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光明蔵

 姫路の城下町、その端にある花田橋。


 武蔵は今日も、お通の姿を待っていた。


「どうしたんだろう……?」


 あの日、二人が別れてからもう七日が過ぎていた。


「百日でも千日でも待つ」と言ったお通だったのに、姿が見えない。


 武蔵は、彼女との約束を守るつもりでここに立ち続けていた。


 約束をした以上、それを捨てて忘れることなんてできない。


 しかし、彼にはもう一つ気になることがあった。


 それは、姫路に移されたという姉・お吟がどこに幽閉されているのかを探ること。


 花田橋に姿を見せない時、武蔵は町中をふらふらと物乞いのような姿で歩き回っていた。


「やあ、出会えたな」


 突然、背後から誰かが声をかけた。驚いて振り返ると、武蔵は自分の名を呼ばれている。


「武蔵!」


 その声は沢庵だった。


 どこにいても知られないように顔も姿も変えていたはずなのに、あっさりと見破られた。


「さあ、来い!」


 沢庵は武蔵の手首をぐいっと掴み、無理やり引っ張って行く。


 何も反抗する気力がなく、武蔵は沢庵に従うまま進んだ。


(また木に縛られるのか……それとも今度は藩の牢獄か?)


 姉のお吟も城下の獄に繋がれているかもしれないと思うと、姉弟一緒に死んでもいいという気持ちがわき上がってきた。


(せめて、姉と一緒に……)


 武蔵は心の中でそう願った。


 やがて、巨大な石垣と白壁で囲まれた白鷺城が目の前に現れた。


 沢庵は唐橋をずかずかと渡り、そのまま城の内部へ進んで行く。


 武蔵は一瞬、ためらった。


(ここを越えたら、もう後戻りはできない……)


 しかし、沢庵は手招きして急かす。


「早く来い!」


 武蔵は言われるまま、ついていく。


 城内の大名たちは緊張感を保ち、いつでも戦いに備えている様子だった。


 沢庵は城の役人に声をかけ、


「連れて来たぞ」と武蔵を引き渡した。


「頼むぞ」


 念を押すと、役人たちは武蔵を扱うよう指示された。


 武蔵は次にどこへ連れて行かれるのか不安を抱えながら、無言で従った。


 辿り着いたのは風呂場だった。


「さあ、風呂に入れ」


 と促されるが、武蔵はすぐに警戒した。以前、お杉婆の罠にはまった時も風呂だったことを思い出したからだ。


 腕を組んで考えていると、小者が近づき、

「お済みになったら、こちらの衣服に着替えてください」と言い残して去っていった。


 その場に置かれたのは、黒木綿の小袖と袴、そして懐紙や扇子まで用意されていた。さらには大小の刀まであるではないか。



 姫路城の本丸、天守閣と太閤丸の背後に姫山の緑が広がっていた。


 その中心に座るのは、城主・池田輝政。


 背が低く、顔には薄黒いあばたが目立ち、頭は剃られている。脇息きょうそくに寄りかかりながら庭を眺めていた。


「沢庵坊……あれが、武蔵か?」


 輝政がぽつりと尋ねると、側に控えていた沢庵があごを引いて答える。


「あれでございます」


「なるほど、なかなかの面構えだな。お前、よく助けたものだ」


「いや、ご助命をいただいたのは、まさにあなた様のおかげで」


「そうじゃない。もし役人たちが、もっとお前のように人を見る目を持っていれば、多くの者を助けられるだろうに。だが、奴らは捕らえることばかりが仕事だと考えている」


 縁側の向こうに武蔵が座っている。新しい黒木綿の小袖を着て、両手を膝に置き、うつむいていた。


新免しんめん武蔵と言うのか?」


 輝政が尋ねると、武蔵はすぐに答える。


「はい」


「新免家は、元は赤松一族の支流だ。その赤松政則まさのりがかつて、この白鷺城の主だったことを知っているか?お前がここにいるのも、何かの縁かもしれん」


 武蔵は黙っていた。自分こそが祖先の名に泥を塗っていると感じていたからだ。


 輝政には特に感情は湧かなかったが、祖先に対しては頭が上がらない思いだった。


 しかし、突然、輝政が声を張り上げた。


「だが、その所業は不埒だぞ!」


「はい」


「厳しい罰を受ける覚悟はあるか?」


「……」


 輝政は横を向き、沢庵に問いかけた。


「沢庵坊、青木丹左衛門あおきたんざえもんが、この武蔵を捕らえた後、その処分はお前に任せると言った話は本当か?」


 沢庵は静かに答える。


「丹左をお調べいただければ真実は明らかでございます」


「いや、すでに調べてある」


「それならば、私に嘘偽りがないことがお分かりいただけたでしょう」


 輝政は頷いた。


「よろしい。丹左は私の家臣であり、その誓いは私の誓いでもある。だが、もはや私はこの武蔵を裁く権限は持っていない。……その処分は、全てお前に任せる」


 沢庵は軽く微笑みながら答えた。


「愚僧もそのつもりでございます」


「で、どうするつもりだ?」


「武蔵には"窮命"をさせるつもりです」


「窮命だと?」


「この白鷺城の天守に、"開かずの間"という噂がある一室がございます。そこに幽閉させていただければと」


「開かずの間、か……確かに存在する。だが、無理に開けることもないし、家臣たちも嫌がってそのままにしている」


「輝政殿のご威光を考えれば、城に一つでも明かりの入らない部屋があるのは問題だと思われませんか?」


「ふむ、そんなことは考えたこともなかった」


「領下の民は、そうした些細なことにも領主の威信を見ております。それゆえ、光を入れましょう」


 輝政は考え込んだが、やがて頷いた。


「よかろう、どうにかしてみろ」


「では、武蔵をその"開かずの間"に幽閉し、愚僧が許すまでそこで過ごしていただきます。――武蔵、よく心得ろ」


 沢庵の言葉に、武蔵はただ頷いた。


「ははは、面白い。やってみろ」


 輝政は笑いながら奥へと引っ込んで行った。


 その小柄な背中は、白鷺城を背景に、まるで城そのものを背負っているかのように大きく見えた。



 真っ暗だった――姫路城天守閣の「開かずの間」と呼ばれるその部屋には、暦の時間すら存在しない。


 春も秋もなく、外界の音も全く聞こえない。


 そこにあるのは、わずかに灯る小さな灯と、それに照らされる武蔵の痩せた頬と影だけだった。


 今は真冬、大寒の季節なのだろう。


 部屋の黒い天井も床の板も、氷のように冷え切っている。


 武蔵が呼吸をするたび、白い息が灯心の光に浮かんで見えた。


 机の上には『孫子』が開かれている。


 武蔵は、その中の「地形篇」に出会い、声を出して何度も素読していた。


「孫子曰く、地形には通ずる者あり、挂かかる者あり、支ささうる者あり、隘あいなる者あり、険なる者あり、遠き者あり」


 声を張り上げて読んでいると、武蔵は自然に心が落ち着いてきた。


 そして次の章に至ると、さらに強く感銘を受けた。


「故に、兵を知る者は動いて迷わず、挙げて窮せず。故に曰く、彼を知り己を知れば、勝つこと殆あやうからず。天を知り地を知れば、勝すなわち全うすべし」


 目が疲れると、水を張った器で顔を洗い、灯心の油を剪きりながら、再び書物に向き合った。


 机の傍にはまだ山積みの書物があった。


 和書、漢書、禅書、国史――彼の周りはまるで書物の壁に囲まれているようだった。


 これらの書物はすべて、藩の文庫から借りたものである。


 武蔵が沢庵に命じられてこの「開かずの間」に入れられた時、沢庵はこう言った。


「書物はいくらでも読め。昔の名僧たちは大蔵だいぞうに入って万巻の書を読み、そこから出るたびに少しずつ心の目を開いたという。この暗黒の一室を、まるで母の胎内だと思え。ここで新しい自分を育て、光明を抱いて生まれ出る準備をしておけ。肉眼で見れば、ここは暗いだけの部屋だが、よく考えよ。ここには、和漢のあらゆる知恵が詰まっている。ここを暗黒の蔵とするか、光明の蔵とするかは、すべてお前の心次第だ」


 その言葉を残し、沢庵は去って行った。


 それから幾年が過ぎただろうか。


 冬の寒さを感じれば冬だと思い、暖かくなれば春だと思う。


 武蔵は時の流れを全く意識しなくなった。


 だが、今度燕が天守閣の隙間に巣を作り、囀り始めたとき、ようやく彼は気づいた。


 それが、三年目の春であることに。


「俺も、もう二十一歳か……」


 彼は自分を振り返りながら、呟いた。


「――二十一歳まで、俺は何をしてきたんだ?」


 その思いに打ちのめされ、彼は時折、己の人生を省みて慙愧の念に駆られ、髪を逆立てて悔しさに身を震わせた日々もあった。


 チチチ……チチチ……燕たちの囀りが天守閣の廂の下から聞こえてきた。春が海を渡ってきたのだ。


 そしてその三年目の春、ある日突然――


「武蔵、元気にしておるか?」


 ひょっこりと現れたのは、沢庵だった。


「おお……」


 懐かしさに武蔵は、思わず彼の袂を掴んだ。


「三年目じゃ、ちょうど。今、旅から戻ったところだ。おぬしも、母の胎内でだいぶ骨ができたじゃろう」


「ご高恩、感謝いたします……なんとお礼を申し上げたらよいか……」


「礼など要らん。ははは、だいぶ人間らしい言葉遣いになったではないか。さあ、今日は外へ出よう。光明を抱いて、世の中へ、人間の中へ戻るのじゃ」



 三年ぶりに、武蔵は天守閣から解放され、再び城主である池田輝政の前へと連れ出された。


 三年前は庭先に座らされたが、今日は太閤丸の広縁に座らせられている。


「どうだな、我が家に仕える気はないか?」と輝政が言った。


 武蔵は丁重に礼を述べ、身に余る申し出ではあるが、今は主人を持つつもりはないと答えた。


 そして、こう続けた。

「もし私がこの城に仕えるならば、天守閣の開かずの間に、夜な夜な噂のような変化が現れるかもしれません」


「なぜだ?」と輝政は眉をひそめた。


「あの大天守の内を、灯心の明かりでよく見ますと、梁や板戸に、斑々と、漆のような黒い物がこびりついております。よく見ると、それはすべて人間の血です。この城を失った赤松一族の無念の血液かもしれません」


「なるほど、そうかもしれん」


「私の血は、その時、何とも言えぬ憤りを感じました。この中国地方で覇を唱えた赤松一族の行く末は、まるで去年の秋風のように儚く滅んでしまった。しかし、その血は、子孫の体内に今も生きています。不肖、新免武蔵もその一人です。故に、私がこの城に住めば、亡霊たちが騒ぎ出し、乱が起こるやもしれません。もし乱を起こして赤松の子孫がこの城を取り戻したとしても、それはまた一つの亡霊の間を増やすだけです。殺戮の輪廻を繰り返すことになるでしょう。それは、平和を楽しんでいる領民に申し訳が立ちません」


「なるほど」


 輝政は頷いた。


「では、再び宮本村に戻り、郷士として生きるつもりか?」


 武蔵は黙って微笑し、しばらくしてから言った。


「流浪の旅を望んでおります」


「そうか」


 輝政は沢庵に向かって、「彼に時服と路銀をやれ」と命じた。


 沢庵は頭を下げ、「ご高恩、感謝申し上げます」と言った。


 輝政は少し驚いた表情で、「お汝ことが改まって礼を言うのは初めてだな」と笑った。


「若いうちは流浪の旅も良かろう。しかし、どこへ行っても自分の出自と郷土を忘れぬように。以後は姓も『宮本』と名乗るがよかろう。宮本と呼べ、宮本と」


「はっ」


 武蔵は自然と床に両手をついて深々と平伏し、「そのように致します」と答えた。


 すると、側にいた沢庵が言った。

「名も『武蔵たけぞう』より『武蔵むさし』と訓読みするほうが良い。この暗黒蔵から光明の世に生まれ変わった今日がその誕生の日じゃ。すべてを新たにするのがよかろう」


「うむ、うむ!」


 輝政はますます上機嫌になり、「――宮本武蔵か、良い名だ。祝ってやろう。酒を持て」と侍臣に命じた。


 その晩、酒宴が開かれ、沢庵と武蔵は城内での宴席に招かれた。武蔵は慎んで席に座り、沢庵の愉快な猿楽舞を見守っていた。


 そして翌日、二人は白鷺城を出発した。


 沢庵は再び行雲流水の旅へ向かい、当分の間はお別れとなる。


 武蔵もまた、この日を第一歩として、人間修行と兵法鍛錬の旅に出ることになった。


「では、ここで別れよう」と城下まで来たところで、沢庵が袂を取って言った。


「武蔵、お前にはまだ会いたい人がいるだろう?」


「……誰ですか?」


「お吟どのだ」


「えっ、姉はまだ生きているのでしょうか?」


 武蔵は驚いた表情を浮かべた。夢の中でも忘れたことのない姉のことを思い出し、彼の目は曇り始めた。

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