心形無業
ポトッ――と、時折、中庭の暗闇に青梅が落ちる音が響く。
武蔵は、小さな灯火に向かって、じっと俯いたまま、顔を上げようとしない。その僅かな灯りが、彼のぼさぼさした月代を鮮やかに照らしていた。
彼の髪は硬く、赤みがかった色をしており、まるで生気がないように見える。その髪の根元には、子供の頃に患った疔の跡があり、それは消えることなく彼の頭皮に残っていた。
(こんなに手のかかる子がいるのだろうか――)
武蔵の母がよく嘆いていたその言葉を、彼は今ふと思い出していた。
武蔵は観音像を彫っていた。小さな刀を使いながら、集中して木を刻んでいる。これも、ここに泊めてもらっている刀研ぎ師、耕介との約束の一環だ。武蔵が彫り物に取りかかったのは昨日の朝からで、耕介に名刀の代わりに観音像を彫ってやるという約束だった。耕介は、特にこの観音像にこだわりを持っていた。それは、ある古い材木を使ってほしいという依頼だった。
その材木というのは、河内石川郡東条磯長の聖徳太子の霊廟に使われていた天平時代の古材で、数百年も前のものであったという。耕介は旅先でそれを見つけ、捨てられるのが惜しくて一尺分譲り受けたという。木目は美しく、手に馴染むが、失敗すると二度と手に入らないという材であるため、武蔵も慎重に刀を動かしていた。
外で風が庭の柴を倒す音がした。
「……?」
武蔵は顔を上げ、ふと呟いた。
「伊織ではないか?」
彼は耳を澄ませて、何かを感じ取ろうとしていた。
風で裏の木戸が開いたわけではなかったし、伊織が戻ってきたのでもなかった。どうやら主の耕介が声を上げているようだった。
「早くしろ、女房! 何を呆けに取られているんだ。この怪我人は重傷だぞ。手当次第で命が助かるかもしれん。寝床?――どこでもいい、早く静かな場所に運べ!」
耕介の指示に従い、周りの者たちも動き出していた。
「傷口を洗う焼酎はあるか? ないなら家に取りに行ってこよう」
「医者には、俺が走っていく!」
そんなやり取りがしばらく続いていたが、やがて状況は少し落ち着いたようだった。
「近所の皆様、本当にありがとうございました。どうやらお陰様で命は取り留めそうです。安心してお休みくださいませ。」
耕介が近所の人々にお礼を述べる声を聞きながら、武蔵は、何か特別な事情が起きたのではないかと思い、膝の木屑を払いながら中二階から降りて行った。
廊下の端にある部屋から、灯りが漏れていた。そっと覗いてみると、そこには瀕死の負傷者が横たわっており、その枕元で耕介とその妻が顔を寄せていた。
「まだ起きておられましたか」
耕介が振り返り、静かに席を開けた。武蔵もそっと枕元に座り、
「どなたでござるか?」
と、負傷者の顔を覗き込みながら尋ねた。すると耕介は驚いたように言った。
「驚きました……まさかと思いましたが、この方は、私がお世話になっている甲州流の軍学者、小幡先生の門人でございました。」
「ほう、この方が?」
「はい。北条新蔵と申され、北条安房守の御子息で、兵学を修行するために小幡先生に長年お仕えしている方です。」
「ふむ……」
武蔵は新蔵の首に巻かれた白い布をそっとめくった。傷口は赤貝の肉片のように見事に刀で抉られていた。灯火が凹んだ傷口を照らし、頸動脈が露出している様子がはっきりと見えた。命を取り留めたのは、まさに「髪一筋」の差であった。
この見事な太刀筋を見て、武蔵は考えた。下からしゃくり上げるように斬り、燕尾のように刎ね返した技――これは、まさしく佐々木小次郎が得意とする「燕斬り(つばめぎり)」に違いない。
その瞬間、武蔵は先ほど耕介が外で告げた「佐々木小次郎の訪れ」を思い出し、胸に閃いた。
「事情は分かっているのか?」
「いえ、まだ何も……」
「そうだろうな。しかし、下手人は分かった。負傷者が回復したら詳しく聞けばよい。相手は佐々木小次郎だ。」
武蔵はそう言い、自らの言葉に頷いていた。
部屋に戻ると、武蔵は手枕をし、木屑の中にごろりと横になった。夜具は敷かれていたが、そこに入る気にはならなかった。
ここ二日、伊織はまだ帰ってこない。道に迷っているにしても長すぎる。しかし、行き先は柳生家であり、木村助九郎という知人もいる。子供だから、遊びに誘われてつい気が緩んでいるのだろう――そう思いながらも、あまり心配はしていなかった。
だが、武蔵は昨日から彫っている観音像に集中するあまり、心身ともに疲れていることに気づいていた。彼は、観音像を彫ることに対して技術を持った職人ではなく、巧みに仕上げる方法も知らなかった。彼の中にあるのは、自分の心に浮かぶ観音の姿だけだった。その姿を木彫りで表現しようとする真摯な気持ちは、木刀を握る手と同じくらい固かったが、雑念が多く、集中を乱してしまうことが多かった。
そのため、何度も彫り直しては、また失敗し、彫り続けるうちに、貴重な天平時代の古材も、次第に削り減り、最初の一尺ほどの角材が、今では三寸角ほどの小さな木片になってしまった。
時鳥の鳴き声を二度ほど聞いたころ、彼はうとうとと短い眠りに落ちた。そして、目を覚ますと、疲れが完全に消えていた。彼の健康な体力が、すっかり回復していたのだ。
「今度こそは」と、彼は立ち上がり、裏の井戸で顔を洗い、口をすすいだ。そして再び小刀を手に取り、灯をつけ直して彫り始めた。
サク、サク、サク……
眠る前と比べると、彫刀の切れ味までが違っているようだった。千年を越える歴史が刻まれた古材の木目が、微細な渦を描いている。失敗すればもう、二度とこの貴重な木材を手にすることはできない。どうしても今夜、彫り上げなければならない。
彼の眼は闘志で光り、小刀にも力が込められていた。まるで剣を抜いて敵に立ち向かうような気迫だ。背中を伸ばさず、水も飲まず、ひたすら彫り続けた。夜が白み始め、小鳥たちが鳴き始め、家の戸が開け放たれたことさえ気づかずに――彼は彫りに没頭していた。
「武蔵さま」
耕介が部屋に入ってきた。どうやら心配して訪ねてきたらしい。武蔵はようやく背筋を伸ばし、そして静かに言った。
「……ああ、だめだ」
小刀を手から放り投げた。
見ると、木材は削りに削られ、原型どころか、拇指ほどの部分すら残っておらず、すべて木屑となって武蔵の膝から周囲に積もっていた。
「……だめですか」
耕介が驚いた様子で尋ねると、武蔵は力なく頷いた。
「ウム、だめだ」
「天平の古材は……」
「みんな削ってしまった。――削っても削っても、木の中から菩薩の姿は現れなかったよ!」
武蔵は自嘲気味にそう言い、ついに悟ったように手を頭の後ろに組み、
「だめだ。これから少し禅でもやろう」
そう言って仰向けに寝転んだ。
彼は目を閉じ、うとうとしながら、ようやく心が静まり、「空」という一文字だけが、彼の脳裏にゆっくりと漂っていた。
朝早くから、旅籠の土間が賑わしく、博労たちが次々と出て行った。ここ数日間、馬市の総勘定が行われ、昨日で全て片付いたようで、今日からは旅籠もひと段落つき、閑散とするらしい。
その頃、伊織がようやく戻ってきて、すたすたと二階へ上がりかけると、宿の内儀さんが帳場から慌てて呼びかけた。
「もしもし、子ども衆!」
梯子段の中途で、伊織は振り向き、下にいるお内儀さんの禿げた頭を見下ろしながら応じた。
「なんだい?」
「どこへ行くんだい?」
「おらか?」
「ああさ。」
「おらの先生が二階に泊まってるんだから、二階へ行くのに何か問題でもあるのかい?」
「へえ……?」とお内儀さんは呆れた顔で言った。「おまえさん、いったい何日ここを留守にしてたんだい?」
「そうだなぁ……」と指を折り数えながら、「おとといの前の日だろう。」
「じゃあ、先おとといじゃないか。」
「そうそう。」
「柳生様のところにお使いに行くと言ってたけど、やっと今帰ってきたのかい?」
「ああ、そうさ。」
「そうさじゃないよ、柳生様のお邸は江戸の内だろう。」
「おばさんが木挽町だって教えたから、余計な回り道をしちゃったじゃないか。柳生様の住まいは蔵屋敷じゃなくて、麻布村の日ヶ窪だぜ。」
「どちらにしても、三日もかかる場所じゃないだろう。狐にでも化かされたんじゃないの?」
「よく知ってるな、おばさん。狐の親類かい?」と伊織は茶化しながら、梯子段を上がり始めた。
「もう、おまえの先生はこの宿には泊まってないよ。」とお内儀さんが慌てて引き止める。
「嘘だい!」伊織は本気にせず、駆け上がったが、すぐにぼんやりと降りてきた。
「おばさん、先生は別の部屋に移ったんだろう?」
「いや、もう立ち去ったのさ。信じられないなら帳面を見てごらん。お勘定だってすっかり済んでるよ。」
「ど、どうしてだろう? どうしておらが帰らないうちに立っちまったんだろう?」と、伊織は泣きそうな顔で言った。
「お使いがあまりに遅かったからさ。」
「でも……」と伊織はベソをかきながら言った。「おばさん、先生がどこへ行ったか知らない? 何か言い残して行ったろう?」
「何も聞いてないね。きっと、おまえみたいな子は連れて歩いても役に立たないから、捨てられたんだよ。」お内儀さんは笑いながら答えた。
伊織は目を変えて往来へ飛び出し、西を見て、東を見て、空を見上げながらぽろぽろと泣き始めた。それを見て、お内儀さんは禿げた頭を櫛でかきながら、ケタケタと笑った。
「嘘だよ、嘘。先生はすぐ前の刀屋さんの中二階に引っ越しただけさ。そこにいるから、泣かずに行ってごらん。」
今度は本当のことを教えてやると、その言葉が終わるや否や、帳場の中に、往来から馬の草鞋が飛び込んできた。
寝ている武蔵のすその方へ、伊織はおずおずと近づき、かしこまって「ただ今」と小声で言った。
彼をこの場へ通した耕介は、跫音をひそめて母屋の奥の病室へ去ったらしい。どことなく、この家全体に陰気さが漂っており、それは伊織にも感じ取れた。
武蔵が寝ている周囲には、木屑が散らかり、燈は尽きかけており、油の切れた燭台もそのままだった。伊織は再び小さく「ただ今」と繰り返したが、叱られることが心配で、大きな声を出すことができなかった。
「……誰だ?」と武蔵が言い、目を開けた。
「伊織でございます」と伊織が答えると、武蔵はゆっくりと身を起こし、足元に控えている伊織をじっと見つめた。ほっとしたように、「伊織か」と呟いたが、それ以上は何も言わなかった。
「遅くなりました……」伊織が謝罪すると、武蔵は無言のまま帯を締め直し、ただ「窓を開けて、ここを掃除しておけ」と言い残し、部屋を出て行った。
「はい」と伊織は答え、家の者から箒を借りて掃除を始めた。だが、まだ心配が残る伊織は、武蔵がどこへ行ったのかと気になり、裏庭をのぞくと、武蔵は井戸端で口をすすいでいた。
井戸の周りには、青梅の実が散らばっていた。伊織はそれを見てすぐに、塩をつけて齧る(かじる)味を思い浮かべ、一年中梅干しに困らないのに、ここの人はどうして拾って漬けないのだろうと考えた。
その時、武蔵が顔を拭きながら、裏の部屋に向かって声をかけた。「耕介どの、怪我人の容態はどうじゃな?」
「だいぶ落ち着いたようで」と耕介の声が返ってきた。
「おつかれでござろう。後で少し代わりましょうかな」と武蔵が提案すると、耕介はそれには及ばないと答えつつ、「ただ、このことを平河天神の小幡景憲様の塾まで知らせたいと思いますが、人手が足りず困っております」と相談してきた。
武蔵は「それなら、自分が行くか、伊織を使いに出そう」と申し出た。
その後、武蔵が中二階へ戻ってくると、部屋はすでにきれいに掃除されていた。彼は坐り直し、伊織に向かって言った。「伊織」
「はい」
「使いの返事はどうであったな?」
叱られるかもしれないと恐れていた伊織は、安堵の表情で答えた。「行って参りました。そして柳生様のお邸にいる木村助九郎様から返事をいただきました。」
そう言って、懐から返書を取り出し、武蔵に差し出した。
「どれ……」と武蔵が手を伸ばすと、伊織は膝を進め、その手に返書を渡した。
木村助九郎からの返書には、おおむね次のような内容が書かれていた。
「――せっかくのご所望ではありますが、柳生流は将軍家のお止め流であり、何人たりとも公然の試合は許されません。しかし、試合という名目でないのであれば、場合によっては柳生但馬守様が道場でご挨拶されることもあります。なお、どうしても柳生流の真骨法に触れたいというご希望があるなら、柳生兵庫様との立会いが最善でしょうが、折悪く、兵庫様は昨夜、大和の石舟斎様のご病気が再発されたため、大和へ急遽お発ちになられました。非常に残念ですが、こうした事情もあり、但馬守様のご訪問は他日になさるのが良いかと思われます」
そして結びには、「その時には私がご周旋申し上げることもできる」と追伸が添えられていた。
武蔵は、ほほ笑みながらその長い巻紙をゆっくりと巻き戻した。その微笑を見て、伊織は安心し、緊張していた脚を伸ばした。
「先生、柳生様のお屋敷は木挽町じゃなくて、麻布の日ヶ窪ってところだよ。とても大きくて立派な家でね。それに木村助九郎様が、いろいろとご馳走してくれたんだ」
伊織が気軽に話し出すと、武蔵の眉が少し厳しくなった。それを見た伊織は慌てて脚を引っ込め、「はい」と態度を改めた。
「道を間違えたにしても、今日で三日目だ。あまりにも遅すぎるじゃないか。どうしてそんなに遅れて帰って来たのだ?」
「麻布の山で、狐に化かされたんです」
「狐に?」
「はい」
「おまえは野原の一軒家で育ったはずだが、どうして狐に化かされるんだ?」
「わかりません……。でも、半日と一晩中、狐に化かされてしまい、後で考えても、どこを歩いたのか思い出せないんです」
「ふーむ……。おかしなことだな」
「まったく、おかしゅうございます。今まで狐なんか怖くないと思っていたのに、江戸の狐は田舎の狐よりも人を化かしますね」
「そうか」
伊織の真剣な顔つきを見て、武蔵は叱る気持ちが薄れた。
「お前、何かいたずらをしたんだろう?」
「ええ、狐が尾行してきたから、化かされないようにと警戒して、脚か尻尾を斬りました。それで狐が仕返ししてきたんです」
「違う」
「そうじゃないんですか?」
「うむ、仕返しをしたのは目に見える狐じゃなく、目に見えない自分の心だ。……よく落ち着いて考えろ。わしが帰ってくるまでに、その理由を解いて答えるんだぞ」
「はい。……でも、先生はこれからどこへ行くんですか?」
「麹町の平河天神の近くへ行ってくる」
「今夜のうちに帰ってくるんですよね?」
「ははは、わしも狐に化かされたら、三日かかるかもしれんぞ」
そう言って、武蔵は伊織を残し、梅雨雲に覆われた空の下へと出て行った。