愚堂の前でひざまずいた姿勢のまま、地面に坐り続け、なかなか起き上がろうとはしなかった。


 やがて、武蔵は強く「和上わじょう!」と呼びかけ、愚堂の鋭い眼差しをまっすぐに見上げた。


 愚堂は、その眼が自分に何を求めているのかを母が子を見守るように悟りつつ、「何か」と重ねて尋ねた。


 武蔵は両手をしっかりと地につけ、言葉を紡いだ。


「妙心寺で参禅さんぜんし、和上に初めてお目にかかったあの日から、早や十年近く経ちました」


「もう十年になるのかのう」


「月日ばかりが流れ、私はただ地を這っているばかりです……自分でも、どれだけ道を外れているか、疑わしいほどです」


「乳臭いことを相変わらず言うておるわ」


「悔しいのです」


「何がだ」


「いつまでたっても、修行が至らぬことが」


「修行、修行と口にするうちは、まだ未熟というものよ」


「では、それを離れたら?」


「すぐに糸がもつれるぞ。そして無知な者より始末が悪い人間のくずになる」


「修行を離れれば滑り落ち、登ろうとすればよじ登れない絶壁の中途で、私はもがいています。剣についても、自分自身についても、どうしようもないのです」


「そこがかなめだな」


「和上っ、ずっとお目にかかるこの日を待ち望んでいました。どうすれば今の迷いと無為から抜け出せるのでしょうか」


「そんなこと、わしにはわからん。結局は自力でしかあるまい」


「もう一度、どうか又八と私を和上の膝下に置き、叱ってください。さもなくば、一喝して、私の虚無を打ち破ってください……和上、どうかお願いします!」


 武蔵は地に伏して懇願し、声は詰まり、息が詰まるほどの苦悶がその姿から伝わってきた。


 だが、愚堂は微動だにせず、武蔵の嘆願に感情を動かした様子も見せずに、静かに辻堂の縁から立ち上がると、「又八、来い」とだけ告げて先に歩き出した。



和上わじょう!」

 武蔵は立ち上がり、愚堂のたもとをつかんで一言の答えを求めた。


 すると愚堂は黙って頭を振り、それでも武蔵が手を離さないのを見ると、こう言った。


無一物むいちもつ


 そこで一度言葉を切り、次にこう続けた。


「何も持たぬ。施しがあるなら施せ。他に何を加える必要があろうか――」


 そして「かつ!」と叫び、拳を振り上げ、まるで本当に殴りかかるかのような険しい顔をした。


 武蔵は一瞬、たじろいで袂を放したが、何かを言いかけた。しかし、愚堂は一切振り向かず、そのまま早足で去っていった。


 茫然とその背中を見送る武蔵に、後に残った又八が急いで声をかけた。


禅師ぜんじは、細かいことが嫌いなんだよ。おれが寺で頼み込んで弟子入りをお願いした時も、話の途中で聞くのをやめて、『わしの草鞋わらじの紐でも結んでみろ』って、さらりと言ったくらいさ。お前もいちいち言葉を求めずに、黙ってついていったらいいさ」


 そして遠くで愚堂が又八を呼ぶと、又八は「そうだ、そうしろよ!」と武蔵に言い残して慌てて愚堂の後を追いかけていった。


 愚堂が又八を気に入って弟子として受け入れた様子が、武蔵には少し羨ましかった。又八のような純粋さや素直さが自分にはないことが、ふと悲しくなった。


「――そうだ。どんな言葉をかけられようとも……」


 武蔵の心が燃え上がるのを感じた。この機会を逃せば、愚堂和尚からの教えを二度と受けられぬかもしれない。短い人生の中で、会うべき人に出会うことの価値を彼は痛感していた。


「――この貴重な縁を」


 武蔵は熱い涙をためながら、去っていく愚堂の背中を見つめた。そうして、この一瞬の縁を無駄にするまいと強く心に決めた。


 どこまでも追い続ける!一言の答えを得るまでは――


 武蔵は覚悟を決め、愚堂の後を追って足早に進んだ。


 愚堂は、八帖はちじょうの寺には戻らなかった。もう寺には住むつもりがなく、東海道を京へと向かって進んでいた。


 愚堂が宿に泊まれば、武蔵もその宿の軒端のきばで夜を明かした。朝、又八が愚堂の草鞋の紐を結んで立つ姿を見ると、友人のために喜びを感じたが、愚堂は武蔵を見ても声をかけることはなかった。


 しかし、武蔵はそれに心を屈することなく、むしろ愚堂の邪魔にならぬよう距離をとりながら、日々その後を慕って歩いていった。


 岡崎に残してきた庵も、机も、竹花生たけはないけも、隣の女房や、娘たちの眼差しも、藩の人々の恨みや問題も、今はすべて忘れ去っていた。

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