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弱い武蔵

 昨日も見たが、今日もまた見える。


 日名倉ひなくらの高原にある十国岩のそば、ぽつんと黒い影が座っている。


 まるで岩の一部が欠け落ちたように、静かにそこに佇んでいるのだ。


「――あれ、何だろう?」


 番士たちは小手をかざして遠くを見つめたが、残念ながら強い日差しが遮って、はっきりとは見えない。


「たぶん、ウサギだろうな」


 一人が適当に答えると、別の番士が、

「ウサギにしちゃ大きすぎる。あれは鹿だよ」


「いやいや、鹿やウサギがあんなにじっとしているわけないだろう。やっぱり岩だ」


 別の者が言うと、

「一夜にして岩が現れるわけがないだろう?」

 そう言って異論を唱える者も出てきた。


「いやいや、岩だって一晩で現れることもあるんだよ。隕石って言って、空から降ってくるんだ」


 なんて冗談交じりの話も出始め、議論は混迷を極めた。


「まあ、何でもいいじゃないか」

 と、暢気な番士が軽く言い流すと、


「何でもいいってことがあるか! 俺たちはこの日名倉の木戸で四国の国境を守っているんだぞ! 適当に日向ぼっこしてるために、ここに立っているわけじゃないんだ」


「わかった、わかったよ」

 話はおさまるかと思いきや、また別の番士が、


「でも、あれがもし人間だったらどうするんだ?」

 と言い出す。


「まさか、人間なわけないだろう」


「わからんぞ、ちょっと試しに矢で撃ってみようか?」

 なんて大胆な提案が飛び出した。


 そして、すぐに番所から弓が持ち出される。弓自慢の番士が片肌を脱いで矢をつがえ、じりじりと引き絞る。


 目標は、番所のある場所から谷を隔てた向こうの斜面。澄み切った空を背景に、ぽつんと黒く見えるその影に向かって、矢が放たれた。


 ヒュッ――

 矢は、まるで鳥のように谷を越えて飛んでいった。


「低すぎる」

 後ろで誰かが呟く。


 続けて二の矢が放たれたが、またもや失敗。


「駄目だ、駄目だ」

 今度は他の番士が挑むが、やはり谷の途中で矢は沈んでしまう。


「何を騒いでいる!」

 番所に詰めていた山目付やまめつけの武士がやって来て、様子を見てから弓を奪い取る。


「よし、俺がやってやろう」

 彼は、明らかに腕の違う武士だった。満を引いて矢筈やはずがキキッと鳴る。そして、弦を戻しながらこう言った。


「こいつは、撃てん」


「どうしてですか?」

 番士たちが問いただすと、山目付は真剣な表情で答える。


「あれは、人間だ。……仙人か、他国の密偵か、もしくは命を投げ出そうとしている奴かもしれん。とにかく、捕まえてこい」


「見ろよ、やっぱり人間だったんだ!」

 人間説を唱えた番士が誇らしげに鼻を鳴らす。


「早く行こう」

 一同が急いで動き出すが、ふと一人が止まる。


「待てよ、あれをどうやって捕まえる? どうやって向こうの峰に渡るんだ?」


「谷を迂回するしかない」


「無理だ、そんな時間はない」


「仕方ない、中山のほうから回り込むぞ」


 一方、その黒い影――武蔵たけぞうは、じっと谷の向こうにある日名倉の番所の屋根を睨み続けていた。


 あの屋根の下には、姉のおおぎんが捕まっていると信じている。


 昨日も一日こうして座り込んでいたし、今日もまた、簡単には立ち上がろうとしない。彼の心は揺れ動いていたのだ。



「番所の侍が50人や100人だろうが、どうってことない!」


 そう思ってここまで来た武蔵たけぞうだったが、いざ現実を前にすると、彼の気持ちは一変していた。


 番所が一望できる場所に腰を下ろし、しばし地形を観察する。


 谷間は深く、往来は二重の木戸に守られている。さらに、この高原は、見渡す限り遮蔽物がない。


 まるで十方を碧空に囲まれ、身を隠す場所がないのだ。


 夕方、夜の帳が下りる前に、番所の前の往来は柵が閉じられ、鳴子なるこが鳴り出しそうな気配さえする。


(近づけない!)


 武蔵は心の中でうめき声を上げた。


 そして、二日間も十国岩の下に座り込み、あれこれ作戦を練ったが、結局良い知恵は浮かばなかった。


(駄目だ……)


 一か八か命を懸ける覚悟は、番所の堅牢な防備に挫かれた形である。


 武蔵は自分の心がどうしてこうも弱くなってしまったのかと、悔しさを覚えた。


 彼はかつて、こんなに臆病ではなかったはずだ。


 腕を組んだまま、半日以上考え続けていたが、どうにも解決策は浮かばない。


 そして、気づけば恐怖に押し潰されそうになっていた。


(俺は……いつからこんなに怖がりになったんだ?)


 そう自分に問いかける。


(確かに、俺は臆病になってしまったのか?)


 しかし、武蔵は自分で首を横に振った。


 これは単なる臆病ではない、沢庵たくあんから教えを受け、知恵を授けられたからだ。


 まるで盲目の者が目を開き、初めてこの世の怖さを知ったようなものだ。


「人間の勇気と、動物の勇気は違う。真の勇士の勇気と、命知らずの暴れ者の無茶は根本的に異なる」と、あの沢庵が教えてくれた。


 彼の心の目が開かれ、薄っすらと見え始めたこの世の本質に、武蔵は再び己を見つめ直していた。


 生まれながらの俺は決して野獣ではない――人間だ。


 そして、今、自分が人間であると決意した瞬間、生命というものがとても貴重なものに思えてきた。


 磨き上げるべき自分という存在が、まだ完成していない。


 こんな未完成な状態で、命を無駄にするわけにはいかない。


「……これだ!」


 ついに自分を見出した武蔵は、空を仰いだ。


 だが、姉を助けることを諦めることはできない。


 たとえ今、この貴重な命を賭ける恐怖を乗り越えなければならないとしてもだ。


 夜になったら、この断崖絶壁を降りて、番所の裏手に回り込んでみよう。


 裏は柵もないし、手薄だろう――そう決意したその時、足元近くに「ブスッ」と一本の矢が突き刺さった。


 見上げると、彼方の日名倉の番所の裏で、豆粒ほどの小さな人影が騒いでいるのが見えた。


 どうやら自分を見つけたらしい。


 そして、すぐに彼らは散り散りに消えた。


「――試し矢か」


 武蔵はわざと動かずにじっとしていた。


 間もなく、中国山脈の背を荘厳に沈む落日の光がうすれ、夜が訪れた。


 武蔵は立ち上がり、小石を拾う。


 今夜の食事は空にある――そう思い、小石を放り投げると、小鳥が落ちてきた。


 彼はその小鳥の肉を裂き、生肉をむしゃむしゃと食べていた。


 その時、突然、二、三十人の番士たちが「わっ!」と声を上げ、彼を取り囲んだのだった。



「武蔵だ! 宮本村の武蔵だ!」


 番士たちは、武蔵の顔を見て驚きの声をあげた。


 二度目の武者声が上がると、誰かが叫んだ。


「見くびるな! 強いぞ!」


 番士たちはお互いに戒め合ったが、武蔵はすでにその場の殺気に応じ、目を光らせていた。


 そして、両手で大きな岩を持ち上げ、その岩を輪を作っていた番士たちの一角に向かって放り投げた。


「これだッ!」


 岩がどすんと地面に叩きつけられると、武蔵はまるで鹿のように跳び上がり、番士たちの間を駆け抜けた。


 しかし、彼が向かったのは逃げるためではなく、反対に番所の方へ向かって走り出していたのだ。


 まるで獅子のように髪を逆立て、武蔵は突進していった。


「ヤツ、どこへ行くんだ!」


 番士たちは驚愕し、まるで目の前の出来事を信じられないかのように呆然とする。


 しかし、すぐに気づいて追いかけ始めた。


「狂ってるに違いない!」


 誰かが叫んだ。


 そして三度目の鬨の声が上がり、番士たちは武蔵を追って番所へ向かって駆け出した。


 だが武蔵は、すでに番所の正面の木戸から中に躍り込んでいた。


 そこはまさに死地、逃れられない場所だった。


 だが、武蔵にはそんなことは関係なかった。


 番所の中に並んでいる武器も、柵も、役人たちの存在も、彼の眼には入らなかった。


「何者だ!」


 目付役の侍が武蔵に組みついたが、彼は一瞬で相手を一拳で倒してしまった。


 それすらも無意識に行ったことだ。


 武蔵は柱を引き抜き、それを振り回しながら、次々と襲いかかってくる者たちをなぎ倒した。


 相手の数など問題ではなかった。


 彼にとって、ただ黒く集まってくる敵をひたすら打ち払っていただけだ。


「姉上!」


 武蔵は番所の裏手へ回り、叫んだ。


「姉者!」


 建物を覗きながら、彼は姉の姿を探した。


「姉者! 武蔵だ!」


 彼は次々に閉まっている戸を破壊していった。


 飼われている鶏たちが騒ぎ立て、まるで天変地異が起こったかのように鳴き叫んでいる。


「姉者!」


 しかし、どこにも姉の姿は見当たらない。


 彼の絶望的な声が次第に弱くなっていった。


 その時、牢屋らしい汚い小屋の影から、小者が一人逃げ出すのを見つけた。


 武蔵は血でぬるぬると滑る柱を投げつけ、その足元を狙って、


「待てッ!」


 と飛びかかった。小者は泣き出しそうな顔で、


「お、おりませぬ……姫路に移されました!」


 と必死に訴えた。


「姫路へ?」


「へ、へい……」


「本当か?」


「ほんとうでございます……」


 武蔵は怒りを抑えながら、再び番士たちが襲ってくるのを感じると、その小者の体を盾のように投げつけた。


 そして一瞬で小屋の陰に隠れた。


 矢が五、六本、武蔵の近くに落ちた。


そのうち一本は、裾に刺さっていた。


 瞬間、武蔵は栂指おやゆびの爪を噛んで矢の飛ぶ方向をじっと見つめた。


 そして、突然柵へ向かって走り出し、飛鳥のように外へ跳び越えた。


「ドカン!」


 銃声が鳴り響いた。放たれた火縄銃の音が谷底でこだまし、その轟音は大地を震わせた。


 ――武蔵は逃げたのだ!


 山の頂から転落する岩のように、彼は猛然と駆け抜けていった。


「怖いものの怖さを知れ」


「暴勇は児戯、無知、獣の強さだ」


「武士の強さを持て」


「命は珠だ」


 沢庵の言葉が、疾風のように武蔵の頭の中を駆け巡っていた。


 それと同じ速度で、彼は山を下り、闇の中へと消えていった。

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