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陽なた・陽かげ

 白い踵を浮かせて、つま先立ちになりながら、掛け行灯に火を灯そうとする年増の女性がいた。


 洗い髪を背に流し、しまだを結っている彼女は、軒先に火をともすため背伸びをしていたが、なかなかうまく掛けられない。


 彼女の白い肘に、灯りの影と黒髪がゆらゆらと揺れて、二月の夜の柔らかい風には、どこか梅の香りが漂っていた。


「お甲、手伝ってやろうか?」


 背後から不意に声がかけられた。


「あら、若先生?」


 声に振り向いたが、そこにいたのは若先生こと清十郎ではなく、彼の弟子である祇園藤次だった。

「待て、俺がやってやる」


 そう言って藤次は手伝い始めた。行灯には「よもぎの寮」と書かれており、彼はそれを確認すると、少し傾いているのが気になったのか、再度丁寧に掛け直した。


 清十郎は、部屋に座るとすぐに言った。


「やはり、ここは落ち着くな」


「そうですね、静かです」


 藤次はそう答えながら、働き者の一面を見せ、窓を開けたり、周囲の世話を焼いた。


 小さな縁には欄干がついており、その下を流れる高瀬川の水音が心地よく響いていた。


 三条の小橋から南には、瑞泉院の広い境内、暗い寺町、そして茅原が広がっていた。


 まだ世間の記憶に新しい「秀次事件」の舞台となった悪逆塚も、すぐ近くにあった。


「でも、ちょっと静かすぎますね。女の子でも来ないとつまらない。それに、今夜は客もいないようだし、お甲は一体何をしているんだ? まだ茶も来ない」


 落ち着きのない性格なのか、藤次は茶を催促しに行こうと席を立ち、細い廊下へと歩き出した。


 すると廊下の奥で、盆を持った少女に出会った。鈴の音が彼女の袖口から響いた。


「おや、朱実か」


「お茶がこぼれますよ」


「茶なんてどうでもいい。お前が好きな清十郎様が来てるぞ。早く来ないとどうするんだ」


「もう、あなたのせいでこぼしちゃったじゃない! 雑巾を持ってきてくださいよ、あなたのせいなんですから」


「お甲は?」


「お化粧中ですよ」


「まだ化粧してるのか。今日は忙しかったのか?」


「ええ、昼間はとても忙しかったんです」


「ふん、昼間は誰が来たんだ?」


「誰だっていいじゃないですか。とにかく退いてくださいよ」


 朱実はそう言うと、部屋に入ってきて、

「おいでくださいませ」と清十郎に挨拶をした。


 清十郎は少し気まずそうに言った。


「ああ、朱実か。昨夜は……」


 照れながら、彼は千鳥棚から香炉に似た器を取り、陶器の煙管を見つけた。


「先生、煙草を吸われますか?」


「煙草は禁制じゃないのか?」


「でも、皆さん隠れて吸っていますよ」


「じゃあ、試してみようか」


「おつけしましょうね」


 朱実は青貝模様の小箱から葉を摘んで、清十郎の煙管に詰め、彼に渡した。


「どうぞ」


 清十郎は不慣れな手つきで煙管を吸ったが、顔をしかめて言った。


「辛いな……」


「ふふふ」朱実が笑う。


「藤次はどこへ行った?」


「また、お母さんの部屋に行ったんでしょう」


「あいつはお甲が好きらしいな。どうも、そうらしい。藤次め、時々俺を置いて一人で通っているんだろうな」



「――そうだろう?」と、清十郎が挑発するように尋ねた。


「いやなお人ね……」朱実は笑いを含ませながら応じた。


「何がおかしいんだ。お前の母も、うすうす藤次に思いを寄せているんじゃないか?」


「そんなこと知りません」朱実はつれなく答えるが、清十郎はさらに追い打ちをかけた。


「きっとそうだよ。……ちょうどいいじゃないか、恋の二組、藤次とお甲、俺とお前で」


 そう言いながら、清十郎はそしらぬ顔で朱実の手の上に自分の手を重ねた。


「いや」


 朱実は潔癖な反応でその手を振り払い、膝から手を退けた。


 しかし、振り払われたことで、かえって清十郎の欲望は強まった。


 彼は立ち上がろうとする朱実の小柄な体を抱きしめて、「どこへ行くんだ?」


「いや、いや、離して……」


「まぁ、ここにいなさい」


「お酒を……お酒を取りに行くんですから」


「酒なんていらないさ」


「お母さんに叱られます」


「お甲なら、あっちで藤次と仲良く話してるよ」


 清十郎はさらに顔を朱実の頬に寄せてきた。


 朱実の頬はまるで火がついたかのように熱く、彼女は必死に顔を横に向けた。


「――誰か、助けて! お母さん! お母さん!」


 朱実は本気で叫んだ。


 清十郎が彼女を離すと、朱実は鈴を鳴らしながら、小鳥のように奥へと逃げていった。


 その直後、奥の方から大きな笑い声が聞こえた。


「ちっ……」


 清十郎は居場所を失ったような顔で、さびしさと苦々しさが入り混じった表情を浮かべていた。


 そして、独りごとのように「帰る!」とつぶやき、廊下へと出て歩き始めた。


 その顔はぷんぷんと怒りを含んでいた。


「おや、清さま」


 声に気づいたのは、お甲だった。


 彼女は急いで清十郎を抱き止め、髪をまとめた化粧も直しながら、藤次を呼びにやった。


「まぁまぁ、清さま、ここで落ち着いてくださいな」


 そう言いながら、やっとのことで清十郎を元の座敷に座らせた。


 お甲はすぐに酒を運び、機嫌を取り始めた。


 藤次も朱実を引っ張って連れてきた。


 朱実は清十郎の沈んだ表情を見て、くすっと笑いをこらえた。


「清さまにお酌をしなさい」


「はい」


 朱実は銚子を持って清十郎にお酌をし始めた。


「これですもの、清さま。どうしてこの娘は、いつまでたっても子どもなんでしょうね」お甲が嘆息混じりに言う。


「そこがいいんだよ、初桜はな」


 藤次がわきから軽く口を挟む。


「でも、もう二十一にもなっているのに」


「二十一? 二十一には見えないな、せいぜい十六か、十七くらいだろう」


 その言葉に、朱実は小魚のようにぴちぴちと表情を動かし、

「ほんと? 藤次さん、それ嬉しい! いつまでも十六でいたいの。十六の時にいいことがあったから」


「どんなことだ?」


「それは誰にも言えないこと。……十六の時にね」


 胸を抱えて、朱実は思い出を語るように続けた。


「私、関ヶ原の戦いがあった年、どこにいたか知ってる?」


 するとお甲が、不機嫌そうに顔をしかめて言った。


「ぺちゃぺちゃ、くだらないお喋りをしてないで、三味線でも持ってきなさい」


 無言で応じることなく、朱実はすぐに三味線を持って立ち上がった。


 そして、客を楽しませるよりも、自分の思い出に浸るように弾き始めた。


 よしや、こよいは

 曇らばくもれ

 とても涙で

 見る月を


「藤次さん、わかる?」


「うん、もう一曲頼む」


「ひと晩じゅうでも弾いていたい……」


 しんの闇にも

 まよわぬ我を

 アアさて、そ様さまの

 迷わする


 藤次は思わず感嘆し、清十郎も同意するように呟いた。


「なるほど、これでは確かに二十一だな……」



 それまでじっと沈思していた清十郎が、ふいに気を取り直したように言った。


「朱実、一杯やろうか」


 杯を差し出すと、

「ええ、いただきます」

 と、悪びれずに受け取った朱実は、すぐに返杯する。


「お前、強いのか?」


 清十郎もすぐに杯をあけ、再び酌をする。


「もう一杯、どうぞ」


「ありがと」


 朱実は杯を下に置くことなく、ぐいぐい飲み干した。


 小柄な体つきで、見た目は十六、七の少女にしか見えない朱実だったが、いったいどこにその酒が入ってしまうのか、清十郎は不思議に思った。


「この娘は、いくら飲ませても酔わないんです」とお甲が笑いながら言うと、

「面白いじゃないか」

 清十郎はますます熱心に酌をしていく。


 様子がおかしいと察した藤次が、

「若先生、今夜は少し飲みすぎでは?」

 と控えめに言うが、清十郎は気にせず、

「構わぬ」

 と杯を傾け続ける。


 そしてついには、

「藤次、今夜は帰れぬかもしれぬぞ」

 と断りを入れた。


「ええ、どうぞお泊まりなさいませ、幾日でも――ね、朱実」


 お甲が調子を合わせると、藤次はお甲に目配せし、彼女を別の部屋に引っ張って行った。


 困った様子で、藤次はお甲に囁いた。


「あの執着ぶりでは、朱実をどうにか納得させないと収まらないが、肝心なのはお前の気持ちだ。金の話はどうなる?」


 お甲は指で頬をなぞりながら考え込む。


「どうにかしろ。これは悪い話じゃない。吉岡家は今、金が豊富にある。先代の拳法先生が室町将軍に仕えていたおかげで、弟子の数も天下一だ。それに清十郎様はまだ独身だし、将来にわたって悪い話ではないぞ」


「私はいいと思うけれど……」


「お前が良いなら、それで文句はないだろう。じゃあ、今夜は二人を泊まらせてもいいか?」


 藤次は臆面もなくお甲の肩に手をかけたが、隣の部屋で物音がした。


「あれ、ほかにも客がいたのか?」


 お甲は静かにうなずき、藤次の耳元に湿った唇を寄せて囁いた。


「後で……」


 二人はさりげなく部屋を出た。


 清十郎はすでに酔いつぶれて横になっており、藤次もその部屋で眠った。


 しかし、どこか眠れぬまま夜を過ごしたらしい。


 だが皮肉なことに、夜が明けても、奥の部屋は静まり返ったままで、二人の部屋には何の物音もしなかった。


 藤次は「ばかな目を見た」とでも言いたげな表情で遅く起き出した。


 清十郎はすでに先に起きて川沿いの部屋でまた酒を飲んでいた。


 取り巻いているお甲や朱実はけろりとした顔をしており、

「じゃあ、連れて行ってくださるの? きっと?」

 と、何やら約束を交わしている。


 彼らは、四条河原でかかっている阿国歌舞伎の評判を話していた。


「うむ、行こう。酒や折詰の準備をしておけ」

 清十郎が言うと、

「じゃあ、お風呂も沸かさなければ」

 と朱実が応じた。母娘二人は今朝も楽しそうにはしゃいでいた。



 出雲阿国の踊りは、最近京の町中で評判を呼んでいた。


 その人気にあやかろうと、女歌舞伎と称する者たちが、四条の河原に掛床を並べて、華やかな演技を競い合っていた。


 彼女たちは、大原木踊りや念仏舞、奴踊りといった独自の演目を披露し、それぞれが独創性を打ち出していた。


 清十郎たちも、そんな女歌舞伎を見に行こうと準備をしていたが、朱実とお甲が着飾るのに時間がかかっていた。


 清十郎はすでに陽が高く昇る昼を迎えており、待ちくたびれていた。


「まだか、支度は?」


 清十郎が苛立ちを見せると、藤次も落ち着かない様子で答える。


「女を連れて出かけるのもいいが、髪がどうだの帯がどうだの、男にとっては実に焦れったいことですな」

「もうやめたくなってきた……」


 清十郎は窓の外を眺め、川のせせらぎを聞いていた。


 道場の稽古を思い出し、大勢の弟子たちが自分の姿が見えないことをどう思っているのか、考えていた。


「藤次、もう帰ろうか」


「今さらそんなことをおっしゃっては困ります」


「でも……」


「お甲と朱実があんなに喜んで準備しているのに、怒られますよ。急かして参りましょう」


 藤次は二人の支度を急がせるため、奥の部屋へ向かった。


 鏡や衣装が散らかっている部屋を覗き込んだが、朱実とお甲は見当たらなかった。


 次の部屋も空っぽだったが、薄暗い部屋が一つだけ残っていた。何気なくその部屋を開けてみると、突然、

「誰だ!」

 と、怒鳴り声が響いた。

藤次は思わず一歩後退し、薄暗い部屋を見渡すと、そこにはやくざな風貌の牢人者が大の字に寝転んでいた。


「これは失礼、お客さんでしたか」

 藤次が気まずそうに言うと、

「客じゃない!」

 とその男は天井を見つめながら怒鳴った。酒の匂いが部屋中に漂ってくる。


「いや、失礼しました」

 藤次がその場を離れようとしたとき、

「やい!」

 と男がむっくり起き上がり、

「戸を閉めていけ!」

 と命じた。藤次は言われるままに戸を閉めた。


 その後、藤次はお甲と朱実が準備をしている風呂場のそばに向かった。


 お甲は盛装を終え、朱実の髪を整えていた。


「あなた、何をそんなに怒ってるんです?」

 お甲が、まるで子どもを叱るように言う。朱実は後ろから、

「又八さんも一緒に行かない?」

 と尋ねた。


「どこに?」

「阿国歌舞伎よ」

「べッ!」

 又八は唾を吐くようにして唇をゆがめ、

「どこに女房の尻に尾ひいて、そのまた尻についていく亭主がいるか!」

 と、不満そうに吐き捨てた。



 お甲は化粧を整え、盛装していたが、又八との言い争いで、その気分が一気に崩されたようだった。


 彼女は、苛立った様子で又八に向かって言い放つ。


「何ですって?」


 お甲は目に怒りを宿し、又八を睨みつけた。


「私と藤次様が、どこがいけないんですか?」


「いけないなんて、誰が言ったんだ?」


「今、言ったじゃありませんか!」


「……」


「男のくせに――」


 お甲は言葉を切り、沈黙した又八の顔を睨みながら、

「嫉妬ばかりして、本当に嫌になっちゃう!」

 と言って、ぷいっと顔を背けると、朱実に向かって、


「朱実、こんな気違い相手にしないで行きましょう」

 と声をかけた。


 又八はその言葉に激しく反応し、怒りに任せてお甲の着物の裾を掴んだ。


「気違いだと? 良人を捕まえて、気違いとは何だ!」


「なにさ!」


 お甲は振り払って、

「亭主なら、亭主らしくしてごらんよ。誰に食わせてもらってると思ってるのさ?」

 と、冷たく言い放った。


「な、何だと……」


 又八は唇を震わせながら言葉を詰まらせた。


「江州を出てから、百文の金だって、おまえが稼いだことがあるか? 私と朱実の腕で暮らしてきたんじゃないか。酒ばかり飲んで、毎日ぶらぶらしていて、どうして文句を言える筋があるっていうのさ?」


「だ……だから俺は、石運びでもして働くと言っているんだ。それをお前が、まずいものは食えないだの、貧乏長屋は嫌だのと言って、勝手に俺を働かせず、こんな泥水稼業をしてるんじゃないか! やめてしまえ、こんな商売!」


「何を言ってるのさ!」


「こんな商売をやめろって言ってるんだ!」


「やめたら、明日から何を食べるのよ?」


「城の石運びだって、材木引きだって、俺が食わせてやるさ。二人や三人くらい養ってみせる!」


「そんなに石運びや土方がしたいなら、自分だけここを出て、独り暮らしでやったらいいじゃないか。お前は根っからの田舎者なんだから、その方が性に合ってるだろう? 無理にこの家にいてくれなんて、誰も頼んじゃいないんだから、いつでも出て行けっていうならどうぞ、ご遠慮なく!」


 お甲の言葉に、又八は悔しさで涙を溜めたまま、黙ってその場を見送るしかなかった。


 彼女と朱実は去っていき、やがて二人の姿が見えなくなると、又八はひとり畳を睨みつけながら泣き崩れた。


「畜生……」


 涙が彼の目から止めどなく溢れ、畳に染み込んでいく。


 関ヶ原の戦の後、伊吹山の隠れ家に逃げ込んだことが幸運に思えたが、今振り返ると、それはただ敵の手に捕まるのを遅らせただけのことだった。


 正々堂々と敵に捕らえられ、軍門に引き立てられた方が、いっそ潔かったのかもしれない。


 今のように、多情な後家のもとで男としての誇りを失い、悶々と侮蔑の中で生きているよりも、どちらが幸せだったのか。


「あの時、どうして宮本村に帰らなかったんだ……」


 又八は悔しさに苛まれ、頭を抱えて叫んだ。


 お通のもとへ、宮本村の温かな胸へ帰るべきだったと。


 宮本村には母がいて、家族がいて、あの温かい故郷がある。お通の優しい胸の中に戻っていれば、こんな惨めな生活を送らずに済んだはずだと。


「馬鹿だ……馬鹿だ!」

 又八は自分の頭を拳で何度も殴りつけ、泣き崩れた。

「この馬鹿が……!」



 家の外では、ぞろぞろと一行が出かける準備をしていた。


 お甲、朱実、清十郎、そして藤次。


 昨晩から続いている客の清十郎と藤次、それにお甲と朱実の母娘二人は、楽しそうに談笑しながら準備を整えていた。


「おお、外はすっかり春の気配だな」


「もうすぐ三月ですものね」


「三月には、江戸から徳川将軍家が上洛するって噂だぞ。お前たち、また稼ぎ時だな」


「そんなのダメよ。関東の侍なんて遊びませんよ」


「荒っぽいんだろ?」


「……お母さん、あれ、阿国歌舞伎の囃子が聞こえてくるわ。鐘の音も、笛の音も」


「まぁ、この娘ったら、もう心は芝居に飛んでいるんだから」


「だって……」


「それより、清十郎様のお笠を持ってあげなさい」


「ははは、若先生、お揃いでお似合いですよ」


「嫌だわ……藤次さんは?」


 朱実が振り向くと、お甲は袂の中で、自分の手を藤次に握られていた。


 その手を慌てて振り解く。


 彼らの足音と声は、まるで何事もなかったかのように、すぐ近くを通り過ぎていく。


 その音は、またしても部屋にこもっていた又八の耳に届いた。


 窓の一重隔てた向こうの往来で、楽しげな会話が流れていくのを、又八は恐ろしいほどの嫉妬にまみれた目でじっと見送っていた。


 顔が青ざめ、押し隠しきれない嫉妬の色が浮かび上がっている。


「……何だ……」


 又八は暗い部屋の中にどっかりと座り込み、自分に言い聞かせるように呟いた。


「……何のざまだ……意気地なしが……このざまは……このベソは……!」


 それは、自分自身を罵倒しているのだった。自分への怒りと憤りをぶつけるように、拳を固く握りしめた。


「――出ていけ、あの女がそう言うのなら、堂々と出ていけばいいじゃないか。なぜこんな家に、こんな思いをしてまでいる必要がある? まだ俺だって二十二だ。若いじゃないか……」


 家が急に静まり返ると、又八は一人、声を出して自分に語りかけた。


「その通りだ……だが、なぜだ?」


 自分でも理由がわからなかった。頭の中が混乱して、ただ苛立ちが募るばかりだ。


 この一、二年の生活で、又八は自分の頭が鈍くなっていることを感じていた。


「あんな年増女に……!」


 自分の女が他の男に媚びを売っている。


 それを思うだけで怒りと屈辱に苛まれる。


 だが、いざ外に出ようとしても、どこかで怠惰な自分がそれを引き止める。


 五年も続いたこの生活は、彼の体にも心にも深く染み込んでいた。


「畜生……」


 又八は、顔を上げ、決意を固めた。


「今日こそ……!」


 彼は憤然と立ち上がった。



「出て行くぞ、おれは」


 そう呟いたところで、家は留守。誰も彼を止める者などいない。


 又八は、大きな刀を腰に差し、「俺だって男だ」と、自分に言い聞かせながら、家の台所口から草履を突っかけ、外へ出た。


 しかし、一歩外へ踏み出して、彼は途端に足が止まった。


「さて……?」


 春先の東風が白々と吹き抜ける中、又八は空を見つめていた。


 ――どこへ行く?


 いざ外に出たものの、行き先が思い浮かばない。


 故郷の宮本村と、関ヶ原の戦場以外は、世間を知らぬ彼には、世間というものが途方もなく広く、頼りなく感じられたのだ。


「そうだ……」


 又八は、再び家の台所口をくぐり戻った。


「――金を持っていかなきゃな」


 そう思い立ったのである。


 お甲の部屋に入って、手筥や引き出し、鏡台などを片っ端から漁ったが、金は見つからなかった。


 お甲は、普段からこうした悪事を予期していたのだろう、金は巧妙に隠されていた。


 気を挫かれた又八は、取り散らかした衣装の山の中にがっくりと座り込んだ。


 紅絹や西陣の織物、桃山染めの衣裳に、お甲の匂いが漂う。


 それを嗅ぎながら、今頃お甲と藤次が一緒に阿国踊りを見に行っているのかと思うと、又八の心は嫉妬と悔しさでいっぱいになった。


「妖婦め……」


 又八の脳裏に浮かぶのは、ただただ悔いの苦い思い出だった。


 今さらだが、痛烈に思い返されるのは、故郷に置き去りにした許婚――お通のことだった。


 彼はお通を忘れることができなかった。


 むしろ、日に日にその清純な姿が尊く感じられ、今では彼女に対して心から詫びたいという気持ちさえ湧いていた。


 だが、お通とはもう縁が切れている。


 自分から顔を出して謝ることもできない。


「それも、あいつのせいだ……」


 又八は、自分の愚かな行動を悔やんだ。


 あの女に、お通という許婚がいることを話してしまったことが間違いだったのだ。


 お甲は、最初こそ婀娜な笑顔で無関心に聞いていたが、心の中では嫉妬に燃えていた。


 そして、その嫉妬心からか、ある時、痴話喧嘩をきっかけに、縁切り状を書かせ、しかも自分の露骨な女文字まで添えて、お通のもとへ送ってしまったのだ。


「ああ、お通……どうしてるだろうなあ……」


 又八は狂おしく呟いた。


「今頃は……?」


 お通の恨めしそうな目が瞼に浮かんだ。


 彼女が住む故郷の宮本村には、春が訪れている頃だろう。川や山々が懐かしく思い出される。


「二度と、もうあの土は踏めないのだ……それも全部、こいつのせいだ」


 又八は、お甲の衣装箱を引っ張り出し、手当たり次第に衣服を引き裂き、家中に投げ散らした。


 そんな時、表の暖簾口で訪問者が声をかけていた。


「ごめん。――四条の吉岡家の使いでございますが、若先生と藤次殿が参っておりませぬか?」


「知らん!」


「いや、参っているはずです。隠れ遊びの先へ伺うのは心苦しいのですが、道場の一大事、吉岡家の名にも関わることが――」


「うるさい!」


「ですが、取次でも構いません。……但馬の士・宮本武蔵という武者修行の者が道場に立ち寄り、門弟たちに立ち向かえる者が一人もおらず、若先生のお帰りを待とうと頑として動きません。すぐにお戻りをお願いしたいのです!」


「な、なにッ? 宮本だと?」


 その言葉に、又八は驚愕し、立ちすくんだ。

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