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兄弟弟子

 今日も澄み渡る秋の空が広がり、強い陽射しが皮膚の奥まで沁み込んでくるかのようだった。


 夜盗の類が、このような清々しい陽の下で大手を振って歩けることは滅多にないが、城太郎には暗い影などまったくなかった。彼はあたかも、これからの時代に自らの意志を大きく示そうとしている、理想に満ちた若者のように、武蔵野の昼下がりを堂々と歩いていた。


 ただ、時折り城太郎がふと振り返ることがあった。その視線の先には、妙な少年がいる。今朝、川越を出てからずっと、こっそりと後をつけてくるのだ。


「迷子なのかな?」


 そう思ったものの、その少年はどうも迷子になりそうな頼りなさはない。城太郎は少し立ち止まって待ってみたが、少年はどこかに隠れてしまい、距離を詰めてくる様子もない。


(こいつは油断ならないな)


 そう考えた城太郎は、わざと道を外れて尾花の茂みに身を潜め、少年の動きを観察してみることにした。すると、少年は不意に城太郎の姿を見失ったようで、慌ててキョロキョロと辺りを見渡している。


「……おやっ?」


 少年が狼狽した表情で城太郎を探しているのを見て、城太郎は、頬かむりをしたまま尾花の中からすっと立ち上がり、


「おい、小僧!」


 と、突然声をかけた。


 小僧小僧と呼ばれたのは、ほんの数年前までの城太郎自身だったが、今ではすっかり大人びて、他人をそう呼べるほどの背丈に成長していた。


「……あっ」


 少年は驚いて、無意識に逃げ出しかけたが、すぐに逃げきれないと悟ったようで、平気を装った顔でわざと前方に歩き出した。


「おいおい、どこまで行くんだ? おい、チビ、待たんか!」


「何か用か?」


「用があるのはそっちの方だろう? ごまかしても無駄だぜ。川越からずっと俺の後をつけてきただろ?」


「違うよ」


 少年は首を振り、


「おら、中野村の十二社じゅうにそうまで帰るだけだよ」


「いやいや、そんなはずない。お前、間違いなく俺をつけてきたろ。誰に頼まれたんだ? さあ、言ってみろ」


「知らないよ」


 少年が言い逃れしようとするのを、城太郎は襟元をつかんでぐいっと引き寄せ、


「正直に言え!」


「だって……何も知らないんだもん」


「こいつ……」城太郎は少し力を込めて襟を締め上げた。


「お前は、役人の手先か、誰かに頼まれたに違いない。密偵いぬの子分なんだろう?」


 すると少年は、少し息を整えながら、


「じゃあ……俺が密偵の子分に見えるなら……お前こそ盗人ぬすっとじゃないか?」


「なんだと?」


 ギョッとして城太郎が睨むと、少年はさっと手を振りほどき、身体を地面に伏せるように屈めたかと思うと、あっという間に反対方向へと駆け出した。


「――おい、こいつ!」


 城太郎もすぐに追いかけた。


 草原の先には、蜂の巣を連ねたような藁ぶき屋根がいくつか見えた。そこは野火止のびどめという集落だった。



 野火止のびどめの部落には、くわ鍛冶かじが住んでいるようで、どこかで金槌の音が「カーン、テーン」とのどかに響いていた。赤い秋草の根元には土竜もぐらの掘り返した土が乾き、軒に干してある洗濯物のしずくがぽとぽと落ちている。


「泥棒だ! 泥棒だ!」


 突然、道端で叫ぶ子どもの声が響いた。その声に干し柿の吊るされた軒下や暗い馬小屋の横から、わらわらと人が駆け出してきた。伊織いおりは彼らに向かって手を大きく振りながら、


「そっちから追いかけてくる頬かぶりの男! あいつは秩父ちちぶ権現ごんげん様の宝蔵を破った泥棒の一味なんだ! みんなで捕まえて!」


 と大声で叫んだ。


 村人たちは、突然の彼の叫びに最初は呆気にとられていたが、伊織が指差す方を見ると、確かに蘇芳染すおうぞめの手ぬぐいで頬かむりをした若い侍が、こちらに向かって勢いよく走ってくるのが見える。


 それでも百姓たちはただ立ち尽くし、何もせずに見ているだけの様子だった。伊織は再び、


「宝蔵破りだ! 宝蔵破り! 嘘じゃないぞ、あれは本当に秩父の大泥棒だ! はやく捕まえないと逃げてしまう!」


 と、必死で声を張り上げた。


 まるで勇気のない兵を指揮する将軍のように、声をからして叫び続けたが、村の穏やかな空気は全く変わらない。百姓たちはただ伊織の叫びに少しうろたえ、顔を見合わせて怖々(おどおど)しているだけだった。


 そのうちに、城太郎じょうたろうの姿はもうすぐ目の前に迫り、伊織はいかんともしがたいと感じて、栗鼠りすのように素早くどこかに隠れてしまったらしい。


 それを知ってか知らずか、城太郎は道の両脇に並ぶ村人たちをじろりと睨みながら、悠々と通り抜けていった。その様子に、村人たちは息を飲んで彼の姿を見送った。伊織が叫んだことで、最初はどんな凶暴な野武士かと思っていたようだが、現れたのはまだ十七、八の若者で、目鼻立ちも整った凛々しい姿。彼らは伊織の言葉をただの悪戯と感じ、むしろ彼に対して少しばかり憤りさえ覚えたのだった。


 一方の伊織は、あれだけ叫んでも誰一人として泥棒を捕まえようとしない大人たちに失望しつつも、自分の力ではどうにもならないことを悟っていた。そこで、急いで中野村の草庵そうあんに戻り、近隣の懇意な人々にも知らせ、役人に訴えて城太郎を捕まえさせようと決心した。


 野火止の村の裏から、しばらく畑と草むらを突っ切って急いでいると、見覚えのある杉林が遠くに見え、あと十町も進めば、あの暴風で壊れた草庵に戻れると心が弾んだ。


 ところが、道を急いでいた伊織の前に、横手を広げた者が現れた。横道から現れたのは、追いかけてきた城太郎だった。


 伊織は冷や水を浴びせられたように一瞬硬直したが、ここまで来たらもう逃げ場はないと腹をくくり、腰の小刀を素早く抜き放って、


「この野郎!」


 と、まるで野獣が吠えるように空気を切り裂きながら、城太郎を罵った。



 伊織いおりは小刀を抜いたものの、小柄こがらであることから城太郎じょうたろうには大して相手にされず、無手で飛びかかってきた。城太郎は伊織の襟元を掴もうとしたが、伊織はすばやく反応し、


「ちぃ!」


 と叫びながら、彼の手をすり抜けて横に跳んだ。その身のこなしに、城太郎は「この小僧が!」と忌々しそうに追い詰めるが、自分の右腕からたらたらと温かいものが垂れていることに気づいた。何気なく腕を見てみると、二の腕に二寸すんほどの傷ができていた。


「やったな……」


 城太郎は驚きの目で伊織を見据えた。伊織は武蔵むさしに教えられた通り、構えを整え、視線に力を込める。いつも厳しく言われている「眼力」が無意識に宿り、顔全体がまるで「眼」と化したような迫力が生まれていた。


「生かしてはおけない」


 そうつぶやきながら、城太郎は長めの刀を抜いた。彼もどこか油断していたのだが、伊織が初めて彼の腕を斬ったことで、自信をつけた様子だった。伊織は小さな刀を振りかぶり、勢いよく斬りかかる。


 彼の動きには、普段から武蔵に挑んでいるような勢いと技術が見える。それを受け止めた城太郎だったが、意外にも強い圧倒感を覚え、腕や心にも負荷がかかっていることに気づいた。


「この生意気な!」


 今や城太郎も本気だ。伊織が宝蔵破りのことを知っている以上、この小僧は自分たちのためにも生かしておくわけにはいかないという決意が固まっていた。


 伊織が執拗しつように斬りかかってくるのを無視して、城太郎は一太刀で終わらせようと強く押し出した。しかし、伊織の敏捷びんしょうさは城太郎を上回り、すばやく距離をとってかわす。


「まるでのみみたいな小僧だな……」


 そう思いつつも、城太郎の攻撃はなかなか当たらない。そのうち、伊織は突然駆け出した。逃げるのかと思いきや、またすぐに踏み止まり、挑発するように戻ってくる。だが、城太郎が反撃に転じると、伊織はまた巧みにかわして逃げる。


 どうやら伊織は城太郎を村の方へ誘導しようとしているようだった。そしてついに、二人は草庵そうあんの跡に近い雑木林の中にたどり着いた。


 すでに陽も沈み、林の中はじっとりと夕闇が迫っていた。先に林に入った伊織を追って城太郎は血相を変えて駆け込んだが、あたりを見回しても伊織の姿は見えない。息を整えながら、


「小僧め、どこに隠れやがった!」


 と周囲を睨んでいると、そばの大きな樹のこずえから何かがぱらぱらと落ちてきて、彼の襟元に触れた。


「そこか!」


 城太郎は宙を見上げて声を上げた。しかし、見上げた梢の先は暗く、白い星が一つ、二つと瞬いているだけだった。



 樹の上、こずえからは答えも返ってこない。降ってくるのはしずくだけだった。城太郎じょうたろうは思案していたが、どうやら伊織いおりが上に逃げているのは確かだと見極めたらしく、大きなみきに抱きつくと、慎重にじ登り始めた。


 すると、がさっと枝の上で何かが動いた。追い詰められた伊織は、木の梢のいただきまでよじ登り、まるで猿のように身をすくめていたが、そこから先にはもう伝っていける枝はなかった。


「小僧っ!」


 城太郎が声をかけても、伊織は黙ったまま。まるで小猿のように枝に縮こまっている伊織の影を、城太郎はじりじりと追い詰めていく。手を伸ばして伊織のかかとを掴もうとした瞬間、伊織は隠し持っていた刀で横枝の付け根を思い切り叩きつけた。


「めりっ!」と生木がしなる音が響き、城太郎がよろめいた瞬間、枝と共に体が真っ逆さまに落下していく。


「どうだ、泥棒!」


 伊織が木の上から叫んだ。落下する間、枝が次々と城太郎を受け止めるようにさえぎったおかげで、地面に叩きつけられることはなかったが、それでも屈辱にまみれて宙を睨むと、城太郎は再び伊織の方へと駆け上がっていった。


 伊織も刀を下に向けて、めちゃくちゃに枝の間を振り回す。城太郎も油断ならず、一瞬も気が抜けない。体は小さいが伊織には知恵があり、城太郎もやはり油断できない相手だと感じていた。しかしこのままでは、いつまでたっても決着がつかない。むしろこの狭い木の上での戦いは、体が小柄な伊織の方に分があるようにも思えた。


 そのとき、林の向こうから尺八しゃくはちの音が聞こえてきた。音の主は見えないし、どこで吹いているのかも定かではないが、その尺八の音ははっきりと二人の耳に届いていた。城太郎も伊織も、耳を澄まし、緊迫した静寂の中で一瞬息をのんだ。


「……チビ」


 城太郎は沈黙を破り、少しさとすような声で再び伊織に話しかけた。


「見た目によらない頑固さには感心したよ。だが、誰に頼まれて俺を尾行けたのか、それさえ白状したら命は助けてやるが、どうだ?」


「ふざけるな」


「なに?」


「これでもおいらは、宮本武蔵の一の弟子、三沢みさわ伊織だ。泥棒相手に命乞いなんてしたら、先生の名に泥を塗ることになる。ふざけるな、この馬鹿!」



 城太郎じょうたろうは驚愕した。さっき大木から地面に叩きつけられた時以上に驚いた。あまりにも意外だったため、自分の耳を疑ったほどだ。


「な、なんだって。もう一度言ってみろ、もう一度!」


 城太郎の言葉が震えているのを見て、伊織いおりは自分の名乗りに誇りを感じつつ、堂々と言い返した。


「よく聞け。俺は宮本武蔵の一の弟子、三沢みさわ伊織だ。驚いたか?」


「驚いた……」


 城太郎は、驚きを隠せずに神妙に頭を垂れた。そして、半ば疑いながらも、どこか親しみのこもった声で訊いた。


「おい、お師匠様はお元気か?今どこにいらっしゃる?」


「なんだと?」


 こんどは伊織が戸惑いを感じ、じりじりと近づいてくる城太郎を避けながら尋ねた。


「お師匠様だと?武蔵様が、盗人なんかを弟子にするわけがない!」


「盗人とは人聞きが悪い。この城太郎にそんな悪心はない!」


「な、城太郎?」


「本当にお前が武蔵様の弟子なら、噂に出てきてもおかしくないだろう。俺がまだお前くらい小さかった頃、何年も武蔵様のそばで世話になっていたんだ!」


「嘘だ、そんなこと信じない!」


「いや、これは本当だ!」


「そんな話には乗らない!」


 城太郎は、武蔵への熱い想いをそのまま言葉にし、いきなり伊織の肩を引き寄せようとした。だが、伊織にはまだ信じがたかった。城太郎のその手が自分の体に触れるのを見て、彼が兄弟弟子と称していることに違和感を覚えた伊織は、悪意を感じ、手に持った刀で城太郎の脇腹を突こうとした。


「あっ、待てってば!」


 城太郎は慌ててその手元を抑えたが、今度は伊織が全体重をかけて城太郎にぶつかってきたため、彼の襟を掴んだまま、二人は木の上でふらつきながらも立ち上がった。そして案の定、二人の体はそのままバランスを崩し、こずえと無数の木の葉を巻き込んで、大地へどさっと落下した。


 今回は、前回のように軽い落下ではなく、互いの体重と衝撃が加わり、二人はその場に倒れ込み、しばらくの間気を失って動けなかった。


 この雑木林は、すぐ近くの杉林へと続いていた。その杉林の端にあるのは、あの暴風雨あらしで壊れたままの、武蔵の草庵だった。


 実は、武蔵が秩父へ向かったあの日から、村人たちは協力してこの草庵を建て直しており、今では屋根と柱が新しくなっていた。まだ武蔵は帰ってきていなかったが、屋根の下にともしびがともっている。江戸から水見舞いとして訪れた沢庵たくあんが、武蔵の帰りを待ちながら一夜を明かそうとしていたのだ。


「独り」というものは、この世には存在しないのかもしれない。昨夜は確かに沢庵がひとりで過ごしていたが、今夜はその灯火ともしびを見つけて、ある旅の僧がふらりと訪れ、「夕飯を頂きたいので、湯を分けていただけないか」と頼んできた。


 さっきまで雑木林に響いていた尺八しゃくはちの音は、この年老いた僧が沢庵に聞かせていたものだったのだろう。ちょうどその時、僧はかしわの葉に包んだ弁当の最後の一口を食べ終えた頃だった。

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