魔の眷属
三峰の山には、犬が「権現様の御眷属」として大切にされている。
山犬の札や木彫りの置物、陶器などが、参拝者たちにお土産として売られているのも、山犬がこの山の神様のお使いとされているからだ。ここにはたくさんの犬が住んでいて、山で自然に獲物を捕って暮らし、鋭い牙を持つ、少し荒々しい犬たちばかりだ。
これらの犬たちは、高麗民族が遥か昔、海を渡って武蔵野にやってきた際に連れてこられたものと、もともと秩父山中にいた土着の山犬との混血だと言われている。
さて、別当の観音院まで武蔵を尾行していた男も、一匹の犬を麻縄で引いていた。男が闇の中に手を振ると、その黒い犬もくんくんと鼻を鳴らし始めた。どうやら、その犬も男が慣れた人の気配を感じ取ったようだ。
「しっ!」
男は、手綱を縮めて犬の尻を軽く打った。その男の顔つきも、まるで狛犬のように獰猛で、顔に深い皺が刻まれており、五十歳ほどに見えるが、その体は若々しく精悍な雰囲気を漂わせている。
背丈はそれほど高くないが、体つきには力強さと戦いの意志がみなぎっていた。見た目だけでなく、その雰囲気も、犬のように野性が抜けきらないようだった。
しかし、見た目とは違い、彼は寺に仕える立場だったようで、服装は整っている。裃や羽織のようにも見える装束を着て、麻袴を履き、わら草履を新調している。
「梅軒さま」
闇の中からそっと近づいてきた女が声をかけた。犬はその女の裾にじゃれつこうとするが、女は一定の距離を保った。
「こいつ」
梅軒は、縄で犬の頭を軽く叩いてから、
「お甲……よく見つけたな」
「やっぱり、あの男でしょうか」
「うむ、武蔵だ」
二人はしばらく黙り込んで、雲の切れ間から見える星を見上げた。神楽殿から響く早い拍子が、杉の木立の奥でさらに盛り上がっていた。
「どうするのです?」
「何かせねばならぬ」
「せっかく山まで上ってきたのですから」
「そうだ、無事に帰しては勿体ない」
お甲は、梅軒の決断を促すように目で伝えたが、梅軒は迷っているようだった。険しい目つきで、何かを深く考えている。
しばらくして、梅軒が低く尋ねた。
「藤次はいるか?」
「ええ、祭りの酒で酔いつぶれて、宵から店で寝ていますが」
「起こしておけ」
「あなたは?」
「俺は寺の仕事があるからな。御宝蔵の見回りなどを済ませてから行くとしよう」
「では、私の店で待ちます」
「うむ」
こうして二人は、赤い篝火が揺らぐ闇の中へと、それぞれの影を残して消えていった。
お甲は、山門を出ると小走りで門前町へ向かった。そこには二、三十軒の店が並び、土産物屋や休み茶屋が軒を連ねていた。料理や酒の香りが漂い、祭りに賑わう人々の声があちこちで響いている。
彼女が入ったのも、そんな店の一軒だった。土間には腰掛が並べられ、「御休処」と書かれた看板が掲げられている。
「うちの人は?」
戻ってくるなり、お甲は店で居眠りしていた小女に尋ねた。
「寝てるの?」と叱られたと勘違いして、小女は慌てて首を振るばかりだった。
「おまえじゃないよ、うちの人だよ」
「あ、旦那様なら、眠っておられます」
「ほらね」と、お甲は舌打ちして言った。
「祭りだってのに、うちだけがこんなにぼんやりしてるなんて」
土間には、雇い男と老婆が赤飯を泥竈にかけて蒸しており、その薪の赤い火が暗い土間を照らしていた。
お甲は、ひとつの床几に長々と寝転がっている人物に気づいてそばへ寄り、軽く肩を揺すった。
「もし、目を覚ましておくれ」
「何だ?」
その男は目をこすりながら起き上がったが、それは彼女の夫、藤次ではなく、まったく別の丸顔の若者だった。いきなり見知らぬ女に揺り起こされ、きょろりとお甲を見つめた。
「ほほほ、申し訳ありません、間違えました」
お甲は自分の早とちりを笑ってごまかし、若者は黙って菰を拾い上げると、顔にかぶせて再び眠り始めた。木枕の前には食べかけの盆と茶碗が置かれており、壁際には旅装束一式が置かれていた。
「この若い衆はお客さんかい?」
「ええ、一眠りしたら奥の院へ登ると言ってましたので、木枕を貸してあげたんですよ」と小女が答える。
「ならそうと言ってくれたらよかったのに。うちの人と間違えたじゃないか」
そう言いかけたとき、破れ障子の中から片脚を土間に下ろし、体をむしろの上に投げ出していた藤次がむっつりと声を出した。
「ばかたれが、ここにいる俺がわからねぇのか? てめぇこそ店を放って、どこをうろついてやがった」
この男こそ、かつて祇園の藤次と呼ばれた男だ。変わり果てたその姿もさることながら、未だ悪縁が続き共にいるお甲も、昔の色香をすっかり失っていた。今では男のような逞しさを身につけ、日々をやり過ごしていた。
かつてのように怠惰な藤次に頼ることはできず、お甲が店を切り盛りするしか生活の道がなかったのだ。和田峠で薬草を採りながら旅人を襲っては金を稼いでいた頃はまだよかったが、山小屋が焼き払われ手下も散り、今では藤次は冬に狩りをして収入を得るのみ。お甲は「お犬茶屋」の女将として働き、なんとか生活を繋いでいた。
寝起きのせいか、藤次の目はまだ赤く濁っていた。土間にある水瓶を見つけると、彼は柄杓で水をがぶがぶと飲み、酔いを醒まそうとした。
お甲は床几に片手をついて、体を斜にしながら振り向いて言った。
「祭りだからって、酒もほどほどにしなよ。――命が危ないってのに、よく外で刃物に引っかからなかったわね」
「何だと?」
「油断するなってことさ」
「何かあったのか?」
「武蔵がこの祭りに来ているのを、お前、知ってるのかい?」
「え? 武蔵が?」
「ああ、きのうから、別当の観音院に泊まってるんだよ」
「ほんとか?」
藤次は、水で酔いが醒めたかのように、驚いて目を見開いた。
「そいつは大変だ。お甲、お前も店には出ない方がいいぞ。あいつが山を下りるまではな」
「じゃあ、お前は武蔵と聞いて逃げ隠れる気かい?」
お甲はせせら笑い、続けた。
「和田峠の二の舞を演じるつもりはないってわけね」
「卑怯だね」
お甲の言葉には皮肉が混じっていた。
「和田峠だけじゃないだろう? 京都での吉岡一派との一件から、あいつとは因縁が重なってるじゃないか。私も武蔵のせいで縄で縛られ、慣れ親しんだ小屋を焼かれた時の悔しさを忘れてないよ」
「けど、あの時は手下もたくさんいたからな…」
藤次は自分の力をよくわかっていた。一乗寺下り松で吉岡一派が惨敗したこと、そして和田峠で自ら経験したことからも、武蔵には到底勝ち目がないと考えていた。
「だからさ」
お甲がぐっと藤次に顔を寄せた。
「――お前ひとりじゃ無理でも、この山には武蔵に深い恨みを持ってる人がもう一人いるでしょ?」
「…?」
お甲の言葉に、藤次はある人物を思い出した。それはこの三峰山の総務所「高雲寺」の宝蔵番を務める宍戸梅軒という男だ。実際、この茶店を営むことができているのも、彼女が梅軒に世話を受けたからであった。
和田峠を逃れた後、秩父で梅軒と知り合ったことが縁となり、この地に居を構えたのだ。
話を重ねるうち、梅軒もまた、かつて伊勢鈴鹿山の安濃郷で一時期、多くの野武士を従え、戦国の混乱を利用して野党のような活動をしていたと知った。その後、戦乱が収まり、伊賀の山奥に隠れ住んでいたが、藤堂家が領地を統治し始めると、彼のような存在は許されなくなり、野武士たちの集団を解散。最終的に江戸へと向かうも、行く先で口が見つからず、三峰山に関係者の紹介を得て宝蔵番として雇われた。
この三峰山の奥にある武甲の山奥には、まだまだ野武士以上に粗暴で危険な者たちが棲息しているとされ、梅軒は、そういった危険な存在に対処するために適任として雇われていたのだった。
宝蔵には、社寺の宝物だけでなく、寄付者からの浄財も現金で保管されている。そんな財宝を抱えるこの山では、常に山の者たちによる襲撃の危険がつきまとっていた。
その宝蔵の守り役として宍戸梅軒はまさに適任だった。彼は野武士や山賊の習性や襲撃方法を知り尽くし、さらに彼自身が「宍戸八重垣流」の鎖鎌の創始者であり、その技においては天下無敵の達人とされていた。
もしも身分が整っていれば、然るべき主君にも仕えられる器であったが、彼の血統にはどうしても暗い影があった。兄もまた、伊吹山から野洲川一帯で暴れまわり、「辻風典馬」と呼ばれた野盗の頭領だったのである。その典馬の死は十年ほど前、まだ「武蔵」が「たけぞう」と呼ばれていた頃のことだ――関ヶ原の戦いの直後、伊吹山の麓で武蔵の木剣によって典馬は血反吐を吐いて倒れたのだった。
梅軒は、自らの没落を時代の流れではなく、兄が武蔵に討たれたことが災いの始まりだと考えていた。以降、彼の胸には、武蔵への憎悪が深く刻まれていたのだ。
その後、伊勢の山中で、梅軒は偶然にも武蔵と再会する。梅軒は武蔵を罠にかけ、寝首を掻こうとしたが、武蔵は死地を脱して姿を消してしまった。それ以来、梅軒は再び武蔵に出会うことなく年月を過ごしていた。
お甲も何度も梅軒からこの話を聞いていた。彼女は自分たちの境遇をも彼に話し、武蔵への怨念を強調することで、梅軒との絆を深めようとしたのだ。梅軒が、「そのうち必ず…」と呟き、目に怨念を浮かべる場面が脳裏に焼き付いていた。
そんな因縁の地に、武蔵は伊織を連れて登ってきたのだ。お甲は、人混みの中で彼の姿をちらりと見かけ、すぐに梅軒を呼び出した。梅軒は、犬を連れ、武蔵の後ろについて別当の観音院へと見届けていた。
「……なるほど」
話を聞いた藤次は、ようやく心強さを感じた。梅軒が動いてくれるのなら――そう思うと、かつて三峰の奉納試合で梅軒が八重垣流の鎖鎌の秘技を尽くし、坂東一帯の剣術者たちを次々と倒した光景が思い出された。
「じゃあ、梅軒さまにはそのことを伝えてあるんだな」
「用が終わったらここに来るって言ってたわ」
「じゃあ、打ち合わせか」
「当然でしょうね」
「でも相手は武蔵だ。今回は、よほど巧妙にやらないと……」
そう言いながら、藤次は思わず大きな声を出してしまった。お甲は気付き、薄暗い土間の隅に目を向けると、そこには菰をかぶった在郷の若者が鼾をかきながら眠っていた。
「しっ…!」
お甲が藤次をたしなめた。
「あ、誰かいたのか……?」
藤次は慌てて自分の口を押さえた。
「……誰だ?」
「お客だよ」
お甲は気にとめず、簡単に答えた。
だが、藤次は不機嫌そうに顔をしかめて言った。
「起こして、さっさと追い出せ。――それにもう、宍戸様が来る頃だろう」
お甲は、小女に客を起こして外へ出すように言いつけた。
小女は隅の床几へ行き、鼾をかいて眠っていた若者を揺り起こして、無愛想に「もう店を閉めるから出て行ってくれ」と告げた。
「わあ、よく眠れた!」
若者は伸びをして、土間に立った。旅の身なりや、話しぶりからして、近郷の百姓とは思えない。起きると、にこにこしながら丸い眼をしばたたき、若い体を軽快に動かし、すぐさま菰を着て、笠を持ち、杖をつかみ、風呂敷を首に巻いて「どうも、お邪魔しました」と一礼し、外へ飛び出して行った。
「お茶代は置いていったのかい。妙な奴だね」
お甲は小女を振り向き、
「床几を片づけな」
と言いつけた。
そしてお甲と藤次は、葭簀を巻いたり、店の品を片づけ始めた。
その時、犢のような黒犬が、のっそりと店に入ってきた。後ろには、梅軒の姿が見えた。
「お、お待ちしていました」
「どうぞ、奥へ」
梅軒は黙って草履を脱ぎ、犬はその辺りの食べ物を漁って歩き回っていた。店の奥に入ると、廂に明かりがともり、梅軒が口を開いた。
「……先ほど、神楽堂の前で、武蔵が連れの子どもに漏らした話から察するに、どうやら明日は奥の院に登るつもりらしい。それを確かめたくて、観音院に寄って探りを入れてきたので、遅くなった」
「じゃあ、武蔵は明日の朝、奥の院へ……」
お甲と藤次は息をのんで廂越しに大岳の黒い影を見上げた。
武蔵を討つには普通の手段では通用しないことを、梅軒は百も承知していた。宝蔵番には彼のほかに屈強な番僧が二人おり、吉岡一派の残党で部落に道場を構え若者に教えている者もいる。さらに、かつて伊賀から連れてきた野武士で、今は別の仕事についている者を集めれば、十人以上は簡単に呼び寄せられる。
藤次には鉄砲を持たせ、自らは鎖鎌を用意していた。他の番僧二人も槍を手に先行しているはずだ。そして夜明け前、武蔵を待ち伏せる場所は、奥の院に向かう途中の小猿沢の谷川橋。ここで全員が揃い、武蔵を迎え撃つ手はずだと梅軒は説明した。
藤次は驚き、
「へえ、もうそこまで手は回ってるんですか?」
と、疑わしげに尋ねた。
梅軒は苦笑した。かつて辻風典馬の弟として野武士の生活をしていた彼にとって、これくらいの用意は朝飯前のこと。眠っていた野猪が山萩をざわつかせるようなものでしかなかった。