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(……俺、おかしくなっちまったのかな?)


 伊織は時々、そんな不安に襲われた。水たまりに顔を映し、自分の姿を見て、


(顔は分かる)


 と、自分に言い聞かせて、少し心を落ち着けた。


 昨日から歩き続けているが、どこをどう歩いているのか、全く見当がつかない。あの断層の底から這い上がってから、ずっとこんな感じだ。


「おい、来いよ!」


 突然、空に向かって叫んでみたり、


「畜生……」


 と地面を睨みつけ、気力が尽きると肘で涙を拭ったりしていた。


「……おじさーん」


 権之助を呼んでみるが、やはりもうこの世にはいないのだと思う。はかられて殺されてしまったのだと信じ込んでしまっていた。あのあたりに散らばっていた権之助の遺品を見てから、そう思い込んでいたのだ。


「……おじさーん。おじさーん!」


 多感な少年の心は、無駄だと分かっていながらも、呼ばずにはいられなかった。昨日から歩き続けているのに、足の疲れも感じない。手や耳の辺りにも血が付いているし、着物も裂けているが、何も気にしていなかった。


「ここはどこなんだろう……?」


 時々、我に返るのは、胃の底から空腹が訴えてくる時だけだった。何かを食べた気がするが、何を食べたかはよく覚えていない。


 おとといの夜に泊まった金剛寺や、その前にいた柳生の庄を思い出せば、少しは目的が分かるはずだが、断層での出来事以降、伊織の記憶はすっかり混乱していた。


(生きているんだ……)


 ぼんやりとそう感じ、急にひとりぼっちになったことを実感し、生きる道を探りながらさまよっていた。


 ふと目の前をバタバタと通り過ぎる影があった。虹のように見えたが、それはきじだった。山藤やまふじの香りが漂ってくる。伊織はその場にぺたんと座り込んで、


(ここはどこなんだろう?)


 と再び考えた。


 そして、大日様がほほえんでいるのを感じた。どこにでもいると信じている大日様が、山の芝生の上に座る自分を見守っているように思えて、伊織は手を合わせ、


(私の行くべき道を教えてください……)


 と、祈りを捧げた。


 目を閉じ、しばらくして顔を上げると、山と山の間から、遠くに海が見えた。ぼんやりと青いもやのように霞んでいる。


「……坊ちゃん」


 突然、背後に誰かの声がした。振り返ると、軽い旅装たびよそおいをした母娘が立っていた。男の供もおらず、近隣に住む良家の者が神社や寺に詣でに来たのだろうか。春の気ままな旅に出たような風情だった。


「何?」


 伊織は振り向き、その女性と娘をじっと見つめたが、まだどこかうつろな目をしていた。


 娘は母にささやくように、


「どうしたのでしょう?」


 と言うと、母は首をかしげながら伊織のそばへ近寄り、彼の手や顔に付いた血に眉をひそめて、


「痛くないのかい?」


 と尋ねた。


 伊織が首を横に振ると、母親は娘を振り返って、


「分かっているみたいね」


 と小さくつぶやいた。



「どっちから来たの?」


「生まれはどこ?」


「名前は?」


「どうしてこんな所で拝んでいるの?」


 ――そんなふうに御寮人ごりょうにんと娘に問いかけられて、伊織はようやく自分を取り戻し、少し平常に戻ったような顔で答えた。


「はい。紀見の峠で連れの者が殺されました。そして、俺は山の割れ目から這い上がって、昨日からどこへ行こうか迷っていました。でも、大日様だいにちさまに祈っていたら向こうに海が見えて……」


 伊織の話を聞いて、最初は少し不気味に思っていた娘の方も、だんだん同情の気持ちを抱いたらしく、


「まあ、可哀そうな子! お母さん、さかいまで連れて行ってあげましょうよ。ちょうど年頃だし、お店で使ってやってもいいじゃありませんか」


「いいけれど、この子が来るかしらね」


「来るよ、きっと。ねえ?」


 伊織が「うん」とうなずくと、


「じゃあ来なさい。その代わり、この荷物を持ってくれる?」


「……うん」


 まだどこか不安げな様子で、連れになって歩いている間、伊織は何を聞かれてもただ「うん」としか答えなかった。


 だが、それも長くは続かない。山を降り、村の道が尽きると、岸和田きしわだの町にたどり着いた。さっき伊織が山から見た海は、和泉いずみの浦だったのだ。町中の人の多さに伊織も次第に慣れ、ようやく口を開いた。


「おばさん、おばさんの家ってどこ?」


「堺よ」


「堺って、この辺?」


「いいえ、大坂の近く」


「大坂はどの辺?」


「岸和田から船に乗って帰るのよ」


「えっ、船に?」


 この言葉に、伊織は思わず喜びで顔を輝かせた。伊織にとって、これは予想外の楽しみだったらしく、はしゃぎながら語り出した。


「江戸から大和まで来る間、川の渡し舟には何度も乗ったけど、海の船にはまだ乗ったことがないんだ。おらの生まれた下総しもうさには海があるけど、船には乗ったことがない。海の船に乗れるなんて、ほんとにうれしいなあ!」


 そんな様子を見て娘は、伊織の名前を覚え、


「伊織、ね」


 と呼びかけた後、微笑んで続けた。


「おばさん、おばさんって呼ぶのはおかしいから、お母さんのことは御寮人ごりょうにんさまと呼びなさい。私のことは、お嬢さんと呼ぶのよ。今から癖をつけておかないとね」


「うん」


 と伊織がうなずくと、


「うん、もおかしいわよ。“はい”って言いなさい、これからは」


「はい」


「そうそう、お前はなかなか良い子だね。お店で辛抱してよく働けば、手代てだいに取り立ててあげるからね」


「御寮人さまの家は、いったい何屋なの?」


「堺の廻船問屋かいせんどんやだよ」


「廻船問屋って?」


「お前には分からないかもしれないけど、船をたくさん持っていて、中国、四国、九州のお大名様の御用を承ったり、荷物を積んで港々に寄るような――商人あきんどなんだよ」


「なあんだ、商人か」


 伊織は急に御寮人さまやお嬢さんを見下すような調子でつぶやいた。



「なーんだ、商人かって?――なんて生意気な口を!」

 娘は母と顔を見合わせ、拾ってやったつもりの小さな伊織を、少し小憎たらしげに見返した。


「ホホホ、商人っていっても、お餅を売る商人やら、呉服ごふく商あたりと一緒に考えてるんでしょうよ」

 御寮人ごりょうにんは軽く流しつつ、むしろ愛嬌と受け取ったが、娘は堺商人としての誇りからか、言わずにはいられない様子だった。


 娘の自慢話によれば、廻船問屋の店はさかい唐人町とうじんまちの海岸にあり、三つの倉庫と数十艘の船を所有しているという。さらに、堺だけでなく、長門ながとの赤間ヶあかまがせき讃岐さぬき丸亀まるがめ、山陽の飾磨しかまの港にも出店を構えているらしい。特に小倉の細川家から藩の御用を承っており、「お船手印ふなてじるし」も許され、苗字みょうじと帯刀までいただいている。その名も小林太郎左衛門たろうざえもん――中国、九州でも知らない者はいないほどだ、とのことだ。


「商人って言ってもね、ピンからキリまであるのよ。廻船問屋っていうのは、いざ天下の大戦が始まれば、藩のお手船だけじゃ足りないからね。だから、普段はただの問屋でも、いざ戦となれば、お役目を担うのよ」

 小林太郎左衛門の娘、おつるは悔しそうにそう言って力説した。


 御寮人は、お鶴の母であり、太郎左衛門の妻でもあるおせいという名の女性だと伊織も知ることとなり、少し言い過ぎたかと思ったのか、


「お嬢さん、怒ったの?」と機嫌をうかがった。


 お鶴もお勢も、笑いながら、


「怒ってないわよ。でもね、あまりにも生意気だから。おまえみたいな“井の中のかわず”が偉そうにするからよ」


「すみません」


「お店には手代てだいや若い者、船が着くと水夫かこ軽子かるこもたくさん出入りするからね。あまり生意気だと叱られるわよ」


「はい」


「ホホホ、でも生意気な口をきくかと思ったら、素直なところもあるのね、おまえは」

 お勢はそう言って、伊織を楽しそうに見ていた。


 町を曲がると、潮の香りが直接鼻に届いてきた。岸和田きしわだの船着場に着いたのだ。そこにはこの地方の産物を積んだ五百石の船が停泊していた。


 お鶴はそれを指さしながら、


「あれに乗って帰るのよ」


 と伊織に教え、


「あの船だって、うちの持ち船だからね」と誇らしげに付け加えた。


 その時、磯茶屋から彼女たちの姿を見つけた三、四人が駆け寄ってきた。船頭や小林屋の手代らしき人々だ。


「お帰りなさいませ」


「お待ちしておりました」


 と、一斉に出迎え、続けて、


「ちょうど積荷が多くて、お席はあまり広く取れませんが、あちらに支度も整えてありますので、どうぞ」


 先に立って案内していくと、船のとも寄りに幕が張られ、緋毛氈ひもうせんが敷かれていた。桃山蒔絵まきえの銚子や料理の重箱までそろっていて、まるで水の上とは思えない豪華な小座敷が設けられていた。



 船は滞りなくその晩、堺の港に到着した。小林家の御寮人ごりょうにんとお鶴様が船を降り、川尻にある大きな間口の軒先に向かうと、


「お帰りなさいませ」


「ご無事で何より」


「今日はまたお日和もよくて!」


 老番頭から若い者たちまで勢揃いして出迎え、彼女たちは奥へと通された。


「そうそう、お帳場どの」

 と御寮人が、店と奥を仕切る暖簾の手前で、老番頭の佐兵衛さへいを呼び止めた。


「あそこに立っている子なんだけれどね」

 御寮人が指した先には、旅の汚れがそのままの伊織がいた。


「へいへい、なんとも汚らしい小僧ですな」

 佐兵衛は苦笑しつつ返事をする。


「岸和田へ向かう途中で拾った子なの。けっこう気転が利きそうだから、お店で使ってみてちょうだい」


「道理で、見慣れない小僧がついてきたと思いましたが、道で拾われたんですか」


「汚れも落とさないといけないし、誰かの着物を貸してやって、井戸端で一度水をかぶせて、それから寝かせてちょうだい」


 店と奥を隔てる暖簾の向こう側は、まるで武家の奥向おくむき表向おもてむきのように、厳しく区別されている。たとえ老番頭でも許可なく奥には入れない。そのため、拾われてきた伊織は、店の片隅にその晩から置かれることになり、御寮人とお鶴様の顔をそれきり幾日も見ずに過ごした。


「なんて窮屈な家なんだ」


 伊織は助けられた恩よりも、商家の厳格なしきたりにうんざりしていた。


 *丁稚でっち*として呼ばれ、あれをやれ、これをやれと、若い者から老番頭まで命令される。まるで犬ころのように使われている感じがするのだ。


 さらに、大人たちは“奥の人”や“お客”と聞けばひたいがつかえそうなほど頭を下げるばかり。朝も夜も「金、金、金」と金のことばかりを気にしていて、仕事、仕事と追われるばかり。そんな姿がどうしても気に入らなかった。


「もう嫌だ、逃げ出そうかな」


 何度もそう考える伊織。青空が恋しく、土の上で寝たあの日々の草の匂いが懐かしかった。



「もう嫌だ。逃げ出そうか」


 そう考える日は、伊織の胸に、武蔵が語ってくれた「心を磨く道」の話や、師である武蔵その人、そして別れた権之助のことが鮮やかに蘇っていた。そして、まだ会えぬままの姉・お通の面影さえも――。


 だけど、そう思い詰める夜がある一方で、このさかいの港の絢爛たる文化や、異国情緒あふれる街並み、船や人々の活気に目を奪われ、思わず驚きの息を飲む自分がいた。


「こんな世界もあるのか」


 そして、いつの間にかこの華やかな世界に憧れや夢を抱きつつ、日々を過ごすようになっていた。


「おいっ、伊お!」


 帳場ちょうばで老番頭の佐兵衛さへいが呼んでいたが、伊織は広い土間を掃除しながら無視していた。


「伊お!」


 返事をしない伊織に腹を立てた佐兵衛が、帳場から出てきて、店先の黒光りするかまちまで歩み寄り、大声で怒鳴った。


「新参の丁稚が、呼んでるのに返事もせんとは、なっとらん!」


 振り向いた伊織は、困惑しながらも答えた。


「は。おら、ですか?」


「『おら』なんて言うんじゃない!『わたくし』と言え!」


「はあ」


「はあ、じゃない!返事は『へい』だ。腰を低くして言うんだ」


「へーい」


「お前、耳がついておらんのか!」


「耳はあります」


「だったら、なんで返事しないんだ!」


「だって、『伊お』って呼ぶから、自分のことだと思わなかったんです。自分は――わたくしは『伊織』ですから」


「伊織なんて、丁稚でっちにはもったいない。これから『伊お』でいい」


「そうですか」


「この間も言っただろう。何度も言うな、この変な刀を腰に差すのを!」


「へい」


「商人の小僧が刀を持つなんて、バカバカしいことをするな!」


「……」


「今すぐ渡せ」


「……」


「何をむくれている」


「これは、父親の形見ですから、手放せません」


「こいつめ、渡せと言ってるんだ」


「商人になんか、なれなくてもいいですから」


「商人なんか、だと?バカ者め!商人がいなかったら、世の中は成り立たん!信長公だろうが、太閤様だろうが、商人がいなければ聚楽じゅらくや桃山も建てられやしないんだ。堺の商人は南蛮なんばん呂宋ルソン、福州や厦門アモイと大きな腹で取引してるんだ!」


「わかってます」


「どうわかってるんだ!」


「……町を見れば、綾町あやまちや錦町には大きな織屋はたやが並び、高台には呂宋屋のお城みたいな豪邸がある。浜には納屋衆なやしゅうという金持ちの邸宅や倉庫がずらりと並んでいる。そう思えば、奥の御寮人様やお鶴様が自慢しているこの店なんて、取るに足らない気がします」


「この野郎!」


 佐兵衛は土間に跳び降りた。伊織はすかさず箒を投げ捨てて、逃げ出した。



「おい、若い者!その丁稚でっちを捕まえろ!逃がすなよ!」


 佐兵衛さへいは軒先から大声で命じた。すると、河岸で荷物の運びを手伝っていた店の者たちが「お、伊おだな」と言いながらすぐに伊織を取り押さえ、店の前に引きずり戻した。


「まったく手に負えないやつだ。悪態ばかりつきやがって、人をバカにしてる。今日はしっかり懲らしめてやらんといかん!」


 佐兵衛は、帳場にどっしり座り、すぐに命じた。


「それから、あいつが腰に差してる変な刀、取り上げとけ!」


 若い衆たちは、伊織の腰から刀を奪い取り、彼の手を後ろで縛り、店先に積み上げられた梱包の荷物に、飼い猿のように括り付けた。


「さあ、人に見られて恥を知れ!」


 彼らは笑いながら伊織をそのまま放置し、立ち去った。


 伊織にとって、恥をかくことは何よりも辛いことだった。武蔵や権之助からも「恥を知れ」と常に教えられてきたことでもある。


 ――こんなの、恥晒はじさらしだ。


 そう思うと、伊織は怒りと悔しさで熱くなり、声を張り上げた。


「解いてくれ!もう二度とこんなことしないから、頼む!」


 しかし誰も聞き入れてくれない。次第に腹が立ってきて、悪態をつき始めた。


「このバカ番頭!くそ番頭!こんな家なんか出ていってやるから、縄を解け!刀を返せ!」


 伊織が必死に叫ぶと、佐兵衛が再び現れ、容赦なく言い放った。


「やかましい!」


 そう言って、布を丸めて伊織の口に詰め込んだ。伊織は反撃のつもりで佐兵衛の指に噛みついたが、佐兵衛は怒りの表情で若い衆を呼びつけ、さらに指示を出した。


「口も縛っちまえ!」


 伊織は完全に声を奪われ、身動きできなくなってしまった。


 人通りは絶えず、通りがかりの人々が立ち止まっては好奇の目で彼を見ていた。堺の川尻、唐人町の河岸沿いは、便船に乗る旅人や商人たち、物売りの女性たちで大賑わいだ。


「……く、くっ……」


 猿ぐつわで口を塞がれたまま、伊織は小さく呻き、もがき、ついには涙を流し始めた。その側で、荷を運ぶ馬が堂々と尿を垂れ、その泡が伊織の方に流れてきた。


(お願いだから、もう刀も差さないし生意気も言わないから、縄だけでも解いてほしい…)


 心の中で何度も訴えたが、叫べないもどかしさに苛まれるばかりだった。


 ――するとその時。


 真夏のような炎天下で、日差しを遮る市女笠いちめがさをかぶり、細竹を杖にした女性が、麻の旅装を整え、軽やかに荷馬の向こうを通り過ぎた。


(…あれっ?)


 伊織の目が釘付けになり、思わずその女性の横顔を凝視した。


 どきん、と胸が大きく鳴り、体が熱くなった。心が乱れるその刹那、その女性は店の前を過ぎ去り、後ろ姿になっていく。


「ね、ねえ様だっ……!姉様のお通さんだっ!」


 伊織は首を目一杯伸ばし、必死に叫んだ。自分では確かに叫んだつもりだったが、その声は、誰の耳にも届かなかった。



 泣き疲れた伊織は、もう声を出すこともできず、ただ肩で嗚咽おえつを繰り返していた。口を布で塞がれているせいで、泣き声さえ漏れず、涙で猿ぐつわを濡らしながら、心の中で叫んでいた。


 ――今、通り過ぎたのは間違いなく姉さんのお通様だった!


 ――会えたのに、何も言えずに行かれてしまった……どこに向かって行ったのか、追いかけることもできないなんて。


 伊織の胸は焦がれるように張り裂け、無念の涙が頬を伝っていたが、周りの誰も彼を気にかける者はいなかった。


 店先は荷揚げの作業で混み合い、暑さと埃に包まれて、往来を行き交う人々は足早に通り過ぎるだけだった。


「おいおい、佐兵衛どん。こんな丁稚でっちを熊の見世物みたいに縛っておくなんて、見っともないじゃないか。小林家の外聞がいぶんにも関わるぞ」


 この声をかけたのは、堺の店にしばしば訪れる南蛮屋なんばんやの某。黒い痘痕あばたが顔に浮かび、怖そうな見た目だが、伊織にはいつも優しくしてくれる気のいい人物だった。


「そんな小さい者をこんな場所に縛っておくなんてひどい仕打ちだ。早く縄を解いてやりなさい」


 佐兵衛は「はい、はい」と従順な返事をしながらも、伊織がどうしようもない小僧だと訴えていたが、南蛮屋は耳を貸さず、「そんなに困るなら、この子はわしの家でもらっていく。御寮人やお鶴にもそう言ってみよう」と言い残し、奥へと入って行った。


 佐兵衛は御寮人やお鶴の耳に入るのを恐れ、急に態度を軟化させたが、伊織の泣きじゃくりは縄が解かれても小半日ほど止まらなかった。


 夕方になり、店が閉まるころ。南蛮屋が酔いを帯びて帰ろうとしていたが、土間の隅に座る伊織を見つけてにこやかに言った。


「御寮人もお鶴もお前を手放したくないらしい。お前のことが可愛くてたまらないんだ。だから辛抱しなさい。明日からはもうあんな目には遭わないで済むからな」


 そう言って、彼は伊織の頭を優しく撫でて帰って行った。


 そして、その言葉は嘘ではなかった。南蛮屋の助けのおかげだろう、翌日から伊織は店の近くの寺子屋へ通って勉強することが許されるようになった。


 さらに、寺子屋へ行く間だけは刀を差すことも許された。奥からの指示で、もう佐兵衛や若い衆からも厳しい扱いを受けることは少なくなった。


 だが……だが、それでも伊織の目は落ち着かなかった。店にいても、往来ばかり見つめ、何かに怯え、何かを待っているようだった。


 彼は、往来を通る女性が誰かの面影に似ていると感じるたび、はっと顔色を変え、時にはその後を追って飛び出すこともあった。


 そして、そうして過ごしているうちに、八月も過ぎ、九月の初めがやってきた。


 その日も寺子屋から戻った伊織が、ふと店先に立つと、何かを見て急に立ちすくんだ。


「おやっ?」


 伊織は驚き、目の前に現れた人影に釘付けになった。その時、彼の顔色はまるで血の気が引いたように変わっていた。

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