古今逍遥
老尼の息子、光悦は、袖の中から紙で包んだ菓子を取り出して、伊織に差し出した。
「残り物で失礼だが、よかったら食べてくれ」
伊織は掌に菓子を乗せたまま、どうしていいか分からず、権之助に視線を向けた。
「おじさん、これ、もらっていいの?」
権之助がうなずくと、伊織はようやく手に取り、権之助が代わりに礼を述べた。それに応じて、老尼は少し微笑みながらも、
「言葉の様子を見るに、どうやらご兄弟ではなさそうじゃの。お顔立ちも関東のお方に見えるが、この旅はどこまで続けておられるのか?」
権之助は少し頭を下げて答えた。
「果てのない道を、果てもなく進んでおります。仰る通り、私たちは肉親ではありませんが、剣の道においては年の違いを超えて兄弟のような間柄でございます」
「剣を学んでおられるのですか」
「はい」
「それは並大抵の修行ではないでしょうな。師匠はどなたで?」
「宮本武蔵と申します」
「……武蔵どの?」
老尼は、思い出に浸るような表情を見せ、ただ「ほう」と呟いた。息子の光悦もまた、懐かしい人の名に興味を引かれた様子で近づき、
「武蔵どのは今どこに? その後の様子はどうでしょう?」
と矢継ぎ早に尋ねてきた。権之助が知る限りの武蔵の消息を話すと、母子はそのたびにうなずき合い、顔を見合わせていた。
やがて権之助が、
「して、貴方様は……?」
と尋ねると、光悦は軽く頭を下げ、
「遅れましたな。私は京の本阿弥の辻に住む光悦という者。そしてこちらが母の妙秀でして、武蔵どのとは六、七年前に親しくさせていただいたことがありまして、たまにそのお話をすることもあります」
こうして、光悦はその頃の思い出話をいくつか語り始めた。
本阿弥光悦の名は、刀剣の世界では権之助も聞き知っていたし、武蔵からも草庵での話として耳にしていた。まさかこんな場所でこんな人に会うとは――権之助も驚きを隠せなかった。
その驚きの中には、妙秀尼のような京の名家の夫人や本阿弥光悦のような人物が、なぜこの山深い伽藍に来て、しかも寺の人ですら掃除を怠っているような山道の朽葉を、竹箒で一心に掃き清めているのだろうかという疑問も含まれていた。
――いつの間にか、朧な月が多宝塔のあたりに昇り、ふわりと辺りを照らしていた。旅先での出会いが心地よくも寂しく、権之助は名残惜しい気持ちになり、
「おふた方とも、今日一日、この山や崖道の掃除をされていたご様子ですが、どなたかと縁のある方のお墓でもあるのでしょうか。それともただの行楽のつれづれにでも?」
と尋ねてみた。
「なんの、なんの」
光悦は静かに首を横に振りながら言った。
「こんな厳かな聖地で、気まぐれで掃除をするなど、もったいないことです」
権之助が何も知らずに尋ねたことだと分かっていても、光悦は説明せずにはいられない様子で、彼が気まぐれで竹箒を持っていたわけではないと弁明し始めた。
「あなたは、この金剛寺には初めてのお詣りですか? それとも、この山の歴史について、まだ何もお聞きになっていないのですか?」
権之助は素直に頷き、無知を恥じることもなく答えた。それに対して光悦は、
「では、拙い知識ですが、私が山の僧に代わって少しお話いたしましょう」
と辺りを見回し、指を指してゆっくりと語り始めた。
「今夜は朧な月が美しく昇っています。この場に立てば、あの院のお墓、御影堂、観月亭、さらには求聞持堂、護摩堂、大師堂、食堂、丹生高野神社、宝塔、楼門までがほぼ一望に見渡せるのです」
光悦は、あたりの風景に身を浸しながら、しみじみと話し始めた。
「見てください、この松や石。一木一草に至るまで、この地には長年の歴史と、国の人々と共に歩んできた強い意志と優雅さが宿っています。それらの全てが、訪れる者に語りかけているのです」
光悦は、まるで草木の精がその歴史を語るかのように、言葉を紡いでいった。
「この御山は、元弘や建武の頃から正平年間にわたる長い乱世の間、護良親王が戦勝祈願を捧げた場所でもあり、また楠木正成らが守る忠誠の地ともなり、時には賊軍の標的となりました。足利氏が乱世を終えた後も、この山は何度も荒らされましたが、後村上天皇は男山からの御脱出の後、御輦を漂泊させながらも、ここ金剛寺を行宮とされ、山僧と共に苦しい日々を過ごされたのです」
光悦は少し声を抑え、遠くを見つめながら言葉を続けた。
「さらに、この山には光厳、光明、崇光という三人の上皇も御幸され、数え切れない武士や公家がこの地を守り続けました。しかし、その時代の記録には、兵糧に事欠く日々が続き、住居さえも損なわれる有様が描かれています」
彼は少し笑みを浮かべ、続けた。
「私が今日、ここで母と掃除をしていたのは、単なる気まぐれではなく、この地の歴史を尊び、少しでもその面影を守りたいという気持ちからなのです。私たち母子が今日この地でお掃除をしていたのは、この地の歴史に敬意を表してのことです――とはいえ、たとえそうであっても、ただの徒然と言われてしまえば、それまでのことかもしれませんね」
光悦は微笑を浮かべ、話を締めくくった。
権之助は思わず身を正し、厳粛な気持ちで光悦の話に耳を傾けていた。
いや、権之助以上に、伊織はさらに引き締まった顔で、光悦の語りに夢中になっていた。
「…だから、あの石や草木までが、代々の天皇を守るために戦った証人のようなものなんです。石は砦となり、木々は薪となり、草は兵士たちの衾となったのです」
光悦も、こうして真摯に耳を傾けてくれる相手がいることに心を打たれ、夜の静けさと共にその思いを話し続けた。
「おそらく、当時ここで草の根をかじりながら籠城していた親兵や、戦場で降魔の剣を振るった僧兵の一人が、その心を刻み込んだのでしょう。私たちが今日見つけた石に、こんな歌が彫られていたのです…
『百年の戦も、春は来ぬ 世の民よ、歌心あれ』
この歌に触れ、私は深く胸を打たれました。数十年にも及ぶ戦乱の中でも、心の余裕があるのです。強い信念と優雅さが、この地の人々を支えていたのでしょう」
光悦は感嘆をこめて語り終えた。権之助は胸の中で息を整え、心から礼を述べた。
「ここの地が、そんなに尊い戦の痕跡を残しているとは存じませんでした。知らぬとはいえ、先ほどの無礼をお許しください」
「いやいや、かえって私のほうが、こうして語る機会が得られてありがたい思いです」
光悦は手を振り、軽く微笑んだ。
「実をいえば、私もここでこうして誰かに心の内を話したいと思っていたのです」
しばし無言で夜道を歩き、光悦はふと付け加えた。
「ですが、明日の朝には立つつもりです。もし武蔵どのにお会いになられたら、どうぞもう一度京の本阿弥の辻に立ち寄ってくださるようお伝えいただけませんか?」
「承知いたしました。それでは、ごきげんよう」
「おやすみなさい…」
光悦と妙秀尼は坊舎の方へ戻り、権之助と伊織は山門の外へ向かった。
しかし、土橋に差しかかったその時、何か白い影がさっと権之助の後ろに現れ、伊織が「あっ」と声をあげる間もなく、土橋の外へ足を踏み外してしまった。
―ザンブッ!
伊織は勢いよく水しぶきを上げながら、川の中で跳ね起きた。流れは速いものの、水の深さは浅い。
(何が起こったんだ?)
突然のことに、自分がどうして落ちたのかもよく分からない。しかし土橋の上を見上げると、そこに自分を突き飛ばした存在が立っている。周りには何もない、ただの真空の中で、一対一の対峙の構図ができていた。
それは、あの白い服装――山伏だった。
「あっ、山伏…?」
伊織は心の中で、ついに来たか、と思った。何日も前から自分たちを尾行していた、あの怪しい山伏だ。
山伏が持っている杖。対して、権之助も手慣れた杖を構える。
不意に山伏が打ってかかったが、権之助は瞬時に身の位置を変え、山伏は土橋の向こう側に立ちふさがり、権之助は山門を背にして対峙した。
「何者だっ?」
権之助が一喝する。
「人違いだ、引き返せっ!」
鋭い声でたしなめるが、山伏は何も言わない。ただ鋭い目で睨みつけ、まるで相手を葬り去ろうとするかのような気迫を漂わせている。その足の指は、大地に根を張るように踏ん張り、じわじわと詰め寄ってくる。
「…仕方ない!」
権之助は怒りを堪えかねて、闘志をみなぎらせた。彼の手には、すでに力が満ちており、戦いへの備えは整っている。
ガツッ――
重い音が響くと同時に、山伏の杖は真っ二つに折れ、宙に舞った。
だが、山伏は残った半分の杖を素早く権之助の顔面に投げつけ、権之助が反射的に顔をそらした瞬間に、腰に差した短刀を抜き、飛びかかろうとした。
そのとき、山伏が「あっ!」と叫び、同時に伊織も渓流の中で「ちくしょう!」と叫んだ。山伏の足が一瞬止まり、土橋から往来側に五、六歩よろけて退く。
伊織が投げた小石が山伏の顔面に当たったのだ。悪ければ左目に直撃するところだったかもしれない。山伏は、予期しない方向からの攻撃に致命的な傷を負い、体勢が崩れた。そのまま寺の土塀と川に沿って、矢のように下町のほうへ逃げ去っていった。
川から岸へ跳び上がった伊織は、
「待て!」
と叫び、手にはまだ石を握っていたが、追いかけようとする伊織を、権之助が止めた。
「ざまあ見ろ!」
と、伊織はその石を人影の消えた朧の夜空へ向けて遠くへ投げ捨てた。
杜氏屋敷の藤六の家に戻ってから、しばらくして権之助と伊織は寝床に入った。
だが、二人ともなかなか眠れない。
外では、山の風がぐわうぐわうと屋根を囲んで吹きすさび、夜が更けるごとにその音が耳にしみてくる。
権之助は眠りと覚醒の境界で、光悦の言葉を思い返していた。建武や正平の乱れた世を想い、そして現在の乱世に思いを巡らせる。
(応仁の乱から、室町幕府の崩壊、信長の登場、そして秀吉の統一……時代は移り変わり、今は秀吉亡き後、関東と大坂が次の覇権を巡って、不安定な風雲を孕んでいる。だが、世の中は建武や正平の時代とどれほど違うのか?)
権之助は思い続ける。
(北条や足利が国家を乱した厳しい時代にも、楠木氏一族や各地の尊王の武士たちのように、真の武士が現れた。だが今の武士は? 武士道はどうなった?)
彼は疑問を抱く。今の世の人々は、信長、秀吉、家康の争奪劇を見ながら、真の主君を忘れかけているようだ。民は分散し、武士道も、町人道も、百姓道も、それぞれの道が覇権に巻き込まれ、本来の忠誠の心を見失っている。
やがて、彼は思う。
(社会は賑やかになり、生活も豊かになったかもしれないが、この国の根本は、建武や正平の頃から大して変わっていない。大楠公が抱いたであろう理想の武士道には、まだ遠い世だ)
夜具の中で横たえた身も熱くなるほどに、彼の心は燃えていた。外の風が、金剛寺の草木が、まるで語りかけてくるような気さえした。
一方、伊織もまた、眠れずに考えていた。
(さっきの山伏、何だったんだろう?)
あの白い影が瞼に焼き付き、忘れられない。明日の旅路が気がかりで、思わず小声で「怖いなあ」とつぶやき、布団の襟をぎゅっと引き寄せた。
そのせいか、夜中に見たかった大日様の微笑みも、姉の面影も現れず、朝早く目がぱちりと覚めてしまった。
藤六とおあんさんは、二人が早朝に出発することを知り、暗いうちから朝食や弁当の支度を整えてくれていた。
いよいよ家を出る際には、
「道中で食べなさい」
と、伊織に酒の粕を焼いたものを包んで渡してくれた。
「本当にお世話になりました。ご縁があればまたお会いしましょう」
と二人が礼を述べて歩き出すと、峰には虹のような朝雲が動き始め、天野川の流れからは湯気のような水蒸気が立ち上っていた。
その朝霧を抜けたとき、近くの家から身軽な旅商人が飛び出してきて、権之助と伊織の背後から、
「おや、早いご出立ですな!」
と、朝らしい元気な声で声をかけてきた。