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この師、この弟子

 ここ数日、青空が広がっていたが、今や雲が低く垂れ込み、まるで日蝕にっしょくのように一帯を暗く覆っていた。伊織いおりは空を見上げ、少し不安そうに言った。


「先生、今度は本物の嵐が来るよ」


 彼の言葉が終わるや否や、強い風が吹き荒れ、まるで絵に描いたような黒雲が坂東ばんどうの空を飲み込んでいく。地面にへばりついていた小鳥たちは、まるで叩き落とされたように転げ落ち、草木は葉裏を白く見せて大きく揺れていた。


「一雨来るか?」と武蔵むさしが聞いた。


「一雨どころじゃない。これは大嵐だよ、きっと。先生、道具をまとめて早く小屋に戻ったほうがいいよ。おれは村に行って、準備してくる!」


 伊織は空を一瞥いちべつして、そう言うと、草の海を駆け抜けて見えなくなった。まるで鳥が嵐に飛び込むように、伊織の姿は消えていった。


 やがて風はさらに強くなり、雨も勢いを増してくる。まさに嵐の予感を裏切ることなく、風と雨は激しさを増していた。


「……伊織、どこに行ったんだ」


 武蔵は小屋に戻りながらも、伊織の姿が見えないことが気にかかっていた。この豪雨はいつもの雨とはまるで違う。激しい雨が一瞬止んだかと思えば、再び大粒の雨が地面を叩きつける。


 夜が訪れても、雨は容赦なく降り続き、あたり一面をまるで湖の底に沈めるかのようだった。小屋の屋根は何度も吹き飛ばされそうになり、屋根裏に積もった杉皮が激しく揺れる。


「困ったな……」


 だが、夜が明けても、伊織は帰ってこない。むしろ、この光景を見て、武蔵の心には絶望がよぎった。曠野こうやは一面、泥の海になり、ところどころ草や木が浮かんでいるだけだ。幸い、武蔵の小屋は高台に建てられているので浸水を免れていたが、すぐ下の河原は濁流と化し、まるで大河のような勢いで流れている。


「まさか、伊織が……?」


 武蔵はふと不安が胸をよぎった。もし、伊織が暗闇の中で足を滑らせ、この濁流に流されたのではないかと……。だがその時、武蔵は轟音の中で微かに、聞き覚えのある声を耳にした。


「先生ーっ! 先生ーッ!」


 武蔵は、遠くに牛の背に乗った伊織の姿を見つけた。伊織は牛に乗り、何か大きな荷物を背負っているようだった。


「おお、あいつ……」


 武蔵が見守る中、伊織は牛を濁流に乗り入れた。牛は流れに飲まれそうになりながらも、ようやくこちらの岸にたどり着き、濡れた身体を震わせて小屋の方へ駆け上がってきた。


「伊織! どこに行っていたんだ!」


 武蔵は半ば怒り、半ば安堵しながら叫んだ。


「どこって、村に行って食料を調達してきたんだよ。この嵐はきっと長引くだろうと思ってさ。雨が止んでも、この洪水がすぐに引くわけがないからね!」



 武蔵むさし伊織いおりの機転に驚いたが、すぐに思い直した。驚くべきは伊織の賢さではなく、自分の方が鈍感だったのだ。天候の変化に気づけば、すぐに食料を確保するのは、野に生きる者としての当然の知恵だ。伊織は赤ん坊の頃から、こんな状況を何度も経験してきたに違いない。


 それにしても、伊織が牛の背から下ろした食料は予想以上に多かった。彼はむしろを解き、桐油紙あぶらびきがみに包まれた食料を一つ一つ広げて見せた。


「これがあわ、これが小豆あずき、そしてこれは塩魚しおうお――」と、伊織は袋を並べながら続けた。「先生、これだけあれば、ひと月かふた月くらい、水が引かなくても心配いらないよ」


 その言葉を聞いた武蔵の目に、思わず涙が浮かんだ。伊織の健気さと、なんとも言えない感謝の気持ちが心に広がった。自分はこの土地を開墾し、農地としての未来を築こうと気概ばかりに燃えていたが、実際には自分の空腹すら忘れていた。それを、この小さな少年が救ってくれていたのだ。


 だが、思った。村の者たちは自分たち師弟を狂人扱いしていたはずだ。そんな中で、どうやって伊織がこれだけの食料を手に入れたのか? 武蔵がその疑問をぶつけると、伊織はあっさりと答えた。


「おれの巾着きんちゃくを預けて、徳願寺とくがんじ様から借りてきたんだ」


「徳願寺とは?」と武蔵が尋ねると、伊織は得意げに話し始めた。この法典ヶほうてんがはらから一里余り離れた寺で、亡き父がいつも言っていたことを思い出したのだという。


「お父とっさんは『おれが死んだあと、困った時には、この巾着の中の砂金を少しずつ使え』って言ってたんだ。それを思い出して、巾着を預けて、食料を借りてきたんだ」


「それはお前の親の遺物ではないか」と武蔵が言うと、伊織は少し寂しそうに、でも誇らしげに言った。


「そうさ。古い家はもう燃やしちゃったから、お父とっさんの遺物はあれと、この刀しか残ってないんだ」


 彼は腰の野差刀のざしを撫でた。その刀も、武蔵は一度見たことがあるが、ただの野差刀ではない。無銘とはいえ、名刀に分類される逸品だった。


「親の遺物を軽々しく手放すものではない。いずれわしが徳願寺へ行って、返してもらってくるが、今後は手放すんじゃないぞ」


「はい」


「ところで、ゆうべはその寺に泊まったのか?」


「和尚さんが夜が明けるまで帰るなって言ったからさ」


「朝飯は食べたか?」


「まだ。先生もまだだろ?」


「うむ。まきはあるか?」


「薪なら山ほどあるよ。縁の下は全部薪だらけだ」


 伊織がむしろを巻いて、床下を覗くと、開墾の際に集めておいた木の根や竹の根が山積みになっていた。


 この幼い少年にも、しっかりとした経済観念がある。誰が彼に教えたのか? それは自然だ。未開の自然は、すぐにでも飢え死にしそうな生活の中で、彼に生きる術を教えたのだ。


 二人は食事を終えたあと、伊織が書物を一冊持ってきて、武蔵の前に差し出した。


「先生、水が引かない間は、どうせ外で仕事はできないんだから、書物を教えてください」


 外は、相変わらず暴風雨が吹き荒れていた。



 見ると、それは『論語』の一冊だった。どうやらお寺で譲ってもらったらしい。


「学問をしたいのか?」


「ええ」


「今までに少しでも本を読んだことがあるか?」


「少しだけ……」


「誰に教わった?」


「お父とっさんに」


「何を?」


「小学」


「好きか?」


「好きです」


 伊織いおりは、その小さな体で、知識への情熱を燃やしているようだった。


「よし、わしが知っている限りのことを教えてやろう。わしでは及ばないところは、今にきっと学問の良い師を見つけて学べばよい」


 外では暴風雨ぼうふううが荒れ狂っていたが、小屋の中では師弟がひたすら素読に励み、屋根が吹き飛びそうな勢いにもかかわらず、二人はびくともしない。


 翌日も、さらに次の日も、雨が降り続けた。


 ついに雨がやんだとき、外は湖のように水浸しになっていた。伊織はむしろ嬉しそうに、書物を手に取りかけたが、武蔵むさしはそれを制した。


「書物はもういい」


「なぜ?」


「外を見てみろ」


 武蔵は濁流を指差して言った。


「川の中の魚になると、川そのものが見えなくなる。あまりに書物に囚われてしまうと、生きた知識が見えなくなり、社会に出ても役に立たない人間になってしまう。今日はのんびりと遊ぼうじゃないか」


「でも、外にはまだ出られないよ」


「――なら、こうしよう」


 武蔵はごろりと横になり、手を枕にしながら言った。


「おまえも、寝転べ」


「おらも?」


「そうだ。寝ても、座っても、足を投げ出してもいい、好きにしろ」


「それで何をするの?」


「話をしてやろう」


「嬉しいなあ!」


 伊織は、腹這いになりながら足をばたばたさせて、


「何の話?」と期待に満ちた声で尋ねた。


「そうだな……」


 武蔵は自分の少年時代を思い浮かべ、伊織が好きそうな合戦の話を始めた。多くは『源平盛衰記』などで覚えた物語だった。源氏の没落から平家の栄華にかけて話が進むと、伊織は少し憂鬱そうな顔を見せた。


 しかし、雪の日の常磐御前ときわごぜんや、鞍馬の遮那王しゃなおう牛若うしわかが、僧正ヶそうじょうがたに天狗てんぐから剣法を学び、京を脱出する場面に差し掛かると、伊織は目を輝かせて、座り直した。


「おら、義経よしつねが好きだ!」


 そして、真剣な顔で尋ねた。


「先生、天狗って本当にいるの?」


 武蔵は軽く笑って答えた。


「いるかもしれん。いや、いるな、世の中には。だが、牛若に剣法を授けたのは天狗ではない」


「じゃあ何?」


「それは源氏の残党だ。彼らは平家の時代、公然と姿を現すことができず、山や野に隠れて時を待っていたんだ」


「おらの祖父じいみたいに?」


「そうだ。おまえの祖父は時を得ずに終わってしまったが、源氏の残党は義経を育てて、ついに時を得た」


 伊織は感慨深げにうなずき、ふと、思いついたように言った。


「おらだって――先生、祖父の代わりに今、時を得たんだろ。ねえ、そうだろ?」


 武蔵は嬉しそうに笑って、


「うむ、うむ!」と声を上げると、突然伊織を抱き上げ、天井に向かって高く掲げた。


「偉くなれ、こら!」


 伊織は赤ん坊のようにくすぐったがりながら、楽しそうに笑い声を上げた。


「先生、危ないよ! 天狗みたいだなあ! やあい、天狗! 天狗!」と、伊織は武蔵の鼻をつまんで戯れ合った。



 五日経っても十日経っても、雨は止まず、野は洪水に覆われていた。水が退く気配はなかった。自然の力の前には、武蔵もただ黙り込み、思索に沈むしかなかった。


「先生、もう行けるぜ」


 伊織いおりは朝早く、外に出て空を仰ぎながら武蔵に告げた。二十日ぶりに、二人は道具を担ぎ、耕地へと出かけた。しかし、そこに着いたとき、二人は茫然ぼうぜんと立ち尽くしてしまった。


「……あれ?」


 二人が孜々(しし)として開拓しかけた場所には、もはや何の痕跡も残っておらず、ただ大きな石ころと砂利が一面に広がっていた。新たにできた幾筋もの小川が、まるで小さな人力を嘲笑うかのように、石をもてあそびながら流れていた。


 ――「阿呆」「狂人」――


 土民たちが嘲笑っていた言葉が、今、現実となって響いてくる。思い知ったかのように、武蔵は黙って立ち尽くしていた。


 伊織が顔を上げ、武蔵を見上げた。


「先生、ここはもう無理だよ。こんな場所、捨てて他のもっと良い土地を探そう」


 だが武蔵は、その提案を受け入れなかった。


「いや、この水を別の場所に引けば、ここは立派な畑になる。初めからこの場所だと決めて取り組んできたのだから」


「でも、また大雨が降ったらどうするの?」


「今度は、それが来ないように、この石であの丘からつつみを作る」


「それじゃ、大変だなあ……」


「元よりここは道場どうじょうだ。ここに麦の穂を見るまで、尺地しゃくちも退かぬぞ」


 そう言って、武蔵は再び開墾を始めた。水を一方に導き、せきを築き、石を取り除いていった。そして数十日が経ち、ようやく十坪ほどの畑ができかけた。


 しかし、一度雨が降ると、一夜のうちに再びその畑は元の河原に戻ってしまった。


「だめだよ先生。無駄骨ばかり折っていても、いくさが上手なわけじゃないだろ」


 ついに伊織もそう言い出した。


 だが武蔵は、耕地を変えて他の場所へ移るという考えを持たなかった。彼は再び濁流と戦い、同じ作業を続けた。


 冬が来て、大雪が何度も降り積もった。雪が融けるとまた濁流が畑を荒らした。年が明け、翌年の一月、二月になっても、二人の努力は実を結ばず、畑は一畝ひとせもできなかった。


 食物が尽きると、伊織は徳願寺とくがんじへ物乞いに行った。戻ってきた伊織の顔には、憂いの色が浮かんでいた。さらに、この数日、武蔵も根負けしたのか、くわを手に取ることもなかった。ただ耕地に立ち、黙然と何かを考え続けていた。


 そしてある時、武蔵は大きな気づきを得たように、突然つぶやいた。


「今日まで、おれは土や水に対して、傲慢にも自分の経策で操ろうとしていた。それが間違いだった。水には水の性格があり、土には土の本則がある。その性質に従い、俺はただ水の従僕じゅうぼくとなり、土の保護者であればよいのだ……」


 武蔵はそれまでの開墾方法を全て改め、自然の力に抗わず、従う形で働き始めた。


 次の雪解けで再び濁流が押し寄せたが、今度は彼の耕地は無傷のままだった。


「これは政治にも通じることだな……」


 武蔵はその瞬間、悟りを得た。そして彼の旅手帳にもこう書き留めた。


 ――世々(よよ)の道にそむかざる事――


 それが自戒の一句となった。

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