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忠明発狂始末

 三河みかわ出身で、御譜代ごふだい衆と呼ばれる家柄の浜田寅之助はまだとらのすけは、江戸で堂々と振る舞える幕士のひとりだった。今、道場どうじょうの片隅で稽古けいこをしている寅之助のもとに、同門の沼田荷十郎ぬまたかじゅうろうが駆け寄り、息を切らしながら言った。


「浜田、来たぞ!奴がついに門をくぐってきた!」


「奴とは…佐々木小次郎か?」


「そうだ、今まさに道場の門を入ってきた。もうすぐここに現れるぞ」


 寅之助は少し驚いた様子でふと顔を上げ、にやりと笑った。「思ったよりも早かったな。人質ひとじちが効いたようだな」


 荷十郎は、不安そうに周囲の仲間を見回しながら言った。「だが、油断できぬ。あの強胆きょうたんな奴が一人でここへやってくるなんて、何をしでかすか分からぬぞ」


「道場の真ん中に通せばよい。挨拶あいさつは俺がする。皆は黙って控えていろ」


 そう告げた寅之助に、荷十郎は頷き、道場に集まった同門たちを見回した。亀井兵助かめいひょうすけ根来八九郎ねごろはちくろう伊藤孫兵衛いとうまごべえなど、錚々(そうそう)たる顔ぶれが揃っており、それだけで気が強まるようだった。


 そして、そこに集まった小野派の者たちは、皆この場の緊張を肌で感じていた。なぜなら、小次郎によって斬り捨てられた侍の一人は、ここにいる浜田寅之助の兄だったのだ。兄は評判の良くない人物だったが、それでも小野派の面目にかけて、小次郎に対する怒りは相当なものだった。


 また、佐々木小次郎がどんじき屋の障子に、挑発的な文言を大っぴらに書き残したことも、浜田の心中を激しく燃やしていた。この屈辱を放っておくわけにはいかないと、寅之助は意気込んでいた。


 そんな中、昨夜のことだ。寅之助や荷十郎が老婆を人質に取り、そのことを知った道場の仲間たちは歓喜した。


「いい人質を捕まえましたな!あの老婆のおかげで、奴が自らやってくるように仕向けられた。さすがだ、浜田殿。参った小次郎を思いっきり叩きのめし、鼻っ柱をへし折ってやりましょう!」


 そして、果たして小次郎が本当にやってくるのかと、道場の空気は賭け事のような緊張に包まれていた。



 予想に反し、ほとんどの者が「佐々木小次郎は来まい」と思っていた中で、同門の沼田荷十郎ぬまたかじゅうろうの報告によれば、確かに小次郎が門をくぐったとのことだった。


「何?小次郎が来たと?」


 居合わせた人々の顔が、まるで白木の板のように緊張で固まった。浜田寅之助はまだとらのすけ以下、広い道場の床には、一同が息をひそめて待ち構えている。


「……荷十郎、本当に小次郎が門内へ入ってくるのを見たのか?」


「間違いない。確かに門を入った」


「なら、もうすぐここに姿を見せるはずだが…」


「来ないな」


「おかしい。遅すぎる」


 しだいに場の空気が緩み、緊張が解けかけた頃、突然、草履の音が控え室の窓の外に止まった。窓から顔を覗かせたのは、また別の同輩だった。


「御一同、小次郎はこちらへは向かわないようです」


「何?どういうことだ?」


「彼は住居の方へ行ってしまい、奥で大先生と話し込んでいるんだ」


「大先生と?!」


 これを聞いて、浜田寅之助の顔は驚愕で強ばった。小次郎が直接、小野治郎右衛門おのじろうえもんのもとへ向かったことを知り、思いもよらぬ事態に動揺が走った。浜田たちは、ここに集う面々も彼の怒りを胸にし、小次郎を引きずり出してその罪を問う覚悟でいるのに、師である治郎右衛門と話をしているとは予想外だった。


「それならば、俺たちが行って様子を見て来る」と亀井兵助かめいひょうすけ根来八九郎ねごろはちくろうが、草履を履いて道場を出ようとしたその時だった。


 住居の方から、一人の娘が顔色を変えて駆けて来た。皆は彼女が必死の表情で発する声を聞き、道場の外に集まった。


「皆さん、急いで!伯父様が佐々木小次郎と庭で刀を抜き合わせ、斬り合いが始まっています!」



 おおみつは、小野治郎右衛門忠明おのじろうえもんただあきめいである。彼女が忠明の師、一刀斎のめかけの娘だという噂もあったが、それが本当かどうかは誰も知らなかった。ともかく、お光は色白で愛らしい娘だった。


 お光が知らせた内容は衝撃的だった。


「伯父様が、お客様と何か言い争っているかと思えば、庭で斬り合いを始めたんです…。伯父様の実力なら心配ないと思いますが…」


 彼女の言葉を最後まで聞くまでもなく、亀井、浜田、根来、伊藤など道場の主要な者たちは即座に立ち上がり、駆け出した。


 道場と住居すまいは別の棟に分かれており、庭へ行くにはかきと竹で編まれた門を通らなければならない。小野家は広い屋敷構えで、侍たちが駆けつけたとき、竹編戸が閉じられていた。


「門が開かない!」


 押し破られる竹編戸の音が響き、彼らはついに庭へ出た。広い山芝の庭に、師の小野治郎右衛門忠明が刀を抜き、対峙する相手は佐々木小次郎だった。小次郎は物干竿ものほしざおの大剣を傲然と頭上に構え、目をたいまつのように光らせている。


 その姿に門人たちは一瞬、息を飲んだ。400坪の広大な芝庭と張り詰めた空気が、まるで結界のように彼らを近づけさせなかった。


「……」


 彼らは遠巻きに見守り、恐怖と緊張で肌が粟立つのを感じていた。真剣勝負の場には、誰も手を出せない荘厳さが漂っていた。


 しかしその静かな一瞬の後、感情が再び駆け上がってきた。


「くっ…」


「助太刀を!」


 二、三の者が小次郎の背後に迫ろうとした瞬間、忠明が怒鳴りつけた。


「寄るなっ!」


 その声はいつもと違い、凍てつくような威圧感を帯びていた。勢いで身を乗り出した者たちも、一歩退くしかなかった。


 それでも、もし忠明が不利になるような兆しを見せたなら、彼らは瞬時に小次郎を囲み、斬り捨てるつもりでいるようだった。全員の目がその決意を語っていた。



 小野治郎右衛門忠明おのじろうえもんただあきはまだまだ壮健で、五十四、五歳といっても、見た目は四十代にしか見えない。黒い髪と引き締まった姿が、彼の活力を物語っていた。背は低いが、全体に均整が取れていて、風格のある立ち姿は、小柄さを感じさせない。


 佐々木小次郎は、まだ一度も忠明に太刀を振り下ろしていない。いや、むしろ振り下ろす隙を与えてもらえていないのだ。しかし、忠明は小次郎の剣先に立った瞬間、見逃せない何かを感じ取った。


(これは…)


 忠明の中に浮かんだのは、かつての兄弟子「善鬼ぜんき」のことだった。善鬼――彼こそが、若き日の忠明にとって最もあなどりがたい相手だった。船頭の息子で、教養などまるでなかったが、生まれながらに剣の才に恵まれ、恐ろしい強さを持っていた。やがて善鬼は一刀斎いっとうさいすらも超える実力を誇示し、師を見下すようになった。


 師である一刀斎は、善鬼の成長に目を細めつつも、次第にその剣が世に害をなすことを危惧きぐするようになった。そしてこう嘆いたのだ。


(善鬼を見ると、自分の中にある悪が躍り出てくる気がする…)


 その後、忠明は善鬼と小金ヶ原で一騎打ちをし、激闘の末、彼を斬り伏せた。これによって一刀流の印可を授かったのだ。


 しかし、今目の前にいる小次郎には、善鬼とは違った鋭さがあった。小次郎は侍としての教養も備え、剣技だけではない研ぎ澄まされた知性が彼を支えている。忠明は彼の剣に、まさに「現代の鋭さ」を見た。


(この相手には勝てないかもしれない…)


 そう潔く思う一方で、彼は心の奥で呟いていた。忠明は柳生但馬守宗矩たじまのかみむねのりに対しても侮りを抱いてきたが、今日初めて「自分が時代から遅れつつあるのではないか」と、剣士としての老いを実感したのだ。


 誰かが言っていた――「先人を追い越すことはたやすくとも、後の世代に超えられぬことは難しい」と。その言葉が、今、忠明の心に重く響いた。柳生家と並び称され、一刀流の名声を支えてきたこの忠明が、若き麒麟児きりんじである小次郎に驚嘆せずにはいられなかった。



 小次郎と忠明の間には、まるで時間が止まったかのような張り詰めた静寂が漂っていた。どちらも動かないまま、体内では凄まじい生命力が消耗されていた。汗がびんを伝い、呼吸は荒くなり、顔は青白くなっていたが、二人の剣は最初の構えから微動だにしない。


「――まいったっ!」

 忠明が叫び、その瞬間、後ろへぱっと飛び退った。しかし、その声が「待てっ!」と聞こえたのかもしれない。次の瞬間、小次郎が動物のように跳びかかり、物干竿を勢いよく振り下ろし、忠明の真上を通過した。忠明は急いでかわしたものの、まげの根元が切れて、髪が乱れた。


 一方、忠明の行平ゆきひらの切っ先も小次郎のたもとを五寸(約15センチ)ほど切り裂いていた。


「理不尽だ!」

 門人たちの怒りが一気に噴き出した。忠明の「降った」という言葉で、この立会いが喧嘩ではなく試合であったことは明白だったのに、小次郎はそれを無視して斬りかかったのだ。もはや黙って見ている必要はない。門人たちは小次郎に向かって一斉に駆け寄った。


「うっ――」

「動くな!」

 小次郎はすばやく身を翻し、平庭の一方にあるなつめの木の陰に移動し、鋭い眼光を光らせながら叫んだ。

「勝負! 見たか」

 彼は「俺が勝ったぞ」と言わんばかりだったが、忠明はその声に向かい、

「見えた」

 と冷静に答え、門人たちに向かって「ひかえろ」と一喝した。


 忠明は刀を鞘に収め、書斎の縁へ戻ると腰を下ろして、姪のおみつを呼び、

「もとどりをげてくれい」

 と頼んだ。お光が忠明の髪を結っている間、忠明の胸には汗がにじんでいた。


「ざっとでよい」

 お光を肩越しに見て言うと、

「あちらにいるお若い客へ、おすすぎを上げて、元の座敷へ、お上げ申しておけ」

 と告げた。


 その後、忠明は客間へは向かわず、草履を履いて門人たちを見回し、

「道場の方へ集まれ」

 と命じ、自ら先に道場へと向かった。



 門人たちは、師である治郎右衛門忠明ただあきが、佐々木小次郎に対して「まいった」と叫んだことに大いに動揺していた。

「今まで無敵と誇られてきた小野派一刀流の名を、師自らけがしてしまったのか」と、青白い顔をした門人たちの中には怒りを噛みしめている者もいた。


 道場に集まった約二十名の門人たちは三列に並び、忠明を見つめていた。忠明は上座に静かに腰を下ろし、一人ひとりの顔を眺めてから話し始めた。


「さてさて、わしも歳を取ったものだ。時代というものは、いつの間にか移り変わっていくものだな」

 その言葉に、門人たちは面を上げるが、何を言いたいのか理解できずにいた。


「自分の歩んできた道を振り返ると、師である弥五郎一刀斎いっとうさい様に仕え、善鬼を倒した頃が、わしの剣の全盛だった。そして江戸で道場を開き、将軍家の師範となり『無敵の一刀流』と称されるようになったが、その頃から、わしの剣はもう下り坂に入っていたのだ」


 門人たちは、師の言葉の意図を汲み取れず、不安や疑念を抱えたまま静かに聞いていた。


「人は皆、老いと共に安息を求める。時代は変わり、若き者が新しい道を拓くのも自然の流れだ。だが、剣の道だけは違う。そこには老いも、時代の流れも許されぬ」

 忠明は静かに目を伏せ、言葉を続けた。


「わしの師である弥五郎先生も、今どうしておられるか分からぬが、小金ヶ原で善鬼を倒した時、すぐに一刀流の伝授をわしに託し、山へ入られた。剣と禅、生と死の境地を求めてな。それに比べて、わしは早くも老いの兆しを見せ、今日のような失態をさらしてしまった。師に申し訳が立たぬ」


 その言葉に、門人たちは黙っていられなくなり、根来八九郎が立ち上がり、声を上げた。

「先生! あのような若年者に敗れる先生ではないことを、われらは信じております。今日のことには、何か事情がおありだったのでは?」

 忠明はかすかに笑いながら首を振り、静かに応えた。

「たとえ一時の立ち合いであれ、真剣と真剣の間に、情実などあってはならぬ。若年者だから負けたのではない。わしは時代そのものに負けたのだ」


 門人たちの中には反論しようとする者もいたが、忠明は手で制し、静かに続けた。

「さて、手短に話そう。あちらには佐々木殿も待たせている。ここで皆に改めて伝えることがある。そして、わしの最後の望みを聞いてほしい」


 そう言って、忠明は門人たちの顔を一人ひとり見渡した。



 治郎右衛門忠明ただあきは、弟子たちに向けて静かに語り始めた。


「私は今日限りで、この道場から身を退く。世間からも姿を消し、山中で弥五郎一刀斎先生の跡を追い、晩年に至る悟りを求めたい」

 この発言に、弟子たちは驚き、ざわめいたが、忠明は続けた。


「また、甥である伊藤孫兵衛いとうまごべえには、一子忠也ただなりの後見を託す。幕府にも出家遁世として届け出てほしい」

 さらに、彼は弟子たちに厳しい言葉を向けた。


「私は小次郎に負けたことを恨んではいない。だが、あのような若い才能が他門から出ているのに、我が道場からは誰一人出ていないことを深く恥じる。これも、門下に御譜代衆ごふだいしゅうが多く、威勢に頼り驕慢きょうまん怠惰たいだに浸る者がいるせいだ」


 これを聞いて、弟子の一人、亀井兵助かめいひょうすけが声を震わせながら反論した。

「先生、決して私たちが怠惰に過ごしているわけでは――」

 だが、忠明は厳しくその言葉を遮った。


「黙れ。弟子の怠りは師の怠りだ。これは私自身への裁きであり、己への恥である。道場は正しく若々しい場でなければならぬ。これが私が道場を離れる理由でもある」


 忠明の言葉は、弟子たちの心に深く響き、彼らは頭を垂れ、己を反省し始めた。


 その中で、忠明は「浜田」と名指しした。突然呼ばれた浜田寅之助はまだとらのすけは、戸惑いながら顔を上げると、師の厳しい眼差しに圧倒された。


「寅之助、今日限りでお前を破門する。将来、心を改め兵法を正しく理解する者となれば、再び会うこともあろう。――去れ」


「先生、なぜですか?破門される覚えはありません!」


「お前は兵法を履き違えているからだ。今は分からぬかもしれぬが、いずれ自分で気づくだろう」


 寅之助は怒りと戸惑いの表情を浮かべ、必死に訴え続けた。

「理由を教えてください!お聞かせいただけなければ、この場を去るわけには参りません!」



「――然らば、いおう」


 忠明は、寅之助に破門を言い渡した理由を説明するため、彼を立たせたまま、弟子一同に語りかけた。


「卑怯は、武士にとって最も軽蔑されるべき行為だ。また、兵法においても厳しく戒められている。道場の鉄則として、卑怯な行動があったときは破門とする――これは常に言ってきたことだ。ところが、浜田寅之助は兄を討たれたにもかかわらず、日々を無為に過ごし、佐々木小次郎に対して正々堂々と復讐しようともせず、西瓜売りのような風体の男・又八を仇と定め、その者の母を人質に取り、この屋敷に押し込めた。これが武士として許される行為だろうか」


 寅之助は慌てて弁明を試みた。 「しかし、それは小次郎をここにおびき寄せる手段として――」


「それこそが卑怯というものだ。小次郎を討つ覚悟があるのなら、なぜ自分で彼のもとへ赴き、果し状を送って堂々と名乗りを上げなかったのか?」


 寅之助は言葉に詰まる。 「……そ、それも考えましたが……」


「考える?その場で何を躊躇したのだ?仲間に頼って小次郎をおびき寄せ、卑劣にも討とうとしたその言葉自体が、卑怯であることを示している。――それに比べて、佐々木小次郎の態度を見よ。彼はただ一人でこの場に現れ、卑劣な弟子を相手にする価値もないとし、むしろ弟子の非行は師の非行だとばかりに、私に真剣勝負を挑んできた」


 弟子たちは、忠明の説明に頷き、ついさっきの出来事がそのような経緯から起こったのだと理解した様子だった。


 忠明はさらに言葉を続けた。 「そして、あの真剣勝負の結果、私の中にも恥じるべき非があると明らかになった。だからこそ、私はその非に対し『降参』の意を示したのだ」


 彼は寅之助に鋭い視線を向け、問いかけた。 「これでも自分が恥なき兵法者と思うか?」


 寅之助は言葉を詰まらせ、ついに頭を下げた。 「……恐れ入りました」


「去れ――」


「去ります」


 寅之助は俯きながら道場の床を十歩ほど後退し、深々と頭を下げて一礼した。 「先生のご健勝をお祈りします」


「うむ……」


「御一同にも……」


 寅之助は静かに別れの言葉を告げ、そのまま寂しげに道場を去った。


 忠明は弟子たちを見渡し、再び立ち上がって言った。 「――私も、世間を去る」


 弟子の中には堪えきれず嗚咽を漏らし、男泣きにくれる者もいた。忠明は、沈痛な表情で弟子たちの顔を見回し、最後の言葉をかける。


「励めよ、皆。何を悲しむことがある?おまえたちはこの道場で新しい時代を迎え、武道に精進し続けるのだ。明日からは謙虚になり、一層研鑽を積んで互いを高め合うのだ」


 忠明の師としての最後の教えが、弟子たちの胸に深く刻まれたのだった。



 やがて、忠明が道場から住居に戻り、客間に姿を見せた。小次郎に向かい、落ち着いた様子で詫びを入れると、静かに座りなおした。その顔には、先ほどの立ち合いの緊迫感も消え、いつもの平穏さが漂っていた。


「さて――」と忠明が切り出し、「門人の浜田寅之助には、先ほど破門を言い渡し、今後は心を改めて修行に励むよう訓戒しておきました。また、彼が人質として隠していた老婆も解放するつもりですが、貴殿が連れて帰るか、それともこちらから改めてお送りするべきでしょうか?」


 小次郎はすぐに立ち上がり、「ありがたく、私が連れて戻ります」と応じた。


 それを聞いた忠明は、「ならば、一献だけでもお酌み交わし、これまでのことは水に流したい」と言って、お光に酒の支度を命じた。


 小次郎は、先の立ち合いで全精力を使い果たしたように感じていたが、招かれた手前、すぐに帰るわけにもいかず、「では、おもてなしに甘えよう」と杯を取った。内心では忠明を下に見ながらも、表面上は剣士として称賛の言葉を口にしてみせた。


 忠明は彼の態度から、自身の年齢や時代の流れを感じつつも、逆にその危うい若さが将来にどんな影響を与えるかを案じていた。


「もし弟子ならば…」と忠告しようとしたが、結局言葉には出さなかった。ただ、彼の自慢話には笑顔で応じて、穏やかに場を収めていた。


 雑談の中で、宮本武蔵という若き剣士が新たに師範の候補として名が挙がっているという話題が出た。小次郎は一言「ほ?」とつぶやいただけだったが、表情には動揺が見えた。


 西の空に陽が傾くのを見て、小次郎が「そろそろ帰ろう」と言うと、忠明はお光に「老婆を連れて坂の下までお送りしなさい」と指示した。


 その後、忠明の姿は江戸から消えた。恬淡として直情的な武士気質で、将軍家にも顔が利く身でありながら、彼は世間から身を引いた。


 世間の人々はその遁世を不思議がり、「出世も目の前だったのに」と噂したが、やがて噂が膨れ上がり、「小野治郎右衛門忠明は佐々木小次郎に負け、発狂した」と、尾ひれがついて語られるようになった。

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