三日月茶屋
「おばば! ……おばばっ!」
孫の丙太が、はだしで外から駆け込んできた。青っ鼻をこすりながら、息を切らして台所を覗き込んで叫んだ。
「大変なことだがな、おばば! 知らんのかい? 何してるんや!」
竈の前で火吹竹を持って火を起こしていたお杉隠居は、驚いた様子で顔を上げる。
「なんじゃ、そんなに大騒ぎして」
「村中があんなに騒いでるのに、おばばは飯なんか炊いてるんか? 武蔵が逃げたんやで! 知らんのか!」
「えっ? ……逃げた?」
「今朝になって、武蔵が千年杉の上から消えとるんや!」
「ほんとか!」
「お寺じゃ、お通姉も見えんいうて、大騒ぎや!」
丙太の知らせに、おばばの顔色が急に変わった。丙太は驚いたように指を噛んで、おばばを見つめていた。
「丙太、すぐ走って、分家の兄ちゃんを呼んできなさい。河原の権叔父にもすぐ来てもらえと伝えるんじゃ!」
お杉隠居の声は震えていた。しかし、丙太が門を出る前に、本位田家の前にはすでに人が集まっていた。
中には分家の聟や河原の権叔父も混じっていたし、ほかの親類や小作人たちもいた。
「お通が武蔵を逃がしたんだろう!」
「沢庵坊主も姿が見えん!」
「二人の仕業だ!」
「どうするつもりだ!」
分家の聟や権叔父らは、槍をかかえて、本家の門前に集まり、みな悲壮な顔つきで武装していた。
「おばば、聞いたか?」
奥から誰かが言う。お杉隠居は、事態の重大さを理解すると、こみあげる怒りをぐっと抑えて仏間に座り込んだ。
「――今しばらくお待ちを、静かにしていなさい」
そう言って、一瞬の黙祷を捧げたあと、悠然と立ち上がり、刀箪笥を開けて武装を整え、みんなの前に姿を現した。
短い脇差を帯にさし、草履の緒を足にしっかりと締めている。
その様子に、集まった人々は、この老婆がすでに何を決意しているのかを理解した。
「騒ぐことはない。婆が追手として、不埒な嫁を成敗してきますわい」
お杉隠居はそう言って、のそのそと歩き出す。
「おばばまで出てくるとは!」
親類や小作人たちも、その勇ましい老婆を大将に、途々で棒や竹槍を拾いながら中山峠へと追って行った。
だが、すでに遅かった。彼らが峠の頂上にたどり着いたのは、昼に近い時間だった。
「逃げおったか!」
みんな地団駄を踏んで悔しがった。
それだけでなく、ここは国境だったため、役人が来て、
「徒党を組んでの通行は許されぬ!」
と、通行を阻まれてしまった。
これに対し、河原の権叔父が前に出て事情を説明する。
「このまま見過ごせば、我々は遠き先祖以来の名誉に傷をつけ、村人たちにも笑われ、本位田家はこの地でいたたまれなくなります。どうか、武蔵、お通、そして沢庵の三名を討ち取ることができるまで、通行をお許しください」
だが、役人は、
「理由は分かるが、法令で許されぬ。もし姫路城へ伺いを立てて許可が下りれば話は別だが、それでは先に進んだ者たちはすでに藩の外に出てしまっている。無駄な沙汰だ」と断じて譲らない。
「では――」
お杉隠居は、親類一同と合議の末に、こう折れて出た。
「婆と権叔父の二人なら通行しても構わぬでしょう?」
「五名までなら勝手にせよ」
役人は応じた。
お杉隠居は頷き、他の人々に悲壮な別れを告げるため、草むらへ呼び集めた。
「こういう手違いも、家を出る時から覚悟していたことよ。だから何も慌てる必要はないわいの」
お杉隠居の細い唇と、少し出っ張った前歯が、不気味に光るように見えた。その様子を、一族の者たちは厳粛に見守っていた。
「この婆はな、家伝来の腰刀を帯びて出る前に、ご先祖様に別れを告げ、二つの誓いをしてきた。ひとつは、家名を汚した不埒な嫁を成敗すること。もうひとつは、息子の又八が生きているかどうかを確かめ、生きていれば首に縄をかけてでも連れ帰り、本位田家の家名を継がせることじゃ。そうして、村の者たちに今日の名折れを雪がねばならん」
「……さすがは」
誰かが小さく唸るように漏らした。お杉は分家の聟の顔をじろりと見てから、言葉を続けた。
「ついてはな、わしと河原の権叔父は、まあ隠居の身。二つの大望を果たすために、一年でも三年でも、他国を巡って参ろうと思うておる。留守中は分家の聟を家長として、飼蚕も怠るなよ。田畑に草を生やすなよ。いいな、みんな――」
河原の権叔父も50歳近く、お杉隠居も50歳を越えている。武蔵にでも出くわしたら返り討ちに遭うに違いない。若い者を三人ほど従わせた方がいいという声もあったが、
「何を言うか」お杉は首を振りながら答えた。
「武蔵だろうが、毛が生えたばかりのガキひとり、何を怖れることがある。婆には力はないが、智謀はあるぞ。それに、一人か二人の敵ならここ――」
と、自分の唇に指を当てて、何か自信ありげに言った。
「言い出したら後へは引かぬおばばのことじゃ。では、行きなされ」
そう励まされ、もう誰も彼女を止めようとはしなかった。
「さらばじゃ」
河原の権叔父と肩を並べ、お杉は中山峠を東へ降りていった。
「おばば、しっかり頼むでのう!」
親族たちは峠から手を振りながら見送った。
「無理をせず、病にでもなったらすぐに知らせてくれよ!」
「元気で帰ってこい!」
みんなが口々に別れの言葉を送った。
その声が聞こえなくなると、お杉は権叔父に言った。
「のう、権叔父。どうせ若い者より先に逝く身じゃ。気楽なもんじゃのう」
権叔父も頷きながら答えた。
「そうとも、そうとも」
この叔父は今でこそ狩猟を生業としているが、若い頃は戦場で育った武者の一人。
今でも屈強な体つきには、戦場での日焼けの跡が残っている。
髪もお杉ほど白くはない。姓は淵川、名は権六という。
もちろん、甥にあたる又八の事件に関心を持たぬわけがない。
「おばば」
「なんじゃ」
「お前は覚悟を決めて旅支度もしてきたが、わしはこのまんまじゃ。どこかで足ごしらえをせにゃならん」
「三日月山を下れば、茶屋があるわいの」
「そうそう、三日月茶屋まで行けば、わらじも笠もあるじゃろう」
ここを下れば、もう播州の龍野から斑鳩までは近い。
しかし、長かった夏の日も、もう夕暮れに差し掛かっていた。
お杉隠居は、三日月茶屋で一息つきながら、「今夜は新宮あたりの馬方宿で、臭い布団に寝るしかないかのう」と、茶代を置き、立ち上がった。
権六も、新しく買った笠を手にしながら、「参ろうか」と言ったが、ふと思い出したように、「おばば、ちょっと待たれい」と言った。
「何じゃ?」
「竹筒に、裏の清水を汲んでくるで」
権六は茶屋の裏手に回り、筧から清水を竹筒に汲み始めた。
戻りかけた時、何気なく窓口から薄暗い茶屋の中を覗くと、藁布団を被って寝ている誰かの姿が目に入った。
薬の匂いが漂い、黒髪が枕に乱れかかっている。
「病人か?」
そうつぶやくと、お杉隠居の呼ぶ声が聞こえた。「権叔父よ、はよう来ぬか!」
慌てて走り出す権六。「病人がいるらしいで」と言い訳すると、お杉隠居は不機嫌そうに叱りつけた。「病人など珍しくもないわ! 何を道草してるんじゃ!」
権六もこの隠居には逆らえない様子で、「は、は、は」と愛想笑いをしてごまかした。
茶屋を出ると、道は播州へ向かう急な坂道。銀山通いの荷駄の往来で、道はでこぼこだ。
「転ばぬようにな、おばば」
「何をぬかす! まだこんな道に宥められるほど、婆は耄碌しとらん!」
すると、茶屋の亭主が後ろから声をかけてきた。「お年寄り、お元気でございますなあ」
「おお、先ほどは世話になった。どこへ行くのじゃ?」
「龍野までです」
「これから龍野か? 医者にかかるためか?」
「はい、病人がおりましてな。馬で迎えに行くので、帰りは夜中になります」
「病人は、家の者か?」
「いえいえ、旅の若い女です。ほんの床几に休んでいたところ、急に悪寒がして、捨て置けず奥の寝小屋を貸しましたが、だんだん熱がひどくなってきました」
お杉隠居は足を止め、目を光らせながら尋ねた。「その娘、十七くらいの、細っそりした者ではないか?」
「左様です。確か、宮本村の者だと申しておりましたが」
「権叔父!」
お杉隠居は権六に目配せをしながら、焦るように帯を探り始めた。「しまった! 数珠を茶屋の床几に忘れたようじゃ」
「それなら、わしが取って参りましょう!」と、亭主が走りかけたが、お杉隠居は慌てて言った。「いやいや、お前は急いで医者を迎えに行け、病人が大事じゃからな」
権六は、すでに急ぎ足で元の道を戻り始めていた。亭主を追い払って、お杉も後を急ぐ。
――たしかに、あれはお通だ!
二人は荒い息を吐きながら、急いでお通のもとへ向かった。
お通は、あの大雨に打たれ冷え込んだ晩から、風邪熱を引いていた。
峠で武蔵と別れるまではそれを忘れていたが、彼と袂を分かち歩き始めた後、体がだるくなり、三日月茶屋で横たわるまでの辛さは一通りではなかった。
「……おじさん……おじさん……」
水が欲しいのだろう。
囈言のようにうわ言をもらしながら、枕元で息を荒げている。
店主は医者を迎えに出かけたばかりで、彼女に「少しの辛抱じゃ」と声をかけていたが、お通はすでにその言葉すら忘れてしまっているほど高熱だった。
口が乾いている。まるで茨のトゲを頬張っているかのように、熱が舌を刺していた。
「……水をください……」
お通は、起き上がり、流しの方へと這っていった。やっとの思いで水桶の側にたどり着き、竹柄杓に手をかけたその時、どこかで戸が倒れる音が響いた。
元々戸締りなどしていない山小屋。ちょうど三日月坂から引き返してきたお杉と権六が、そこからのそのそと入ってきたのだ。
「暗いのう、権叔父」
「待たれい」
二人は土足のまま炉の側へと近づき、柴をくべて明かりをつけた。すると、権六が叫んだ。
「あっ、いないぞ、ばば!」
「えっ?」
お杉はすぐに流し元の戸が少し開いていることに気づき、叫んだ。
「外じゃ!」
その瞬間、水柄杓が飛んできてお杉の顔にぶち当たった。お通だった。風の中の鳥のように、袂も裳裾も翻し、坂道を真っ逆さまに逃げていく。
「畜生っ!」
お杉は軒下まで駆け出し、叫んだ。
「権叔父よ、何しているのじゃ!」
「逃げたか!」
「逃げたかもないものよ、汝の間抜けさゆえ、察知されてしまったのじゃ。はよう追え!」
「見えたぞ、あれだ」
黒く、坂の下をまるで鹿のように駆けていくお通の影を見て、権六は叫んだ。
「大事ない。あれは病人、しかも女子の脚じゃ。すぐに追いついて一太刀浴びせればよい」
そう言うと権六は駆け出し、お杉も後を追った。
「権叔父よ、一太刀浴びせるのは良いが、首は婆が怨みを晴らしてから斬るぞ!」
二人が追いかけているうちに、権六が急に立ち止まり、叫んだ。
「しまった!」
「どうした!」
「竹谷へ飛び込んだ!」
「谷は浅いが、暗いのが厄介じゃ。茶屋へ戻って松明でも取って来ねば」
孟宗竹の崖ぶちから下を覗き込んでためらっていると、お杉は権六の背中を突き飛ばした。
「あっ!」
――ザザザッと、笹の葉を滑りながら崖を駆け下りる音が闇の中で止まると、権六の声が響いた。
「くそ婆! 何を無茶しやる! 早く降りて来い!」