表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
124/165

さいかち坂

 秋の夜の静かなひととき。虫の声が響き、すすきが風に揺れる。遠くには大川が流れている。そんな風情の中、彼女は、一人、静かに筆を取っていた。

 ここに来てからというもの、千部写経せんぶしゃきょうを目標に父母恩重経ぶもおんじゅうきょうの写経を始めている。

 病人に鍼灸を施して、なんとか生計を立てつつ、一人で穏やかに過ごす日々だ。彼女の体も、この秋は心なしか若返ったようで、持病も顔を出さない。


「いるか?」

「誰じゃ?」

「大工町の部屋のもんです。葛飾かつしかから野菜がたくさん届いたから、親方からおばば殿にも分けてやれって言われて、ひと背負い持ってきました」


 外から声がして、おばばは戸を開けるよう頼んだ。

「いつも気をかけてくれてありがたいな。弥次兵衛やじべえどのによろしく伝えてくれよ」


 少しして、使いの男が帰ると、再び虫の音が家中に響く。

 筆を置いたおばばは、あかりのぼんやりした光をじっと見つめた。

 その揺らめく光を見て、彼女はふと昔の「燈火占とうかせん」のことを思い出した。

 若かりし頃、戦乱が絶えなかった時代、人々は灯火の揺れや色合いで吉凶を占ったものだ。

「今日は吉だ」

「誰かが死んだのかも」

「待ち人が近づいている」

 ――灯火に映し出される運命に心を騒がせていた。

 今夜の灯も、どこか不思議と吉事を告げるような気がする。


「もしかして、又八かもしれない」


 彼女の心は一気に沸き立ち、しばらくその想いに身を委ねた。

 その時、裏口で音がして、おばばは灯を手に台所へ向かった。

 そこで目に入ったのは、野菜の山の上に置かれた小さな包み紙。

 手に取って開くと、中には二枚の黄金こがねが包まれており、紙にはこう書かれていた。


 まだお会いする顔もありませんが、半年ばかりの不孝をどうかお許しください。そっと窓からお別れを告げて、立ち去ります

 又八



 夜の川べりに、一人の侍が荒々しい気配をまとって駆け寄ってきた。

「浜田、違ってたのか?」

 ぜいぜい息を切らしながら話しかける。川辺を見渡していた二人のうち、若い方の侍――浜田と呼ばれた青年が、歯がゆそうに答える。

「……違ってた。見たところ、あいつに間違いないと思ったが」

「いや、ただの船頭だった」

「船頭だと?」

「追いかけていったんだが、奴はあの船に入って、そのまま別人と判明した」

「……なるほど、見間違えか」


 三人の侍は、大川の河原から遠くの浜町の草むらまで見渡し、眉をひそめる。

「夕方、大工町でちらっと見かけたときには、確かにこの辺りまで追い詰めたんだが……逃げ足が早い奴め」

「どこへ消えたか」


 夜の静寂に、川のせせらぎが耳にしみる。その中で、三人はじっと闇を見つめ、耳を澄ませていた。

 すると――


「又八……。又八……」

 かすかな間を置いて、また同じ声が草原のどこかから流れてくる。

「又八……。又八!」

 最初は聞き間違いかと思ったが、三人は顔を見合わせる。

「おい、今『又八』って呼んでたぞ」

「年老いた女の声だが」

「『又八』といえば、あの又八のことじゃないか?」

「その通りだ」


 浜田という若侍が先頭を切って駆け出し、他の二人も追いかける。声の主を見つけるのは簡単だった。年老いた女性――それも年老いた足である。彼らの足音に気づいた老婆は、逆に自分から近づいてきた。

「その中に、又八はおらんか?」

 彼女が尋ねると、三人の侍は無遠慮に両手や襟をつかみ、詰め寄った。

「その又八を我々も探しているのだが、一体お前は何者だ?」

 老婆は振りほどこうとする。

「何するんじゃ!お前らこそ、何者じゃ?」

「俺たちか?俺たちは小野家の門人。ここにいるのは、浜田寅之助とらのすけ様だ」

「小野……?何じゃそれは?」

「将軍・秀忠公の御師範、小野派一刀流の小野治郎右衛門様を知らぬのか?」

「知らん!」

「この……!」

「待て、まずこの老婆と又八の関係を聞け」

「わしは又八の母親じゃが、それがどうした?」

「じゃあ、お前はあの西瓜売り又八の母ってことか?」

「何を言っとるんじゃ!他国者と侮って、西瓜売り呼ばわりとは無礼千万!わしは美作国吉野郷の竹山城主・新免宗貫しんめんむねつらに仕える家臣、本位田家の母じゃ!」


 老婆の誇り高い言葉も気にせず、侍の一人が仲間に言う。

「おい、面倒だな」

「どうする?」

「人質にするか」

「母親なら、必ず取り戻しに来るだろう」


 これを聞いた老婆――お杉ばばは、背を反らせて抵抗し、まるで蝦蛄しゃこのように暴れ始めた。



 気に食わないことが山ほどある。佐々木小次郎は、不満で胸が張り裂けそうだった。


 最近は寝てばかりで、ついには寝ぐせまでつく始末だ。場所は月の岬のあの家。寝ると言っても、夜が更けてから眠るというものではなく、昼夜を問わず無気力に横になっている。

「物干し竿も泣くってもんだ」

 小次郎は、自慢の愛刀を抱えて、畳の上で仰向けに転がり、ぼそりと独り言を漏らした。

「この名刀、この俺の腕が、五百石も満たない扶持ふちすらもらえず、こんな無駄な日々を過ごしているとはな」

 そう呟くと、小次郎は抱えていた物干し竿の柄をわずかに鳴らし、

「目障りめ!」

 と、半身起こしながら宙を斬り払った。鋭い刃が描いた半円の光は、まるで生き物のように鞘の中に収まっていった。

「お見事でございますな」

 縁先から、岩間家の仲間ちゅうげんが声をかける。

「稽古でございましょうか?」

「ばかを言え」

 小次郎は腹ばいになり、畳の上にいた虫を爪ではじいて縁先へ飛ばした。

「この虫があかりにまとわりついてきたので、斬っただけだ」

「虫を…ですか?」

 仲間が驚いて目を丸くして虫を見てみると、それは蛾に似た虫で、羽も腹も見事に斬られていた。

「寝床を敷きに来たのか?」

「いえ、違います」

「じゃあ何だ?」

「大工町から使いの者が手紙を置いていきました」

「手紙…見せてみろ」


 手紙は半瓦はんがわら弥次兵衛からだった。最近、彼のことも少し面倒になってきていたが、とりあえず小次郎は寝転がったまま開封した。


 すると、彼の顔色がわずかに変わった。昨夜からお杉ばばが姿を消してしまったという内容だった。今日一日、大工町の人たちが総出で捜索し、ようやく居場所は突き止めたものの、自分たちではどうにもできない場所に連れて行かれてしまったらしい。その経緯が事細かに書かれている。


 その居場所を突き止める手がかりになったのは、例の「どんじき屋」の懸け障子に、小次郎が以前書き残した言葉だった。それが誰かに消され、新たにこう書かれていたのだ。


 佐々木どのへ申す

 又八の母預かり置く者、

 小野家内おのけうち浜田寅之助はまだ とらのすけなり


 弥次兵衛の手紙には、さらにこの件についての詳細も記されていた。


 小次郎は手紙を読み終わると、

「…来たか」

 と、天井を見上げながら静かに呟いた。


 あの小野家から今まで何の反応もなかったことが少々物足りなく感じていた小次郎。以前、どんじき屋の空き地で侍二人を斬った際に、自らの名前を懸け障子に記したのは、後日のためだったのだ。そして今、その反応が返ってきたことに内心ほくそ笑んでいた。


 しばらく夜空を見上げ、雨が降らなさそうだと確認すると、すぐに準備を整え、高輪街道を駄賃馬に乗って進む小次郎の姿があった。夜も遅く、大工町の半瓦の家に到着し、弥次兵衛から詳しい話を聞いた彼は、翌日の腹を決め、その晩はそのまま弥次兵衛の家に泊まることにした。



 かつて神子上典膳みこがみ てんぜんと名乗っていたが、関ヶ原の戦い後に秀忠将軍の陣で剣術の講話をしたことがきっかけで幕府の武士となり、神田山に宅地を与えられた小野治郎右衛門忠明(おの じろうえもん ただあき)。柳生家と並んで将軍家の師範として迎えられたのだ。それが神田山の小野家であり、周囲の人々は富士がよく見えるこの地を「駿河台するがだい」と呼び始めていた。


「…確か、皀莢坂さいかちざかだと聞いて来たんだが」

 小次郎は坂を登り切り、立ち止まって周囲を見回した。今日は富士山は見えないが、崖から深い谷が見下ろせる。谷の木々の隙間を流れる川はお茶の水の流れだ。


「先生、ちょっと探してきますので、ここでお待ちください」

 道案内をしていた半瓦の若い者が、小次郎を残して一人で駆け出した。しばらくして戻ってきた彼が、

「分かりました」

 と告げる。


「どこだ」

「今、登ってきた坂の途中ですよ」

「こんな所に屋敷があったか?」

「将軍家の御指南って聞いてたんで、柳生家みたいな立派な屋敷かと思ってたんですが、さっき右側に見えた汚れた古い屋敷がそれなんです。あそこ、前は馬奉行うまぶぎょうが住んでた屋敷かと思ってました」


「その通りだな。柳生家は一万石以上、小野家は三百石だからな」

「そんなに差があるんですか」

「腕は同じくらいでも、家柄が違うのさ。柳生は、家柄が七割、実力が三割みたいなもんだ」


「ここです…」

 道案内の男が指さす先を小次郎は見据え、

「なるほど、ここか」

 と呟き、家構えをじっと眺めた。


 坂の途中から裏山にかけて古びた土塀が続き、屋敷の中を覗くと、母屋の裏に道場らしい新しい木造の建物が見える。


「帰っていいぞ」小次郎は道案内の男に告げ、続けて言った。

「晩までにお杉ばばを連れて帰らなかったら、小次郎は死んだと思えと、弥次兵衛に伝えておけ」

「へい」

 男は皀莢坂の下へ駆け降りて行った。


 小次郎にとって、柳生家は挑んでも無駄だ。柳生家は将軍家のおとめ流だ。幕府公認の剣術流派であるため、挑戦を受けることもなく、名声を維持している。だが小野家は違う。無名の牢人剣士だろうが、強豪だろうが、積極的に試合を受け、殺伐な実戦剣術を鍛錬の目標としている。


 だが、それだけに、小野家一刀流を打ち破った者はいないと聞く。世間の尊敬を集める柳生家よりも、実力では小野家が勝るとされているのだ。


 小次郎が江戸に出て以来、いつかこの皀莢坂の門を叩く日を心待ちにしていた。


 その門が、今、目の前に立ちはだかっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ