蠅
ここは裏通り。つい先ほどまで、武蔵が彷徨っていた博労町の裏道だ。隣もその隣も、軒を連ねた旅籠屋ばかりで、この一帯は安宿がぎっしりと詰まっている場所だった。
武蔵と伊織が泊まった宿もそんな旅籠のひとつ。値段が安い分、あまり居心地はよくなかった。どの宿も馬屋が併設されていて、人のためというよりは、むしろ馬のための宿みたいな感じだった。
「お侍さま、表の二階なら、少しは蠅が少ないですぜ。お部屋、替えますか?」
そう言ってきた宿の女将は、博労じゃない客である武蔵をちょっと特別扱いしてくれたようだ。昨日まで開墾小屋での質素な生活をしていた武蔵にとって、畳の上で寝られるだけでもありがたいはずだったのに、つい「蠅がひどいな」と呟いてしまったのが、女将の耳に入ったらしい。
まあ、ありがたく思って、武蔵と伊織は表の二階へ移動した。しかし、そこは西陽がガンガンに差し込んでいて、ちょっと後悔した。だが、それもまた贅沢な気持ちが湧いてきた証拠だと自分を宥めながら、
「まあ、ここでいいだろう」
と、心の中で納得することにした。
不思議なもので、人間は少し環境が変わるだけで、感じ方がこんなにも違う。つい昨日までいた開墾小屋では、強い西陽は「苗がよく育つぞ」と希望をもたらしてくれる光だったのに、今はただ暑くてうっとうしい。そして、蠅も、畑で働いていた時は気にもならなかったが、今となっては苛立ちの種になっている。
「伊織、蕎麦でも食べるか?」
武蔵が言うと、伊織は嬉しそうに頷いた。
宿の女将を呼んで、蕎麦を打ってもらえるか尋ねると、他の客からも注文があるから、今日は特別に打ってくれるという。
蕎麦が出来上がるのを待つ間、武蔵は窓の外を眺めながら、ふと気づいた。向かいの店に「御たましい研所」と書かれた看板が見える。
「先生、あそこに『御たましい研所』って書いてあるけど、あれって何の店なんでしょう?」
伊織が驚いた顔で尋ねた。
「本阿弥門流とあるから、刀の研ぎ師だろうな。武士にとって刀は魂だからな」
武蔵はそう答えながら、つぶやいた。
「そうだな、わしの刀も一度手入れしてもらわんといかんな。あとで行ってみるか」
その時、隣の部屋から騒ぎが聞こえてきた。どうやら喧嘩ではなく、賭博のもつれで揉めているようだ。武蔵は蕎麦が来るのを待ちながら、うとうとしていたが、ふと目を覚まして、
「伊織、隣の連中に少し静かにしてくれと伝えてくれ」
と、穏やかに言った。
隣の部屋まで行くのは簡単だが、武蔵が横になっている姿が見えるので、伊織はわざわざ廊下へ出て隣の部屋に向かった。
「おじさんたち、ちょっと静かにしてくれないかな。こっちに、俺の先生が寝てるんだよ。」
そう言うと、博労たちは、賭博のもつれで血走った目を一斉に伊織の小さな姿へ向けた。
「何だと、小僧?」
伊織は無礼な態度にむっとし、口を尖らせながら言い返した。
「蠅がうるさいから二階に来たのに、今度はみんなが騒いでてやかましいんだよ。」
「てめぇが言ってんのか、それとも主人にそう言えって言われたのか?」
「先生が言ったんだよ。」
「そうか、じゃあ言いつけられたんだな?」
「誰だってうるさいと思うよ。」
「ようし、小僧、てめぇみたいなチビに挨拶しても仕方ねぇが、後で秩父の熊五郎が返事しに行ってやるよ。今は引っ込んでろ。」
「秩父の熊」だの「狼」だの何だか分からないが、どうも怖そうな奴が二、三人いる様子だった。その連中に睨まれ、伊織は慌てて戻ってきた。
武蔵は手枕をして薄目を開け、静かに眠っている。西陽もだいぶ陰り、足元と襖の隅にだけ残る光の中に大きな蠅がたかっていた。
「起こさない方がいい」と思い、伊織は黙って再び窓の外の往来を見つめていたが、隣の部屋の騒ぎは一向に収まらない。賭博のもつれは一旦収まったようだが、代わりに連中がこちらをからかい始め、襖を少し開けて覗いたり、暴言を吐いたり、嘲笑ったりしていた。
「なんだって、どこの牢人か知らねぇが、江戸のど真ん中にやってきて、博労宿で文句言いやがって!」
「つまみ出しちまえよ!」
「おい、わざとらしく寝てやがるぜ。侍なんか怖がる博労なんて、関東にはいねぇんだよ!」
「誰か、侍がなんたるか教えてやれよ!」
「言葉だけじゃダメだな、裏に引きずり出して、馬の小便で顔を洗わせちまえ!」
すると先ほどの「秩父の熊」と呼ばれていた男が、
「まあ、待て待て。二、三人の侍に騒ぐことはねぇ。おれが行って片をつけてやるから、おまえらは酒でも飲みながら見物してろ。」
「おもしれぇ!」
博労たちは襖の陰で静かにした。
その「熊五郎」と呼ばれる男は、腹帯を締め直し、
「失礼しますよ」と、襖を開けて入ってきた。上目遣いで相手を見ながら、膝でずるずると武蔵の部屋に入ってきた。
ちょうどその時、武蔵と伊織の間には、注文していた蕎麦が運ばれていた。大きな蕎麦箱の中に六玉の蕎麦が並んでいて、武蔵は一つ一つ箸でほぐしながら食べ始めていた。
「先生、来たよ。」
伊織は驚いて、そっと後ろに下がった。
熊五郎は大きなあぐらをかき、膝に肘をつけて、獰猛な顔を頬杖に乗せながら言った。
「おい牢人、飯を食うのは後にしとけ。胸に何か詰まってるくせに、無理に食おうとしても美味かねぇだろうに。」
だが、武蔵は彼の言葉を気にすることもなく、にやりと笑いながら次の蕎麦を箸で持ち上げ、音を立てて美味しそうに啜った。
熊五郎は怒りを爆発させ、険しい表情で「止めろ!」と怒鳴った。
武蔵は箸と蕎麦汁の茶碗を持ったまま、冷静に尋ねた。「そちは、誰だ?」
「知らねぇのか。博労町に来て俺の名を知らねぇやつは、もぐりかつんぼぐれぇなもんだぞ!」
「拙者も少し耳が遠い方だから、大きな声で言え。どこの何がしだ?」
「関東の博労仲間で、秩父の熊五郎といやあ、泣く子も黙る暴れ者だ!」
「……ははあ。馬の仲買か。」
「侍相手の商売で生き馬を扱ってる人間だ。だから、それなりの挨拶をしろい。」
「何の挨拶だ?」
「さっき、この小僧をよこして『うるさい』とか『喧しい』とか言いやがったが、ここは博労宿だ! ここに来る以上、そんな文句を言うのは筋違いだ!」
「心得ておる。」
「心得ていながら、何で俺たちが楽しんでるところにケチをつけるんだ? みんな、壺を蹴飛ばしてでも、おまえの挨拶を待ってるんだぞ!」
「――挨拶とは?」
「どうもこうもねぇ。詫び証文を書いて博労の熊五郎様に謝るか、さもなくば裏口に引きずり出して、馬の小便で顔を洗わせてやるってことだ!」
武蔵は微笑みながら、「おもしろいな」と言った。
「な、何がだ?」熊五郎は苛立った。
「いや、おまえたちの仲間の言うことは、なかなか面白いと感じただけだ。」
「たわ言を言いに来たんじゃねぇ! さっさと返答しろ!」
熊五郎は自分の声に酔っているのか、さらに大声を上げ、胸毛を見せつけるように上半身を脱ぎ、短刀を蕎麦箱の前に突き刺した。
武蔵は微笑みを隠しながら、「――さて、どっちにしたものか」と言った。彼は汁茶碗を少し下げ、箸で蕎麦の上にたかっているものをつまみ上げ、それを窓の外へ放った。
「…………」
熊五郎は、その行為に気が付くと、目を剥いて驚いた。武蔵がつまんでいたのは蠅であった。しかも、その蠅はまるで抵抗することなく、箸で挟まれていた。
「……限がないわい。伊織、この箸を洗って来い。」
伊織が箸を持って外へ出ると、その隙に熊五郎も、消えるように隣の部屋へ逃げ込んだ。しばらく物音がしていたが、気づけば隣は静まり返り、博労たちはどこかへ去っていったようだ。
「伊織、すっきりしたな。」武蔵は伊織と笑い合い、蕎麦を食べ終えた頃、夕陽もすっかり陰り、研師の屋根の上には細い夕月が浮かんでいた。
「どれ、面白そうな研師に刀を研いでもらおうか。」
武蔵は、だいぶ使い込んで傷んだ無銘の刀を手に立ち上がった。その時、宿のおかみさんが黒い梯子段の下から顔を出し、「お客さん、どっかのお侍が手紙を置いていかれましたよ」と、一通の封書を手渡してきた。
(はて、どこからの手紙だ?)
封を裏返してみると、ただ「助」と一文字だけ書いてあった。武蔵はすぐに木村助九郎からの手紙だと理解した。宿のおかみさんに「使いは?」と尋ねたが、使いの者はすでに帰ったとのことだ。
武蔵は立ったまま封を切り、手紙を読み始めた。内容は次のようだった。
けさのお出会い、殿にお知らせいたしましたところ、但馬守さまが「懐かしい男だ」とおっしゃられました。お越しの日程をお知らせいただければとのことです。折り返しお待ちしております。
すけくろう
武蔵は帳場に寄り、「お内儀、そこの筆を貸してくれないか」と頼んだ。
「こんなのでよろしゅうございますか?」とおかみさんが差し出す筆で、武蔵は手紙の裏に返事を書いた。
武辺者には他に用もなし。ただ但馬守さま、御試合賜わるのであれば、いつでも伺候申し上げます。
政名
政名は武蔵が使う名乗りである。封を再度巻き直し、封筒の裏に「柳生どの御内 助どの」と宛て書きをし、手渡した。
武蔵は梯子段の上から「伊織」と呼びかけた。
「はい」
「この手紙を使いに行ってくれ」
「どこへですか?」
「柳生但馬守さまのお屋敷だ」
「はい」
「場所は知っているか?」
「聞きながら参ります」
「うむ、賢いな」と武蔵は伊織の頭を軽くなでて、「迷わずに行ってこいよ」と送り出した。
伊織はすぐに草履を履いて出発しようとした。宿のおかみさんは、柳生様の邸宅の場所を教え、「日本橋を渡ったら河沿いを左に曲がって木挽町へ行けばわかる」と親切に教えてくれた。
「わかったよ」と伊織は嬉しそうに手を振って出発した。武蔵は草履を履き、往来に出て、伊織の姿が角を曲がって消えるのを見届けた。
(少し賢すぎるな…)と武蔵はふと感じながら、斜向かいの「御たましい研所」の店を覗いてみた。
店は格子もなく、しもた家のような造りで、商品らしいものは何も見当たらない。武蔵は店に入ると、奥まで続く土間のような空間が広がっていた。右側には高い框があり、六畳ほどの敷き物があり、店と奥の境には注連縄が張り巡らされていたのが目に入った。
「御免」と武蔵は土間に立ち、声をかけた。
奥には頬杖をついて居眠りしている男がいた。彼がこの店の亭主、厨子野耕介らしい。痩せた粘土のような顔は、研師らしい鋭さはなく、涎を垂らしている姿はまるで動き出す気配も感じられない。
「ごめん!」と武蔵はもう一度声を張って、眠っている厨子野を呼びかけた。