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逃げ水の記

 この屋敷に預けられてから、すでに数日が過ぎていた。伊織いおりは、日々の退屈さに飽き始めていた。


「沢庵さんはどうしているのだろう?」


 そう尋ねる伊織の言葉には、実のところ、沢庵たくあんの帰りを待つ気持ちよりも、師である武蔵を案じる不安が滲んでいた。


 北条新蔵ほうじょうしんぞうは、そんな伊織の気持ちをいじらしく感じて、


「父上もまだお城から戻らぬようだから、しばらくは城内に泊まっているのだろう。そのうち帰ってくるだろうから、それまでうまやの馬でも相手に遊んでいるがよい」


「じゃあ、あの馬、借りてもいい?」


「いいとも」


 伊織は嬉々として厩に飛び込み、良い馬を選んで引き出した。実は昨日も一昨日も、この馬に黙って乗って出かけたのだが、今日は堂々と許可を得たので気分が良かった。


 馬にまたがると、伊織は風のように裏門から駆け出した。昨日も一昨日も、彼の行き先はいつも同じだった。


 屋敷町を抜け、畑道、丘、田野、そして森――晩秋の景色が次々と駒の後ろに流れていく。やがて、銀色に光る武蔵野むさしののススキの草原が目の前に広がった。


 伊織は馬を止めて、遠くの山々を見つめながら、師の姿を思った。


 秩父ちちぶの連峰が野の果てに横たわっている。今、ろうに囚われている師の身を思うと、伊織の頬は涙で濡れてきた。


 その涙を野の風が冷たく撫でていく。秋の深まりを示すように、草の陰には真っ赤な烏瓜からすうり草紅葉くさもみじが見え、やがて山の向こうはしもに覆われるのだろうと考えながら、


「そうだ! 会いに行こう!」


 と決心すると、伊織は馬の尻にむちを当てた。


 駒は、尾花おばなの波を跳び越え、瞬く間に半里はんりほども駆けた。


「いや、待てよ。もしかしたら、草庵そうあんに戻っているかもしれないぞ」


 ふと、そんな予感が胸に浮かび、伊織は草庵へ向かうことにした。そこでは屋根も壁も壊れた部分がすべて修理されていたが、中には誰もいなかった。


「先生を見なかったか!」


 刈り入れ中の人影に向かって声を張り上げてみたが、近くの百姓たちは皆、伊織を見ると悲しそうに首を振るだけだった。


「馬なら、一日で秩父まで行けるだろう」


 どうしても秩父まで行く決心を固めた伊織は、師に会えると信じて再び野を駆け出した。


 以前、城太郎に追い詰められたことがある野火止のびどめ立場たてばまで来たが、部落の入口には馬や荷物、長持や駕籠かごで溢れ、道を塞ぐように四、五十人の侍たちが昼食を取っている様子だった。


「通れないな」


 往来止めというわけではないが、通り抜けるにはくらから降りて馬を引かなければならない状況だったため、伊織は面倒に感じて引き返すことにした。ここは武蔵野の広い原であり、別の道を選ぶこともできたのだ。


 すると、飯を食べていた中間ちゅうげんたちが彼の駒を追いかけてきて、


「おい、栗坊主! 待て!」


 と呼び止めた。


 三、四人が続いて駆け寄ってくるのを見て、伊織は馬の首をめぐらし、


「なんだと?」


 と、睨み返した。


 小柄な体ながら、乗っている駒も鞍も堂々としたものだった。



「降りろ」


 中間ちゅうげんたちが鞍の両側に寄り、伊織を見上げた。何が起きているのか分からず、彼らの小憎たらしい顔が癪に障り、


「なんだよ。降りなくてもいいだろう。戻るところなんだから」


「なんでもいいから降りろ。つべこべ言うな」


「嫌だ!」


「嫌だと?」


 言い終わる前に、一人の中間が素早く伊織の足をすくい上げた。あぶみに足が届いていない伊織の体は、簡単に馬の反対側へ転げ落ちてしまった。


「御用のあるお方があちらで待っているんだ。泣きべそかかずに、早く来い!」


 襟首を掴まれ、立場たてばの方へ引きずられていくと、遠くから杖を突きながら近づいてくる老婆の姿が見えた。老婆は手を上げて中間たちを制しながら、


「ホホホホ。捕まったのかい」


 と、こころよげに笑った。


「あ……」


 伊織は、真正面で老婆と向き合った。そうだ、以前に北条家の屋敷にやって来て、柘榴ざくろをぶつけてやったあのばばではないか。だが、そのときとは違い、旅支度も改まっている。こんなに多くの侍たちと一緒に、一体どこへ行くのか――


 いや、そんなことを考える暇はない。伊織はただ、老婆が自分をどうするつもりなのか恐れていた。


ぼんや、おぬし、伊織とか言うのだろう? この婆にあんな酷いことをするなんて、大胆な子だね」


「…………」


「これ」


 老婆は杖の先で彼の肩を軽く突いた。伊織は戦うように身構えたが、部落には多くの侍がいる。この全員が婆の味方ならば、自分がかなうはずがないと考え、涙をためて耐えていた。


「武蔵もいい弟子を持ったものだ。おぬしもその一人かい? ホホホホホ」


「な、なんだと……」


「よいよい。武蔵のことは、この間、北条殿の息子にも話し尽くしたからな」


「お、おいらは、おまえなんかに用はないや! 帰るんだ、帰るんだ!」


「いいや、まだ用が済んでおらん――いったい今日は、誰の指図でわしらの後を追ってきたのだ?」


「誰が、おまえたちなんかの後をつけるものか!」


「口の悪い餓鬼がきだな。おぬしの師匠は、そんな行儀を教えたか?」


「よけいなお世話だ!」


「その口から泣き言を吐くんじゃないぞ。さあ来い!」


「ど、どこへだ!」


「どこでもいいさ」


「帰るんだ! おら、帰る!」


「誰が――」


 そう言うと、老婆は素早く杖を振り上げ、風を切るように伊織のすねを蹴りつけた。


 伊織は思わず、


「痛い!」


 と声を上げてその場に座り込んだ。


 老婆の合図で、中間たちは再び伊織の襟首をつかみ、部落の入口にある粉挽こなひき小屋の横へ引き連れていった。


 そこには、どこかの藩士らしき人物が待っていた。野袴のばかまを履き、立派な大小を差し、乗り換え用の馬を木に繋ぎ、食事を終えたのか、小者こものが汲んできた白湯さゆを木陰で飲んでいた。



 捕らえられて引き出された伊織の姿を見ると、その侍は不気味ににやりと笑った。伊織はぞっとして目を見張った。――それは、佐々木小次郎だったからだ。


 その小次郎に、老婆は得意げに言った。


「ご覧なさい、やはり伊織めでしたわ。武蔵めが何か企んで、わたしらの後を尾行させたに違いありません」


 老婆は顎を突き出して小次郎に告げた。


「……うむ」


 小次郎もその通りだと考えているらしく、頷いてみせた。そして周囲の中間たちをようやく退けた。


「逃げようとするなよ。逃がさぬように、小次郎殿、縛っておきなされ」


 老婆がそう言うと、小次郎は薄笑いを浮かべ、首を横に振った。その顔を見た瞬間、伊織は、逃げ出すことはおろか立ち上がることすらできないと諦めてしまった。


「小僧」


 小次郎は、普通の口調で話しかけた。


「――今、ばば殿がそう言ったが、ほんとうか? それとも違うのか?」


「ううん、ち、違う」


「どう違う?」


「おらはただ、馬に乗って野駆けに来ただけだ。後なんか尾行していない」


「そうか」


 小次郎は一応納得したように見せたが、


「武蔵も武士なら、そう卑怯なことはしないだろう。……だが、もし急にわしとばば殿が細川家の家臣として揃って旅立つと知れば、何かあったのかと武蔵が不審に思い、疑いを解くために後をつけさせるのも無理はない」


 と独り決めし、伊織の弁解を聞き流した。


 伊織もまた、そう言われて初めて、小次郎や老婆の立場に疑念を抱いた。二人の身に何か大きな変化があったに違いない。


 それもそのはず、小次郎の髪型や服装は以前とは全く違い、特徴的だった前髪も刈り込まれ、派手だった伊達羽織だてばおりは地味な蝙蝠羽織こうもりばおり野袴のばかまに変わっている。


 変わらないのは、愛刀である物干竿ものほしざおだけだ。太刀作りの刀は通常のこしらえに直され、横に手挟たばんでいた。


 老婆も旅支度、小次郎も旅装。さらにこの野火止のびどめの立場には、細川家の重臣である岩間角兵衛いわまかくべえをはじめ、十名ほどの藩士とその家来、荷駄にだを運ぶ者たちが昼食の休息を取っている。


 そんな道中の一団に小次郎が藩士として加わっている様子から察するに、彼は以前から望んでいた仕官がついに叶い、望みの千石とはいかないまでも、四百石か五百石で妥協し、岩間角兵衛の推挙もあり、細川家に召し抱えられたと考えるのが妥当だろう。


 さらに考えると、細川忠利ただとしも近く豊前ぶぜん小倉こくらに帰国するという噂があった。三斎公さんさいこうが老齢のため、忠利の帰国願いはかなり前から幕府に提出されており、その許可が下りたということは、幕府が細川家を二心なきものと見極めた信頼の証とされていた。


 岩間角兵衛や、新参の小次郎を含む一行は、その先発隊として、本国豊前の小倉へ向かう途中だったのである。



 同時に、老婆にも郷里に帰らなければならない事情が起こっていた。跡取りの又八が家を出たままで、家の大黒柱である彼女自身もここ数年は帰っておらず、頼りにしていた河原の権叔父ごんおじも旅先で命を落としていた。そのため、郷里にある本位田家には、さまざまな問題が積み重なっていたのだ。


 老婆は、今も武蔵やお通に対して復讐心を抱いていたが、今回は小次郎が豊前ぶぜん小倉こくらへ下るのをよい道連れとし、大坂で預けていた権叔父の遺骨を引き取り、郷里の問題を片付け、長らく怠っていた祖先の年忌や権叔父の追悼も済ませ、再び目的の旅へ出る決心を固めていた。


 ――だが、この老婆が相手である以上、武蔵を一時的にでも見逃して去るなどということは考えられなかった。


 小野家から小次郎に漏れた話が彼女の耳にも入り、武蔵が北条安房守や沢庵の推薦によって、柳生やぎゅう小野おのの二家と並び、将軍家の師範の一員となる見込みだということを知ったのだ。


 それを小次郎から聞かされたとき、老婆の顔は不快に歪んだ。もしそうなれば、将来、手出しが難しくなり、彼女の信念に反することになる。また、そうした人間の出世を覆すことこそ、世の見せしめだと信じていた。


 そこで彼女は、沢庵には会えなかったが、北条安房守の屋敷に立ったり、わざわざ柳生家に出向いたりして、極力、武蔵の取り立てが間違いだと訴えた。推薦者の二家だけでなく、知り合いのある限りの閣老たちの屋敷を回り、武蔵に対する中傷を撒き散らしたのだ。


 もちろん小次郎は、それを止めもしなければ煽動せんどうもしなかった。だが、老婆が一度こうした目的に執念を燃やすと、やり遂げずにはいられなかった。彼女は町奉行や評定所にも武蔵の生い立ちや過去の行いについて悪評を書き連ね、それを投書として放り込むほど徹底していた。この妨害活動は小次郎ですら気分が良くないほどだった。


(――小倉に行っても、いつか武蔵と対面する日は必ず来る。宿命的にもそうなる気がする。それまでは奴が出世の階段を踏み外し、どう落ちていくかを見届けるまでだ)


 小次郎はそう考え、今回の小倉下向に老婆を同行させるよう提案したのだった。老婆もまた、心の奥にまだ又八への未練があったが、


(あれも、いずれ目が覚めて後を追ってくるだろう)


 と考え、この武蔵野の秋も暮れる頃、一度すべての迷いから離れ、旅立つことにしたのだった。


 だが――


 こうした二人の身の変化や心中など、伊織には知るよしもなく、どれだけ考えても分かることではなかった。


 逃げるわけにもいかず、涙を見せては師の恥になると考え、伊織は恐ろしい思いをしながらも我慢を決め、小次郎の顔をじっと見つめていた。


 小次郎も意識的に伊織を睨みつけたが、伊織は視線をらさなかった。以前、草庵で独り留守していたとき、ムササビと睨み合ったときのように、かすかな鼻息を立てながら、最後まで小次郎の顔を正視していた。



 どんな目に遭わされるのかと怯えている伊織の戦慄は、子供心の不安に過ぎなかった。小次郎には、老婆のように子供と対等に向き合うつもりなどなく、ましてや彼には今や地位もあった。


「ばば殿」


 ふと小次郎が声をかける。


「なんじゃ、おいの」


矢立やたてをお持ちか」


「矢立ならあるが、墨壺すみつぼは乾いておる。なんぞ筆が必要かの」


「武蔵へ手紙を書こうと思って」


「武蔵に?」


「ああ。辻々に貼り紙をしても姿を見せぬし、住まいも分からぬ武蔵に――この伊織はちょうどいい使い手だろう。江戸を去るにあたって、一筆、彼の手に届けておきたい」


「何を書きなさる?」


「飾り立てる必要はない。わしが豊前ぶぜんに下ることもいずれ耳に入るだろうが、要は『腕を磨き、お前も豊前に下れ』というだけだ。生涯待っていると。自信を得た日に来い――それだけで通じよう」


「そんな悠長な……」


 老婆は手を振りながら言った。


「――そんな気長なことでは困る。作州の家に帰っても、すぐにまた旅に出るつもりだ。この数年のうちには必ず武蔵を討たねばならぬ」


「わしに任せておけ。おばばの望みも、わしが武蔵と一戦交えるついでに果たして進ぜる。それで良いだろう」


「じゃが、なんせ、もう歳じゃ。生きているうちに間に合わなければ……」


「養生なされ。長生きして、わしがこの剣で武蔵に報いを与える日を見届けるのだ」


 小次郎は受け取った矢立を手に、近くの水辺で指を浸し、指先の水滴を墨壺に垂らして墨を作った。そして立ったまま懐紙にさらさらと筆を走らせる。その文字は流れるようで、文にも才気があった。


「これに飯粒を」


 老婆は弁当の残りから木の葉に載せて差し出し、小次郎はそれを使って封をし、表に宛名を書き、裏にこう書いた。


 細川家家中 佐々木巌流


「小僧」


「…………」


「恐がらなくていい。この手紙を持って帰れ。そして中には大事なことが書かれているから、必ず師匠の武蔵に渡すのだ」


「……?」


 伊織は、受け取るべきか、きっぱり断るべきかを考えるような表情を浮かべたが、


「……うん」


 と頷き、小次郎の手から手紙を引き取った。そして屹然きつぜんと立ち上がり、


「この中に、何が書いてあるんだい、叔父さん」


「今、おばばに話した内容だ」


「見てもいいかい」


「封を切ってはならん」


「でも、もし先生に無礼なことが書いてあるなら、おいらは持って行かないぞ」


「安心しろ。無礼なことは書いていない。以前の約束を忘れておらぬこと、たとえ豊前に下ろうとも必ず再会の日を期していること――それだけだ」


「再会というのは、おじさんと先生が会うことかい」


「ああ。生死を賭けた場で、な」


 と頷く小次郎の頬には、ほんのりと冷ややかな血色が浮かんでいた。



「きっと届けるよ」


 伊織は手紙を懐中にしまい、すばやく、


「あばよ!」


 と言って、老婆と小次郎から六、七間ほど離れて跳び退き、叫んだ。


「ばかっ!」


「な、なんじゃと!」


 老婆は追いかけようとしたが、小次郎が手を抑えて引き止めた。小次郎は苦笑し、


「言わせておけ。子どものことだ……」


 伊織は、まだ言いたいことが胸に詰まっているようで、その場に立ち止まった。だが、悔しさに目が涙でかすんで、急に言葉が出なくなってしまった。


「なんだ、小僧。――ばかと言ったようだが、それだけか?」


「そ、それだけだい!」


「あはははは。おかしな奴だ。早く行け」


「大きなお世話だよ。見ていろ、必ずこの手紙は先生に渡してやるから!」


「おう、届けるのだ」


「後で後悔するだろうよ。おまえたちが歯ぎしりしても、先生が負けるもんか!」


「武蔵に似て、負けず口のきく小僧弟子だな。しかし、涙をためて師をかばうところは愛らしい。武蔵が死んだら、わしを頼って来い。庭掃除でもさせてやる」


 小次郎はからかうように言ったが、伊織は骨の髄まで恥辱を感じ、思わず足元の石を拾い上げ、投げつけようとした。その瞬間、


餓鬼がきっ!」


 小次郎の鋭い眼光が突き刺さるように伊織を捉えた。その視線は、まるで眼の玉がこちらに飛びかかってくるかのような圧力で、以前のムササビとの睨み合いが霞むほどの威圧感だった。


「…………」


 伊織はたまらず石を横に捨て、無性にその場を逃げ出した。どれだけ走っても、恐怖は追いかけてくるように振り払えなかった。


「…………」


 ようやく武蔵野の真ん中に座り込み、息を切らせて休んだ。二刻もそうしていた。


 その間に、伊織はぼんやりと、自分の師である武蔵の境遇について初めて考えた。師には多くの敵がいることを子供ながらに感じ取ったのだ。


(おいらも強くならなきゃ)


 いつまでも武蔵の無事を願い、長く師を支えるためには、自分も一緒に強くなり、師を護る力を早く持たなければならないと思った。


「……おいらなんか、強くなれるだろうか」


 正直に自分を考えてみると、さっきの小次郎の眼光が思い出され、再び身震いするほど恐ろしかった。


 ひょっとしたら、自分の先生であっても、あの小次郎には敵わないのかもしれない――そんな不安さえ抱き始めた。だからこそ、もっと自分の先生も修行を積まなければならない――と、彼らしい心配を胸に抱えた。


「…………」


 草むらの中で膝を抱えているうちに、野火止のびどめの宿も、秩父ちちぶの連峰も、白い夕霧に包まれていく。


 そうだ。新蔵様は心配するかもしれないが、やはり秩父まで行こう。牢にいる先生にこの手紙を届けるんだ。陽が暮れても、あの正丸峠しょうまるとうげを越えさえすれば――。


 伊織は立ち上がり、野を見回した。すると、にわかに捨ててきた馬のことを思い出した。


「どこへ行ったろ? おいらの馬は?」



 北条家のうまやから引き出してきた駒だった。螺鈿らでんの鞍がついていて、もし野盗が見つけたら見逃しはしない逸品だ。――伊織は駒を探し回り、最後には口笛を吹きながら草が枯れた野末を見渡していた。


 うっすらとした霧のようなものが草の間を低く漂っていた。駒の跫音あしおとが聞こえたような気がして駆け寄ったが、駒の影もなければ、水の流れもなかった。


「おや? あっちに何かある」


 黒いものが動いているのを見つけて駆けていくと、それは餌を漁っていた野猪やじしだった。野猪は伊織のすぐ横を駆け抜け、はぎの茂みの中へ旋風つむじのように逃げ去った。その通り道には、まるで幻術師が杖で線を引いたように、ぼんやりとした白い夜霧が地を這っていた。


「……?」


 伊織が霧だと思って眺めていると、それが次第に水音を立て始め、やがて小川のせせらぎの上に月の影が鮮やかに映り込んだ。


「…………」


 伊織は恐ろしくなってきた。彼は幼い頃から野の神秘に触れてきた。小さなテントウムシにすら神の意志が宿っていると信じていたし、動く枯葉や呼ぶ水、吹く風、どれも無心なものだと思えない。こうして有情の天地に触れると、彼の幼い心も秋の草や虫、水とともに寂しい震えを感じさせた。


 突然、伊織は大きくしゃくり上げ、泣き始めた。


 馬が見つからないから泣いたわけではないし、父も母もいない身を悲しんでいるわけでもなかった。ただ、肘を曲げて顔を押し当て、肩を震わせながら歩き歩き泣いていった。


 こういう時、少年の涙には、自分自身にも甘さがあった。


 もし星や野の精が彼に向かって、「なぜ泣くのか?」と尋ねたなら、彼は泣きやみもせず答えたに違いない。


 ――分からないよ。分かってたら泣かないよ。


 さらに優しく問い詰められたら、こう言うだろう。


 ――広い野に出ると、ふと泣きたくなるんだ。法典ヶ原の一軒家がそこにあるような気がしてならないんだ。


 独り泣く癖のある少年には、独り泣く魂の楽しみもあった。泣き続けていると、天地が彼を慰めてくれているように感じられ、涙が乾くと心が晴れ渡り、雲の中から抜け出たような清々しい気持ちになってくるのだった。


「伊織。伊織じゃないか」


「おお、伊織だ」


 突然、後ろからそう呼びかける声が聞こえた。伊織は泣き腫らした目のまま振り向いた。そこには夜空を背景に濃く浮かび上がる二人の人影が見えた。ひとりは馬に乗っていたので、もう一人よりずっと高く見えた。



「――あ、先生!」


 伊織は馬上の人の足元まで転がり込むように駆け寄り、もう一度、


「先生っ、先生……先生!」


 と、あぶみにしがみつきながら叫んだ。そしてふと夢ではないかと疑うように、武蔵の顔を見上げ、また、馬のわきで杖をついて立っている夢想権之助の姿も見渡した。


「どうした?」


 武蔵が馬上から見下ろして言った。その顔は月光に照らされ、やつれて見えたが、声は確かに優しい師の声で、伊織はそれに間違いないと感じた。


「――こんな所を、どうして一人で歩いていたのだ?」


 次に権之助が問いかけ、彼の手が伊織の頭の上に置かれると、そのまま胸に引き寄せられた。


 もし先に泣いていなければ、伊織はここで泣き出したかもしれないが、彼の頬は月光で乾いていた。


「先生がいる秩父へ行こうと思って……」


 言いかけて、ふと伊織は武蔵の乗っている馬の鞍や毛並みを見つめた。


「おや、この馬……おいらが乗ってきた馬だ!」


 権之助は笑って、


「お前の馬だったか」


「ああ」


「誰の馬か知らなかったが、入間川いるまがわの近くでうろついていたので、武蔵様に天からの贈り物としてお勧めしたのだ」


「なるほど、野の神さまが先生を迎えるためにわざとそっちへ逃がしたんだね!」


「だが、これはお前の馬というには立派すぎるぞ。この鞍は千石以上の侍のものだが」


「北条様のうまやの馬だから」


 武蔵は馬を降りて、


「伊織、ではそちは今日まで安房あわ殿の屋敷にお世話になっていたのか?」


「はい。沢庵さまに連れられて……沢庵さまがそうしろと言ったんです」


「草庵はどうなっている?」


「村の人たちがすっかり直してくれました」


「では、これから戻っても、雨露あめつゆだけはしのげるな」


「……先生」


「うむ、なんじゃな」


せた……どうしてそんなに瘦せたんですか?」


牢舎ろうやの中で坐禅をしていたからだ」


「その牢舎を、どうして出てこられたんですか?」


「あとで権之助からゆっくり聞くがよい。ひと言で言えば、天の加護があったか、昨日急に無罪を言い渡され、秩父の獄舎ごくやから放たれたのじゃ」


 権之助がすぐに補足した。


「伊織、もう心配はいらん。昨日、川越の酒井家から急使が来て、平謝りし、無実の疑いが晴れたわけだ」


「じゃあきっと、沢庵さまが将軍様に頼んだのかもしれません! 沢庵さまは城に上がったきり、まだ北条様の屋敷に戻られていないんです」


 伊織は急に話が弾んだ。そして、城太郎に出会ったこと、その城太郎が実の父である薦僧こもそうと姿を消していったこと、さらに北条家の玄関先にお杉ばばが何度も訪れて悪態をついたことなどを――歩きながら次々と話していた。


 そのおばばで思い出したように、


「あ、それからね、先生、まだ大変なことがあるんです」


 と懐から佐々木小次郎の手紙を取り出した。



「なに、小次郎からの書状か……」


 武蔵は、あだとして呼び合う仲とはいえ、切れた関係を懐かしく思い出していた。特に、小次郎とはお互い砥石のように切磋琢磨し合う間柄だ。武蔵はむしろ、心待ちしていた知らせでも受け取ったような顔で、


「どこで会ったのだ?」


 と、その宛名を見ながら伊織に尋ねた。


野火止のびどめの宿で」と伊織は答えた。


「――あの恐いおばばも一緒にいましたよ」


「おばばとは、本位田家のあの年寄りか」


豊前ぶぜんに行くんだって」


「ほう……?」


「細川家の侍たちと一緒でね……詳しいことは手紙に書いてあるでしょう。――先生も油断しちゃだめですよ。しっかりしてください!」


 武蔵は書状を懐にしまい、黙って頷いた。しかし伊織はそれに安堵することなく、


「小次郎って人も、強いんでしょ? 先生に何か恨みでもあるんですか?」


 と、次から次へと疑問をぶつけ、今日の出来事を一気に話し始めた。


 やがて何十日ぶりかで草庵にたどり着くと、まず欲しいのは火と食べ物だった。夜はすでに更けていたが、権之助が薪や水を集める間に、伊織は村の百姓家へ走って行った。


 火が焚かれ、皆で炉を囲む。


 あかあかと燃える炉を囲んで、久しぶりにお互いの無事を確認し合うこのひと時は、波乱の中でしか味わえない人生の喜びであった。


「……あら?」


 伊織は袖口から覗く武蔵の腕や襟元を見て、まだ傷が割れているあざをいくつも見つけた。


「先生、どうしたんですか。身体じゅうに……そんなに傷が」


 と眉をひそめ、武蔵の身体の状態を心配すると、


「何でもない」


 と、武蔵は話題を変えようとし、


「馬にも、何かやったか?」


「ええ、飼料かいばをやりました」


「あの馬は、明日には北条殿の屋敷へ返さねばならんぞ」


「はい。夜が明けたら行ってきます」


 翌朝、伊織は早起きをした。新蔵が自分を心配しているだろうと考え、朝食前に一鞭入れて馬にまたがると、駒を駆け出した。ちょうど武蔵野の真東から、大きな日輪が草の海から昇りかけていた。


「ああ!」


 伊織は駒を止めて驚き、目を見張ったが、急に駒を返し、草庵の外から大声で叫んだ。


「先生、先生! 早く起きてごらんなさい。あの秩父の峰から見た時のような、大きなお陽さまが草の中から転がるように昇ってきますよ。権之助さんも起きてきて拝むといいよ!」


「おう」


 と、どこかで武蔵の声がした。武蔵はすでに起きて、小鳥の声の中を歩いていた。元気よく駆けて行く馬蹄ばていの音を聞きながら、武蔵が森の中から眩い草の海を見送っていると、伊織の影は一羽のからすが太陽の光の中へ飛び込むように、瞬く間に小さくなり、黒い点になり、やがて光の中に溶けて消えていった。

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